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  講談社 現代新書カフェ
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□        講談社 現代新書カフェ〜033〜                 
□            2008年10月8日                   
□                                 
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  ‖ 《1》好評既刊のご紹介
  ‖ 《2》★連載企画★                                     
  ‖       1)『大学論──ぼくは、今、「まんがを教える大学」で
    ‖              何を考えているのか 』 第6回 大塚英志 
   ‖    2)『本気で考える池田屋事件』第19回 中村武生
  ‖    3)『夢の男ーやさしさの豊かさー』第4回 信田さよ子 
   ‖  《3》スペシャル対談 東浩紀×速水健朗 
  ‖      『オタク/ヤンキーのゆくえ』最終回 
  ‖                 
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 現代新書カフェにようこそ。
 王、清原、桑田。85年のドラフトの主役が揃ってユニフォームを脱ぐのも因縁
でしょうか。小さい頃、王選手に握手をしてもらい、甲子園でのKKコンビの活
 躍に衝撃を受けた身としては、時代の終焉を感じています。
 リーマンブラザーズ破綻に代表される今回の金融危機も、アメリカの時代の終
焉ということになるのでしょうか。

 今回のメルマガは、好評既刊の紹介からです。


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◆  《2》連載企画  ◆
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 ◇1)『大学論──                         
 ◇    ぼくは、今、「まんがを教える大学」で何を考えているのか』
  ◇                                                    大塚英志 
 ◇
 ◇   第6回 ルパンの背中にはカメラのついたゴム紐が結んである
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《学者の「学力低下」》

 大学生の教養なり学力が崩壊した、という言い方は今に始まったことではな
い。自分の原稿や対談の類をほとんど整理していないので曖昧な記憶だけで書
くが、例えば九〇年代のどこか、ぼくがまだ「論壇」に身を置いていた頃、『世
界』でその種のテーマの座談会に出てキレた記憶がある。まあキレない対談や
座談会の方がぼくの場合少ないのでそれ自体は珍しくもないが、そこで大学生
の学力低下について語った一人が後に小泉チルドレンとしてゼミ生を放り出し
て選挙に出て問題となった先生だったような気もするのだが、出席した大学の
先生たちは大学生の教養のなさを憂え嘆きつつ、暗に自分たちの頭の良さを自
賛しているような感じがして、そこがみっともないと思った記憶はぼんやりと
ある。
 まあそもそもがぼくのようなサブカルチャー出身者に「大学教授」の肩書き
を大学自らが乱発していること一つとっても、大学の先生の「学力低下」の方
がはるかに問題なのではないかと思う。こういう言い方をするとまた嫌われる
かも知れないが、十年ほど前、今の神戸の大学とは違う大学で民俗学の授業を
担当することになって、大学を出てからほとんど目を通していなかった学会誌
をまとめて読んで、そこに何も新しい前進がないように思えて驚いたことがあ
る。
 それに対して改めて読み直した柳田國男はやはり化け物だし、ぼくの先生で
ある千葉徳爾もやはり化け物だ、とつくづく思う。同じように仕事の全体像を
見た時、ぼくのもう一人の先生である宮田登にしても六〇年代安保の世代に相
当するけれどちょっとかなわないな、とは思う。
 けれどこれが全共闘世代の学者になると、不穏当な言い方をすることが許さ
れるなら、ぼくが今からでも多少「学問」に専念すれば何とかなりそうな気が
する。何というか、その人の「学問」や「教養」の幅が見通せてしまう大学の
先生が、年齢が下がれば下がるほど増えていく印象がある。それは文学でも社
会学でもそうなのだけれど、団塊世代の学者はあまり勉強していない人が多い
ような気がしてならない。同じことは社会人にも言えて、例えば新聞の論説委
員クラスがこの世代になった時点で新聞のレベルがとてつもなく落ちた気がし
てならない。
 彼らは学生運動のどさくさであまり授業がなかった時代の学生だから当然勉
強はしていないし、しかも彼らはこの国の歴史の上で最初の「まんがを読む大
学生」だった。大学が文字通り大衆化した時代の若者であることは忘れてはな
らない。島耕作が社長になったようにそのあたりの世代がこの国の経済や政治
や学問の中心にいるのである。そんな彼らに「学力」とか「教養」とか言われ
てもさあ、と思う。

《教養崩壊論とまんが離れ》

 こんなふうに書くと、それは偏見だ、根拠がない、と反論してくる大学の先
生が少なからずいるだろうが、大学生の教養崩壊論も果たしてどこまで根拠付
けられているのか疑問である。
 そんな話題から始めるのは近所の蕎麦屋にあった夕刊紙に三浦展の新著『下
流大学が日本を滅ぼす!』の記事が出ていたからだ。八〇年代にセゾングルー
プの敏腕マーケッターだった三浦がバブル崩壊後の失われた十年を経てようや
く掘り当てた「下流」ビジネスにとやかくいうのも何かなとは思うが、夕刊紙
の記事を信じるなら三浦の本には近頃の大学生はまんがを読まなくなった、そ
れは大学生が漫画が読めないからだ、ということが大学生の学力低下の例とし
て記されているらしいのが、気になりはする。
 まんがの市場が縮小していることは事実だし、若い世代のまんが離れを根拠
づける数字もある。しかしそれは「漫画」のせいではなく、まんがが表現とし
て行き詰まりサブカルチャーの中心から転落しつつあるという、ぼくたちまん
が業界の人間にはもう少し深刻な問題であり、大学生が漫画が読めないことが、
例えば、先の『ヤングサンデー』休刊の理由なら別に漢字にルビを振れば済む
だけの話である。そんなことで読者が獲得できるとアドバイスして、よもやマ
ーケティングが成立するとはぼくには思えない。少なくともこの例は根拠がな
いことだとわかる。
 まあ、今の大学生はまんがさえ読めないほどバカだといいたいのなら、一国
の宰相の教養が一週間にまんが雑誌を二十冊読むことを「バカだ」と言えない
理由もなんとなくわかる。先日、ローゼン閣下の首相就任に際して二社ほど感
想を求められてそうコメントしたら事実、全く載らなかった。まあ三浦の本が
少しさもしいのは子供の頃、「バカって言ったら自分がバカ」という誰もが口
にしたささやかな戒めを忘れているような気がするからだ。

《A君の苦悩》

 さて恐らく三浦の本のような立場にすれば、ぼくのいる神戸の小さな美術系
大学は「下流大学」にカウントされるのだろう。三浦の本を紹介した記事を読
むと、推薦やAO入試で生徒を掻き集めるのが「下流大学」が出来上がる条件
らしいが、その点では確かにぼくのいる大学もそうだ。しかし、それではぼく
の学生は「バカ」かというと、どうしてもそうは思えない。
 いわゆる「学力」に限っていうと、神戸のぼくの大学では毎年、一人か二人
それこそ「上流」の大学の学生が再入学を希望して受験してくる。去年は件の
小泉チルドレンの先生のいた大学の学生が、今年は歯学部の学生が受験してき
たが面接で丁重にお断りした。県下の進学校の受験生もちらほらまじっている。
一応はセンター入試もやっていて試しに関西の「上流」私大並みに合格ライン
を置いても、入学してきてしまう学生もいる。その一方で成績表で本当に1と
か2とか並んでいる学生も合格させている。「学力」については本当にまちま
ちで、元引きこもりで大検で入学資格をとってという学生と、コロンビア大学
からのフルブライト留学生が机を並べている。国公立や医学部を目指すふりを
して土壇場で親を裏切った受験生も、以前紹介したような「おたく」のパパマ
マの子供たちもいる。そういう意味で入試という基準においての「学力」はあ
きれるほど格差がある。なるほどそれは「美大」という特殊性に多分に基づく
ものであることは確かだ。
 だからといって、「学力」とまんがを表現する力は全く関係がないわけでは
ない。「上流」大学からの再入学希望者をお断りしたのは、ぼくが「まんが」
に求める頭の良さと彼らの頭の良さの質に、大きく開きがあったからだし、一
方ではセンター入試や親の期待裏切り組の中にはまんがを描くという点で極め
て頭の良い学生がちゃんといる。
 例えば、今いる三年生の中で「一番頭がいい」とぼくが思っているA君は、
入試の時の成績も大学に入ってからの成績もかなり良くない。御両親が何とか
息子を卒業させたいと学科主任に相談して本人がむくれていたけれどまあ、そ
の点では困ったものだ。四年生になるには百単位必要なのだけれどそれが三年
後期の今、微妙である。その点が先生としては悩みの種である。
 しかし、三浦の本のように彼を「バカ」や「下流」ということがぼくにはで
きない。物を書くことにおいて、この学生はぼくが舌を巻くほど頭がいいので
ある。実を言えば彼は一本のまんがをなかなか完成させられず、ずっと絵コン
テをいじっている。その点でもやきもきさせられた学生だ。しかしそれが、ぼ
くの教えようとするまんがの方法と彼が描こうとしているまんがの方法の違い
だ、ということにぼくの方が気がつくのが実は遅れた。
 ぼくは、まんがとアニメーションや映画の演出方法は近いのだよ、と前回書
いたように、入学時から学生に説く。それはしかしあくまでも石森章太郎が「龍
神沼」で整理したモンタージュ論をベースとする「映画的手法」である。
 だからA君はそこでなるほど、映画やアニメのようなまんがを描けばいいの
だと納得する。しかし、どうも教えることが身につかない。

《宮崎アニメのカメラワークの法則》

 それが何故なのかわかったのは彼とじっくり話し込んだ時だった。彼は主人
公が車で走り回るシークエンスを繰り返し納得がいかないように幾度も描き直
している。ぼくにはその構図やコマ運びに何も問題がないように思える。何と
いうか宮崎アニメを彷彿させるアクロバティックなコマ割りと構図がそこには
ある。
「これでいいじゃない、ちゃんとアニメみたいだよ」
「でもな、先生、宮崎駿はこうじゃないんよ。だって宮崎アニメのカメラには
ゴム紐がついているでしょ」
 突然、彼はそんな奇妙なことを言い出したのである。
 最初、彼が何を言っているのか意味がぼくにはわからなかった。けれども何
度も聞き返していくうちに、こういうことを彼が言いたいのだとわかった。
 彼は宮崎アニメのカメラワークが他のまんがやアニメや映画と違う、と感じ
ているのだ。「アニメのようなまんが」と言われたので、そうして「宮崎アニ
メのような」まんがを描こうとして苦労しているのである。言うまでもなく実
写映画においてはカメラワークは固定カメラだろうがハンディタイプのものや
クレーンやドリーを使おうが、その動きは物理的条件に制限がある。それに対
し、CGはカメラをどこにでも自在に置けるわけだから、カメラワークを物理
的条件から解放した、とよくいわれる。映画では置けない場所にカメラを置い
たのがCGであり、同じようにまんがやアニメも本当はカメラをどこに置いて
も理論的にはいいわけだ。けれどまんがやアニメは「映画的」であろうとする
ことで、つまりカメラが物理的法則に縛られた映画を暗黙の内に雛型にした点
で実は自由ではない。一方CGが本当に自由かというと確かに自由なのだがそ
の自由な動きを律する「法則」に大抵のCGアニメは欠けている。それに対し
て、宮崎アニメだけは映画のカメラワークから解放される一方でCGのように
法則なき自由さでもない、と彼は感じていることが話しているとわかってくる。
 そして彼は宮崎アニメに存在するカメラワークの「法則」を再現しようとし
て、ひたすら苦労していたのだ。その法則を「ゴム紐の先のカメラ」と彼は例
えたのである。
 例えば、である。疾走するルパンがいる。そのルパンの背中からゴム紐が伸
びていてその先にカメラが結んである。宮崎アニメの映像はこのカメラからの
映像だと彼はいうのだ。ルパンが走ればカメラはついてくる。しかしゴム紐だ
からルパンが走り出して少し遅れてカメラは引きずられ動きだし、次にびょー
んと伸びたゴム紐が思い切り引っ張られルパンに近づく。しかし今度は縮んで
しまったゴム紐の先のカメラは不安定に揺れる。
 宮崎駿のカメラワークはそんな感じだよね、先生、と彼は言うのだ。当然だ
がぼくはそんなふうに考えたことがなかった。このゴム紐のイメージ通りに宮
崎アニメの構図が動いているかどうかはともかくとして彼がすごいな、と思っ
たのはアニメーションの内側の現実にその中でのみ成立する「規則性」を教え
もしないのに見つけ出したことだ。
 今村太平という十五年戦争下のアニメ批評家がいて、彼の批評は歴史をたど
っていけばジブリに行き着くが、今村はディズニーのリアリズムをこういう言
い方で説明している。

〈つぎにその運動が最も華々しく見えるときには、現実の運動の因果律や必然
性を否定してゐるのだが、この否定は運動の因果関係を認識してはじめて生れ
る。ミツキイを人間のやうに歩かせるには人間の歩行や動作の分析がなくては
ならぬ。それゆえ、漫画の基礎は事物の科学的な観察である。それが精密であ
るほど空想は魅力的にひろがる。嘘が嘘であるほど科学行為がそれを支持す
る。〉(今村太平「トーキー漫画論」『映画芸術の形式』一九三八年、大塩書
林)

 ディズニーアニメの描く仮想の世界において、ドナルドやミッキーの動きは
現実の物理的法則とは違う、しかし、その世界の中では法則として一貫したも
のに支えられている。それがアニメーションという芸術におけるリアリズムだ
という。
 つまり、この考えに立てばカメラが物理的な法則から自由になったCGには
しかしそれに替わる法則がなく、それ以外のまんがやアニメは映画のカメラワ
ークが縛られる物理的法則に未だどこかで縛られている部分が少なからずあ
る。ゴム紐の先に結ばれて追いかけてくるカメラのイメージはその「法則」を
A君なりに表現したものだといえる。
 確かにここまでを聞き出すのに三〇分かかったが、例えばこういう言い方を
どこかで聞きかじってさらりとしてしまう才能をぼくはあまり信用しない。そ
れはライターや評論家、つまりぼくのような人間の才能であって、そうやって
器用に語れることと、しかし、それが表現としてできることとは一致しない。
A君は、それをまんがでやろうとしていて、そして、今やできつつある。
 この話を知り合いのまんが家何人かにしたら皆、口を揃えて「その子は頭が
いい」と言う。ぼくもそう思う。

《「上流」「下流」の基準》

 三年生になってくると、学生たちは自分がまんがという表現の中で自分たち
がやろうとすることを、それなりに理詰めで説明しはじめる。それはしかし、
まんがについての理屈をこねくりまわすことや蘊蓄を語ることとは違う。まん
がという表現がどういう論理で成り立っているか、その上で自分が「いかに」
まんがを描こうとしているのかを、友人や教師に向かって説明できるようにな
ってくる。それは彼ら彼女らの巣立ちが近いことを予感させる。
 このエッセイの中でぼくは「方法」という言い方をよくするが、「方法」は
「ゴム紐の先のカメラ」のように言語化されることで改めて「秘儀」から他人
に伝えられる「方法」となる。ぼくは入学時、一年生のうちはお互いに課題を
講評し合ってはいけない、とかなりきつくいう。中途半端な美大やライティン
グコースでそういう学生同士の講評を見ていて不満だと思ったのは、もっとも
らしい現代思想や美術論が語れる学生がその場を支配してしまうことだ。なる
ほど「評論」され初めて「価値」が生じるアートや文学を目指すにはそれも悪
い経験ではない。けれどぼくは自分の中にちゃんと「方法」が意識され、それ
を「表現」として形にできて、そして同時にたどたどしくて少しもかまわない
から「ことば」にできた時、初めて他人にアドバイスができると考える。
 あまりぼくの学生にはいないが、美大であるだけに現代美術や現代思想用語
でまんがやアニメを語りたがる学生は少なからずいる。まあ若い時のぼくもそ
ういうことを嬉々としてやっていたクチだからとやかく言えないが、しかしそ
れらの用語でまんがについて語ってもそれは描く側に何のアドバイスにもなっ
ていない。偏差値の高い学生の中にはそういうことを好む学生がいないわけで
はないが、しかしそういう学生の「アドバイス」は三年生ぐらいになると可哀
想なくらいに黙殺される。そして作品について「読む」レポートをゼミで発表
させても、明らかに「方法」を自力で見出していった学生の論旨の方が明確で
ある。少なくともぼくにとって脱構築やスーパーフラットや異化作用というこ
とばを知っていて、何かをもっともらしく語ることと、まんがやアニメの「方
法」を「ゴム紐の先のカメラ」にたとえて語ることのどちらが頭がいいかとい
えば後者である。そして下流大学生論の「上流」「下流」の基準は前者のよう
な「賢さ」に限定されているようにぼくには思える。
 別にぼくは分数計算ができなかったり常用漢字が書けないことが正しいとは
思っていない。できた方が望ましい。先の三浦の「下流大学」本を紹介した記
事には、ある工学部が「百ます計算」を新入生のカリキュラムに取り入れ、そ
れで「算数」のおもしろさに気づき技術者として就職した話を紹介した上で
「この会社の製品を買うのはやめたい」と記しているが、しかし、「数」とは
一体何か、という一番根本にまで立ち戻って「算数」からやり直した技術者は
本当に「下流」なのだろうか、とも同時に思う。

《誰が教育をダメにしたか》

 ぼくは別に日教組の肩をもつわけではないが、日教組が強い県では学力が低
いというあの辞任した大臣の放言が表向きは非難されつつ、多くの人々の心の
内では支持される感覚にはやはり違和をもつ。それはやはり「学力」の理解の
仕方が余りに狭いからだ。以前にも書いたかもしれないがぼくの小学校から高
校にかけてはそれこそ「日教組」や「都教組」が強い時代だった。高校の頃を
思い出しても入学していきなり都教組のストライキで学校が休み、という時代
だった。ぼくのいた公立高校は「学力」でいうと、まず国立の附属がトップ、
次に開成などの私立のトップ、次に都立のトップで十人単位で東大や国立に行
く高校があり、その下に有名私大のエスカレーター式入学が保証される高校が
あって、更にその下、という程度の高校である。毎年一人か二人は東大に入る
けれど一浪して、というのがパターンで受験指導も制服も修学旅行も生徒会も
なかった。これは上の全共闘世代のちょっと下の高校生がいた時代に彼らの高
校紛争で勢いで全て廃止したという話だったが、生徒会は予算を執行する会計
だけは選んだので別に問題はなかったし、制服がない、といっても半分以上は
洋服を選ぶのが慣例なので学生服やそれっぽい服を見つけて着ていた。
 それでは放任主義かというとそうでもなく、組合の先生たちの授業はどれも
おもしろかった。これも書いたことだが、生物は一年間、食虫植物について、
地学は宮沢賢治と地質学について、倫社は岩波文庫『共産党宣言』を一年かけ
て読む。教科書は読めばわかるでしょ、授業に必要なところは二週間で最後に
ちゃっちゃっとやって、という感じだったが父兄も生徒も文句も言わなかった。
『共産党宣言』を読ませるというのは別に左翼教育を植え付けるためではなく、
社会科学の本をきちんと読み通す訓練だったし、現代国語で柳田國男の『雪国
の春』についてじっくりと一行一行読まされて、その文章が「わかった」こと
がぼくと柳田民俗学の最初の出会いだった。そうやって書物の読み方を教われ
ば、教科書は「読めばわかる」ものだった。
 今、思い出したが音楽の授業はずっと和音について、だった。和音を五線譜
に書き、それをピアノの前でハモる。その繰り返しだった。そこで習ったこと
はほとんど忘れてしまったが、たった一つ今でもはっきり理解しているのは
「和音」とは一定の規則性から成り立っている構造だ、ということだ。同じよ
うにウツボカズラのことも賢治が愛した鉱石の名前ももう大して覚えていない
けれど、やはりそれらもまた「世界」を見る「方法」について教わった、とい
う点で同じ気がしてならない。
「組合」の強い公立の小中高で教育を受けたぼくにとって「組合」の先生たち
は今思い返しても「おもしろい」授業をする先生が多かった。
 無論、そうでない先生もいたのだろうし、日教組大会でも教科の教え方、方
法についての試み、つまり、「教育実践」を発表する先生が昔より減った、と
いう話をよく聞く。その意味では教育現場から「いかに教えるか」という「方
法」や、「方法」の見つけ方を教えるという態度がどこかで崩れたのかも知れ
ない、とは思う。
 無論、これは全て印象論だ。一方では「日教組が教育をダメにした」という
議論も大臣が学力テストが根拠だといっても実際に検証すると日教組の組織率
と学力テストの結果に相関関係が見出しにくいにもかかわらずその物言いがど
こかで支持されるように、「学力の低下」を社会の側は自分を棚に上げて嘆き
たがり、日教組や下流大学を持ち出して「日本をダメにした」とまでいう。し
かし、この国の社会システムを悪用して、私益に使ってきたのは「学力」のあ
る官僚と、その意味で「学力」さえなくとも二世三世というだけで議員や大臣
や首相になれた人々であることは冷静に考えればわかることである。

《経費の伝票は何故必要か》

 と、ここまで書いたら、ある企業の総務部の知人からメールが来た。実を言
えば今、ぼくの学生のうち三年生たちはいくつかの企業でインターンシップに
参加している。あちらこちらに頭を下げてやっといくつかの会社が受け入れて
くれたのだが、その一つだ。
 メールによれば、「経費の精算の書類」の書き方を教えた時、どうもうちの
学生が、何故それが必要なのか、という質問をしたらしい。三浦本的立場に立
てばまさに「下流大学」の「バカ」学生の一例になるのかもしれないが、この
企業の人はそう言われれば自分も何故と考えたことはなかったと、企業の収益
構造の話から始め、最終的には利益から納税をし社会的責任を果たす、そのた
めには一枚一枚の伝票が正確でなくてはいけないと改めて説明している自分が
おもしろかった、と書いてある。
 教師としてはバカな質問にそうやってきちんと答えてくれた企業の方にただ
感謝するのみだが、しかし一枚の経費精算の伝票が何故必要なのか、それは正
しく決算し、利益を出し、正しく納税し、そうやって社会システムが動いてい
くという、当たり前すぎて誰も考えなくなってしまっているから、民間から役
人まで経費をちょろまかす(まあ気持ちはわかるけれど)人たちばかりになっ
てしまう。それが社保庁の問題にだって道路特別会計の使われ方にだって結局
はいきついてしまうわけである。企業コンプライアンスの教育は「経費の伝票
は何故必要か」を説き起こすことでさえ可能なのだ、と思いもする。もちろん、
もっともうちの学生たちがそれをちゃんと呑み込んでくれたかが心許ないが、
メールを信じるなら全員メモをきちんととっていたらしいので「先生」として
はちょっと安堵する。
 確かに「百ます計算」や「算数」からやり直した工学部の学生をどう評価す
るかはそれぞれの企業の問題だろう。だが、多分「まんがを描くことを教える」
ことを介しながら、ぼくがやっているのも同じようなことに思える。そして
「何故、経費の伝票がいるのか」とインターンシップでうっかり聞いたり、宮
崎アニメのゴム紐カメラについて話す学生が、まんが家やアニメーター以外の
仕事の一般社会の中での仕事に不向きだ、役に立たないとは彼らと一緒にいて
ぼくにはどうしても思えないのだ。
 三年生たちはこの夏、バタバタとまんが雑誌で新人賞に引っかかったり持ち
込み先で担当がついたり、とりあえず十数名いるぼくのゼミの学生の三分の一
は少しだけ光明が見えてきた。「××君は締め切りで学校に来れません」なん
ていう報告を友達がしてきたりもする。もう幾人かは何とかなるとは思うが、
しかし、新人賞をとってもそれですぐにまんがで生活できるわけでもなければ、
それさえ叶わない学生もいるはずだ。
 その時、「まんがの描き方」を学んだことが社会で役に立たないとは、「先
生」の欲目かもしれないけれど、ぼくにはどうしても思えないのである。東大
卒やそれこそ早稲田卒なら毎年千人を超える単位で社会に出て行く。しかし、
神戸の大学でぼくや安彦良和やしりあがり寿や多田由美が育てた大学生は二十
人かそこらの希少種である。同じような頭をした「上流」大学の新卒者の中に
ぼくたちの育てた「下流」大学の学生が一人ぐらいまじっていてもいい、と企
業の人は考えてくれないかな、と思う。まあ、今回のオチはこのエッセイを読
んでいる企業の方がおられたら是非うちの大学のぼくのいる学科に求人票を回
してください、ということになるのだけれど、三年生の後期となった今、学生
たちはリクルートスーツを着るか、それとも自力で物を書いて生きていく世界
に一か八かで飛び出していくか、人生の決断に立たされている。
 その最初の巣立ちの準備を前に新米教師であるぼくの方がおろおろしている
のである。
                              (つづく)

┌──────────────────────────────────┐
│大塚英志:1958年生まれ。まんが原作者、批評家。 神戸芸術工科大学教授、
│東京藝術大学大学院兼任講師。8月、東浩紀氏との対談集『リアルのゆ
│くえ──おたく/オタクはどう生きるか』を現代新書で刊行し話題に。
└──────────────────────────────────┘



    ・────────────────────────────・

    ◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◆
    ◆ 2)『本気で考える池田屋事件』第19回 ◆
    ◆                中村武生◆
    ◆◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇ 

 八月十八日の政変後、七卿はどうして周防・長門(防長)の毛利家領にやって
きたのか。それはたんに、敵対勢力からの避難ではない。前回紹介した、七卿
連署の「檄」によれば、「義兵」を前提にしたものだったとわかる。
 七卿を長州毛利家のあやつり人形のように思っている方が多いと思うが、決
してそんなことはない。けっこう主体的なのである。のちに「禁門の変」とな
る率兵上京など、このあとの長州毛利家の動きは、実は七卿の意思に影響され
ているのだ。
 そのあたりを、少していねいに見てみよう。

 長州毛利家の急進派を、通常「正義党」とよぶが、これもけっして一枚岩で
はない。京都から七卿とともに西下してきたグループは、だいたいが七卿と同
じ思い、つまり防長で有志を募り、勢力回復のために京都に攻め込みたいと思
っている。
 が、山口の正義党の政府役人はそうではなく、当初、七卿に来てもらっては
迷惑だと思っていた。
 前後するが、八月十八日の政変の直前、長州毛利家は「朝陽丸事件」の処置
に苦慮していた。唐突に出てきた朝陽丸事件というのはなんだ、と思われたか
もしれない。同年5月10日から、下関で毛利家は外国船砲撃を始めている(下
関事件)。念願の攘夷の実行なのだが、これに徳川政府が、軍艦朝陽丸で問責
の使者を派遣した。使者は中根市之丞というのだが、なんということか、この
使者が拘禁されてしまったのだ。これが朝陽丸事件である。その後始末のため
に吉田松陰門下のひとり吉田稔麿が奔走し、よい方向に向かおうとしていた矢
先に、八月十八日の政変が起き、その後中根らは殺害されてしまったのだった。
 参内を差し止められたとはいえ、勝手に京都を離れてよいわけがない公家7
人が防長へやってくる。まず毛利家が朝廷に対して「不遜」と理解される危険
がある。また七卿もその罪が重くなることは必至である。
 だから防長には入らず大坂の毛利屋敷にとどめ、そこから京都へ戻る許可を
もらうよう運動すべきだと、山口の正義党政府は決めた。8月26日、根来上総
(ねごろかずさ)や飯田小右衛門、井原主計(いばらかずえ)がその担当とな
り、防長の軍港三田尻へ急行し、氏家彦十郎や佐久間佐兵衛らと会議を開いた。
根来らはおそらく、一時的な上陸はいいとしても、なるべく早く大坂に戻り待
機してもらうべきだと言ったのだろう。
 ところが、その結論が出ないうちに、七卿や京都の急進派が防長に到着して
しまった。こうなっては早く帰ってくれとも言えず、滞在してもらうことにな
った。
 8月27日、もちろん当主毛利慶親(敬親)の名で朝廷には届けを出した。
「京都に帰ってもらうよう説得を試みますが、それまでは(防長に)滞在せよと
命じてくださるようお願いします」(意訳)という文面だ。
 くわえて政変による追放の故なきことを訴える嘆願書も、慶親および家臣一
同がそれぞれ提出した。けっして幕府に対して戦闘的ではなかったのだ。
 これに対して、同日、七卿も朝廷に自分たちの意思を告げた。「朝廷への出
仕を停められたので、謹慎しておくべきところですが、天皇の積年の思いであ
る攘夷を実行するため西国へ来ました。どうか理解してください」(意訳)。正
義党役人のとまどいをよそに、その文面からは帰る気などさらさら感じられな
い。
 折しも、正義党役人は、前後して起きた教法寺事件(正規の毛利家家臣によ
り編成される先鋒隊と奇兵隊との対立)のあと、奇兵隊の解散令を出している。
外国船との戦いのみならず、政変にともなう徳川政府の追討軍がくるかもしれ
ないというときなのにもかかわらずである。七卿や京都グループとの意識の差
が如実に出ている。
 このあと8月29日、萩の保守派(いわゆる俗論党)の中川宇右衛門や椋梨藤太
らが山口へ入り、八月十八日政変の責任追及を行う。翌日には多くの壮士も来
訪し、慶親に対して、毛利登人(のぼる)、前田孫右衛門、周布政之助(麻田
公輔)の罷免を要求した。勢いあまって殺害する意志さえみせた。これに押さ
れ、3人は失脚した。奇兵隊の解散は、波多野金吾(広沢真臣〈さねおみ〉)
の反対などにより実現せず、下関から小郡へ移動することで処置されようとし
た。

 が、その直後、事態は変わる。9月6日、政変ののちも京坂に滞在していた
重臣益田右衛門介が帰国し、世子毛利定広(元徳)や奇兵隊を掌握した高杉晋
作らの強い支持により、俗論党は失脚し、毛利登人らが復帰した。
 この事件ののちの正義党政権は、性格ががらりと変わる。10月1日、慶親の
親諭書などは、七卿の名誉回復のための上洛を助け、「君側の奸」を排除する
ためには軍事行動も辞さないと述べるのである。ここに正義党政府は、七卿や
京都グループとおおむね志向が一致し、翌元治元年(1864)の率兵上京(禁門の
変)への道を歩みはじめるのであった。
 さて、ここで京都へと話題をうつす。以上のような混乱のなか、古高俊太郎
が京都河原町屋敷へ接触をはじめる。どういうことか。それはまた次回。

【参考文献】
末松謙澄『修訂防長回天史』5、マツノ書店復刻版、1991年
町田明広「幕末長州藩における朝陽丸事件について」『山口県地方史研究』92
号、2004年)
高橋秀直『幕末維新の政治と天皇』吉川弘文館、2007年

┌─────────────────────────────────┐
│中村武生:京都に住んで、京都を主なフィールドとするフリーの歴史地理
│研究者。1967年、島根県大田市生まれ。佛教大学文学部史学科卒業。同大
│学大学院文学部研究博士課程前期(日本史学)修了。佛教大学、天理大 
│学、大谷大学、同志社大学、京都女子大学の非常勤講師や、京都文化セン
│ター、京都おこしやす大学、中日文化センター、朝日カルチャーセンター
│などの講師をつとめる。著書に『御土居堀ものがたり』(京都新聞出版セ 
│ンター)。                            
└─────────────────────────────────┘
   ・───────────────────────・ 

  =============================================================
  □3)『夢の男―やさしさの豊かさ―』            ■
  ■        第4回 「おばさんたちの擬態」       □  
  □                       信田さよ子  ■ 
  =============================================================

不動の人気

 先ほどまで、NHKのBS2をかぶりつきで見ていた。「太王四神記」がこのたび、
ノーカット吹き替え版で再々放映されることになり、それを記念して今年6月
に放映された「ペ・ヨンジュンが語る撮影秘話完全版!」がロングバージョン
で再放映されたのだ。これもひとえに講談社現代新書のWEB連載のために、と
いう自分への言い訳をしながら、1時間15分の長きにわたって見てしまった、
あ〜あ……。
 あのロングヘア、上半分をくるくると巻きあげてまげのように結いあげてさ
らっと垂らした漆黒の髪。どう見ても女性の髪形でしかないのに、メガネとダ
ークスーツとのバランスが絶妙なのは、ひとえにあのペ・ヨンジュンの顔つき
と話しぶりによるものだろう。横顔の鼻の線がいいなあ、笑顔になったとき鋭
角的になるあごの線もたまらんなあ。むむっ、なんだか、すでに消えてしまっ
たはずの熱病に再び火が点いたような気がする。多くのファンの女性たちが、
全国であの番組を私同様かぶりつきで見ていたに違いない。ビデオに録って、
たぶん、なんどもなんども見直すのだ。
 2004年の初来日から4年が過ぎたが、ペ・ヨンジュンの人気は衰えることを
知らない。「太王四神記」も好調な視聴率を上げ、ノーカットバージョン放映
も早々に決定されたという。本年6月の来日時には、関西空港をぎっしりと中
高年女性が埋め尽くす光景が再現された。今さら、それをヨン様ブームなどと
呼ばないほど定着した人気は、不動の地位を誇っている。

ひそかなタブー

 前回述べたように、彼が中高年女性の性的欲求の対象であるなどとは、誰も
表立っては認めないだろう。同世代の同性たちがどれほどそれを蔑視するかは
おわかりになったと思う。彼女たちの配偶者だってそんなこと歯牙にもかけな
いだろう。そして何より、一番否定するのが、たぶん当事者である彼女たちな
のだ。
 実は私もいっときネット上のファンサイトに加わっていたことがある。ここ
で初めてそれを告白するのだけど。書き込みをすると、1分間に多いときで
2000件のアクセスがある。どんなにつまらない内容だって、最低でも100件を
超えるアクセス数を誇るサイトなのだ。IDとパスワードがないと入れないあの
異世界は、乙女の世界そのものだった。彼を礼讃し、新しい情報をいち早く交
換し合う文章が刻々とつらなっていくのだ。女子高生が宝塚の男役トップスタ
ーに出すファンレターを想像していただくと一番わかりやすい。あこがれと聖
化、庇護とサポートを示すことばによって、ペ・ヨンジュンは彼女たちの純化
されたシンボルとなっている。そこでタブー視されているのは、彼への性的関
心なのだ。それはあのファン集団において、掟破りであるかのようだ。

それほど中高年女性はイノセントなのだろうか

 10月号(9月発売)で廃刊になってしまった総合誌「論座」(朝日新聞社)に、
ヨン様ブームについて書いたことがある。2005年4月号の「ヨン様は日本の家
族の救世主だ」という文章である。それを書かせた一番のモチベーションは、
どうにも彼女たち(もちろん私もその一員だったが)への視線の単純さがたま
らなくいやだったからだ。多くのマスコミの反応は、表向きはペ・ヨンジュン
の人気を讃えるかに見えて、明らかに空港に詰めかけた女性たちの熱狂を溜息
とともにひそかに軽蔑するものだった。
 いっぽうで、さすがに社会現象として無視できないと、それを前向きに研究
対象としてとらえる著書も出版された。「日式韓流―『冬のソナタ』と日韓大
衆文化の現在」(毛利嘉孝編、せりか書房、2004年)、「『冬ソナ』にハマった
私たち―純愛、涙、マスコミ……そして韓国」(林香里、文春新書、2005年)
などである。マスコミのように蔑視のまなざしを送るか、それとも彼女たちの
乙女心にも似た純粋さを讃えるか。いわば蔑視と聖化だが、そのいずれもが、
彼女たちをイノセントな存在として見過ぎてはいないだろうか、というのが私
の異議だった。その異議は今でも基本的には変わってはいない。

おばさんたちの一種の擬態

 専業主婦は世間知らずだとか、どうせおばさんたちには社会の込み入った仕
組みなんかわかってないだろう、などと彼女たちを「困ったひとたち」とする
延長線上にそのイノセンスの称揚はある。たとえ彼女たちが困ったひとたちだ
としても、所詮飼育場という囲いの中で騒いでいる豚くらいの位置づけに過ぎ
ないのだ。しかし、馬鹿にしてはいけない。彼女たちが、結婚生活や子育てを
通じて家庭や社会を生きるため、どれほどしたたかな戦略を身につけてきたか
をよく知らなければならない。
 彼女たちがペ・ヨンジュンに熱狂する姿勢は、一種の擬態である。ヨン様う
ちわをふりかざしてキャーッと叫びながら、そうやって周囲に目くらましをか
けているのだ。「私はおろかなことに熱中しているオバサンなのよ」「だって、
楽しいんだもん!」というメッセージを、肉づきのいいウェストや太い二の腕
で発すれば誰もが油断するに違いない。それで日本の政治が変わるわけでもな
いし、別に浮気をしてるわけでもないからだ。そう、無害なのだ。なにしろ彼
女たちのやっていることは「無意味」なのだから……少なくとも男性社会や夫
たちはそう思うだろう。

日韓関係と冬ソナ

 私はそこに狡猾な支配の行使を見る。冬ソナは、チュンサン=ミニョンが徹
底的に犠牲者になる残酷なドラマでもある。詳しいことはすでにご存じの方も
いるだろうから省略しよう。それを演じたのがペ・ヨンジュンであり、彼の魅
力は役柄のもつ犠牲者性と重なっている。ファンの女性たちは、悲劇的でなお
かつ美しいペ・ヨンジュンいう対象に向かい、ひざまずき身を投げ出すかに見
える。彼女たちの視線は彼の姿を仰ぎ見ているかのようだ。しかし、日本の男
(夫)では満たされなかった守られたいという庇護願望と愛玩する欲望を、彼
女たちは韓国人のペ・ヨンジュンに思う存分仮託しているのだ。
 彼が韓国人であること、いまだに日韓関係にひそむ政治問題がくすぶってい
ること(竹島問題のように)、在日韓国人への差別の実態が厳然として存在し
ていることは、すべてつながっている。それらを払拭して、あたかも過去が清
算できるものとして韓流ドラマブームが位置づけられることは、当の韓国にと
っても望まないことに違いないだろう。
 彼女たちがペ・ヨンジュンに安心して熱狂できるのは、日韓関係における自
らの圧倒的優位な立ち位置によってである。もちろん、そんなことを彼女たち
が口にしたわけではない。むしろ逆である。ペ・ヨンジュンを知ってから初め
てハングルを勉強しようと思いました、韓国の歴史にも興味が湧きました、と
いう優等生的回答が返ってくることは目に見えている。それも彼女たちの掛け
値なしの心情に違いないが、私はどうしても俯角のまなざしを感じ取ってしま
う。
 見下ろす対象である相手は、こちらの欲望を無抵抗に受け入れざるを得ない。
そんな安心感があって初めて可能になる支配をオバサンのヨン様ブームに見て
とる私は、かなり意地が悪いのだろうか。アキバ系と呼ばれる男性たちが、無
抵抗な女児のキャラを愛玩し、グッズ収集に励むロリコン的姿とそれはどこか
でつながっている。彼らは、対象の少女を聖化するかに見えて、愛玩すること
で蔑視している。彼らのエネルギーに支配的で性的な欲求がセットになってい
ることは、だれも疑わない。秋葉原のメイド喫茶などを見れば実にわかりやす
いだろう。

家族の誰もが困らない

 同様の構造をもちながら、しかしオバサンのそれは、巧妙な装置によって不
可視にされている。夫たちは、韓国人の男性に嫉妬などできない。それはあま
りにみっともないからだ。だから飼い犬を見るような目つきで「しょうがない
ね」と言いながら、いっしょに冬ソナツアーに出かけたりする。そのおまけと
して、物分かりのいい寛大な夫という評価までついてくる。娘たちは、自分に
対する過剰な関心が、いっときペ・ヨンジュンに向かうことで、心からの解放
感を味わうだろう。だからそれが「ずっと続きますように」と祈りながら、母
親たちにパソコン操作を教えてネットでのコミュニケーションのお手伝いをす
る。こうして家族の誰もが困らず、むしろ歓迎されながら彼女たちの欲望は満
たされることになる。
「更年期障害だからね」「どうしようもない」とするマスメディアの論調や世
間の目を逆手にとることで、おおっぴらに「無害」な欲望充足を図る。したた
かな、というにはあまりにささやかに思えるかもしれないが、それが彼女たち
の手なのだ。

擬態の底にひそむもの

 擬態の底にひそむものは、美しくて、圧倒的劣位にある対象を思う存分支配
したいという欲求である。ひざまずき傷ついた対象を救うかに見えて、対象に
とってなくてはならない存在に位置すること。迂遠とも思える対象支配だが、
これが性的でなくてなんだろう。男性たちのように暴力的でもなく、これみよ
がしに蹂躙するでもない。あくまでも脱性化されており、イノセントでピュア
なので、擬態はほぼ見破られることはないだろう。それに、彼女たちのあの外
見が、あのバカバカしさがそれを隠蔽する。
 しかし、社会現象にまでいたったヨン様ブームに象徴される彼女たちの欲望
の表出は、今後も衰えることはないだろう。いったん夢の男に向かったエネル
ギーはどのように展開していくのだろう。楽しみでもあるが、ご心配なく。ど
うせオバサンのやることなんか、無害に違いないのだから、と言っておこう。
                               (つづく)

┌───────────────────────────────────┐
│信田さよ子(のぶた・さよこ)
│1946年生まれ。臨床心理士。原宿カウンセリングセンター所長。お茶の
│水女子大学大学院修士課程修了。アルコール依存症、摂食障害、ドメスティ
│ック・バイオレンス、子どもの虐待に悩む本人やその家族へのカウンセリン
│グを行っている。
│著書に『アダルト・チルドレンという物語』(文春文庫)、『愛しすぎる家族
│が壊れるとき』(岩波書店)、『カウンセリングで何ができるか』(大月書店)、
│『加害者は変われるか?――DVと虐待をみつめながら』(筑摩書房)、『虐
│待という迷宮』『母が重くてたまらない――墓守娘の嘆き』(春秋社)などが
│ある。                           
└───────────────────────────────────┘ 

  ・───────────────────────・ 
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◆  《3》スペシャル対談   ◆
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    >>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>□
    ◇                              ◇
    ◇ 『オタク/ヤンキーのゆくえ』第3回(全3回)      ◇
    ◇                東 浩紀 × 速水健朗    ◇
    □<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<

団塊世代ジュニアの「痛い」問題

東 速水さんは『自分探しが止まらない』で雨宮処凛さんの名前を挙げていま
す。雨宮さんはまさに自分探し系の典型ですね。彼女に限らず、いま僕らの世
代、団塊ジュニアの世代で大文字の政治や文学を語る人には自分探し系の人が
多い。雨宮さんがそうだということではないのですが、正直、ぼくには彼らの
多くは「痛い」人に見える。痛いからこそ無防備に政治や文学を語れるように
見える。
 かくいう僕も、最初は大文字の「思想」に取り組んでいたわけです。しかし、
最初の本を出したところで、「あ、俺って痛くないか?」と思って距離を取っ
た。それから10年ですが、その間も状況は別に変わらなくて、あいかわらず
痛い人ばかりが社会の前面に出ているという感じがする。これでいいのかと思
いつつも、結構悩ましいところです。

速水 あの本のテーマは、ニューエイジや自己啓発書といった、既存のうさん
くさいビジネスが、巧妙に姿を変えて、現代の若者たちを取り込んでいるとい
うことを、たくさんの事例を挙げて取り上げるといったものだったんですけど、
図らずも団塊ジュニア世代の痛い人列伝のようになってますね。登場人物とし
て、中田ヒデ(英寿、1977〜)、須藤元気(1978〜)、高橋歩(1972〜)、雨
宮処凛(1975〜)などを取り上げてますけど、皆、社会に対して衒(てら)い
なく大文字で語る人たちですね。同じ世代にはそういう人間があまりいないか
ら、引き立ってカリスマ性を帯びてしまっている。

東 今回の『リアルのゆくえ』では、大塚英志さんから「もっと東も公共性を
自覚しろ」と言われて、僕が「えー」という会話を延々と続けています。しか
し、この反応って、公共性の定義云々以前に、僕たちの世代としては避けられ
ないという感じもするんです。速水さんや僕の世代は、NPO設立者や社会起
業家がいっぱい出た世代で、小林よしのりの読者も多い。「社会のために」と
か「世界のために」とか語る人は結構多いんです。そういう点では公徳心に溢
れている。しかし、そうした人を身近で見ていると、どうも「あいつ痛いよね」
という結論に至らざるをえない。そこらへんで自縄自縛が生じているんですよ
ね。
 だから大塚さんに「パブリックな知識人たれ」と言われても「いや、そんな
痛いことやらないっすよ」と答えてしまうわけですが、そういう状況について
どう思われますか? 

速水 大塚さんの言うパブリックというのはどういう意味なんでしょうか?

東 大塚さんは、言葉と言葉がぶつかって、意見が調整される場みたいな意味
で使っているみたいですね。けれども、単なる言葉と言葉のぶつかり合いだっ
たら、ネットの中でもいくらでも行われている。しかし、大塚さんはそこは評
価しないので、難しいところです。他方で彼は、ロスジェネの書き手に対して
も、「あんなの金よこせ運動だろ」ということで結構冷淡なんですよね。
 と考えると、実際には大塚さんは、パブリックであるとはつまり「憲法につ
いて語る」とか「国の形について語る」とか、そういうことだと考えているん
だと思います。

速水 憲法について考えている連中って、結構いますけどね。窪塚洋介君とか
のまわりのレゲエコミュニティとか、右翼的なヒップホップの連中、あとChar
の息子のJESSE(ジェシー)あたりが「忘れんな9条」みたいなことをライブ
で叫んだりしますね。パブリックについてどう考えているのかはよくわかりま
せんが、まあ痛い感じはします。まあ、皮肉っぽい例しか挙げてないですけど、
僕自身は憲法について語ったりすることって、正面切ってやりたいと思わない。
痛いですよね。

東 そうなんですよねえ。
 これはべつに僕個人の問題ではなくて、たとえば『思想地図』で一緒にやっ
ている北田暁大さんだと、今後は地道な統計とか重視していきたいと言ってい
る。大きい議論はあまりしたくないみたいなんです。それはそれで問題だと思
うけど、なかなか抜け出せないですね。
 
サブカルチャーのトライブから政治を見る

速水 データに論拠を求めないとものが言えない圧迫感は、ライターをやって
いる身でも感じますね。ゲーム脳や「自らの伝言」のような疑似科学だったり、
「最近若者の凶悪事件が増えている」みたいな勘違いをただすためのツールと
して、データは有効なんだと思いますけど、かつてのコラムニストたちだった
ら軽口として叩けたことでも、いまは根拠がないといわれてしまう傾向はある
気がします。なんで、知識人は正しいことだけを語る存在になってしまったん
でしょう?

東 おそらく、もともと知識人も特定のライフスタイルや階級と密接にかかわ
ることである種の共感の回路を作ってきたのだと思うんです。だから、その部
分がなくなっていきなり個として政治にかかわると、どうしても自分探しの痛
い人にしかならない。逆にそれを避けようとすると、データ至上主義に陥る。
中間領域がなくなっているんですよね。
 それにいま振り返れば、全共闘ですら、結局は自分探しだったように見えま
すしね。

速水 『いちご白書をもう一度』ですね(笑)。学生運動のころって、大学進
学率が約15パーセントという時代だから、大学生っていうだけでエリートです
よね。自分探し学生の多くは就職した。しなかった人たちの一部はいまでも出
版界の周辺にはいたりする。まだまだ血気盛んですね(笑)。というのはとも
かく、政治にコミットするというのは、憲法について興味を持つこととはあま
り関係ないように思います。
『見えないアメリカ』(講談社現代新書)という本に、アメリカでは、リベラ
ル層と保守層を指す「スターバックス・ピープル」と「クアーズビール・ピー
プル」という言葉があるということが書かれている。政治的立場や支持政党が、
好きな飲み物のブランドで示されているんです。もちろん、これはカリカチュ
アライズした図式ではあるんですけど、好みの飲み物のブランドに支持政党ま
でもが反映されてしまうというのは、一見不思議なことのように映りますが、
そのチョイスってライフスタイル、階層、育った環境など、さまざまな要件か
ら決まっているのであって、それだけが切り離されて単独で行われているわけ
ではない。その線を遡っていけば政治に結びついている。オタクとヤンキーっ
ていうものを、単にライフスタイルの問題や、消費する文化の違い、つまり趣
味レベルのものとして捉えるのではなく、政治的立場と結びついたものとして
捉えることができるんじゃないかと思います。

東 そう思います。
 とはいえ、実際にはそう主張している僕にも、そんなにクリアに見えている
わけではない。『ケータイ小説的。』を読んで、はじめてコギャルとケータイ
小説の読者(再ヤンキー化された少女)は違うんだ、宮台/大塚的な少女とい
まの少女は違うんだ、というのがわかったくらいです。これから、速水さんの
ような仕事が増えてくることで、徐々に全体像が見えてくるのだと思います。
 とにもかくにも、いまのマスメディアや上の世代からすると、オタクは非政
治的だしヤンキーも非政治的なわけです。逆に彼らに見える「政治的な若い世
代」というのは、同世代的な感覚からすると単純に痛かったりする。このねじ
れはなんとか解消したいところですね。
 都市型のオタクに支えられるリベラルオタク党とか、郊外のヤンキーに支え
られる保守ヤンキー党とかありえないのかな(笑)。

速水 ネット世論においては、ケータイ小説の支持層は「スイーツ(笑)」層
つまり、ファッション誌なんかを読んで、流行を追いかけることに余念のない
女性層だと想定されている節があるんです。おそらく、それは恋愛という基軸
に置ける強者弱者という視点から来ているんだと思います。「オタク」や「ス
イーツ」、「ヤンキー」というものを、恋愛における強弱の問題として捉えて
いる。これは本田透が『電波男』で流行らせたロジックですね。「非モテ」み
たいな言葉もそうした土壌から生まれたものです。
 でも、それは一面的なのであって、例えば僕はヤンキーやオタクの問題やケ
ータイ小説の問題を、地方と都会の問題として考えたかった。ちなみに、僕が
定義する「ヤンキー」とは、地元志向が強く東京に対する憧れを持たないとい
う生活意識を持った若者たちのことです。彼らは当然保守だけど、都会的な消
費社会に対しては冷ややかな視点も持っているので、同じ保守といってもオタ
ク党とは異なる政治的な志向を持っていると思います。

東 いまの日本では、階級を含め、以前は見えていた社会的敵対関係が見えに
くくなっている。でもやっぱり闘争はあって、それがじつは、左翼知識人が注
目していた場とはまったく別のところで、オタクとかヤンキーとかいう言葉で
名指されながら再浮上している。そういうのに目を向けていきたいですね。

公的と私的

東 そういう点では、赤木智弘さんの私小説的な政治は、あれはあれでいいの
かもしれないと思います。赤木さんは、とにかく彼のライフスタイルに則った
政治的主張をしている。それしかないんでしょう。

速水 ライフスタイルに沿った運動をやらざるを得なかったというところが、
昔の学生運動との違いですよね。かつては、エリート階層の学生が理論よりも
実践だっていって、家は金持ちなのにわざわざ工場労働に従事して運動に身を
投じたりして、しかも最終的には髪を切って就職してた。でも、今は本当に就
職氷河期に派遣社員とかになって組み立て工場を転々としてというように、最
初から実践しかなかったりする。というか、逆に実践はあっても理論はなくて、
高円寺の「素人の乱」の活動を見ていても、「経済という下部構造が問題だ」
っていうんじゃなくて、楽しいから集まって何かやろうぜってことで盛り上が
っている。ま、それはそれで救いがある感じがしていいと思うんですけど。

東 そうですね。最初はそのレベルでやるしかない。
 だから僕は大塚さんとの対談で、「私的(プライベート)ではいくらでも啓
蒙もする。けれども公的(パブリック)な啓蒙は無意味だ」と言っているんで
す。でもその逆説が大塚さんにはまったく通じなかった。ただ、いま振り返る
と、プライベートとパブリックという言い方が悪くて、もしかしたらローカル
とグローバルという言い方にすればよかったのかもしれないな、とも思うんで
す。
 たとえば目の前にコンビニのバイトがいたとして、その人が搾取されている。
僕もそりゃふざけんなと思ったとする。そうすると、そのうちに彼と連帯して、
店の前に座り込み、労働環境の改善の手助けをしようとぐらい思うかもしれな
い。でも、それをグローバルな視点で正当化することは難しいわけです。なぜ
なら、そもそもそんなことを言ったら、ニートの生活だって中国の労働者の搾
取のうえに存在しているとかなんとか、いろいろ言えるからです。だから、目
の前の小さな運動に参加することはできる。でも資本主義批判のような大きな
話は、実践的には自分で自分の首を絞めることになるからできない。そういう
状況があると思うんですね。『リアルのゆくえ』ではその話はしなかったのだ
けど。

ブログ論壇と「ゼロアカ道場」
 
速水 赤木さんのように、ワーキングプアの当事者だからその発言に説得力が
あるんだというような状況って、批評にも当てはまる部分が生まれているよう
に思います。たとえば東さんと講談社BOXが組んでやっている「ゼロアカ道
場」の途中経過を見ていて思ったんですけど、自分の大好きなジャンルや作品
について語るために、批評をやるんだっていう構図が見えてくる。僕は『ケー
タイ小説的。』を当事者の立場から書いたわけではないんですよね。趣味とは
関係なく、なんらかの問題意識として、その題材を選んでいる。東さんに訊き
たいのは、東さんにはたとえばライトノベルが正当に評価されていない、だか
ら俺が守るために批評しようみたいな動機はあったんですか? 

東 僕自身は違うつもりです。そもそも僕の場合、自分の趣味だけで考えたら、
美少女ゲームやSFはともかく、ライトノベル全般を推すことはありません。
むしろ問題意識のほうが先にあります。
 しかし、題材の選択には僕の趣味がどうしても入りこむし、まったく好きで
もないものに労力を投入するのはおかしいだろうという点では、東浩紀は好き
なものの擁護のために批評している、と言われてもしかたないのかもしれませ
ん。実際、宮台真司さんと宇野常寛さんの『一冊の本』での対談ではそう批判
されています。僕からすると、それなら宮台さんや宇野さんも同じだと思うん
です(笑)。
 僕自身は、批評は、取り上げた作品が社会や時代のなかでどのような意味を
もっているか、その位置づけをきちんとして、本来はその題材に出会わなかっ
たひとにも意義がわかってもらえるような文章にならなければ、自律した批評
にはならないと思っています。しかし、いまのブログ論壇では、批評はむしろ
コミュニケーション・ツールになっています。作品を作るのは難しいけれど、
作品について語ることなら簡単にできる。そうやってコミュニケーションをす
る。だから多くの若い世代にとって、批評とはもはや好きなものについて語る
ことになっている。

速水 なるほど、批評がコミュニケーション・ツールになっている状況はよく
わかります。しかも、ネット上のリアリティショーとして、その経過や採点を
すべて公開してイベントにするという「ゼロアカ道場」って、まさにそれを増
幅しようとしている試みということなんですかね。
 ケータイ小説も雑誌の投稿欄というコミュニケーション・ツールが携帯電話
に移行して生まれた小説なので、批評も小説もコミュニケーション・ツールに
なっている。ケータイ小説も、基本的には自分の体験がベースになっています
から、二冊目を書くことが難しいんです。一番好きなものを批評するという態
度も、二冊目が問題になりそうですね。

東 そうですね。そういう状況そのものには問題を感じますけど、まずはそん
な悲惨な現状を受け入れたうえでそこから始めよう、というのが「ゼロアカ道
場」の趣旨です。コミュニケーションのお祭りからも、いい才能が出てくるか
もしれないじゃないですか。
 そういえば、この7月に宇野さんの『ゼロ年代の想像力』が刊行されました。
ブログ論壇のスター的存在なので、他人事ながら売れてほしいです。しかし疑
問もある。たとえば、彼は僕の仕事をセカイ系やひきこもりを肯定する自慰的
な批評だと批判するけれど、僕からすれば、彼のほうが恋愛コミュニケーショ
ンの話ばかりで、それこそ自分探しに近い。
 速水さんはどう思われますか。

速水 さっきのネット世論が恋愛における強者弱者を軸にものを考えることが
大好きという話にもつながりますけど、恋愛やコミュニケーションの問題が、
興味を集めやすい話題になっている。ケータイ小説ブームも基本的にはそこに
立っているわけですし。一方で、萌えと現代思想を同時に語るようなネットの
オタク論壇は、東さんが用意したところもある。そこには、東さんが思想の言
葉を使ってエロゲーを語ることで、自分の好きな世界を肯定してくれたんだと
感じている層もいる。宇野さんが「東浩紀劣化コピー」と呼んだ層はネット上
には存在していると思います。

東 そんな層はあまりいないと思いますが(笑)。
 僕の宇野さんへの疑問はこのようにも言いかえられます。宇野さんはぜんぶ
人生哲学の話にしてしまうんです。たとえば宮台さんと僕の比較にしても、た
しかに二人の対立点は厳然としてある。宮台さんは「ウソでもいいから社会に
参加しよう」と言い、僕は「ウソだったらやめよう」と言う。それはそうです
が、その対立が宇野さんにかかると、すべてコミュニケーションの問題に落と
し込まれる。宮台は「コミュニケーションは大事」だと言っている、東は「コ
ミュニケーションはいらない」と言っている、という話になる。
 しかしこれは問題の矮小化です。そもそも宮台さん自身、宇野さん的なコミ
ュニケーションにそれほど関心があるとは思えない。あの人はいわゆる修行系
の人で、ナンパはしょせんは「ナンパすらできる自分」を鍛えるための行為に
すぎず、ではそんなに鍛えるのはなぜかというと世界の謎や超越の感覚に触れ
るためだ、とかいうたいへんロマン主義的な人でしょう。だから一時期「サイ
ファ」とか言っていたし、そのあとは天皇や亜細亜主義に惹かれたわけです。
したがって、宮台さんが「友だちから始めよう」なんて言うわけがない。
 とはいえ、宇野さんが新世代の批評家のロールモデルを提供していることは
事実です。

速水 僕自身、この業界の世代の壁を感じながら生きてきた立場なので、上の
世代に噛みつくとかしないと、なかなか世に出ることは難しいというところは
よく理解できるんです。そういう意味では、「ゼロアカ道場」の存在はうらや
ましいですね。今は盛り上がってるし、あまりにおもしろいから僕なんかも全
員の顔と名前が一致しているくらいに見てますけど、こんなふうに最初からう
まくいくと思ってました? ああいう企画を仕込むに当たって、うまくいかな
いケースなんかも想定していたんですか?

東 むしろ、盛り上がってびっくりです(笑)。いまだから言いますが、最初
はあまりうまくいかないと思っていました。というより、どうしたらうまくい
くのか、よくわかってませんでした。けっこう、いきあたりばったりですよ。

速水 東さんと『ファウスト』の太田克史さんが仕掛けるんだから、当然参加
者もみなライトノベルや美少女ゲームが好きな若い人たちばかりが集まるんだ
ろうと想像していたんですけど、意外にその層以外の人も多いですよね。井上
ざもすきさんという方は、観光論について話していて、東さんが昨年の『週刊
アスキー』の連載(「ギートステイト番外編」)で観光の未来について話して
いたこととつながっていておもしろいなあ、と思って読んでました。

東 そうなんです。
 ゼロアカはじつは、東浩紀を知らないで応募したひとが半分以上だったんで
す。いまでも、残っているメンバーの半分は、ぼくにあまり興味をもっていな
いと思う。これはむしろ嬉しいです。講談社と組んで始めた意味がある。そう
じゃないと、僕がブログで飲み会参加者を募集しても同じになってしまうから。
 実際、最初の応募では、東浩紀どころか、「批評とは何か」も知らない人が
けっこういたんです。「何かわからないけど文章を書きたくて応募してみまし
た」とか「道場って書いてあるから来てみました」とか。小説家志望もけっこ
う多かった。批評家育成と謳っているのになにごとかとは思ったけれども、他
方で僕はそれでいいとも思っていて、というのも、たとえば僕がかりに群像新
人文学賞の選考委員をやっていたとしても絶対に会えないような、そういうひ
とと触れ合えたからです。これは素直にいい経験でした。
「ゼロアカ道場」が、ブログ論壇というどちらかというと閉鎖的な世界を、多
少でも外部に開くための回路になればいいなと思っています。
 
大衆知識人とはどうあるべきか

速水 僕が『ケータイ小説的。』を書いた動機には、ケータイ小説やヤンキー
文化というジャンルは、まだまだ語られていないという思いがありました。東
さんが10数年前に批評家として活動を始めた当時、オタク系コンテンツの批評
の世界がつまらない、まだまだ語られてない部分がある、と感じていたと思う
んです。だけど、今はオタク系というのは批評の多いジャンルになっている。
ネットでも多く語られている。そうなった今、批評の状況をどう感じてます?

東 いまでは、オタク系に限らず、サブカルチャーと批評の時差がかなり縮ま
ったと感じています。たとえば、ライトノベルでは、ジャンルとして確立して
から批評が出てくるまで15年から20年くらいかかっている。それがケータイ小
説だと5年くらいでしょうか。いま新しいジャンルが出てきたとしたら、来年
のいまごろは、もうブログでそのジャンルについての批評言語ができている。
それはいいことだと思います。
 ただし、そのうえでいま考えるべきは、批評行為が小さな趣味の共同体のな
かの単なるコミュニケーション・ツールに堕しつつある、それをどうするかと
いう問題です。むろん、そこで急に大文字の政治や文学について語るという選
択肢はありえない。それはただの痛いやつです。そこをどう突破するかが課題
ですね。
 正直言うと、ぼくは、年長世代がいまのブログ論壇を見てこんなの批評じゃ
ないと思う気持ちはとてもよくわかります。けれども、いまや批評の読者なん
てそこにしかいないんだから、とりあえずそこから始めるしかない。そのうえ
でどうするという話です。たとえば宮台さんが一時期、サブカルモードと政治
モードと言って「モードの切り替え」みたいなことをおっしゃっていましたが、
ぼくはきっとそれとは違う戦略を採る。むしろ、『ザ☆ネットスター!』なん
かに能天気に登場しつつ、徐々に硬いことを忍び込ませていって、オタクバラ
エティのつもりで観ていた視聴者が気がつくと変な場所に導かれてしまったと
かいうことを一方でやりながら、他方ではその逆もやる、みたいなかたちなの
かなと。

速水 宮台さんの場合、一時期テレビに出て発言を繰り返していましたが、あ
る時期からは政策や立法にコミットできないのであれば無意味だと言い始めま
した。おそらく、マスメディア上で発言を繰り返しても、それがまったく届い
ていないという焦燥感から、そういう意見に転向したんだと思います。

東 そうですね。僕はその点では宮台さんと資質も性格も違うので、そうはな
らないと思います。
 むしろ、僕の悩みは、言論が政治を変えるべきかという話ではなく、いま大
衆知識人はどうあるべきかという話です。大学人というだけではその役割は果
たせないんだけど、僕と同世代はみなアカデミズムのなかに撤退しつつある。
上の世代もあまりロールモデルを提供してくれません。その点では宮台さんは
とてもがんばっているので、尊敬しています。むしろ、ぼくに態度表明を迫っ
ていた大塚さんのほうが、自分の世界に閉じ籠もっている気がする。
  だから僕は、むしろ速水さんのようなかたに期待しているんです。宇野さん
も似たような出自ですよね。ライターだとアカデミシャンと違って、啓蒙の場
から撤退できないじゃないですか。

速水 いやー、撤退できないですね。書くことだけで飯を食っているわけです
から。ライターって、今一番期待されていない職業のひとつですよ。雑誌メデ
ィアがどんどん休刊しているのは、誰もそこに期待していないからです。書く
媒体が減れば、書き手も減らざるを得ない。本を出すというのは、学者や企業
家などが副業としてやる分にはメリットがありますが、お金を稼ぐビジネスと
しては効率が悪いですね。フリーの雑誌ライターなんて、おそらくあと数年で
消える職業です。少なくとも、それで食っていける人たちは、ごく少数になる
でしょう。そもそも、この職業自体が、たかだか戦後に確立した職業なので、
いつ消えても不思議じゃないんですけど。

東 食う食えない問題というのは確かにあるんですけど。
 ライターという表現だとニュアンスが伝わらないのかもしれない。むしろジ
ャーナリストという表現のほうがいいのかもしれない。立花隆にしろ猪瀬直樹
にしても、ジャーナリストが大衆的な知を担ってきた歴史がある。ぼくはああ
いうありかたはいいと思うんです。ところがある時期以降、ジャーナリストが
目立たなくなって、アカデミシャンばかりが社会について語るようになった。
そして、いまはその図式が限界に来つつあるような気がしています。いま「ブ
ロガー」とか「ライター」と呼ばれているのは、昔だったらジャーナリストと
呼ばれていた人たちを含んでいるはずです。
 だからこそ、繰り返しますが、今後の速水さんに期待しています。といった
ところで締めましょうか(笑)。
                                              (了)

┌────────────────────────────────┐
│東 浩紀(あずま ひろき):
│1971年生まれ。東京大学大学院総合文化研究科博士課程修了。哲学者・
│批評家。専門は現代思想、表象文化論、情報社会論。著書に『存在論
│的、郵便的』(新潮社)、『郵便的不安たち#』(朝日文庫)、
│『動物化するポストモダン〜オタクから見た日本社会』
│ http://shop.kodansha.jp/bc2_bc/search_view.jsp?b=1495755
│『ゲーム的リアリズムの誕生〜動物化するポストモダン2』
│ http://shop.kodansha.jp/bc2_bc/search_view.jsp?b=1498835
│『文学環境論集 東浩紀コレクションL』
│ http://shop.kodansha.jp/bc2_bc/search_view.jsp?b=2836211 
│最新作に大塚英志との対談集
│『リアルのゆくえ〜おたく/オタクはどう生きるか』
│  http://shop.kodansha.jp/bc2_bc/search_view.jsp?b=287957
│渦状言論 http://www.hirokiazuma.com/blog/
└────────────────────────────────┘

┌────────────────────────────────┐
│速水 健朗(はやみず けんろう):
│1973年生まれ。フリーランスライター・編集者。
│コンピュータ雑誌の編集を経てフリーに。音楽、芸能、コンピュータ
│など幅広い分野で執筆活動を行っている。
│著書に『自分探しが止まらない』(ソフトバンク新書)、『タイアッ
│プの歌謡史』(洋泉社新書y)、最新作に『ケータイ小説的。〜“再
│ヤンキー化”時代の少女たち』(原書房)。
│【A面】犬にかぶらせろ! http://www.hayamiz.jp/
└────────────────────────────────┘
  
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次回は10月20日、配信予定です。
ご意見、ご感想などはingen@kodansha.co.jpまでお願いいたします。

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