【ジャカルタ井田純】「今のこの平和に、改めて感謝したい気持ちだ」。アハティサーリ前フィンランド大統領のノーベル平和賞受賞決定の知らせに、同氏が和平実現に尽力したインドネシア・アチェ州で、歓迎の声が広がった。
同氏の仲介で結ばれたヘルシンキでの和平文書調印から3年。州都バンダアチェでは、和平定着に向けた住民の歩みが続く。生まれた時には既に紛争の最中だったという同市の教師、ズルファ・ハミダさん(29)は「女性の私が、夜間でも危険を感じずに外出できるようになった。平和って本当にありがたい」と声を弾ませる。
アチェ和平のきっかけは、04年12月のスマトラ沖大地震・インド洋大津波だった。アチェは最大被災地となり16万人以上の死者・不明者を出した。国軍と独立派武装組織GAMの関係者も被害を受け、和平を求める機運が高まった。アハティサーリ氏は、津波復興を支援する国際世論を背景に、インドネシア政府とGAMの和平協議をリードした。
アチェ州政府の報道官は「今回の授賞を誇りに思う。アチェ平和の実現に大きな貢献をした氏の受賞は当然だ」と述べた。一方、政府側和平交渉団の一員だったインドネシア国軍関係者は、「アチェ和平が評価されたのに、インドネシア人の受賞者がいないのは残念。だが、アハティサーリ氏にはおめでとうと言いたい。われわれは大きな譲歩をしたがアチェ独立は阻止できたのだから」と話す。
GAM側の交渉団メンバーだったイブラヒム・シャムスディン氏は、「授賞に感動した。彼は最高の仲介者だ。多くの人が挑んで果たせなかったことを成し遂げた」と述べた。
しかし、アチェでは、GAMが設立した地方政党党首の自宅が攻撃される事件が起きるなど情勢は依然、不透明な部分を残す。地域紛争などを専門とする国際シンクタンク「インターナショナル・クライシス・グループ」(ICG、本部・ブリュッセル)は先月、「来年の総選挙を前にアチェで緊張が高まり、情勢は予断を許さない」との報告を出した。
ICGのシドニー・ジョーンズ上級顧問は「選挙に向けた政党の動向、国軍の活動など、アチェは今から和平存続に向けた正念場を迎える」と分析する。
【ウィーン中尾卓司】今年2月に独立を宣言したコソボは、憲法に民族共存の理念が盛り込まれるなど、アハティサーリ氏がまとめた調停案に沿った形で「国際社会の監督下」で独立国家として歩み出した。首都プリシュティナに駐在する国連職員によると、「コソボ独立に道筋をつけてくれた」とアハティサーリ氏のノーベル平和賞受賞のニュースに歓迎ムードが広がっているという。
隣国のモンテネグロとマケドニアが今月9日にコソボを国家として承認し、コソボを承認した国は計50カ国となった。コソボ政府にとっても、アハティサーリ氏受賞によって、外交的な働きかけを強める弾みになると期待されている。
しかし、ロシアやセルビアはコソボ独立に反対したことから、アハティサーリ氏は昨年3月に国連事務総長特使としての役割を終えており、「北欧の小国フィンランドでは大国を動かせない」(外交筋)とアハティサーリ氏の影響力とコソボ問題への貢献に冷ややかな見方もあった。紛争後の99年から暫定統治を担う国連から、コソボ支援の役割は欧州連合(EU)に移行されているが、ロシアなどが反対するため、国連暫定統治を正式に終結できていない。
ロシアとスウェーデンという大国に歴史を翻弄(ほんろう)され、その教訓から軍事的な中立を貫くフィンランドがはぐくんだ「誠実な調停役」。1999年10月、ユーゴスラビア・コソボ紛争の和平合意を仲介して間もないアハティサーリ・フィンランド大統領(当時)に単独会見した際の感想だ。
大統領官邸での会見に現れたアハティサーリ氏は体調を崩していた。この日朝、ユーゴから帰国したばかり。和平交渉の詳細をしつこく聞く質問に対し、会見の途中で風邪薬を飲み、時に傍らの秘書に手帳を調べさせ、真剣に答えてくれた。
会見に基づく当時の記事を見ると、ミロシェビッチ・ユーゴ大統領(当時)との具体的なやり取りだけでなく、ミロシェビッチ大統領が和平案を受け入れたのが「(99年)6月3日午後1時10分」と時間まで入っている。日本人記者への誠実な対応は、人の話をそらさない調停者としての神髄を見る思いだった。
アハティサーリ氏らの仲介により、コソボの人権弾圧を理由にした北大西洋条約機構(NATO)軍の78日間に及んだユーゴ空爆は終わった。なぜこの大役が可能だったのか。同氏は「もしフィンランドがNATO加盟国だったら、私は仲介役としての役割を果たせなかっただろう」と謙虚に語った。
会見したのは、大統領任期満了の5カ月前。退任後について「年金生活に入って安楽イスに座るような生活はしない」と明言していたが、その言葉に国際平和への熱い思いを感じた。【外信部・笠原敏彦】
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■人物略歴
1937年、フィンランドが旧ソ連に割譲した現ロシア領ビープリ市生まれ。教員養成大学を卒業後、65年外務省入り。駐タンザニア大使、ナミビア独立支援のための国連事務総長特別代表などを経て93年社会民主党党首。94年、初の国民選挙で大統領に当選した。コソボ紛争でEU(欧州連合)特使もつとめた。フィンランドのEU加盟に尽力。インドネシア・アチェ紛争やコソボ独立を仲介した。
毎日新聞 2008年10月11日 東京朝刊