善意ほどやっかいなものはない、熱意ほど扱いづらいものはない

僕たちは善意や熱意にどう対応していけばいいのか。
これまでの経験でいうと、ニセ科学問題で一番やっかいなのがこれです。答はないです。
 
少なくとも「善意だからいい」とか「熱意があるんだからいい」ではないことは明らかなんですけれどね。

大槻先生のように「科学的に間違っている」のひと言で斬って捨てられればいいのですが、それはたぶんほとんど何の役にも立たない。
「科学的に間違っているかどうか」はニセ科学問題ではもっとも簡単な部分でしょう。

[追記:]
タイトルはレトリックが過ぎるというご指摘をいただきました。
僕の中では軽いレトリックのつもりなのですが、たしかにこの文章の背景がわからないと、「何言ってんだ」
かもしれません。誤解を与えるのも損なので、注釈。

もちろん、「善意」や「熱意」はだいじです。一般的に「善意なんていらない」とか「熱意なんて持つな」などという話をしたいわけではありません。
問題設定としては、当人の動機は善意で、そして熱意をもって行なったり言ったりしたことが、実は「ニセ科学」だったり「トンデモ」だったりした場合にどうするか、です。
端的には「授業で水伝を使っちゃった先生」「川にEM団子を投げ込む運動をしちゃった人」「911はアメリカの自作自演だから糾弾しなくてはならないと純粋な正義感から活動を展開しちゃった人」などなど、ほかにもいろいろ思いつきます。
程度の問題はあり、ケースバイケースなのですが、とにかく問題にしたいのはそういうことです。
もちろん、「それはダメである」と言うわけですけど、「ダメ」のひと言ではうまくいかない場合がいくらでもあります。
まあ、そういう話

― posted by きくち at 09:08 am commentComment [39] pingTrackBack [3]

この記事に対するコメント[39件]

1. 内海 — October 3, 2008 @09:42:13

うーん・・・確かに難しい問題ですねf^_^;

たぶん、善意や熱意を「押し潰す」方法はあると思うんです。

ニセ科学を蔓延させる人間やニセ科学への賛同者、またはニセ科学を擁護する人間に「負のインセンティブ」が与えられるようにすれば良いんです。

極端な話(これはきくちさんなんかは一番嫌がるだろうなとは思いますが)彼らに「ニセ科学を命を賭けて信じられるんだろうな?水が言葉を理解する、マイナスイオンが体の健康に良い、血液型で個人の性格が類別出来る、これらの話を信じる事で命を落としたとしても後悔は無いんだな?」と言えば、ほとんどの人間は二の足を踏むのは予測出来ます。

結局彼等のほとんどは「自分や家族、友人や恋人の生活を今より良くしたい」事と金銭的なインセンティブの為にニセ科学を信じる人々がほとんどなので、生命を賭けてニセ科学を信じる事はコスト面から見ても文字通り死んでも出来ないでしょうから。

ただ、この手段はやはり最後の切り札にしとかないとダメでしょうね。
きくちさんも「個人の思想信条を恐怖を使って抑えこむのはファシズムの発想だ」とか考えるでしょうし。
私は、手段としては「アリだな」と考えますが。

2. ちがやまる — October 3, 2008 @10:19:48

問題を分けよ、ということではないでしょうか。

医療事故の方では(専門家でもなく単なる聞きかじりです)問題が生じた場合には、犯人捜しをするな、処罰するな、というらしいと聞いたことがあります。再発やより重大な事故を防ぐためには、軽いきっかけを見逃さないで、なぜどのようにして事故が生じたかを知り、対策につなげ、危険に対する知識を共有する方がいいというのです。

善意だよね、熱意だよね、で終わらせたいのは、当事者やそれを管理する立場を守りたいからでしょう。そうであるなら、その立場は保護しておいて、しかし問題の本質は善意とは関係ないのですからそこで話を打ち切りにしないで、なぜそのような認識・行動につながるのか、これからの対策としてどうしたらいいのか、まで、当事者を含めて考えていただきたいです。
うやむやでは当事者にも不満感不快感が残るばかりでしょうし、誰の経験値にも寄与しません。校長会の話をオープンにはできないというなら、私なんかは結果を知らされなくてもいいです。全国の校長会レベルでは、それぞれの方が、自分ならどうしたか、取り上げる必要のある問題と考えるか、対策はどうしたらいいか、について考えることができるような、経験を共有できるようなところまで持っていってほしいと思います。

Owner Comment きくち  October 3, 2008 @13:24:39

必ずしも校長会の話じゃないんですけどね。
校長会という組織の話についていうと、やはりちゃんと取材なり質問なりに答えるべきだと思います。組織なのでしょうから。それについては、個人の考えはさておいて、組織としての見解は欲しい。
 
それはそれとして、「善意だろうが熱意だろうが、だめなものはだめなのである」ということを個人にきちんと納得してもらうにはどうするか、ということなんです。問題は「納得」の部分で、もちろん「納得はできないが、やめろと言われたのでやめます」でもいいのだけど、それではたぶんすぐに別の何かが出てくるのだろうと思うわけです。

4. 技術開発者 — October 3, 2008 @10:33:35

こんにちは、皆さん。役に立つかどうか分からない話だけどね。

悪徳商法とかみていて、「善意故に人を不幸にする」に沢山出会うんですね。モニター商法とかね。5年ローンを組んで絵画を買って、その絵画を別な会社に預けると月々ローン支払いより少し多いお金が振り込まれるなんてね。でもって、初期の参加者は最初の1年くらいは振り込まれるんですよ。でもって、「お友達にも教えてあげてくださいね」なんて言われて、ホイホイと人に「大丈夫。私はその儲けでこれを買った」なんてね。悪意も何にもありゃしない。でもね、1年くらいで会社はトンズラで、お金は振り込まれずにローンは引き落とされる様になるのね。被害者同士の喧嘩も始まる訳です。だってね、勧めた人は既に1年くらい振り込まれていて、残りのローンも1年短いけど、最近に勧められてローンを組んだ人は振り込まれるという美味しい目に1月くにいしかあっていない訳でしょ、でもってローンはしっかり5年分あるわけです。そりゃあ、勧められた方が面白くない。でもって勧めた方も「悪い」とは思うけど、騙そうとした訳でもないし自分も騙されてローンは背負って居るんだから「そんなに私を責めなくても良いじゃないか」なんてね。これは絵画版権商法という悪徳商法の事例だけどね。私はこの被害者の相談に乗っていたこともあるんですよ。

まあ、きちんとした被害者の会で有名なのはダンシング事件被害者の会ね。高級布団を買うと月々のローンより少し多いモニター料が入るなんてね。この場合は、紹介者に紹介料まで払っていたから被害者が1万2千人くらいだったかな。といっても目の色変えて人を誘う程度の紹介料じゃないです。やっぱり多くの人は「いい話だから教えてあげよう」の善意です。姫路の被害者の会が声明を発表したとき「我々は互いの軋轢を乗り越え」なんて言葉が入っていたんだけど、ローン会社相手に債務不存在確認の訴えを起こす前に、まず被害者の会の中の軋轢を乗り越えなきゃならなかったのね。

なんていうかな、日頃、善意でやったことでその後互いに憎しみを抱くほど喧嘩になることなんて少ないですよね。だから、「そんなことは想定出来ない」のかも知れないけど、こうやって現実にあるんですよね。そういうことがあると分かっていれば、善意の発露にも、もう少し慎重に成って貰えるかも知れないと思ったりします。

Up5. としぞう — October 3, 2008 @13:58:21

http://www.news.janjan.jp/area/0810/0810018532/1.phpLink
昨夜、このコメント欄のやり取りを見たので今日のきくちさんのエントリーが余計に切実感を持って感じられました。

「平泉を世界遺産にする会」と称して景観保護に取り組んでおられる方々がおられるようなのですが、そのサイトhttp://www.geocities.jp/hiraizumi_keikan2000/Link  
に行ってみると、確かに書かれているのはEM散布だったり祈祷だったりというもの以外には見当たりません。しかし、そのことを指摘されると「平泉を世界遺産にする会」代表者の方らしい、記事の筆者は怒ってるようです。

こんなところにEMが出てくることにも驚きますが、それにしても「平泉を世界遺産にする会」の方々にはなんと言ってさし上げるのがよいのでしょうかね。

Owner Comment きくち  October 3, 2008 @14:55:44

コメント欄読みました。
そうですね、たとえばこういう話です。
 
山田さんがコメント欄で書かれているとおりで、「動機はわかるが、手段に意味がない」としか言えません。
しかし、それを指摘された側は「手弁当で真剣にやっているのに、文句を言うとはなにごとか」と怒っています。この時点で、目的は見失われているわけです。大事なことは「手弁当」でも「ボランティア」でも「真剣味」でもなく、本当に効果のある対策をとるためにどこまできちんと考えたのか、です。
その意味では、EMを使うこと自体が問題ですし、まして「祈祷」なんてことをしたってなんの役にも立たないことは自明ですから、山田さんが書かれているように、「真剣さが問われて」います。
 
問題は「本人は真剣なつもりである」が、しかし客観的に見て「真剣にやっているとは思えない」というその部分のずれでしょう。
たぶん、やっているみなさんは「EMはニセ科学だ」という言葉には金輪際耳を貸さないのではないかと思います。
 
EMの効果については保留という態度のようですが、そうだとすれば、なおのこと、「効果の有無がわからないことをやっている」わけですから、真剣にやっているとは言えないでしょう。

7. 多分役立たず(HNです) — October 3, 2008 @14:15:19

>http://www.news.janjan.jp/area/0810/0810018532/1.phpLink

コメント欄の「ご意見板利用規定3に基づき削除しました(編集部)」というのが気になります。

ご意見板  (利用規定 他)
http://www.janjan.jp/bbs_readme.htmlLink

逆切れでもしたのでしょうか?


AA問題でも、善意ゆえに問題となっているようです。
http://junk.a902.net/index.htm?brd=9Link


マルチ商法などでも、本人はよいことをしているつもりのことが多いですね。

臓器移植に伴う募金詐欺騒動のときにも、臓器移植の募金に関する問題点を指摘する声に対して、感情的な反発がかなりあったようですし。
#「死ぬ死ぬ詐欺」という表現はさすがに感情的な反発を
#招くでしょう。

良いことをしていると考えた時点で思考停止に陥る人が多いのでしょうかね?

Owner Comment きくち  October 3, 2008 @16:26:13

僕もその「削除」は気になりました。
やはり、罵詈雑言を書いたのでしょうかね。
 
「善意だからいいんだ」みたいな風潮をマスコミもあおってると思うんですよ。「ちょっといい話」的な記事で。

9. 技術開発者 — October 3, 2008 @16:08:40

こんにちは、皆さん。相変わらず役にたちそうもないけど

>良いことをしていると考えた時点で思考停止に陥る人が多いのでしょうかね?

昔、悪徳商法批判というか、被害者へのアドバイスみたいなことを掲示板でやっていて、だんだんと一緒にやってくれる人が増えてきたときに、突然、掲示板で「義務無き事務管理の注意義務」なんて事を書いたことがあります。これは民法第697条なんですけどね。たとえ話としては、迷子を見つけてお巡りさんの所へ連れて行こうとしている時に不注意で子供に怪我をさせたら、賠償義務を負うかどうかなんてします。不注意の程度にもよるのですが普通に払われる注意を欠いて居る場合は、不注意の責任が問われる事を示している規定です。

なんていうか、義務無き事務管理、つまり「善意で行う行為」をするときには、つい人間が傲慢になり、本来払うべき「その人に悪いことが起こらないようにしないと」という注意が欠けて仕舞いやすいのです。仲間たちが増えて、被害者のためにアドバイスを始めたときに私が心配したのはまさにそのことでした。

悪徳商法の被害者の取るべき行動というのは結構、ナイーブな面がありましてね。うちひしがれると動けないし、かといって、イケイケドンドンが必ずしも良いとは限らない。冷静に粛々と交渉するのが一番良いんだけど、それが一番難しい。仲間たちは、どうしてもうちひしがれた被害者を励まして励まして、どっちかと言うとイケイケドンドンにしたがるので、「少し冷まそう」と私がそんな法律説明をしたりしたんです。掲示板で悪徳商法の被害対応のアドバイスをしたって、この民法第697条にひかかるような事はまず無いんだけど、でもね、「法律は善意の場合でも注意をすることをもとめているんだよ」は言っておくべきだと思ったんですね。

UpOwner Comment きくち  October 3, 2008 @16:29:11

ああそうか。善意は傲慢に繋がるのですね。傲慢という言葉には思い至りませんでした。

11. pira — October 3, 2008 @17:30:27

削除されたコメントについて、正確に覚えているわけではありませんが、

言い訳はやめろ
あなたとこれ以上議論する気はない

といったことが書かれていたと記憶しています。

12. としぞう — October 3, 2008 @18:06:50

善意がやっかい、ということの1例であって、別にこの平泉の話にこだわるわけではないのですが、この方々のWebsiteをみると、どうにも「ユネスコ世界遺産の精神」とか「平泉をどうするかのコンセプト」とか、観念論・イデオロギーのようなものが先行していることを強く感じます。
結局、この「自然保護」「開発反対」という精神論に「天然物由来」のEM使用という行為は合致するので、EMに関するエビデンスははっきりしないけど悪いわけはないと思われるのだろうし、有効性が証明されている化学薬品なんか(そんなものがあるのか知りませんが)を使ったりするよりはずっといい、と思うんだろうなあ。

何が大事か、何が正しくて何が正しくないか、という判断の根拠が、事実ではなくて彼らの観念論・イデオロギーになってしまっているんだろうと思うのです。それは結局、陰謀論もそうだし、他のニセ科学も同じですね。

ビリーバーは説得できない、という原則を敷衍すると、こういう方々に「現実に即して考えるべき」という点を理解して頂くのも無理な相談、ということになるんでしょうか。

13. TAKESAN Website — October 3, 2008 @18:33:27

今晩は。
 
先日ゲーム脳について調べた時に、たとえば保健室便りのようなもので紹介しているものがあったのですが、中には、図解などを用いている、とても工夫された、「解りやすい」ものも見られました。
 
それを見ていると、情報を知らしめたい、子どもの事を考えて、どうにか健全に育ってもらいたい、という気持ちは、よく伝わってくるのですね。まさに、善意・熱意、といったものが見えます。
 
そうであるがゆえに、対応がとても難しいのですよね。主唱者ならともかく、保護者で信じている場合などだと、ただそれが間違っていると言うだけでは、逆効果になる虞がありますし。
 
中には、ウソだとしても構わないじゃないか、というように、単に「便宜」として用いる人もいますね。熱意が一方向にしか向かっていない、と言うか。本当だと信じている場合とはまた違った厄介さがあるかも知れません。

14. ちがやまる — October 3, 2008 @18:46:03

たまには楽観論を。
医学の方で成功を収めているかに見える「証拠に基づく何々(エビデンス ベイスト なんちゃら)」という動きは相当有効なものに見えますので、今後はどんどん家政学・生活科学の方面にも浸透していくのではないでしょうか。EM菌の効果も、まずは応用局面で検証を、となるでしょうし、技術家庭科でもそういう考え方を教えるようになるのではないでしょうか。

それまでは、TAKESANさんがゲーム脳でやっておられるように、発信源へ向けた批判をこまめに立ち上げていればいいように思います。(甘い?)

Up15. BUNTEN — October 3, 2008 @19:32:28

こちらに金銭的負担も肉体的実害も生じない善意を縁者から押しつけられるケースが一番頭痛いのですが、ほんとどーしたらいいのでしょうかねぇ。

親から、病気に効くからと飲用のお札(紙に呪符を書いてあるだけ)を頂いたときはどう反応したらいいものか頭抱えましたです。信じる者にはプラセボ効果があるかも知れませんが、そんなもん不信心な私には100%発現しないわけで。
毒にも薬にもならないことは確かでしたが、精神的には劇薬でした。orz

16. yamaguchi — October 3, 2008 @23:27:05

例えば、尊厳死を認めるのも認めないのも、どちらも善意から出た意見と思われますが、これは結論が出るはずがありません。不死の薬が発明されるまでは。もっともそうなったら、自殺を認める・認めないって議論が展開されるだけかも(不死なのに自殺出来るかってツッコミは無しでお願いします)
結局、善意はその人の主観ですから、科学で解決することは無理でしょう。科学的に間違っていると言っても、まだ解明されていないだけと言ってしまえばそれまでですから。善意が一番嫌うものは理屈です。

17. キタヤマ — October 4, 2008 @11:57:25

こんにちは。
善意から信じてしまったことの方が、認識を変えにくいということはあるかもしれません。
1つ注意すべきこととして、「科学的に間違っている。」ということを伝える時の、伝え方があると思います。
「目的には、共感するし、善意もよく分かるけれど、この点に関しての科学的な知見は、こうですよ。ですから、別の方法を考えましょう。」と言うのと、「どうしてこんなことに引っかかってしまうんだろうね。あまりに無知なようだから、教えてあげましょう。そもそも目的がどうかと思う。そのイデオロギーには賛成できない。」と言われるのでは、伝わり方が違う場合もあるような気がします。(検証はしていませんが。)
傲慢でない話し方をしても、目的に共感できない場合には、そのことが伝わってしまってしまい(あるいは、聞き手が目的に共感していないと無意識にでも認識した場合には)、そのために、説明が浸透しないこともあるような気がします。

18. キタヤマ — October 4, 2008 @12:26:46

すみません、追加です。
目的への思い入れが強くて、行動せずにはいられないような人は、他の方法が見つからないと、理屈は分かっていても態度は変わらないとか、分かったといいながら、その方法を捨てきれないのかもしれませんね。

19. YMN — October 4, 2008 @17:42:00

http://gigazine.net/index.php?/news/comments/20081001_chissoku/Link
 「こんにゃく入りゼリーで17人目の死者が出る今日まで放置されてきた」と言われれば反論の余地が無いようにも感じられますが、そもそも食事にリスクはつきものという面もあります。
場合によっては科学的にナンセンスなバッシングになりかねないものがあります。

UpOwner Comment きくち  October 5, 2008 @11:32:15

僕もこの件、釈然としないものを感じています。
もちろん、いたましい事故ではありますが、「放置」されてきたというのは言い過ぎですよね。少なくとも、マンナンライフは過去の事故を教訓に改良なり注意書きなりの努力をしていたわけですし。

21. くりず Website — October 4, 2008 @18:48:59

>YMNさん

こんにゃくゼリーに関しては、「食事にリスクはつきもの」という問題ではないかと。

http://d.hatena.ne.jp/buyobuyo/20081003/p3Link

http://d.hatena.ne.jp/buyobuyo/20070706/p2Link

http://d.hatena.ne.jp/buyobuyo/20070618#p2Link

22. ハッター — October 4, 2008 @18:52:08

こんばんは

私はもう大人になってしまっている人に対しては、残念ですが、できることは限られているように思います。

しかし、子どもには熱意や善意があるからといって誤りは誤りであることを受け入れる事を教育を含む生活の中で学ばせることが重要だと思います。
それと、毒物学の基礎的な部分と簡単な環境リスクの考え方を中学校を終わるまでに学ぶことができれば良いのになと思っています。

Owner Comment きくち  October 5, 2008 @11:33:51

なんかね、社会的に「善意でやっていることを責めてはならない」という風潮が形成されちゃってる気がするんですよ。

24. 杜松 — October 5, 2008 @13:01:44

>「善意でやっていることを責めてはならない」という風潮が形成されちゃってる

実際に被害を確認できていない場合は、そうでしょうね

Up25. No.4560 — October 5, 2008 @13:17:06

僕自身書いてて耳(目?)が痛いのですが、実際にやっている行為自体にはさほど関心がなくて、単に
「良いと言われている行為をやっている、そんな自分が好き」
という人がいますよね。
 
そういう人に
「その行為って、実は良いことじゃないんだよ」
とか言うと、「その行為」だけじゃなくて「そんな自分」まで否定されてるような気になる場合が多いように思います。
 
で、上のように言われたときの反応として、「その行為」そのものに対する真剣な再考よりも、「そんな自分」というセルフ・イメージの保全の方を優先してしまう。
こちらは「その行為」そのものに用があるのに、相手にとっては「そんな自分」の方が大事。
こういった行き違いもあるように思います。
 
(…書いてて思いましたが、「ネタにマジレス」云々に関しても、「良い」を「かっこいい」に変えればほぼそのまんま当てはまるのかな?)
 
 
その上でエントリ冒頭の問いについて僕なりに考えると…う〜ん、変な話
「失敗しても耐えられる程度の自信を持ってもらいたい」
と思います。(もちろん失敗しちゃまずい場合も多いんですが。)
これは僕自身もよく経験するんですが、自分に自信がないからこそ善意や熱意を担保にしちゃうし、変に意固地になっちゃったりするんですね。
 
ただ、マスメディアやネットでの「叩き具合」や「炎上」は、たとえ相手に非があるとは言っても、傍から見てて異様に思えるケースが多いです。結果として、誰かの大声やイメージだけに寄りかかって、それをセルフ・イメージ形成の一助にしてしまう傾向も感じます。その方が楽だし、批判されても、このケースでは最終的には他人事(騙された!許せない!)ですから。
反対に大声やイメージだけに寄りかかる人がいるから、こういう志向を悪用する人も当然出てくる。
 
なんかそんな悪循環を感じるので、その悪循環から自立してほしいというか。
結局「ニーバーの祈り」みたいなことを書きたかったのかな。

26. NOB.Y — October 5, 2008 @22:34:58

善意と熱意 が 独善と固執 に変わらないようにいかに納得させられるか。
自分が良かれと思ってしていることが効果を上げないと聞かされれば、誰しも少なからず良い気持ちはしない。素直に自分の誤解を認められる人はむしろ少数派でしょう。自分の立場を守る姿勢に入ってしまった人を正面から翻意させるのはほぼ不可能です。これはビリーバーとは少し違うポジションと思います。
 仕事ならば、もっと良い方法があるんじゃないですかとか言って、面子をつぶさないように誘導してうまくいけば、結果オーライで、その間の私の屈辱感(なんでこんな下手にでなきゃいけないんだみたいな)なんかは問題ではない。にせ科学問題では、こんなアプローチをとろうとしても、説得側が個別の問題にかけられる資源もインセンティブも限られているし、相手をさらにかたくなにするだけのような攻撃的なアプローチを試みる方はいらっしゃる。 うーむあえて言えば、まずは「水伝」の解決だけに絞りましょう という方向なのかなあ。

27. キタヤマ — October 6, 2008 @12:00:19

「善意ほどやっかいなものはない、熱意ほど扱いづらいものはない」という問題のたて方がよく分からなかったのですが、
NOB.Yさんの「独善と固執」に納得しました。「独善ほどやっかいなものはない、固執ほど扱いづらいものはない」ならよく分かります。そして、独善と固執がこの世から簡単になくなるとは思えません。
No.4560さんの
>実際にやっている行為自体にはさほど関心がなくて、単に「良いと言われている行為をやっている、そんな自分が好き」という人がいますよね。そういう人に「その行為って、実は良いことじゃないんだよ」とか言うと、「その行為」だけじゃなくて「そんな自分」まで否定されてるような気になる場合が多いように思います。
で、上のように言われたときの反応として、「その行為」そのものに対する真剣な再考よりも、「そんな自分」というセルフ・イメージの保全の方を優先してしまう。こちらは「その行為」そのものに用があるのに、相手にとっては「そんな自分」の方が大事。こういった行き違いもあるように思います。
もよく分かるような気がします。そして、これも簡単にはなくならないでしょう。

Owner Comment きくち  October 7, 2008 @02:18:27

ちょっとタイトルをキャッチーにしすぎて、わかりにくかったですか。
 
もちろん、善意や熱意は大事なことですが、ニセ科学問題ではそれが却って悩ましい場合もおうおうにしてある、という意味です。
 
やっている当人の動機は「善意」、そして「熱意」をもってやっているけれど、やっている内容は無意味だったり、却って害を及ぼしたり、そういう場合です。

29. 内海 — October 6, 2008 @12:38:42

そもそも、ある人間が善意からであろうと熱意からであろうと行動や考えが明らかに間違っていて、
コスト>ベネフィットになり、そのコストを我々も負担しなくてはならない場合があるときは、相手が嫌がろうと抵抗しようと、その考えや行動を否定し潰すのがいけない事だとは思えません。

極論ですが、ニセ科学を信じたり流布しようとする人間に対して、正しい知識を教えたり説得する事にコストを掛ける必要性があるのかどうかすら疑問です。

そんな人間を啓蒙したところで、また違う誤った思想など(ニセ科学関連だけではなく)にハマるだけならば、いっそのこと「もう君達は何も考えるな、考える事は「えらいひと」に任せておけばいいんだから」といった一種の「知識の独裁体制」を構築した方がずっと簡便でやりやすいと考えますが(こういう事を書くと絶対「民主主義に対する挑戦だ!」みたいな事を言う人が出てくるのは想定内なんですけれど)。

Up30. TAKESAN Website — October 6, 2008 @13:44:48

今日は。
 
>内海さん
 
さすがにそれは極論かと。私は絶対に反対です。

31. 技術開発者 — October 6, 2008 @14:16:45

こんにちは、皆さん。なんていうか「軽重」が怪しくなっている面を感じるんです。

無意味な活動、無意味である上にわずかでも事態を悪化させる活動をする者を見たとき「止める」というのが基本の事だと思うわけです。ただ、その人間が「善意」でやっているとき、そのことに配慮する「方がよい」程度の事だと思うんですね。つまり、「止めるべき」が重くて、「配慮する方が良い」は軽い。なんか、この軽重がおかしくなっている感じを受けている訳です。

なんていうか、「良かれとおもってやったけど邪魔にしかならずに叱りとばされる」なんて、私が子供の頃にはもっと世の中に沢山あった気がする訳です。「心への配慮を欠いている」といえばそうなんだけど、そういう無意味な事したら叱られるのが当たり前の中でこそ「悪気は無いのは分かっているよ」みたいな一言が嬉しかったりする訳ですね。でもって、叱られながら「本当に役立つことをしよう」思いできるようになっていく、というのこそ「真に人間らしい進歩」じゃないんでしょうか?

なんか「配慮」というものに意識が行って仕舞いすぎている気も刷るんです。

32. 元福祉作業所員 — October 7, 2008 @01:25:17

波動やサトルエネルギーでたどりつきました。
「きょうされん」という組織が有ります。「しょうがいしゃ」の「共同作業所」の全国組織です。 http://www.kyosaren.or.jp/Link
「障がい」を持つ人たちが地域で 働く・活動する・生活することを応援する事業所の全国組織です。まさに善意と熱意でなりたっている組織です。
きょうされん商店街 http://www.kyosaren.or.jp/indexC.htmlLink
に「ビワミン」とあり全国の「作業所」や施設・福祉団体が一般にも販売し、その利益を活動の為の資金にもしております。
その販売もとは http://www.biwa-sfc.co.jp/index.htmlLink
そして「ごあいさつ」 http://www.biwa-sfc.co.jp/greeting/index.htmlLink  に
S.F.Cグループ会長
島田 修
■プロフィール
熊本市在住
日本ビワ温圧療法師会 会長
株式会社 エス・エフ・シー 代表
株式会社 王樹製薬 代表
株式会社 エヌピーアイ 代表
有限会社 マエストロ 代表
内閣府承認 NPO法人 施術ボランティア
「救療隊」理事長
国際大学連盟 IOU大学 健康科学博士
東華堂流 家元十世

と有りますように「IOU大学」 http://www.ioujapan.com/Link
から「サトルエネルギー」までになってしまいます。

EM・波動・七田式など障がい者福祉関係では目立って多いのが現状です。
こういった事案に「異議あり」してしまうと障がい者福祉関係者からは差別者扱いされてしまう現状が有ります。
わたしは、それで現場から去ることになりました。

社会的には逆に「うさんくさい」わけですから、本来の「地域社会」からは「阻害」されてしまう事になりかねない事を気づかせる為にも先生方には頑張って欲しいと思います。

33. トンデモブラウ — October 7, 2008 @08:54:39

善意を利用して、ニセ科学などで儲けようとしている人達がいるというのがいけないんですよね。
騙されている善意の人達には、科学的に間違ってますよという助言じゃなくて、それによる効果は悪いことの方がこんなに多いのですよ、という提示ができなければダメということでしょうか。(ここでは、EM菌や水伝なんかを想定してます。)
 
善意というのは発信者側からの一方向だけだと客観的に「善」とはみなせませんよ、というコンセンサスが得られれば一番いいですね。
東洋には『陰徳』という一番の美徳があるのに(キリスト教にだってあるのに・・・)、善意を前面に押し出しているというのは、いかにも胡散臭いハズなんですけど。
もしかして、陰でこっそりEM団子とやらを河川に大量投入している善意の人がいっぱいいるのかな?
これは怖い。

Owner Comment きくち  October 7, 2008 @09:07:09

端的には「水伝は江本の商売です」ってことですよね。
なんで「善意の人」はそこに気づかないのか、不思議でしょうがないんですけどね。
本来、善意とは対極のはずですよ。「ニセ科学で騙すビジネス」ですから。

Up35. キタヤマ — October 7, 2008 @10:13:49

社会的には
>善意というのは発信者側からの一方向だけだと客観的に「善」とはみなせませんよ、というコンセンサス
があるから、独善、偽善と言う言葉があるのだと思います。
しかし、特定のコンセンサスが得られない人から、どうコンセンサスを得るかは、人それぞれで、難しい人もいそうです。

「善意がやっかい」というより、「無思慮・無分別がやっかい」のように思います。善意と思慮は、善意があるからといって、思慮があるとは限らず、思慮があるからといって、善意があるとは限らないという関係のように思います。

Owner Comment きくち  October 7, 2008 @11:29:45

ていうか、「善意」というのはやる側の動機のことを言っているのであって、「善」とはまた違うんだと思います。「善とはなにか」はよくわかんないですが。
 
本当は「善意のつもり」と書きたいんだけど、やる側にとっては「つもり」じゃなくて「善意」なんでしょうし、という感じですかね。
 
外から見たら「独善」ということでよいと思います。
どちらの立場から見るか、ということかな。
キタヤマさんとそれほど違うことを言っているつもりはないです。

ちょっとレトリックが過ぎるのかもしれませんが、だってこのエントリーのタイトルが気にいってしまったので。
「善意」や「熱意」を一般的に否定していると取られると困りますけど、それは文脈ですから

37. キタヤマ — October 7, 2008 @12:18:28

「善意ほどやっかいなものはない」は、キャッチフレーズとしては成功していると思います。私もスルーできなかった一人ですから。しかし、
>ちょっとレトリックが過ぎる
ように感じます。
「思慮の足りない善意ほどやっかいなものはない」が「善意そのものを否定すればいいというものでもないから、悩ましい。」という後半部分が、説得したいと思っている方々に、伝わるか、不安です。「善意なんてやっかいだから、なくっていいんじゃない。」と言っていると、とられかねないような気がして、心配です。その場合、説得は、遠のくような気がします。

Owner Comment きくち  October 7, 2008 @12:56:10

問題設定について、ちょっと追記しておきました。

39. 技術開発者 — October 7, 2008 @16:40:32

こんにちは、皆さん。

なんていうか、善悪観というのがすごく観念的になっている観念的善悪観と、実利面を近視眼的にしか見なることができない実利的善悪観のどちらかしか無くなって、その間を結ぶ広い視野の実利的な善悪観が失われている気がするんですね。

なんていうか、社会の善悪観って本来もっと実利的な側面があると思うんですよ。ただ、目先の実利じゃなくて社会と個人がキャッチボールをするということの認識にたった実利ですけどね。

例えば私は悪徳商法の被害者に「そういうのは消費生活センターできちんと相談すればなんとかなりますよ」みたいなアドバイスをしていた訳ですが、「見ず知らずの自分に親切にしてくれて」みたいな善人として扱われる時に良く書いて居たんですよね。「私がボケて高級布団でも契約して、私の息子が『ボケ親父が騙された、どうしよう』なんて言っている時に、あなたが『消費生活センターに相談してごらんなさい』とアドバイスしてくれたら、きちんと元はとれるじゃないですか」なんてね。こういうのが実利的でかつ視野の広い善悪観なんだろうと思うんですよ。

なんていうか、「やっかいだな」と感じる善意って、こういう広い視野の実利面を考えていくと破綻する面がありそうに思うんですね。

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