ネットコミュニケーションはアダルトチルドレンを救えるか 

好きな学者の一人である斎藤学の『「家族」という名の孤独』を読んだ。

以下、長くなるので興味のある方は続きからどうぞ。


以前に読んだことがあるかもしれない。
あるいは、斎藤学の他の著作や文章と重なるものが多いからなのかもしれない。
まあとにかく「はっ」と胸を打たれたり、「どうしてこの人は私の心に積もっているキーワードを知っているのか?」と驚きながら読んで、いまだにほとんどまとまった文章を読むことができないにも関わらず、二日ほどで読みきってしまった。

おかげでひどい吐き気と偏頭痛に二日間悩まされることにもなったけれども。

さてこの本では「近代資本主義を支えるべく制度化された近代的な『家族』というものの孕む危険性とそれに捕らわれた人々の病理」というものについて言及している。
まあ、平易な言葉で書かれているので、一般読者でも、うつ病患者でも、二日もあれば読める。

そういう点では、はるか大昔に読んだ上野千鶴子の「家父長制と資本制」よりはるかに読みやすい。

両著とも「近代的な家族」というものがけっして「自然な人間性から形作られている」のではなく、「近代資本主義」という制度下に人間を組み込み従属させるためのきわめて政治的・資本主義的・人工的な「からくり」であると言及している点では同じであるが、社会学者であり女性学者(フェミニストでもある)上野がその目的と成り立ちの分析と銃弾を著書でしているのに対し、臨床精神医である斎藤はその「からくり」の中で生じる「歪み」の犠牲者となった人々の臨床例などをあげ、人間が制度の奴隷として生きるのではなく、個々人が制度を超える「生きた」個人として、人間らしい人生を生きなければならないと警告する。

さて。

で、ある。

ある程度長く私とお付き合いしてくださっている方であれば、私が幼少期から機能不全家庭で育ったいわゆるアダルトチルドレンであり、それゆえ人格上に深刻な歪みと未熟さを残し、自分自身の年金と葬式の心配をしなければならないこの年になってさえ、成人社会への不適合に悩んでうつ病になり、現在は無職で家に引きこもりネットゲームに没頭しているニートであることはご存知だろう。

斎藤の著作によれば、不全家庭を構成する家族成員の多くは依存症もしくは共依存症を抱えており(これは例えばアルコール依存症で妻に暴力を振るう夫と、夫に殴られながら「私がいなければだめな夫」に尽くし続ける妻の関係が共依存関係であり、「必要とされる必要」がなければ十全な人生を生きられない妻は共依存症患者である、ということらしい)、依存症あるいは共依存症患者は依存する対象がないときの空虚感や孤独感に耐えることができない。

斎藤は言う。
「共依存」と「親密さ」は一見すると非常に似ている。
しかし、成熟した社会性を身につけた真の意味での「一人前の大人」な人間同士の健全な親密さは、相手の不在や沈黙を恐れない。
共依存症者は愛するものと共にいて「何もしない」ということに耐えられない。相手が黙っていると自分が嫌われているように感じ、この「息づまる」関係から逃げ出そうとする。そしてこの緊張はやがては当の愛する相手への恨みや憎しみに変わってしまう。

この著書は1995年の著作だが、これを読んだときに私の頭に浮かんだのは、外資系の一流証券会社に勤める夫を、自身が夫の暴力の被害者でもあった妻が殺し、遺体をバラバラにして捨てたという最近の事件である。

そして1990年以前からの友人たちに私自身がたびたび言っていた自分の言葉、「私は一緒にいる友人の沈黙に耐えられない」という言葉である。

というように、この著作の中の言葉は滑稽なほど私自身の言葉に重なることが多い。

萩尾望都の『残酷な神が支配する』という作品は、義父から性的虐待を受けていた少年(後にこの少年は、実母も共依存症的な「愛情による支配」によって彼の人生に侵入していたことを無意識的に告発している)の苦悩を描いたサスペンス漫画である。

作者の萩尾望都自身も「あるべき家族」という近代的家族のからくりの中に息苦しさを感じることがあったらしく、他にも『イグアナの娘』など「あるべき家族像」からはみ出した家族の苦悩を取り上げた作品がある。

この『残酷な〜』を描くにあたって萩尾はアダルトチルドレン、おそらくはもう一歩進んで児童虐待に関する著作などを資料にしたのだろう。
幸い私自身は性暴力など破壊的・積極的な虐待は受けていないが(それでも家族が怒鳴りあい殴りあう緊張した家庭で幼児期〜思春期を過ごし癒しがたい心的外傷を負ったことには違いないのだけれども)、「自分の家族・家庭がこうであったらどんなによかっただろう」と泣きながら思ったことは100回や200回ではないわけで、そういう私の心の中に積もっていた言葉が『残酷〜』の中にもたびたび出てきて、本当にドキリとしたものである。
「どうして萩尾望都が私の思ってることを知っているんだ!!!」と当時は思ったものだ。

私は、自分では思考・思索において普通の人より一段も二段も上にいるつもりでいたのだが、実のところ人間の考えることなどはその語彙においてさえ似たり寄ったりなのだということを痛感させられる。

前振りが長くなったが、実はここからが本題だ。

冒頭の斎藤の『「家族」という〜』を読み終わったとき、私は自分の小さな変化に気づいた。

以前から、うつ病やアダルトチルドレンに関する文書、著作は私の嗜癖と言ってよかった。
私はそのテの本や文章をむさぼるように読み、読んで自分がどれほど不当に深く傷つけられた子供であったかを思い知り、打ちのめされてうつ症状を悪くした。
打ちのめされるために読んでいたといってもいいし、打ちのめされるとわかっていても読まずにはいられないといってもいい。
とにかく、まともな社会生活ができなくなるほどの病的症状がでることがわかっていても、自分の傷を確認せずにはいられないのだ。
心的な自傷であるといってもいい。

今回も、苦しい言葉が多くて涙が出た。
自分のことをいろいろと思い出した。
偏頭痛がひどくて眠れなくなり、ようやく眠ればわけのわからない不愉快な夢をずっと見てへとへとに疲れた。

でも、今までと、何か違うのだ。
何かがふっ切れている。

あるいは父が死に、私の牢獄であった「家族」の回復が物理的に不可能になったことも原因なのかもしれない。

私は、何か滑稽でもあるが、自分の意識、自意識が、今頃、ようやく、おずおずと、成長をはじめたような気がしている。
そしてそれが、実は、ネットゲームを通じていくらかの人々と知り合った結果なのではないかと思っている。

私がやっている「完美世界」というゲームは、オンラインゲームの中ではゲーム性は単純なものなのだという(私は完美が初めてなのでその辺はよくわからないのだが)。

ゲーマーとしての高度なテクニックが必要でないせいか、あるいは私にとって初めてのオンラインゲームであるせいか、ゲームの世界での私である「マイキャラクター」としての私の言動は、現実世界の私の言動に比べると、はるかに「むき出しの自意識・見た目や肩書きの上乗せ分のない自己存在のイメージ」であるように思える。
他の方がどうであるのかは知らないが。

で、ゲーム内の私たる彼女はハイティーンから二十歳前後の精神活動をしているように思えるのだ。
遅めの思春期後期である。

本当に驚くのだが、どう頑張っても成熟した一人前の大人の振る舞いに見えないのだ。

そしてそう見えるから、そう扱われる。
ゲームの中で知り合った人々は、私が、子供っぽさをたくさん残した精神的に危なっかしい若い女性に見えるから、見える、というのはそういうふうに生きている(振舞う、というと演技しているような印象だがそうではない。「ありのままの自分」として「そう生きている」としか言いようがない)から、そう扱う。

私は(多分「本体」の年齢は私よりも10歳以上若い人たちに)面倒を見てもらい、優しく、親切にしてもらい、時に叱られ、からかわれ、ふざけあい冗談を言い合う。

いじめられた時に悩みを打ち明ける親友もいれば、いつも面倒を見てくれて気にかけてくれるお兄さんもいれば、優しいお姉さんのような尊敬する先輩もいれば、泣きながら淡い恋心を告白した人(そして振られたorz。。)もいる。

学校のような家族のような会社や軍隊のようなコミュニティー制度があって、私もそのひとつに所属している。
一緒に戦ったり遊んだり助け合ったりする仲間がいて、優しい先輩や厳しい先輩がいて、信頼できる頼もしくて優しい祖父母や教師のような幹部たちがいる。

実は、キャラクターを特定されたくないのでここにはマイキャラの名前は敢えて書かないが、半年ほど前から定期的に2chや別の完美の晒し掲示板で名前を出されて叩かれている。
マイキャラは本当に雑魚もいいところなので、ゲーム内で直接私と関わりがない人は存在さえ知らないだろうに(トップレベルの有名人は「有名だ」というだけでねたまれて晒され叩かれるが)、よほどに私が憎いのだろう、誰一人レスをつけないにも関わらず、せっせと定期的に燃料を投下してゆくのだ(と言ってもその燃料になるものさえないので、「誰々の叩きをしてるのはコイツ」というようなまったくチャチなでっち上げしか出せないわけなのだが)。

たまさか事実無根の叩きがちょっと酷かったときがあったのだが、それを訴えたコミュニティーの幹部はとても真摯に対応してくださって、幹部の総入れ替えを含めたコミュニティーの抜本改革をしてくださったうえで、一度抜けた私を暖かく迎えてくださった。

それはちょっとした感動だった。

思うに、このコミュニティーは私が物心ついた頃から今に至るまで切望して得られなかった、「安心して育つことのできる場所」になったのだ。

私の家庭は私が小学校に上がる頃にはもう不全家庭であったから、私はまっとうな思春期、青春期を過ごすことができなかった。
緊張の張り詰めた家庭を何とか正常に戻すことに必死だったから、自分の成長にまともにつきあうことができなかったし、家庭が不全であることを社会から隠さなければいけないと思っていたからまともな人間関係を避けていたし、だから本当の意味での社会性は未熟なままで止まっている。

自分で言うのもなんだが、私は利口で学習能力は高いからいつでも優等生として振舞うことはできた。
社会人になっても優等生振りを発揮して、お客に好かれ上司を喜ばせるソツのない社員、明るく親切な同僚、優しい先輩であれた。

誰にとってもまっとうな大人、まっとうな社会人あることには一種のふりの部分があり、強いストレスを伴うものであることはわかっている。
が、普通の人にはそのストレスに耐える何かがあり、私にはないからうつ病になった。

斎藤は著書の中で言っている。
うつ病の人は自分の人生に向き合いたくないから悩みの中に逃げ込むのであり、依存症の人はみな甘ったれなのである、と。

うつ病の真っ只中にいるときであれば、現役で第一線で活躍しているこの精神科医の言葉の厳しさに、私は打ちのめされて立ち上がれなくなっていたと思う。
ひどい、どうせわかってくれないのだ、と心から思っていたと思う。
今でも誰かからそう面罵されればきっと立ち上がれなくなるほど傷つくとは思う。

でも、小さな何かが今までと違う、と感じるのだ。
不全家庭という見捨てられた巣の中の孵らない卵だった私のどこかで、小さな成長が始まっている気がするのだ。

ネットコミュニケーションの世界は、いびつに成長を止めた自我が止まった成長段階のままで違和感なく過ごせる場である。
そこで私は幸いにも、安心して育つことができる守られた場所と、まっとうな人間性を備えた大人たち(この場合、私自身は思春期から青春期をやり直している少女である)との出会いを得ることができた。

ゲーム世界の私には、現実の外見や肩書き、状況による「ねばならぬ」はない。
ネットゲームに耽溺することそれ自体は非生産的で非社会的な行為であるようにも思うが、ある種の人々にとって、ネットゲームの世界は現実ではけっして得ることのできない「過去の自分」をとりもどし、「生きなおす」ことのできる場ではないかと思う。

ここで得られたささやかな安心と信頼感が、どれほど私を勇気づけてくれたかわかるだろうか。

あれほど不安であったコミュニティの人々の無反応(ダンジェオン中であったりオンラインのまま席を外していたりで挨拶にさえ答えられないことはままある)や2chでの叩き晒しも、今では不愉快だが取るに足らない雑音にすぎない。

この場所で大急ぎで成長して、うつ病を克服し、一人の一人前の人間として自分の人生を生き生きと生きてゆけるようになるのが今の私の望みである。

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