何度も涙がこぼれた。評判通りのいい映画だった。「おくりびと」である。主人公は納棺師。文字通り、遺体に化粧を施し、装束を着せ、棺(ひつぎ)に納める職業をいう。
納棺のたび、さまざまな人生を歩んだ死者とそこに立ち会う人々のつながりが浮かび上がり、ほろりとさせる。主人公が、母親と自分を捨てた父親の遺体に対面するラストシーン。主人公は、父と自分のつながりの証しを見つけて、心をほどく。こんな人とのつながりがあれば、人はどんな逆境でも生きていけるだろう―と思えた。
田舎の民家での納棺シーンが多かったせいか、画面の裏にあるだろう光景が浮かんできた。近所の男たちが手分けをして墓穴を掘り、葬列や式の段取りにてんてこまい。台所は、白いかっぽう着の女たちで埋め尽くされ、食事の支度が進む…。
祖父母の葬式がそうだった。十年ほど前、一生を農業にささげた伯父の葬式も印象に残っている。葬祭場のように流暢(りゅうちょう)なアナウンスもなければ、整然とした進行でもないが、助け合って生きてきた人々の手によっておくられることの尊さ、ぬくもりは何物にも替え難いと感じた。
岡山県の農山村でも近年、葬式の場は、集落から葬祭場へと移りつつある。あまり使いたくない言葉だが、村八分でも葬式と火事だけは助け合ってきた日本の村。葬式は集落の重要な機能であり、集落の人々は“おくりびと”でもあった。過疎高齢化が進む中、葬式の外注化はもう止めようがないのだろうが、寂しいと思うのは私だけだろうか。
(編集委員・清水玲子)