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朝鮮儒学の巨星たち、その軌跡とは

ハン・ヒョンジョ著『朝鮮儒学の巨匠たち』(文学トンネ)

 1554年、19歳の李栗谷(イ・ユルゴク、本名:李珥〈イ・イ〉)は金剛山を旅し、ある庵で一人の老僧と問答をした。「孔子と釈迦、二人のうちのどちらが聖人ですか」「ソンビ(学者)、わたしをからかわないで下さい」。こんなやり取りで始まった対話は、儒教と仏教の価値をめぐる「正当化の激戦」へと発展した。若い李栗谷は、衝撃的な言葉を投げかけた。「仏教の核心的教義はわれわれ儒家と変わらないのに、なぜ敢えて儒学を捨て仏教を選んだのですか」。わたしたちは、儒教は社会的人格の完成を目指し、仏教は個人的な超越を志向していると思ってはいないだろうか。

 韓国額中央研究院の教授で韓国哲学界を代表する研究者の一人である著者は、次のように語る。「実際のところ、儒教と仏教の間にはどうしても和解できない違いがあるにも関わらず、根本の志向は共有している」。儒教も仏教も「発見の体系」であり、人間のやることというのは柔軟性に欠け、隠れた本性の疎外を克服し「本来の光と力を回復しようという努力」に集約されるという点では同じというわけだ。

 とても長い哲学的問答の末、老僧は李栗谷に一首の詩を請い、李栗谷はそれに応じて次のように記した。「等閒一笑看身世/独立斜陽万木中(無心に一笑いして自分の身を振り返ると、斜陽の中、林で木々に囲まれ独りで立っていた)」。再び、著者は語る。李栗谷は、自らの体は天地の間の舞台にわずか100年の具体的身世を与えられたに過ぎず、人間とは独立的存在であると同時に事物や他人の間で生きていくよう運命付けられていることは明らかだと主張した。詩の後半にある「斜陽」とは、社会の中で自己を実現するのは甘くない、という暗示ではないか。

 最近になって、奇行やマニア的趣向が際立った朝鮮時代のマイノリティが新たな注目を集めているが、本書は、これまで韓国人がよく知らなかった朝鮮儒学の「メジャーリーグ」に対する哲学的再解釈だ。退渓・李滉(イ・ファン)、李栗谷、南冥と哲人君主・正祖、朱子学と茶山と西学の劇的な違いについて、その思惟の軌跡を詳しく追求している。また著者は、韓国学の新たな活路を模索する『なぜ朝鮮儒学なのか』も同時に出版した。

兪碩在(ユ・ソクジェ)記者

朝鮮日報/朝鮮日報日本語版

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