LSIが転がり込んで来た
1970年代当時の任天堂は、家庭向け商品とは別に業務用射撃ゲーム機などのレジャー施設も手がけていた(図4)。
こうした機器の開発でかかわりのあった三菱電機から「カラー表示のできるテレビ・ゲーム機用LSIを開発した。ゲーム機を商品化する気はないか」と1976年に誘われる。渡りに舟とばかりに任天堂の開発スタッフはこの話に飛びついた。
当時、カラー表示のできるゲーム機はまだ商品化されていなかった。うまくいくと直感した上村は、さっそくゲーム機を開発したいと山内溥社長に提案する。社長は販売価格1万円以下を条件に商品化を認めた。
ここで再びシステックに触れなければならない。三菱電機が任天堂に採用を持ちかけた LSIは、実はシステック向けに開発したものだったのである。システックはGI社のLSIを使ってゲーム機を製造していたが、新製品を投入するために、三菱電機にLSIの開発を依頼した。どころが1976年夏にシステックが倒産してしまう。顧客を失った三菱電機は、業務用レジャー施設で縁のあった任天堂に話を持ちかけた。
システックの成功をみてゲーム機参入を決意した任天堂が、システック向けに開発されたLSIを使って実際にゲーム機を作ることになったのである。
上村が率いる開発スタッフは、はりきってゲーム機の開発にとりかかった。当時、開発スタッフの間ではエレクトロニクス技術に一種のあこがれを抱いていたという。それが開発の励みにもなっていた。
ところが、ここで大きな壁にぶつかる。どう原価計算をしても山内社長の出した条件、すなわち価格1万円以下をクリアできそうもない。100万台販売すると仮定しでも、1万5000円に設定するのがやっとだった。なんとしても商品化したい上村は、社長と何度も交渉した。しかし、社長の考えは簡単には変わらない。
そこでひねり出したのが次のようなアイデアである。まったく同じ回路基板を使い、1万円以下の機種と、1万5000円の機種を発売する。1万円以下の機種は機能を落として見せ玉とし、1万5000円の機種で利益を出すという案だった。社長はようやくこの方針にうなずいた。
こうして任天堂は1977年に、価なる価格9800円の「カラーテレビゲーム6」と、価格1万5000円の「カラーテレビゲーム15」を売り出すことになる。
これをきっかけに、LSIに精通するパートナ、三菱電機と共同で次々とゲーム機を出していくのである。
(文/高野 雅晴)
(※本記事は「日経エレクトロニクス」1994年4月25日号の「ファミコン開発物語(第2回)」を再掲載したものです。登場人物の肩書きおよび企業名等は、雑誌掲載当時のものとさせていただきます。あらかじめご了承ください)