電卓の商品化計画が発端

 「電卓の商品化を目指す」。

 任天堂が家庭用ゲーム機に手を染めるきっかけは、現在の同社からは考えにくいこうした計画から始まる。

 1970年代、任天堂の開発スタッフにはきっちり決まった目標はなかった。開発スタッフ個人が適当にアイデアを出し、それが会社の考えに合えば商品になるという時代だった。

 ビジネスになりそうなネタならば玩具以外にもどんどん手を伸ばした。家庭用簡易複写機や乳母車、さらにサイン・ペンまで手がけるという具合いだった(図3)。そのなかで1971年に発売した簡易複写機「NCMコピラス」はヒット商品になった。価格9800円で、10万台以上を出荷している。

 電卓を商品化しようという話が持ち上がったのもこうした流れの一つだった。ところが、開発計画がかなり煮詰まったところで電卓市場参入を見合わせることになる。

 当時、電卓ビジネスは過渡期だった。たくさんのメーカが参入し、価格が1万円を切れるかどうかを競っていた。無理をしてでも低価格化に挑まなければ生き残れないという状況だった。その荒波に巻き込まれることを任天堂は避けたのである。

 こうしたときに任天堂の耳に入ったのがシステックという電卓メーカである。同社は電卓だけでなく、米国向けにテレビ・ゲーム機の輸出を始めていた米General Instrument(GI)社のゲーム専用 LSIを使って機器を製造し、生産台数は月100万台ともいわれた。

 「同じLSI技術を使うなら、電卓ではなくゲーム機をやりたい」。後にファミコンを生み出すことになる上村雅之(敬称略、以下同)をはじめとする任天堂の開発スタッフは、目標を電卓から家庭用ゲーム機へと方向転換した。

図3 玩具だけにはこだわらない
 写真左 1971年に発売した簡易型複写機「NCMコピラス」。価格は9800円。写真右1972発売の乳母車「ママベリカ」。価格は8900〜9500円(画像クリックで拡大)