KONO一家集結。
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◎数日前、買い物に出掛けた。レジで精算を済ませた直後に、その店員さんから
「お坊さんですよねぇ」
とニコヤカに話しかけられた。そのときは、「坊さんスタイル(袈裟)」ではなく、私服でサングラス状態!だったので、お坊さんですよね?っと不意を突かれた感じになり、
「ハイ、そ、そうですけど、どこかでお会いしました??」
そうすると、
「○○家のお葬式で。ずいぶん若いお坊さんだなぁ・・・って見てたんです。」
と。 なんか無性に恥ずかしくなり、
「いえいえ、若くありません。必死に若作りをしていま~~す」
と照れ笑いしながら、店を出た・・・・。
若く見られるって、果たしてどうなの?もうすぐ来年40歳・・・。
◎昨日、近隣寺院の「報恩講」で一緒になったお坊さんに
「ウチの檀家さんが、葬儀でアナタを見たらしいよ。まるまると太った坊さんだったと言ってたよ!」
と言われた・・・・。僕は、ヤセてはいない。はい、決してヤセていません。断じてヤセていません!!でも「まるまると太った・・・」という表現に納得いかない・・・
「え??それって俺ですか?他のお寺さんと間違えてないっすか?(笑)」
と反論。すると
「その人が言うには、汗を拭き拭き一生懸命お経をあげてたってさ!!」
汗を拭き拭き???あ、そりゃ俺だ。間違いない(苦笑)なんだかその「言葉」で「カラダ」が尚一層重くなったように感じられた。
そっか、「まるまると太っ」ているんだ、俺。そりゃそうだよなぁ・・・・(´・ω・`)ショボーン もうすぐ来年40歳・・・。
他人の目に映る「自分」。
気にしたってしかたがない。
気にしたってキリがない。
わかっちゃいるけど、
なぁ。
例えば、道ばたで「何か」に躓いて転んでしまったとしよう。思い切り足首をひねって「痛い」はずなのに、その「痛み」よりも先に「(転んで)恥ずかしい!」と感じてしまう。そして、後からジンジン痛くなってくる・・・。 いつのまにか染み着いてしまった「何よりも他人の目を気にする」という感覚。
なんでだろう、
なぁ。
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近隣寺院の「報恩講」という法要が続いています。
今月いっぱいは、お付き合いをしている近隣の寺院の「報恩講」にお参りしながら、通常のお寺のお参りや法事、学習会、そして、来月11月1日〜3日までのウチのお寺の「報恩講」の準備などに明け暮れます。
で、最近は、お檀家さんに「報恩講」をご案内する『寺報』をパソコンで作成しておりました。「Word」を使って夜中に文書を作るのに没頭する事は結構好きかもしれません・・・。
またこれを檀家さんの数を印刷して、封筒詰めして、発送するまで、夜中の作業が続きます。今月は昼は、近隣の報恩講に行ったり、お参りがあるので、夜中の作業が増えます。
こういう作業をしながら、ほんと、「1年って早いなぁ・・・」と思うのです。そして、新米住職として、色んなことを考えます。
最近、嬉しいことがありました。
先月のお彼岸にお参りに来た檀家さんの中から声があがり、お寺の「パークゴルフ大会」が企画されたのです。あっという間に日程が決まり、参加者も口コミで集まりました。僕がタッチしなくても、こんなに行事がスムーズに実現されることが嬉しかった。
お寺は何をすべきところ?
お寺は仏教にであい、教えを学ぶところ!!
が答えでしょう。
確かに、「願い」とか「テーマ」もなしに、ただお寺という「空間(スペース)」を提供するだけで終わってしまうなら、これほどサビシイことはありません。以前にも数回「お寺DEコンサート」というイベントを企画した際に、ある人から皮肉を言われたことがありますけど・・・でも、そのコンサートに来てくれた事がキッカケになり、お寺にお参りくださるようになった方もいます。
だから、今回も、自然発生的に声があがって実現するそのイベントによって、お寺に集う「朋(とも)」がまた生まれていくキッカケになるならば、その点と点は線になって「お寺そのもの願い」に繋がるはずだと思ったりします。
あと、「フラダンス教室」も去年からやっているんです。僕は、参加していないんだけど、たまにお寺のホールでやっているレッスンをのぞいてみると、みんな「艶やかな」衣装に身を包み、南国チックな音楽にのって、ゆらゆら踊っているのです。(ちょっとその姿がコワイ時もある・・・・(笑)) そして、そのレッスンに参加して仲良くなった皆さんが、また報恩講などの行事で結束して活躍してくださってます。
他になんかできないかなぁ・・・
ネットで兄貴の嫁さんが、タレントのベッキーと記者会見をしていたのを見た。
http://topics.blog.suntory.co.jp/001170.html
http://topics.blog.suntory.co.jp/001164.html
http://www.tvlife.jp/news/ph_080919_04_001.php
また来月の大きなイベントに抜擢されたみたいだけど、
例えば、”身内コネ”で兄嫁サマに頼み込んで、完全マスコミ関係者シャットアウトで、
「お寺でフランス料理とワインを楽しむ夕べ 〜〜住職BOSANソングライターKONOのライブコンサート付き〜〜」・・・・・
・・・・・それは、ムリやろうなぁ。。。
さて、時間だ!
また午後2時からの法事に行ってきます
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「自分」とはなにか?
どこまでが「親のコピー」か?オリジナルがあるとすればそれは何か?「虚像」を演じてるというならば「実像」はどんなだ?それが分からないと前に進めない!
……そんなテーマに取りつかれ海外に旅に出た人がいる。
その後、
その人がやたら
「日本人っていうのはさ…」
を連発している。
色んな世界の国を見て
アナタの視野は「広く」なり、自分の「実像」が分かったのでしょうか?
この北海道の田舎町で
僕は目の前の日常に必死です。旅にも出れません。
あなたから見れば、さぞ滑稽でしょう?セマイ人間でしょう?
実像?虚像?親のコピー?オリジナルな自分?
そんなの分からん。
っていうか、
色んな場面に
自分を当てはめたり
そして
当てはめられたり。
時に
息子になり
弟になり
孫になり
親戚になり
友達になり
先輩になり
後輩になり
生徒になり
同級生になり
クラスメートになり
ドライバーになり
客になり
通行人になり
ご近所さんになり
お坊さんになり
同業者になり
ミュージシャンになり
ブロガーになり
メル友になり
善人になり
いや
善人になろうとし
傍観者になり
当事者になり
冷たい人と言われ
優しい人と誉められ
悩み多きネクラ人間で
悩み少ない楽天家で
涙もろくて
でも
ドライで
ケチで
太っ腹で
神経質で
おおらかな時もあり
アイツを誰よりも大切に想う………。
実像?虚像?親のコピー?オリジナルな自分?
そんなの分からん。
どれもが「私」であり、
どれもが「私」と固定的に括れるものではない。
それよりも
実像であろうが虚像であろうが
誰とも代われない自分という「人間」を受け取ることができるかどうか。
ピントは、そこなんだ。僕の場合。
ゴチャゴチャ言ったって
また「今日」が始まるよ。
おはよう。
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「戒律」というと、
「絶対ダメ!やっちゃダメ!禁止よ!守らなきゃダメ!」
という厳しいイメージがある。
その『戒律』の語源を調べてみたら、“シーラ”というインドのサンスクリット語で、意味は《習慣》という。
つまり、
戒律とは頭ごなしに
「ダメよ!禁止よ!」
じゃなく、
それが「習慣化」されて身に付く事を目指しているのだ。
変な例だが、
歯みがきを習慣化していると、歯みがきをサボるとどうも気持ち悪いっていう感覚。
だから、
殺生を禁じる戒があったり、盗みを禁じる戒律があったり、ウソをつくなという戒があったり、不倫を禁じるがあったり、酒を飲むなという戒があったりするのは、それを厳しく戒め、「習慣化」されるまで繰り返しながら、仏道修行の完成を目指す。
でも、実は我々の浄土真宗には「戒律」がない。
けれど、
お念仏の教えを聞きながら、教えに照らされた我が身を見つめていく、という道をいただく。
食べ物として命を奪わなきゃ生きられない痛み、ウソをついてしまう痛み、酒を飲んで失敗した苦々しさ、他の異性に興味を惹かれるてしまう弱さ・・・・など、日常化された日々の営みの中で、どれだけ自分自身の自己中心的な立ち振舞い、行為が根底となっているのか?その自分自身の姿にハッ!と気づく視点を習慣としていただいているか?
いくら戒律がない浄土真宗でも、
教えに我が身を照らされる「習慣」としての「シーラ」はあるのだなぁ。
南無阿弥陀仏。
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