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今夜の番組チェック
月明かりの下 雪の上で
5 帰還、そして変調
──初対面の再会より数分前
前日の雲と雪は陰を潜め、真円の太陽が顔を出す。天気は良好、それでも気温は氷点下スレスレ。曇りより晴れ、雪より日光。今日はいい天気だ。
俺こと遠野志貴は両拳を天に掲げて大きく伸びをする。昨日の心理状態だったら間違いなくすることの無い動作だ。
死体は無い。真っ赤な血も無い。こびりついたナイフも無い。鉄の匂いの染み込んだ制服も無い。殺人も当然、無い。
全ては白昼夢。貧血という百害あって一理無しの体が生み出した妄想だったわけだ。当然今日の寝起きも素晴らしいものだった。翡翠ですら笑顔が飛び出たくらいに。
などと上機嫌で歩いていると、前方に見知った顔を発見する。華奢な後姿にショートカット、そしてちらりと見える眼鏡の美人。彼女しかいない。
「おはようございます。シエル先輩」
声をかけ遅れること数秒。先輩は足を止めて気だるそうに振り返った。
…気だるそうに?いつも笑顔で物腰柔らかく接する、あの先輩が?
いや、今でも笑顔なんだけど、目にクマができてたり髪も少しボサボサになってたりとまあ…昨日の夜は何かタイヘンだったのだろうか。
「おはようございます。遠野くん」
「どうしたんですか。今日は何か元気が無いみたいですけど」
あからさまに先輩らしくないので、率直に聞いてみる。
先輩ははにかんだ様子で、「昨晩ちょっと…」と言葉を濁したので、俺もあえて検索をしないことにした。
時間に余裕があるので、先輩と雑談を交わしながら雪が踏み固められた通学路をゆっくりと歩く。
会話の内容はたいしたものじゃない。偶然会ったたいやきを食べる少女のことを話すと、少しだけ盛り上がった程度だった。
「その子も変わった子ですねぇ…あ、そういえば」
拳を手のひらにぽんっと打ちつけ、話題を変えた。
「昨日も殺人事件があったのは知ってますか?」
ほんわかした話題から急反転、殺伐とした話題になる。
「昨日も…ですか」
「はい。でも昨日の被害者は血を抜かれたうえにバラバラにされていたそうですよ」
バラバラという単語に心臓が反応した。
しかし昨日足を運んで確認は取ってある。俺が起こした殺人は白昼夢。何も後ろめたいことはない。
元々平然だが、輪をかけて平然を装い言葉を紡ぐ。
「怖いですね。先輩も女の子なんですから気をつけないと」
「遠野くんったら…大丈夫ですよ。襲われても叫んで逃げちゃいますから。もしかしたら、逆に犯人をやっつけちゃうかもしれませんよ」
「それは頼もしいです。もし俺が襲われたら先輩に助けてもらおうかな」
「それじゃあ遠野くんがお姫様ですね。私としては逆が嬉しいのですが───あら?」
俺の冗談に先輩は苦笑した後、校門のすぐそばに発生した人垣に声を高くした。
つられて俺も人垣の方へ目を向けた。自然と足が動いていく。
「どうしたんだ、コレ」
クラスメイトの吉良君を発見し声をかける。彼は声を潜めて「見れば分かる」と、まったく分からない状況説明をしてくれた。
しかし気になる発言ではあったので、格好悪いと理解しつつも野次馬の一人になるべく集団にもぐりこもみ、身を挿し込む。
先輩に見るかどうかのアイコンタクトを送ると、先輩も頷いたので手を振ってこちらに呼び寄せた。
差し出される手を乱暴にならない程度に掴む。
「う」
「? どうしましたか?」
縫うように集団の中へ潜り込む。美人である先輩の手を握っているという興奮を抑えて集団をかきわける。
やがて円の真ん中に出た。すると目の前には理解しがたい光景があった。
「……………ナニコレ」
野次馬の輪の中央には、紛れ込んできた大型の野犬に手を差し出す少女が座っていた。犬は少女の手を何度も噛んでいる。
少女は手から出血していても微動だにしていない。まるで人形が血を流しながら自分の手という餌を与えているようだった。
俺は少女の揺るぎない態度に感心───
「できるかっ」
周りの皆さん、見てたならとっとと止めましょう。
悪態をつきつつ、注目されるのを承知で輪の中心に踊り出る。360度から視線が貫いてくるが無視。
少女の背後に立つと、少女は上半身を捻ってこちらに振り向いた。長く黒い髪を簡潔にゴムで留めた、見憶えの無い子だった。
第一印象どおり人形のように表情が無いように見える。
しかしよく見てみれば表情がまったく無いわけじゃない。顔は「何か用か」と語っていた。
翡翠と同じタイプであまり表に表情を出さないタイプなんだろう。翡翠には悪いが、彼女のような子には慣れている。
「ほら、血が出てるぞ。そいつは俺が何とかしとくから早く保健室行って来い」
「……………」
互いの視線が絡み合う。彼女の瞳が鏡のように俺の姿を映し出す。
何秒たったのか。しばらく見つめ合っていると彼女は視線を外して犬のほうに向き直る。その際にリボンの色が見えた。上級生だった。
「───えー…このままだと授業に遅れますよ?」
今更だが敬語に直しておく。しかし無反応。
「…勝手にはがしますからね」
「……………?」
「何で?」って顔しないで下さい。
犬の口に手をかけ力を入れる。しかし犬は力を緩めるどころか、唸りを上げながらより牙を食い込ませていった。
「────」
更に力を加える。犬はムキになっているのか彼女の手をくわえて放さない。
噛む力が増し、時間が経つにつれが血の量が増していく。流れた血がコンクリートの地面に赤く染み込んでいく。
「くそっ、放せ…!」
犬と格闘しながらふと気づく。普段なら無視して教室に入っているのに、何で俺はこんな面倒に係わっているのか、と。
現に俺と彼女を見て周りも騒いでるじゃないか。注目されるのは好きじゃない。これは俺のキャラじゃないと思う。
強靭な犬のアゴに四苦八苦していると、横から手が伸びる。噛まれている少女だった。
「かわいそう」
「…は?」
「犬さんいじめちゃダメ」
「……いや、苛められてるの先輩でしょう」
突っ込みたいことが山ほどあったが、一人では不可能だった。暫く見詰め合っていると、彼女はまた犬と向き合ってしまった。
訳が分からないまま引き剥がしを続行する。しかし外れない。
このまま立ち去ることもできない。前進できず、後退できず。もどかしい。
大体この犬が悪い。どこから沸いて出てきたか知らないが迷惑極まりない。
さっさと放せ。もう教室に行かなきゃならないんだ。お前なんかに構っている暇はない。
べたべたと纏わりつく赤い血が不愉快だ。無機質な目も目障りだ。涎を垂らすな。汚らわしい。
ああ──────
。
「シエル先輩ッ!手伝ってください!」
少女と犬の態度に半ばイライラしながら叫びながらシエル先輩の方へ振り返る。普段の先輩ならこんなこと黙って見過ごすはずが無い。
「…シエル先輩?」
だが、今日のシエル先輩は少し違った。柔らかな優しい笑顔ではなく、無理矢理作り出した不自然な笑み。頬がひくひくと引きつっている。
あまりの異様さに言葉を失ってしまった。陰鬱な気分も一瞬で吹き飛んだ。先輩は威圧感を放ちながら少女の背後へ近づいていく。
「舞さん。あなたは何をやっていやがりますか」
口調が敬語なのに怖かった。気づくと二人から遠ざかって傍観者になっていた。危険察知。あの場にいてはいけない。危険だ。
舞と呼ばれた少女は何事かとシエル先輩を見ていたが、やがて目を見開いた。
「……………何でシエルがいるの?」
「───私はこの学園の生徒ですから当然です」
シエル先輩の殺気が増していく。犬は先輩に向かって唸り声を上げ威嚇していた。
正直かなり怖い。逃げたいけどなぜか見届けなければならないような責任感に駆られる。
「あれほど目立つなと念を押しておいたはずですが」
「………そんなことも言った気がする」
木に留まっていた鳥達が一斉に飛び立っていく。犬は威嚇を続けられずに弱々しく鳴いてうなだれる。そして俺の背筋に寒気が走っていく。
更に増えるシエル先輩の殺気に周辺の空気が凍りつく。逃げださない野生の犬よ。お前の根性は尊敬に値する。でも相手が悪い。危険だから逃げとけ。
「今度から気をつけることにする」
あ。今ブチって聞こえたような気がした。いつの間にか手に変なの持ってるし。…ハリセン?
小道具にしては準備が良すぎる。それよりもどこから出したんだろう。鞄から取り出したようには見えないし、そもそも鞄に入らない大きさだ。
殺気を放ちながら巨大ハリセンを構えるシエル先輩。非常にシュールな光景なのに、違和感があまり無い。
「次が───」
大きく振りかぶって────
「───あるわけないでしょうっ!」
スパアァァァァァ───ン────
ジャストミート。空気を震わせ破裂したような音が響き渡る。
まあ確かに。これだけ目立ってしまえば彼女は必然的に目立ってしまうだろう。
「……痛い」
「当然です。多少痛くしてありますから」
「すごく痛い」
「わたしの怒りが詰まってると思ってください。さ、そこの野犬も早く追い返しちゃいましょう」
ハリセンを肩に構えつつツカツカと歩み犬との距離を詰めるシエル先輩。犬は怯えすくんで動けない。がんばれ、犬。俺は応援することしかできないみたいだ。
そこへ。
「………」
犬を庇うように立ちふさがる舞先輩。いや、庇うようにではなく、あきらかに庇っている。
彼女の行動は本当に読めない。何がしたいんだろうか。
両者が相対し見つめあう。お互い何を読み取ったのか俺には分からないが、張り詰めた空気が辺りを支配していく。
バックに暗雲と稲光があれば絶妙にマッチしているだろう。もはや対決ムードとしか言いようの無い空気が広がり、誰もがそれに飲み込まれていた。
ここは誰かが止めねばなるまい。意を決し俺が口を開きかけたとき、救世主が現れた。
「あのー。ちょっとよろしいですか?」
人垣の後ろから女の子の声が上がった。モーセの十戒にあった海を割るシーンのように人垣が割れていき、そこから女の子と男の子がそれぞれ歩いてくる。
女の子は長い髪の後ろに大きなリボンをつけている。雰囲気が琥珀さんに似ていた。もう一人の男の子は体の線が細い見た目好青年。彼は周りの視線が気になるらしく、少々オドオドしながら女の子の後をついてきた。
女の子は犬の前にしゃがみこむと持っていた鞄を漁り、中から弁当を取り出すと包みを開いた。
「はい、どうぞ」
犬は二回三回鼻を動かして匂いをかぐ。やがて安全だと悟ると、弁当に食いついた。
なるほど。だから彼女は犬を庇っていたのか。犬が腹を空かせていただけと気づいていたからこその行動だ。なぜ手をかじられていたかは分からないままだけど。
「あははー。やっぱりこの子、お腹が空いてたんですねー」
「さあ先輩。保健室へ行きましょう」
一方の男の子は舞先輩の手に手早くハンカチを巻くと、その手を引いて校舎の中に消えていった。
犬はあっという間に弁当を平らげると、校門を抜けて姿を眩ませて行った。続くように野次馬達も校舎の中へ入っていく。
残ったのは突然の乱入者に面食らって動けないシエル先輩と俺、そして弁当を差し出した女の子の三人となった。シエル先輩はハリセン持ったまま固まってるし。
「貴方も保健室へ行かなくていいんですか?」
弁当を片付けているリボンの女の子。愛らしい笑顔でこちらを見上げている。
「血がついてますよ」
「あ…ああ、大丈夫です。怪我はしていませんよ」
先程の失態があったので最初にリボンの色をチェック。上級生であることを確認。口調を敬語に直すのを忘れない。
弾かれたようにシエル先輩も我に返り、ばつが悪そうに顔を赤くしていく。ハリセンは目を離した隙に消えていた。謎だ。
「佐祐理はこれで失礼します。シエルさんも後でまたね」
「はい。教室でお会いしましょう」
自らを佐祐理と呼んだ女の子は、他の生徒の後に続いて校舎の中に入っていった。
「シエル先輩。噛まれていた彼女とさっきの女の子、知り合いですか?」
「ええそうです。噛まれていたのは川澄舞さん。わたしの…従姉妹で、今日転校してきたんです。そしてお弁当をあげていたのは倉田佐祐理さん。こちらはわたしのクラスメイトですね」
倉田先輩の名前は有彦あたりに何度か聞いた憶えがあった。聞いた話よりも美人かもしれない。
それにしても舞先輩はこんな時期になって転校か。先程のシエル先輩の態度からして、何か事情があったのだろう。検索するほど野暮じゃないけど。
「へえ…従姉妹ですか。もしかして先輩、ま…川澄先輩の引越しの手伝いなんかしてました?それで疲れていませんか?」
「へっ?あ、あーそうですそうです。あの子はわたしが見てないと何をしでかすか心配で…」
「…うん、やっぱり先輩は面倒見いいですね」
「まあ性分ですから。直したくても直せませんよ。さ、遠野くんも。せっかく余裕を持って登校できたのですから、もう入りましょう」
先輩は話題から逃げるように俺の手を引く。ここは焦っているようにも感じるが…ああ、さっきの。
「先輩」
「はい!なんでしょうか!」
「今日は貴重な先輩が見られてラッキーです」
とたんに先輩の様子が変化した。照れ怒り。そんな先輩に、俺は───
「と、遠野くん!さっきのは忘れてください!」
「いやいや、忘れたくてもなかなか忘れられません。それに照れてる先輩は可愛いから、俺としては本当にラッキーなんですよ」
しまったと思ったときにはもう遅かった。一度出た言葉は戻らない。俺ってば何を言っているんだろう。
先輩は急ブレーキをかけ俺の手を離すと、両手を頬に当ててもじもじしと体を動かし始めた。
「遠野くんったら可愛いだなんて…お世辞でも年上をからかっちゃ駄目ですよ!」
そして風のような猛スピードで廊下を駆けていく。先輩はとても嬉しそうだった。あまり寝てないからハイテンションなのかもしれない。
でも靴は履き替えていなかった。廊下は連日の雪のついた靴のせいで濡れている。廊下清掃係の方々、ごめんなさい。
苦笑しながら自分のクラスの下駄箱に向かい靴を履き替える。
それにしても、今日の俺も変だった。あんな野犬ごときに腹を立てるとは。
最近気づかない間に情緒不安定なのかもしれない。何せ白昼夢を見るくらいだ。暫くは無駄な夜更かしは控えたほうがいい。
近くの水道で手を洗い流し、ゆったりと階段を登り教室の扉を開ける。予想通りに室内の視線が一斉に俺に襲いかかってきた。
居心地が悪いが無視を決め込んで自分の席に座った。
「おはよう遠野君。朝からご苦労様ね」
さっそく隣の席の美坂さんから声がかかった。ここは先程の騒動が見下ろせる位置なのだから美坂さんも見ていたのだろう。
「おはよう。本当に苦労したよ。でもかっこ悪かったけどね」
実際何も役に立っていなかったからな。今思い返せば無駄に目立っただけだった。恥ずかしい。
「そんなことないと思うわ。周りで傍観決め込んでた連中に比べたらよっぽどマシよ」
「それはどうも。気休めでもかなり嬉しい」
「安心しなさい。言葉通りだから」
彼女は口の端を上げると他の友達との話へ移った。相変わらずクールだ。
美坂香里。常に学年のトップを独走する優等生。彼女とは水瀬を通じて知り合い、今では勉強を教えてくれる仲である。ちなみに親友曰く、水瀬と並んで男子からの人気が高いらしい。
鞄を机の横に掛けると、後ろから降りかかる視線に体を反転させる。さっきからにやにやと…言いたいことがあるなら言えっての。
「ご苦労だなモテ男。十徳ナイフの全てを使って後ろから刺したくなったぞ」
「俺はお前の顔を見て気分が悪くなった。今日見てきた女性を椿とするなら、お前はハエトリソウがお似合いだ」
「蹴るぞモヤシ」
「殴るぞアンテナ」
殺伐とした空気が展開される。しかし教室内の誰一人として止めるものはいない。なぜならこれは日常茶飯事。これがコイツとの挨拶。
「…フ。俺の負けだ。この状態からは蹴れねえや」
溜め息をついて机の上に足を投げ出すコイツは北川潤。悪友その1。
悪友その2はまだ来ていない。どうせいつものように2時間目や3時間目からの登校だろう。
いつものように潤と雑談を交わしていると、いつものように水瀬さんが入ってくる。つまり時間ギリギリ。
「おはようございますだよ〜」
相変わらず眠そうな顔で入ってくる。足取りはおぼつかない。
「ウィーッス。皆の集オハヨウ」
続いて意外な人物、悪友その2の乾有彦が登場。これは予想外だ。いつもサボっている訳ではないのだが、あいつのサイクルとしては今日はサボってもおかしくない。
有彦は俺の前の席にどっかりと倒れこむように着席した。直後に俺にサムズアップしてくる。暑苦しいことこの上ない。
「よう、我がライヴァルと食玩のラムネ」
「うわすっげぇ屈辱。てめぇも似たようなモンだろうが」
「バカ言え。俺は同じオマケでも質が違う。例えれば『ドラ○エ』についてきた『た○しの挑戦状』くらいの差がある」
この時点で有彦最強バカ決定。アレはオマケじゃないから。しっかり金取られてるから。
「ま、それは置いといてだ。遠野よ、お前はシエル先輩に飽き足らず倉田先輩にまで────」
同じ内容で冷やかされたが、担任の石橋が入ってきてこの話はお流れになった。
事件とも言えないイベントはこのままありふれた日常の1コマとして忘れ去られると思ったが──────
「遠野くんいますか?」
昼放課。シエル先輩直々の呼び出しによって儚く潰えた。
クラスの視線がシエル先輩に向いた次の瞬間、その視線全てが俺に襲いかかった。
俺はバネのように立ち上がると早足でシエル先輩の所、つまるところ廊下へ。少しでも人の目を避ける場所まで行きたかった。昼時だから意味は無いかもしれないけど。
「どうかしましたか?」
「お昼一緒にどうですか?学食でなんですけど」
後ろが「おおっ!?」だの「何ぃ!!」だのと騒がしくなる。ばっちり聞かれてますね、ハイ。
俺は観念して先輩に気づかれないように軽く溜め息をつく。今日はラッキーなのかアンラッキーなのか。
「ええ、いいですよ。今日は特に予定もありませんし」
「ああ良かった。断られたらどうしようかと思ってました」
大丈夫です先輩。かなりありえない話ですから。
普段は有彦、潤、美坂さん、水瀬、そして俺を含めた5人で学食に行くのが暗黙の了解となっている。
しかし裏を返せば特に約束をしているわけじゃない。それに結局は学食へ行くことになるのだから断る理由は見当たらない。
「実はですね────」
「────という訳なんです」
「なるほど、すごく分かりやすいです」
目の前に並んでいるのは牛丼。隣に座っている、朝の騒動で川澄先輩を連れて行った男の子、倉田一弥君は卵付きの牛丼。彼は一つ下の学年だった。
一弥君の隣に座る倉田先輩。彼女のメニューも牛丼。しかも大盛り。どうやら今朝の件で貢献した順に並べられているらしい。
「はぇ〜…別にお礼なんてよかったのに…大したことじゃないんだから」
「んぇいえあうぇう」
「飲み込んでから言ってください」
「……………けじめはつける」
冷静なシエル先輩の突っ込みをよそに箸を動かしている彼女の名前は川澄舞。来たときには既に一杯目を食べ始めていた。もうすぐその一杯目が終わろうとしている。
話は単純明快。今朝のお礼だった。
川澄先輩は後で合流した倉田姉弟と俺を確認すると、ひしめく学生の陣中に飛び込み、牛丼三杯同時に持って俺達の前に並べたのだった。雑技団もなかなか真似できない高等テクニックだった。
「冷めないうちに食べる」
「そういうことなんで、気にせず食べちゃってください」
先輩だけカレーうどんだった。目の前のラインナップを見る限り彼女の奢りの対象ではないようだ。
隣の一弥君と倉田先輩を見る。彼女達も同様に戸惑っていた。まだ箸すら手に取っていない。
目の前の川澄先輩を見る。俺達三人を見つめて離さない。どうやら食べてもらわないと困るらしい。
俺は観念して割り箸を取って二人に渡し、一番最初に割り箸を割った。丼を持ち上げる。
「ではありがたくいただきます」
手に取った瞬間、川澄先輩の目が光った…ような気がした。気がついたら紅しょうがが増えていた。
「なっ!?」
「僕も頂くことに───」
きゅぴーん。光ったときには一弥君の牛丼にタマネギが増えていた。
「へっ!?」
「あははー、それじゃあ」
きゅぴきゅぴーん。光ったときには倉田先輩の牛丼に肉が増えていた。
「はぇっ!?」
「お近づきの印」
川澄先輩は当たり前のように呟くと、具の少ない牛丼を食べ始める。
何たる早業。彼女は自分の牛丼から俺達の牛丼へおすそ分けをしたのだった。まったく見えなかった。
「「「………」」」
互いが互いを見詰め合う。このまま食べていいものかと。報酬にしては多すぎるような。
最初に行動を起こしたのは倉田先輩。倉田先輩は増えた肉とは違う肉を川澄先輩の丼に乗せる。
「……何?」
「お近づきの印におすそ分け。佐祐理はお気持ちだけでも十分すぎるくらいだから、ね?」
なるほど、それはいい手だ。俺もあやかるとしよう。
「遠野先輩」「ああ」
ひょいひょい。
川澄先輩が戸惑っている間に、一弥君と同時に素早く肉を差し出した。
「………」
「今ダイエット中なんですよ」「肉を取りすぎるなと妹に言われてるんです」
相手を納得させるためのとっさの出まかせが同時に飛び出した。ちなみに妹の秋葉は俺が健康であれば特に何も言わない。あいつはそこまで鬼じゃない。
それにしても、一弥君とは気が合うかもしれない。何せ初見でここまで見事なコンビネーションができるのだから、相性はいいに違いない。
「………」
カッ!カッ!!カッ!!!
「なぁっ!?」「はいぃっ!?」「はええっ!?」
「黙って受け取る」
今度は見ていた。間違いなくしっかり見ていた。でもやっぱり動きは見えずに、俺達の丼にそれぞれきっちり返却されていた。
何だろう。マジックか、トリックか。少なくとも常人離れしていることは間違いない。
しかしこのままでは示しもつかなければ引っ込みもつかない。
「佐祐理は受け取って欲しいな〜」「お手伝いさんが厳しい人なんで」「お手伝いさんもに肉を取りすぎるなと言われてるので」
ひょいひょいひょい。
「………」
カカカッ!!
「「「………」」」
「食べる」
「「「「……………」」」」
小さな戦争が開戦した。
互いが互いで意地になり、俺達は川澄先輩に受け取ってもらうべく必死の抵抗をし、川澄先輩はお礼を果たすべく奮闘する。
時間差で肉を差し出したり、二枚同時に肉を差し出したりするも、川澄先輩の高速のリターンにことごとく返されていった。
3対1にして互角。実力は拮抗。なんて手強い人なんだ…ッ!
「もう終わっちゃったんですけど…何だかないがしろにされて寂しいです」
目的を忘れた肉の渡し合いをよそに、シエル先輩は悲しそうにお茶を飲んでいた。
結局この不毛なやりとりは、シエル先輩の小さなハリセンツッコミが川澄先輩に炸裂するまで、10分ほど繰り返された。
俺達を観察する見えない瞳に気づかないまま。
───食堂での騒動から数時間後。
川澄舞は夕日の光で橙に染まった茶道室で一人くつろいでいた。
「角飛車リーチッ!さあどうするよ!」
否。将棋盤を挟んでもう一つの存在が対峙していた。ソレの名前は舞夜。人にあらざるモノは舞から略奪した駒を得意そうに弄びながら叫んだ。
「ふふん。勝負は見えたわね。銀と金1枚ずつに歩が3つ、桂馬2つ。失った血が多すぎたようねえ。ささ、サクっと降参しちゃいな」
「………」
「ほら、悔しいでしょう、悲しいでしょう!無様にあがく姿を見るのはいつ見ても滑稽だわ!オホホホホ!!」
典型的な悪役そのもののセリフを吐く舞夜の姿は、さしずめシンデレラを苛める姉だろう。
自分の分身である舞夜が調子に乗っていることに悔しいのか、舞の表情は僅かだが曇っていった。
そこへ横から伸びる手が現れた。手は片方を逃がす妥当な処置を盤上に下す。
「………遅い」
「邪魔するななんちゃってメガネ!フレーム逆にすっぞ!ええい角ゲットォッ!!」
「無理言わないで下さい。これでも全速力です。それよりも全生徒の名簿を見てどうするんですか?誰か気になる方でも?」
「相沢祐一の名前を探して。舞夜も手伝う」
「アイザワユウイチ?その人物は関係があるのですか?」
「舞のぞっこ「関係無い。私の問題」初登場時からどんどん扱い酷くなってないかな…
まあ良くないけど置いとくとして、今日探してみたら、どーにもそれっぽいヤツはいなかったんだよね。シエルは知ってる?」
「さあ…一応この学園の生徒はチェック済みなんですけど、聞いたことはないですね。元々遠野と倉田が“彼”の転生先の一番の候補ですから」
『彼』───それは以前舞と舞夜が『蛇』と呼んでいた人物である。
ミハエル=ロア=バルダムヨォン。『アカシャの蛇』と呼ばれる吸血鬼である。
彼は過去に永遠を求め、吸血鬼の祖である真祖、アルクェイド=ブリュンスタッドに吸血され死徒──つまり吸血鬼となった。
彼の出した永遠たる答えは『転生』。自己の魂を他者の身体に融合させることにより生まれ変わることができる。つまり人間という種が根絶するまで在り続ける吸血種である。
その彼が次の寄り代を選定した地は極東のこの地、三咲町。ここは霊脈の集うものみの丘が存在し、魔との混血であり財力のある遠野家や、同じく混血など、魔に値しないが財力のある倉田家がいる。
彼が転生する条件は『富豪であり、魔術の才能を持っていること』である。つまり彼がここを選ぶ理由は多々存在しており、現に吸血種による被害も出ている。すなわち連続殺人。
教会はロアがこの地に潜んでいると確信し、二人の代行者を派遣したのだった。
「無い───」
「んー…他校じゃないの?」
「三咲町にはこの学園以外の教育機関はありませんから、その線は強いかもしれません。今の次期では休学になっているとは考えにくいですし」
シエルは名簿を閉じて一箇所に集めると、お茶を淹れるために立ち上がった。
舞は溜め息をつきながら駒を打つ。敵陣深くに切り込ませた駒は、舞夜の布陣の隙を突き、王と飛車を狙っていた。
「げっ、そう来るか…小癪なぁ!」
布陣の中の駒を処理できなかった舞夜は王を逃がすしかない。
「それで、どうでしたか?」
淹れながら今日のもう一つの目的である遠野と倉田について舞夜に尋ねる。しかし答えを返したのは舞だった。
「一弥と佐祐理からは特に何も。でも遠野志貴は一番警戒しなきゃダメ」
「やはり一番怪しい…黒ですか」
朝の二人の空気とはまた違う、重い空気。舞夜と舞の表情に変わりは無いが、シエルの表情には怒気すら感じられる。
「あたし的には黒だけど、舞のカンは黒に近い灰色ってところね」
「灰色?では警戒とは────」
舞は盤面を睨みながら力強く駒を打った。陸上部の掛け声が聞こえる茶道室に、舞が放った小気味良く乾いた音が響き渡る。
王手。舞の勝利だった。
「遠野志貴そのもの」
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