やっぱり止まらない日教組のジェンダー・フリー教育(1)
本誌 小島新一
「男女の走力差にはジェンダーが影響」
昨年十二月に閣議決定された政府の第二次男女共同参画基本計画で、「ジェンダー」表記をめぐって議論となり、二十二行にも及ぶ行政用語としては異例の長さの定義が付記されたことは記憶に新しい。
男女の性差や「男らしさ」「女らしさ」、さらには家族や伝統文化を否定する「ジェンダー・フリー」思想への国民の批判が高まるなかで、「社会的・文化的性差」(同計画では社会的性別)、つまり「後天的に形成されるもの(だから解体可能)」という意味で使われる「ジェンダー」も、「ジェンダー・フリー」と同義ではないかという懸念が広がっていることを受けたものである。
二十二行にわたる「ジェンダー」の定義の中では、「『ジェンダーフリー』という用語を使用して、性差を否定したり、男らしさ、女らしさや男女の区別をなくして人間の中性化を目指すこと、また家族やひな祭り等の伝統文化を否定することは、国民が求める男女共同参画社会とは異なる」と「ジェンダー・フリー」が明確に否定された。また「ジェンダー・フリー」が具現化された例として、「児童生徒の発達段階を踏まえない行き過ぎた性教育、男女同室着替え、男女同室宿泊、男女混合騎馬戦等」「公共施設におけるトイレの男女別表示を同色にすること」が掲げられてもいる。
「男女共同参画」の名前のもとで、各行政機関が「ジェンダー・フリー」思想の影響を受けたと言われても仕方のない政策を展開してきたことを思えば、むしろ遅すぎた「決別宣言」である。しかし、これまでジェンダー・フリーを推進してきた人々にとっては当然ながら面白くなかったようだ。
日教組は今年二月二十日付の機関紙「日教組教育新聞」で、男女共同参画基本計画改定について次のように書いている。
《「ジェンダー」の用語は残ったものの「『ジェンダーフリー』という用語を使用しての性差否定は『国民が求める男女共同参画社会と異なる』」と明記するなど、国際的流れに逆行する表現が盛り込まれている》
政府の基本計画に反して、性差否定のジェンダー・フリー教育を今後も公教育の場で続けていく意向表明とも受け取れるような見解である。
日教組の教員たちは実際にはどう受け止めているのか。二月末、三重県で開かれた日教組の第五十五次全国教育研究集会(全国教研)を取材してみた。
日教組の全国教研は、教科別、あるいは人権教育、平和教育といった分野別にもたれる分科会に、各都道府県を代表する組合員らが参加し、日頃の取り組みを発表するもので毎年一回開かれている。「ジェンダー・フリー教育」について議論するのは、「両性の自立と平等をめざす教育」分科会である。分科会は二日間にわたって行われ、初日は男女混合体育について議論が集中した。
まず、北海道の小学校教員から五年生の短距離走について報告があった。「クラス全員のタイムを男女別に表示する分布図をつくると、八〇−九〇%の子供が男女の別なく同じ範囲に入っていて、タイムの差は男女差よりも個人差によるものであることが分かる。だから一緒に走らせても女子に不公平ではない」という結論だった。
これに対して、中学校や高校まで追跡調査をしているのかという質問が、京都の高校教員から出された。年齢とともに男女の平均的な体力差はより明確になる。「小学生とそれ以上では、男女差が違ってくるのではないか」というもっともな質問だと思った。
ところが、質問者の意図はまったく違っていたのである。北海道の教員が「(中学)二年生と三年生では、男女差が広がります。やはりジェンダーというものが子供達に関わってきてるんじゃないか。女の子が一生懸命走ることがカッコ悪いだとか、自分は女だから速くなくていいんだとか…テレだとか恥ずかしさだとか…そういうかたちで自分の力を発揮してないのではないか、と考察しています」と答えると、質問者は「中学二年から三年で女性がおそらく遅くなっていく。そこにジェンダーがあるんじゃないかという話で、それが聞きたかったんですわ」と゛我が意を得たり″の表情だった。
要は、男女の体力差にも「ジェンダー」が影響していると考えているのである。
富山県の小学校の教員は、男女混合サッカーについて報告した。その中で「陸上や鉄棒などの個人種目ではその(男女の)差はあまり影響しないんですが、球技をさせると女子と男子の差がある」と発言したところ、「それは男女差なのか」「男子の中にも不得意な子、女子の中でも得意な子はいるのではないか」と批判的な質問が集中。
さらに、集団のリーダーとして体育を頑張っているという男子児童の「男子と女子は力の差が違うので、女子のことを考えてスポーツをした方がいいと思う。はげましたりほめたりする言葉をもっと増やせばよい。女子もこわがらずにできることも(男女混合で)すればいいと思う…バドミントンなど」という感想を紹介したところ、「完全に男子のほうが優位な立場に立っているような印象を受ける」といった批判が続いた。
これが女子児童のコメントであったなら、教員たちはこんな意見を述べただろうか。男子が指導力を発揮することに敵意を抱く、フェミニストの本性をむき出しにしたような発言のように思えた。
「日常の中にジェンダー・フリーの視点を」と題した宮崎県の小学校教員の報告は、児童のアンケート結果を紹介していたが、「競技などで男女区別がある」ことを男女差別の例として挙げた回答があった。「男女を区別することは差別である」とする極端なフェミニズム思想、つまり「ジェンダー・フリー」の影響を受けているとしか思えない答えだ。日教組の教員たちが男女混合体育を進める真意が伺える。
ちなみに男女混合体育とは関係がないが、同じアンケートで、「いまだに『専業主婦』という言葉がある」ことを男女差別だと回答している児童がいた。専業主婦は「自立していない女性だ」として攻撃してきたフェミニストが泣いて喜びそうな答えであるが、どのような教育で小学生の子供をここまで洗脳したのかと空恐ろしくなった。
→つづく
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「正論」平成18年5月号 |
論文
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