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秀吉は光秀の謀反を薄々勘付いてたんじゃないかと思います。秀吉は人心掌握術に長...

rnyrg818さん

秀吉は光秀の謀反を薄々勘付いてたんじゃないかと思います。秀吉は人心掌握術に長けてるし信長の光秀への仕打ちを見ていて何時かはこうなると予感めいた物があったんじゃないでしょうか?でなければ短期間で

備中高松から京都の山崎まで戻るなんて出来ません。余程周到に準備をしてなければ無理だと思います。

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riewseygoさん

薄々勘付いていたとしても具体的な手は打たなかったでしょう。もしそれがあれば、必ずそれを言い立てる敵方が出現したでしょうが、そういった事実は無いようだからです。また勘付いたとしても中国へ出兵した後と思われます。ただ、ぬかりなく京の情勢は探っていたでしょう。
信長へ援軍要請したのは秀吉ですが、光秀の反乱まで想定していたとは考えにくく、お膳立てをしたとまでは言えないでしょう。しかし京が空っぽになることはわかっていたはずで、何か起こるかもしれないということは思っていたかもしれませんね。とはいえ、高松城の水攻めも都合よく雨が降らなければならなかったので、とても本能寺を予測して準備していたとは思えません。
中国大返しもたしか明石城で休憩しており、それまでの道中ではかなりの金をばら撒いて食事やわらじ等の準備をさせています。秀吉のお家芸である城攻めのための用意周到な兵糧、金銭の準備が役に立ったと思われます。そうしてみると秀吉の日ごろのスタイルがいざと言うときに役に立った、運をものにできたのもそのためだと思われます。

and_then_so_clearさん

これに関しては色々言う人がいますが、秀吉の行動を考えると、どう考えても「事前に知っていた」としか思えないような行動そして“決断”の早さですね
伝説の「中国大返し」も、実際にはうまくいっていなくて、山崎までたどり着いたのは全軍のうちでも1万しかいなかった・・・という話もありますが、そうだとしても秀吉の決断の異常な速さを説明することにはなりません。
むしろ、秀吉の決断と行動が異常に早すぎたために、ついてこれない軍勢が続出したのでしょう。


<疑惑①>
もし仮に、早い時点で「変」の勃発を察知したとしても、その情報が正しいかどうかを確認するまで、本来は独断で毛利と和睦して軍を返すことなどできないはず。
京にはるかに近い摂津の中川清秀さえ、何が起きたか正確な情報がつかめず信長の生死すら分からなかったのに、なぜ秀吉は明智謀反の『情報』を得てすぐに、それが正しいと確信できたのか?
越中に居た柴田勝家の場合、変の情報を得ても、それが本当かどうか分からないために数日間動けず、撤退に際しても対峙していた上杉軍とは正式に講和せずに、防衛軍を置いて退却している。
秀吉の場合は、情報を得るとすぐに毛利と正式な講和に踏み切っているが、これは何よりその情報が絶対に正しいという『確信』があったことを示している
(もし仮にこの情報がガセネタだった場合、敵と独断で講和した秀吉は切腹モノ。)


<疑惑②>
本能寺の変が勃発してわずか2~3日後に、明智の領内である丹波の豪族・夜久氏にあてた秀吉の書状が残っている。
それによれば、“それ以前から”、秀吉の使者(情報通信のための密偵?)が夜久氏の領内を通って京との間を行き来していること、そのお礼が書かれている。
これは明らかに、変の勃発以前から、秀吉の情報工作があったことを示している。
日数から考えると、これは変の勃発を知ってから開始した情報工作とは思えない。
この件について、秀吉が事前に明智謀反の情報を察知していたわけでないとする立場からは、「秀吉ほどの者なら、常日頃から京の情勢をうかがい、複数の情報ルートを確保していたのだ。」とする解釈も出されているが、説得力を欠いている。
もし秀吉が明智謀反の情報を事前に知らなかったのならば、情報ルートは通常の山陽道を使っていれば充分のはずで、わざわざ明智の領内に手を廻して、裏日本側からの情報ルートを作ったりしないだろう。
こんな裏ルートの情報網を使っていたのだから、秀吉は明智謀反の情報を事前につかんでいたと考えざるを得ない。

それが証拠に、丹後の細川親子は、本能寺の変が勃発するとすぐに「明智の陣営にはつかない」という(秀吉寄りの)中立の意思表明をしている。(中立のふりをしつつ、ちゃっかり明智の城を攻めているし。)
大和の筒井順慶が、当初は明智有利と見て明智に味方していたにも関わらず、後に秀吉の急速な来襲を知るや明智への援軍を取りやめた・・・という経緯を見ると、細川親子は最初から明智が謀反することも、秀吉が大返ししてくることも知っていたのではないかと思えてくる。
それはつまり、秀吉が「丹波→丹後(細川親子)→京都」という情報ルートを使って、事前に情報をやり取りし、大返しの準備を進めていたからではないか





以上のことから、どう考えても秀吉は事前に、変の勃発を確実とする情報を得ていたものと考えられます。
よく「信長を討った後の、光秀の行動は行き当たりばったりで、準備不足だった」という人が居ますが、当時の細かい情報を見ていくと必ずしもそうは思えません。
秀吉の大返しさえなければ、光秀のクーデターと新政権の体制固めはかなりうまく行った可能性があります。

・関東では北条氏が挙兵し、滝川一益が敗走
・甲斐・信濃では国人一揆が勃発し、川尻秀隆が討ち死、森長可も敗走。
・美濃・尾張も散発的な戦闘を含む一時的な混乱状態に。
・紀州の雑賀衆と四国の長宗我部はすぐに光秀派について軍事行動を開始。
・上杉家にも早い時点で光秀からの使者が来ていた記録がある。(これを否定する学者の説も読んでみたが、その文書の読み方はきわめて恣意的。)

これら全てが光秀の画策によるものとは断言できませんが、明智軍は最初の数日で近江全土を掌握しており、この時点までは実にスムースに行っていました
それ以降、秀吉の大返しが伝わると、確かに非常にドタバタした動きになってしまいますが、これは想定外の事態にあわてた、つまり光秀が「まさか秀吉の早期のとって返しだけはありえない」と考えていたことの裏返しです。
光秀にとってみれば、秀吉がすぐに正確な情報を掴めるわけはないと考えていたか、もしくは秀吉もこの謀反の「共謀者」だったためにまさか裏切るとは思っていなかった・・・かどちらではないかと思います。
私は、光秀と秀吉は考えられているよりも信頼し合っていたと考えているので、後者が正しいと思ってますけどね。

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  • 編集日時:2008/10/10 06:27:25
  • 回答日時:2008/10/10 06:14:36

everyonesbeenbeginnerさん

当時の人間は秀吉の策略に気付かないおバカばかりだったのでしょうか? 「余程周到に準備をしてなければ無理」な作戦なら、柴田勝家あたりが真っ先にそれを指摘しますよ。まして家康なら、天下を取った後で「秀吉は信長を見殺しにして天下を盗った」という話を豊臣家の権威失墜に利用しない訳がありません。それがないという事は、秀吉の迅速な行動に不審点を抱く余地がなかったという事です。

tink_bell_kkさん

色々諸説は入り乱れてますしね
それも以前からよく言われている話しではありますね。

ただ、信長の光秀への仕打ちの殆どは後生の作り話です
江戸時代の絵本太閤記などからの話しが多いですので、
理不尽な仕打ちに関しては光秀だけが特別と言うほどの事もなかったと思います

光秀のあまりの用意の悪さが、
思いつきの行動とするか、何か他に後ろ盾があっての不用心だったのか、その辺りがポイントでしょうね

また、かなり早い時間で、本能寺の事の一報が秀吉にあったという話しもあります
通説の光秀の間者の間違いからより、じつは半日ほど早く知っていたとした場合
ある程度対策はその場で考えられたかもしれません

信長暗殺に、何らかの力が働いていた場合は
秀吉の情報網に何か引っ掛かっていたかもしれませんが、
それでも、とって返して勝てるという保証はありませんしね
光秀がもう少ししっかりと行動していたなら、どうだか保証無いですしね
その情報を持っていた場合、野心に使ったとすれば小説家は喜びますが
光秀を失脚させる方に使うとも限りませんし

それと、近衛家の日記が、その前後数日分、破り捨てられているのは興味深いですね

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