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ノーベル文学賞の日

今日はいよいよノーベル文学賞の発表である。
村上春樹氏ははたして今年ノーベル文学賞を受賞するであろうか。
物理学賞、化学賞と立て続けに日本人受賞者が輩出しているので、今年は「日本イヤー」になるかも知れない。
というわけで、新聞社から「村上春樹ノーベル文学賞受賞のコメント」の予定稿を求められる。
今回はS新聞、K新聞、Y新聞の3紙から求められた。
S新聞には過去2回書いているので「三度目の正直」。
私のような門外漢に依頼がくるのは、批評家たちの多くがこの件についてのコメントをいやがるからである。
加藤典洋さんのように、これまで村上文学の世界性について長期的に考えてきた批評家以外は、村上春樹を組織的に無視してきたことの説明が立たないから、書きようがないのである。
だが、説明がつかないから黙っているというのでは批評家の筋目が通るまい。
批評家というのは「説明できないこと」にひきつけられる知性のことではないのか。
自前の文学理論にあてはめてすぱすぱと作品の良否を裁定し、それで説明できない文学的事象は「無視する」というのなら、批評家の仕事は楽である。
だが、そんな仕事を敬意をもって見つめる人はどこにもいないだろう。
蓮實重彦は村上文学を単なる高度消費社会のファッショナブルな商品文学にすぎず、これを読んでいい気分になっている読者は「詐欺」にかかっているというきびしい評価を下してきた。
私は蓮實の評価に同意しないが、これはこれでひとつの見識であると思う。
だが、その見識に自信があり、発言に責任を取る気があるなら、授賞に際しては「スウェーデン・アカデミーもまた詐欺に騙された。どいつもこいつもバカばかりである」ときっぱりコメントするのが筋目というものだろう。
私は蓮實がそうしたら、その気概に深い敬意を示す。
メディアもぜひこれまで村上春樹を酷評してきた批評家たち(蓮實や松浦寿輝や四方田犬彦などなど)にコメントを求めて欲しいものだと思う。
私は村上春樹にはぜひノーベル文学賞を受賞して欲しいと切望しているが、それは一ファンであるというだけの理由によるのではなく、この出来事をきっかけに日本の批評家たちにおのれの「ローカリティ」にいいかげん気づいて欲しいからである。
純文学の月刊誌の実売部数は3000部から5000部である。
この媒体の書き手が想定している読者は編集者と同業者と、将来編集者か作家か批評家になりたいと思っている諸君だけである。
そのような身内相手の「内輪の符丁」で書くことに批評家たちはあまりに慣れすぎてはいないか。
井上雄彦は一頁描くごとに、彼の新作を待ち焦がれている世界各国、言語も宗教も政体も風俗も異なる数億の読者を想定しなければならない。
世界各国の読者を想定して創作し、現に世界各国の読者に待望されている作家を私たちの社会はすでに多数生み出している(鳥山明も大友克洋も宮崎駿も押井守も)そうだ。
そのような世界的な作家が何を考え、どのような技術を練磨しているのか、それを批評家たちは想像できるのだろうか。
私は懐疑的である。
第一、世界的な作家を批評している人たちのうち、自分の批評的な文章が「日本以外の国々の読者に読まれること」を想定して(せめてそれを希望しつつ)作文している人間が何人いるだろうか。
私はほとんどいないと思う。
村上春樹は批評を一切読まないと公言している。
その作家がノーベル文学賞を受賞した場合、日本の批評家たちはなぜ彼らの仕事が村上からこれほど軽んじられたのか、またなぜ彼らは村上文学の世界性を予測できなかったのか、その意味を今でも理解できないでいるのか、その説明責任を負うだろうと私は思っている。

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2008年10月09日 13:07 に投稿されたエントリーのページです。

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