2008年10月の日記
2008.10.01.
喫茶店で作業をしていたら目の前のテーブルですごく奇麗な女の人がおもむろにエロース系なコミック表紙の色校を始めて、そんなん気にするなっていうのも無理だろうっていうか、人間性クイズみたいな状況になってしまった時の不定期連載。
(タイトルはもういいですよね。やたら打ち間違うし……)
配給を待ついつもの列の中に、知らない顔があることにこいつは気づいた。
無論、他の全員を見知っているわけでもない――この配給所だけでも何百人と並んでいる難民全員を把握してはいなかった。その老婦人を初めて見ると感じたのは、そいつの落ち着かなげな態度であったり、後ろに並んでいる寡黙な男に時折向ける不安な眼差しであったり、つまりはそうしたもののせいだったかもしれない。
食事は、碗に注がれる野菜粥とパンの塊といった、簡単なものだ。配給所の大鍋から並んでいる人々に、係の手によって配給される。
こいつはさっきまでその配給係をしていたが、交代したところだった。エプロンを畳んで鞄にしまい込み、キャンプを一回りしてから帰ろうと思っている。
なんとはなしに気になって、こいつは、列に近づいていった。その老婦人の元に。
最も古い者は、この難民キャンプに一年近く前からいる――大多数は半年前ほどにやってきた。タフレム市当局が難民の宿営に用意できたのはこの郊外の土地と、衣類、テント、いくつかの配給所設備だ。簡易の住宅も建てられつつあるが、まだまだ足りない。老人や子供のいる家族から優先して割り当てているものの、まだ半分にも行き渡っていない。難民の数が多すぎた。
難民キャンプに《塔》の敷地を一部開放する案もあったが、魔術士とキムラック人双方の感情も鑑みて、実現していない。ボランティアに魔術士の姿はなかった。あれば、厄介事も生んだだろう。なければ、厄介事は生まない。そして無論、他のなにも生まない。
どのみち魔術士らは、北方に布陣する騎士軍との小競り合いや折衝で、余力もなかった。難民の中にはタフレムでの労働を望む者もいる。問題となるのはやはり、長年の対立による感情のしこりだ。頑固な者は双方にいる。
こいつが列に近づくと、何人かが目を伏せるか、逸らすのが見えた。そいつらの中には、ボランティアに魔術士のスパイが紛れ込んで食事に毒を入れていると信じる者もいる。逆に顔見知りで、会釈する者もいた。
老婦人はこいつが近づいても気づかなかったようだった。そわそわしているが、こちらに反応はない。気を引くために、こいつはそいつの腕に軽く触れた。
「大丈夫ですよ」
話しかける。
「全員に行き渡る分はありますし、ここは安全です」
老婦人はなにも言わない。こちらを見もしない。
後ろについている男が、口髭の中でぼそりと、つぶやいた。
「聞こえないらしい。なにも」
「え?」
「話しかけても無駄のようだ。なにも聞かない。魔術士と騎士の戦闘に巻き込まれたのを保護されたって話だが、なにを話しても聞かない。聞こうとしない」
男は表情を動かさず、淡々と説明した。なにを言えばいいのか分からず、こいつが黙していると、そいつは首を左右に振った。
「本当は聞こえてるんじゃないかと思うがな。昨日の夜、どこかのテントで子供が歌ってるのを聞いて、泣いていた」
「…………」
「平気だ。俺が見ておくよ」
こいつは礼を言って、列から離れた。
2008.10.02.
このところ昼夜が逆転してしまって22時くらいから猛烈に眠くなるわけですが、かなりわけ分からない気がしてきた時の不定期連載。
今日がなんの日なのかあいつは忘れているのではないか。
そんなことを疑うほど、変哲のない一日だった。いつも通りだ――訓練をして、その合間に家事を手伝い(家事のできないあいつを『手伝う』のは、つまり一切合切全部やって、あいつが余計な手出しをした分まで後片付けするということだが)、キムラック難民キャンプのボランティアに参加する。用事を済ませて落ち着けるのは日が没してからだ。
部屋の中を見回して、こいつは強張った腰を伸ばした。頭に乗せていたディープ・ドラゴンも、ベッドの横に置いてある、クッションを詰めた籠の中に置く。そいつは一日中ずっとそうしていたように、まだ眠っていた。
その籠のさらに隣に、荷物がまとめてある。
この屋敷に住み着いて、その生活にも慣れた。名残惜しくないと言えば嘘になる――筋を解そうとして肩に手をやり、一年前からばっさり切り落とした髪がその手に触れるくらいの長さになっていたことに気づく。
なにかが変わっただろうか。ふと胸をよぎる独り言に、溜息をつく。自分が目指した変化がなんだったのかも、実のところよく分からない……
この広い屋敷で、人の気配を感じ取るようになったことは変化なのだろう。廊下を進んでくる静かな足音を察して、こいつは寝台に腰を下ろしたまま扉を見つめた。あと何歩。何秒。
見込みをつけた瞬間に、ちょうど扉がノックされた。
「ちょっといい?」
あいつの声だ――これも、いくつかの理由から分かっていたことだった。同じ屋敷で生活するあいつは静かになんて歩かないし、魔術士至上主義のあいつはわざわざ『無能力者』になど会いにこない。
それにつまり、今日がなんの日なのか、こいつは覚えていたからだ。声をあげる。
「どうぞ、もちろん」
もちろんは余計だったろうかと思いながら立ち上がる。扉に鍵はかかっていないが、開けに行く。
「呼べば、わたしが行ったのに」
ドアを開けつつ心配顔でこいつがつぶやくと、そいつは苦笑してみせた。
「いつも言ってるけど、階段も登れないってわけじゃないのよ」
と、大きくなったお腹をさすりながら。
2008.10.03.
突発的に49ersに興味を持ったものの、突発的過ぎて成績の見方すら分からない時の不定期連載。
とはいえ無論、言うほど身軽なわけもない。臨月も近い身体を揺すってそいつが部屋の入り口をくぐるのを見守る。そのままそいつをソファーまで連れて行ってから、こいつは改めてそいつに向き直った。
こいつは座らなかった。そいつの前に立っている。
「そんなに格式張らなくてもいいのよ」
そいつはそう言ったが、こいつは首を軽く左右に振った。そいつもそれ以上は勧めてこない。
「それで、一年が経ったわけね」
「はい」
さすがに落ち着かないものを覚えて、こいつは胃の前で手を揉んだ。
そいつはゆっくりと話を続ける。
「誤算がいくつか。まずわたしは、あなたのお母さんが認めるわけがないと思っていたし、あなたが一年間我慢できるとも思っていなかった」
そいつはこちらの反応を待とうとしたのだろう。しかしこいつがただ見つめるだけと察して、先を進めた。
「でも分かっていたこともある。あなた、わたしが今ここでなにを言おうと行くつもりなんでしょう」
「はい」
「正直なのは好感」
言葉に反して、そいつの笑みは引きつっているように見えた。
「でも不安は不安よ。治安は悪化する一方だし。こうでなければわたしもついていくところなんだけど……」
こうとは、無論、妊娠のことだろう。
そいつの妊娠は突然のことだった。が、驚いたのは周りだけだったようだ。端で見て分かる状態になるまで、当人に自覚がなかったはずもあるまいが、四か月目になってようやくそいつが周囲にした説明とは『妊娠した。戦線には参加できない』だけだった。
こいつも驚かなかったといえば嘘になる。話を聞いてあっけに取られたこいつに、そいつは、やや困ったようにこう言った。付き合いが長かったから、わたしたちの間には子供はできないって思ってた。なんでそんな風に思ったのか、考えてみれば変な話だけれど。
こいつは、こう言った。
「でも、嬉しいんでしょう?」
そいつは笑った。そいつを初めて親しく感じたのは、その時だ。
突然の兵役拒否に《塔》執行部は大いに憤慨したらしい――が、だからといってどうできるわけでもなく、自分の生徒に加えて《塔》でも代理教師をするということで話がついた。
父親の名前については、そいつは特に語らなかったが、態度から明々白々なことだった。学生の頃から、ついたり離れたりを繰り返してきたという話だが。
2008.10.04.
あれ、今日って木曜日じゃなかったのか。な時の不定期連載。
とにかく、とそいつはかぶりを振った。
「あなたに同行させられる人手もない。本当にひとりで行くつもり?」
「ここにいる間、あの人のこともいろいろ聞きました。十五歳の時から、お姉さんを探して大陸中をひとりで旅していたって」
こいつの話に、そいつは物寂しく笑ってみせた。
「それが良い結果をもたらしたとも言い難い。あの子は後悔してたでしょう?」
「でも、前に進みました」
動じることなく、こいつはそう告げた。
長い息を吐いて、そいつが天井を見上げる――
「ここしばらくの間、宿営地で、キムラック難民をよく見て回ってたわね。なにか情報はあった?」
相手はこちらを見ていなかったが、こいつはうなずいた。
「あの人がキムラック人に接触したっていうのは、確かなことみたいです」
「例の噂は?」
「本当だと思います」
こいつが神妙に言うと、そいつも同意した。
「アーバンラマの、外大陸開拓計画ね。少なくともあてもなしに探し回らなくて済むわけだけど、道は険しいわよ。海路が封じられている以上、騎士隊のいるキムラックを越えるしかない」
唱えるように言ってから、そいつは視線をもどした。ソファーの肘置きに頬杖して、含んだような眼差しを見せる。
「掴んでいる情報は、それだけじゃないわね?」
「いいえ……」
嘘を答えたが、バレるのは分かっていた。
そいつは愁眉を寄せると、体型に許せる範囲で身を乗り出した。囁くように言う。
「わたしだったら、その方法は取らない。危険が大きすぎる」
「…………」
こいつが沈黙している間に、そいつは続けた。
「わたしも、それはあいつだと思う。それならなおさら、正体が露見した今、あいつは維持しないとならない仮面もなくなって、本来の凶暴な――」
「あいつにも会いたいんです。友達のことを話したいから」
一息に告げる。
2008.10.05.
あれ、そして明日は日曜で合ってるんですよね。な時の不定期連載。
いかにも馬鹿げたことを言った時に、常に感じるひやりとした悪寒――それが背中を撫でるのを感じつつ、そいつの顔を見つめ続ける。
「歪んだものを正して回るつもり?」
そう問いかけるそいつの瞳は、悪寒をなぞり直すように冷ややかだった。
もちろん、そうだろう。自分は今、そいつが一番懸念しているところを、そうと分かって踏み抜いたのだから。
そいつは一歩退いて、眠るディープ・ドラゴンのほうを向きやった。
いまだ一度も目を開けていない深淵の森狼は、あの日から変わらず眠り続けている。一年前より大きくはなったし、丈夫にもなったろう。だが起きない。
鳴くことはなく、口を開くことすらないこの獣が、吠えるのを見たことがある。
いや。と、こいつは声に出さずに自分の返事を確かめた。歪みを直そうなどと大それたことを思っているわけではない。
そうではない。ただ、自ら直ろうとしている歪みは助けを求めて声をあげる。それを信じる理由が自分にはある。と思っている。
逃げるわけではなかったが視線をもどさないまま、こいつはつぶやいた。
「いろいろと、難しいのは分かっています――分かっているつもりで、きっとまだ足りないんだろうってことも」
「名前で呼ばなくなったわね」
突然、そいつは話を変えた。
思わず目をぱちくりして見やると、そいつは根負けしたように笑っていた。
「あの子のことをよ。なんだかわたしもつられて、名前で呼びづらくなった」
「……ここでは、わたしの知ってる名前じゃないから」
「そうかしら。今じゃもう、魔王ってほうが知れ渡っちゃって。わたしの弟の名前は忘れられてしまった」
言うなり、ソファーから立ち上がる。
こいつが慌てて手を貸すと、その手を取って、そいつは言った。
「行きなさい。考えてみたら、わたしは止めるばかりで、誰も送り出したことがなかった――止められないと分かってる相手までもね」
「?」
見上げる。が、そいつはそれ以上なにも言わなかった。