2008年10月 7日 (火曜日)

ピント

「自分」とはなにか?
どこまでが「親のコピー」か?オリジナルがあるとすればそれは何か?「虚像」を演じてるというならば「実像」はどんなだ?それが分からないと前に進めない!
……そんなテーマに取りつかれ海外に旅に出た人がいる。
その後、
その人がやたら
「日本人っていうのはさ…」
を連発している。
色んな世界の国を見て
アナタの視野は「広く」なり、自分の「実像」が分かったのでしょうか?

この北海道の田舎町で
僕は目の前の日常に必死です。旅にも出れません。
あなたから見れば、さぞ滑稽でしょう?セマイ人間でしょう?

実像?虚像?親のコピー?オリジナルな自分?
そんなの分からん。

っていうか、
色んな場面に
自分を当てはめたり
そして
当てはめられたり。

時に
息子になり
弟になり
孫になり
親戚になり
友達になり
先輩になり
後輩になり
生徒になり
同級生になり
クラスメートになり
ドライバーになり
客になり
通行人になり
ご近所さんになり
お坊さんになり
同業者になり
ミュージシャンになり
ブロガーになり
メル友になり
善人になり
いや
善人になろうとし
傍観者になり
当事者になり
冷たい人と言われ
優しい人と誉められ
悩み多きネクラ人間で
悩み少ない楽天家で
涙もろくて
でも
ドライで
ケチで
太っ腹で
神経質で
おおらかな時もあり
アイツを誰よりも大切に想う………。

実像?虚像?親のコピー?オリジナルな自分?
そんなの分からん。
どれもが「私」であり、
どれもが「私」と固定的に括れるものではない。

それよりも
実像であろうが虚像であろうが
誰とも代われない自分という「人間」を受け取ることができるかどうか。

ピントは、そこなんだ。僕の場合。

 

  

ゴチャゴチャ言ったって
また「今日」が始まるよ。

  

おはよう。

 

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2008年10月 4日 (土曜日)

習慣として

「戒律」というと、
「絶対ダメ!やっちゃダメ!禁止よ!守らなきゃダメ!」
という厳しいイメージがある。

その『戒律』の語源を調べてみたら、“シーラ”というインドのサンスクリット語で、意味は《習慣》という。

つまり、
戒律とは頭ごなしに
「ダメよ!禁止よ!」
じゃなく、
それが「習慣化」されて身に付く事を目指しているのだ。

変な例だが、
歯みがきを習慣化していると、歯みがきをサボるとどうも気持ち悪いっていう感覚。

だから、
殺生を禁じる戒があったり、盗みを禁じる戒律があったり、ウソをつくなという戒があったり、不倫を禁じるがあったり、酒を飲むなという戒があったりするのは、それを厳しく戒め、「習慣化」されるまで繰り返しながら、仏道修行の完成を目指す。

  

でも、実は我々の浄土真宗には「戒律」がない。

けれど、
お念仏の教えを聞きながら、教えに照らされた我が身を見つめていく、という道をいただく。

食べ物として命を奪わなきゃ生きられない痛み、ウソをついてしまう痛み、酒を飲んで失敗した苦々しさ、他の異性に興味を惹かれるてしまう弱さ・・・・など、日常化された日々の営みの中で、どれだけ自分自身の自己中心的な立ち振舞い、行為が根底となっているのか?その自分自身の姿にハッ!と気づく視点を習慣としていただいているか?

いくら戒律がない浄土真宗でも、
教えに我が身を照らされる「習慣」としての「シーラ」はあるのだなぁ。

南無阿弥陀仏。

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2008年10月 2日 (木曜日)

ケイタイ動画に写る自分の姿をブログで紹介するってどうよ!?

ケイタイ電話の中に、書斎スタジオでの「独りリハーサル」の動画を発見!!

誰もいない部屋で、独りマジ歌いをする・・・・それをビデオで撮り、自分がどう見えているかチェックする・・・う~~ん、、、そして、それを、自ブログでも紹介する・・・う~~ん、、

この歌は、京都の友人の披露宴で披露したオリジナルの「今日からは」という歌でありんす。臭すぎて、かゆすぎて・・・でも、ウラヤマシクテ・・・・今の自分の妄想を歌にしてみたら、「晩婚」の友人の歌になりました・・・(苦笑)。

ついでにもういっちょ!!

 

昨年、長崎市長が選挙運動中に選挙事務所の前で銃で打たれて亡くなりました。テレビのニュースでは、その日も元気に「選挙に当選したら長崎のために・・・」と走り回る姿が映っていました。その「当選したら」という「つもり」が、一瞬にして奪われました。 僕たちにも色んな「つもり」があります。幸せになるつもり、一緒にいるつもり、頑張るつもり・・・・そんな大切な「つもり」が叶わなくなる哀しみを思うと、切なくなりました。その夜、この歌「哀しい夢」が浮かびました。

※そう言えば、昨年のブログで、この歌のできる経緯を書いてました。

2007年4月18日投稿分「つもり」 (http://minoyamakono.way-nifty.com/tomo/2007/04/post_7b5b.html

同日投稿分「さっき完成の曲」(http://minoyamakono.way-nifty.com/tomo/2007/04/post_4c52.html

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2008年10月 1日 (水曜日)

拝哲?

拝哲?

いやぁ、
久しぶりに先生にお手紙を書こうとして………

しょっぱなからミスった。
いきなり「拝哲」って…(苦笑) 

集中したのに、腰砕けだわ、まったくwobbly

文字が書けない…。
書いても、「蜘蛛の巣」のような幾何学模様に見えて、合っているか不安。

ホントに最近は、パソコンと携帯のメールばかり。(あと実際に書くのは毛筆で位牌に法名くらい?) 実際に文字を書かないなぁ。。。

いやぁ、文字って書かないと忘れるよ。

それに
昔よりキレイな文字も書けなくなってるよ。

さて、気を取り直して手紙書き直すか(汗)

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2008年9月28日 (日曜日)

みのや雅彦 ライブツアー2008

happy02師匠のコンサートツアーのチケットが昨日、発売になった。

今回のツアーは4箇所。

■みのや雅彦 ライブツアー2008 「がんばってね」
Shisyou_2_2 ・11/ 8 (土)帯広メガストーン
・11/15(土)函館金森ホール
・11/29(土)旭川アピスホール
開場17:30/ 開演18:00 自由席\3.500(当日 ¥4,000)  

・12/6 (土) 札幌・Zepp Sapporo 
開場17:15/開演18:00 指定席\4,500 (ワンドリンク付)(当日¥5,000)

オープニングアクト:SACON (全会場)

■発売日:2008年9月27(土)
ローソンチケット(Lコード 15837)
チケットぴあ(Pコード 305-546)

お問い合わせ ウエス(011-614-9999)

http://www.wess.jp/pc/artist/html/minoya.html

  

師匠のブログ(9月19日更新分)によると、

もっと回りたいんだけどな、なんせ土日限定だからスケジュールと会場の空き具合の折り合いがな、なかなか難しかったりしてね、ごめんな。

とのこと。

 

去年は、ウチの近所の「苫小牧」や「室蘭」もツアーに入っていたんだよな・・・・。(ま、お寺の法要期間とバッチリ重なって、札幌会場にしか行けなかったけど。)

実は、今年の1月以来、師匠とはお会いしていないし、単独での「ライブ」は1回も見ていない・・・。こんなに師匠に会っていないのも珍しい年だなぁ。

それにしても、

北海道内ではどんどん有名になっていく師匠。

  

というか、

こんなに長い間応援しているのに、

ワタシの住んでいる北海道の胆振地方エリアを、「みのやライブ」常連の地として盛り上げる事に協力できていない自分を申し訳なく思います・・。

  

  

今年のツアー、12月6日札幌に行くぞ~~~~♪

その日は、坊さん関連の予定とか会合が入っても、パスしますcoldsweats01

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問い

ばあちゃん、
カンタンに言うとさ、

仏教とは、
例えば、
いま握りしめているコブシをパッと開くこと、だと思うんだ。
こだわり、しがみつき、思い込みなどの固定化をパッと離れる道。

いや、コブシを握りしめている自分の姿、有り様に気づかせてもらう、
そんな自分自身を点検する道・・・。

それなのに、
こうしなきゃならないノダ!
迷っているノダ!
浮かばれないノダ!
可哀想ナノダ!…
などの
こだわり、しがみつき、思い込みなどの固定化をそのままにして、
そんな自分自身の「枠組み」を点検するどころか、
強固にし、さらに増長させていく…………

握りコブシをギュッと固くしたのでは、反対だよ、ばあちゃん。
ばあちゃん、何が気になるの?
それをしないとどうなるの?
苦になるってばあちゃんがどうなることなの?
じゃ、ばあちゃんにとって楽になるってどうなることなの?
お骨の前でお経をあげたらどうなるの?逆に、お経をあげなかったらどうなるの?
お経って何だと思う?
お釈迦様って何を説いたと思う?

 

………今朝の「月参り」の場面で、あるお宅のばあちゃんに語りかけながら、
実は、どんどん僕自身が問われていたのだった。

枠組みの中で固まってしまった“コリ”をどう解きほぐしていくのか?
どうやら
お坊さんの向き合わなきゃならない場面はその辺りにあるみたいだ。

  

「自分は何を気にしているのか?」

「自分はどうして苦しいのか?」 

「この自分がどうなっていくのか?」

その「自分」という1点を抜きにして、「自分不在」の法要や墓参りをしても、飽きればやめる。続かない。「仏教ごっこ」である。

  

亡き人がどうなっているの?

という問いは、

この私がどうなっていくの?

という問いと重なる。

  

亡き人を 案ずる私が 亡き人から 案じられている(伝道掲示板より)

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