日本が本当に誇るべきこと:純日本産の「ニュートリノ振動」
小林・益川の両氏の受賞は、まずもって喜ぶべきことと思いますが、今年のノーベル物理学賞が日本に来た最大の理由は、昨年までに戸塚洋二さんにノーベル物理学賞を授与しそこね、巨大な学術予算も投入して得られた「ニュートリノ振動の観測=ニュートリノ質量の存在確認」という大成果に、結局ノーベル賞が出せなかったことに対する、強烈な批判と様々なロビィ活動があって実現したものと考えるべきでしょう。これと、化学賞の下村さんとは全く独立の現象で、こちらについては次回記したいと思います。
すでにノーベル賞の推薦委員も長年務めている益川さんあたりは、裏も表も全部分かっていて、別段賞がうれしいとか何とかではなく、むしろ、いつ貰ってもおかしくないのに、長年タイミングを逸し続けてきた南部先生の受賞が嬉しいというのは、掛け値なし、文字通りの本音だと思います。
益川先生にはとりわけ、ノーベル賞を貰ってもいつまでも普通のおじさんでもい続けていただいて、そろそろいい加減「ノーベル賞受賞→神棚に奉り」という、みっともない後進国根性を日本も超克するべきだと思います。それはすでに事実で、私も研究上ご一緒している島津製作所の田中耕一さんは、いまだに作業服で現場の仕事をしていると聞きますし、さきほど触れた超伝導の理論を作ったジョン・バーディーンは、トランジスタの開発で最初のノーベル賞を授賞(1956)した翌年に、次のノーベル賞受賞業績であるBCS理論を発表しています。
南部先生の受賞は、先に挙げた1957年の楊・李2人のシカゴ大学での指導教官、インド出身の大理論物理学者、シュブラマニャン・チャンドラセカール(1910-1995)の受賞を想起させます。チャンドラセカール教授の受賞も「遅すぎる」と言われましたが、今見てみると73歳で、南部先生の87歳よりよほど若い。南部先生もチャンドラセカールもみな、シカゴ大学でエンリコ・フェルミの薫陶を受けながら、関連の物理学に本質的貢献をされた大自然科学者です。
戸塚さんのご逝去が引き金になって、日本の素粒子物理学への授賞という動きが出て、「対称性の破れ」という授与ストーリーから、50年近くタイミングを逸し続けてきた南部先生にノーベル賞が出た。そういう流れでほぼ間違いないと思います。私個人は専門も違い、数回セミナーを伺ったことしかありませんが、そもそも南部先生の『クォーク』(講談社)を読み、そこで紹介されていた『ファインマン物理学』(岩波書店)で物理を専攻した個人的な経緯もあって、本当にうれしく思っています。
ただここで、もうひとつ挙げておかねばならない決定的な人物がいます。それは「与えられなかったノーベル物理学賞」ニュートリノ振動を理論的に予測した物理学者です。実はその人もまた、日本人だったのです。坂田昌一博士(1911-70)は京都大学で湯川・朝永振一郎の3級ほど下に当たり、湯川さんの第2論文以後の共著者として、純日本発の素粒子理論、強い相互作用の「2中間子理論」の問題を解決し、1950年代から、いつノーベル賞を受けてもおかしくない大物理学者でした。その坂田博士が1962年、やはり亡くなった牧二郎先生(1929-2005)などと共著で予言したのが「ニュートリノ振動」なのです。
つまり、戸塚洋二さんが受け損ねた「ニュートリノ振動」は、実験はもとより、理論的な予言から、何から何まで日本が決定的なイニシアティブを取って世界をリードした、物理学上の最大問題の1つだったわけです。ところがこれを、ノーベル財団は結局、きちんと顕彰することができなかった。普通に科学を知る良識層はすべて、これを「ノーベル賞の失策」と見ますし、選考委員会もいろいろ考えざるを得なくなります。かくして、今年のノーベル物理学賞は日本の素粒子物理に、という不可避の方向性が固まっていくわけです。
坂田あっての小林・益川
坂田博士は1950年代、中間子理論を発展させて、先駆的な素粒子(ハドロン)の「坂田モデル」を提出します。これを発展的に解体して、マレー・ゲルマン(1929-、1969年ノーベル物理学賞受賞)によって現在のクォークモデルが建設されますが、坂田博士自身は1970年に逝去してしまわれます。これはちょうど、南部博士の先駆的な「弦理論」が発展的に解体されて、現在の超弦理論(SuperString Theory)が建設される経緯とも似ています。
坂田博士は京都から名古屋大学に移られ、そこで学生を育てました。この坂田研出身で、1973年に「CP非保存」を説明する「3世代行列モデル」を提出したのが、小林誠さんと益川敏英さんにほかなりません。