妄想日記 このページをアンテナに追加 RSSフィード

2007 | 05 | 06 | 07 | 08 | 09 | 10 | 11 | 12 |
2008 | 01 | 02 | 03 | 04 | 05 | 06 | 07 | 08 | 09 | 10 |

2008-09-25 再読文字と現代日本語

[]「すべからく」の用法 00:34 このエントリーを含むブックマーク このエントリーのブックマークコメント

以下の漢文をどう訓読するかご存知でしょうか。

行樂須及春

ポイントとなるのは「須」。これは再読文字と言われまして、その名の通り二度読みします。従って正解は以下。

行樂須ラク春ニ及ブベシ

漢文の「須」は一文字で「すべからく〜べし」となり、「必ず〜すべき」とか「当然〜すべき」とかいう意味になります。これは漢文訓読の規則ですから、漢文で(例文のような文脈で)「須」が現れたら、必ず「べし」で結ばれることになります。以上は漢文の訓読の場合ですが、では通常の日本語で「すべからく」が使われる場合はどうなるでしょうか。漢文訓読の場合と同様、「すべからく」は必ず「べし」で結ぶという文法規則になっているでしょうか。辞書の記述を確認すると、以下のように書いてあります。

すべからく{須く}

〈副〉 〔文〕 当然. ▼〜運動すべし

意味としては「当然」しか記載されていません。「すべからく」の由来は動詞「す」に推量の助動詞「べし」の付いた「すべし」のク語法からですが、現代日本語において由来と異なる意味を持つ言葉はいくらでもありますから不思議はありません。「すべからく〜べし」で「当然〜すべき」という意味ですから、「すべからく」だけで「当然」という意味になったのでしょう。ここには「『すべからく』は必ず『べし』で結ばれなければならない」とは記載されていません。他の辞書はどうでしょうか。

(副)

〔補説〕 漢文訓読に由来する語。「すべくあらく(すべきであることの意)」の約。下に「べし」が来ることが多い

当然。

[副]《動詞「す」に推量の助動詞「べし」の付いた「すべし」のク語法から。漢文訓読による語》多くは下に「べし」を伴って、ある事をぜひともしなければならないという気持ちを表す。当然。「学生は―学問を本分とすべきである」

「べし」を伴う場合が多いとは記載されていますが、必ず「べし」で結ばれなければならないとは記載されていません。漢文の「須」が「すべからく〜べし」だからといって、日本語の「すべからく」が必ず「べし」で結ばれなければならないとはなりません。「すべからく」は漢文訓読が由来なので、使われ始めた当初は常に「べし」を伴っていたと想像できますが、現代日本語においては「多い」とされるに止まります。

大辞泉の記述では“多くは下に「べし」を伴って、ある事をぜひともしなければならないという気持ちを表す”とありますので、現代日本語においては

(1)「べし」を伴う場合…「ぜひとも〜しなければならない」

(2)「べし」を伴わない場合…「当然」

ということがわかります。

「学生はすべからく勉強すべし」という文章は「学生ならば、学生であるという理由だけで、当然に、勉強すべきである(学生である、という以外の理由はいらない)」という意味ですし、「女性はすべからく美しい」という文章は「女性は、女性であるという理由だけで、当然に、美しい(女性である、という以外の理由はいらない)」という意味になります。「すべからく〜べし」が「当然〜すべき」という意味である以上、当たり前なんですけど。

以上、辞書の記載で確認する限り、現代日本語においては、「すべからくすべからくべしでむすぶべし」とはなりません。

さて、9月10日のエントリーで私は以下の文章を書きました。

三笠フーズ叩きの意見に対する反対意見はすべからく擁護意見であり、関係者の火消しだ

上記文章は「三笠フーズ叩きの意見に対する反対意見は、それが三笠フーズ叩きの意見に対する反対意見であるという理由だけで、当然に、擁護意見であり関係者の火消しだ、三笠フーズ叩きの意見に対する反対意見である、という以外の理由はいらない」という意味で、前述したように辞書に書いてある意味そのまんまで使っています。それに対してtakoponsさんから以下のコメントを頂きました。

もしかして、「すべからく」を「すべて」の高級表現として使ってますか?

辞書に書いてある意味をその通りに使い、その通りに解釈して問題なく読み取れるのに、なぜこんなコメントが出てくるか不思議でしたが、とりあえず「当然」の意味で使っていると返答しました。そうするとまたtakoponsさんから以下のコメントがありました。

本当ですか?

当然の意味で使う場合、「すべからく○○すべし」といった用例になるのでは?

takoponsさんは「sci98の『すべからく』の用法はおかしい」と指摘しています。「べし」を伴わない「すべからく」に「当然」の意味があるのなら、私の用法はなんらおかしな用法ではないのですが、takoponsさんはそうでなく、「すべからく」を当然の意味で使う場合、「べし」を伴う、と主張されています。

このtakoponsさんの指摘は初耳だったので(「すべからく」が漢文訓読に由来する以上、「すべからく〜べし」という使い方が多いのは当然ですが、単独でも使用され、その場合「当然」という意味になると理解していた)、ちょっと辞書を調べてみたんですけど、「『すべからく』は『べし』を伴う場合のみ『当然』の意味を持つ。『べし』を伴わない『すべからく』に『当然』の意味はない。」という旨の記述はありませんでした。それどころか大辞泉には「多くは下に「べし」を伴って、ある事をぜひともしなければならないという気持ちを表す。当然。」つまり

  1. 「べし」を伴う場合…「ぜひとも〜しなければならない」
  2. 「べし」を伴わない場合…「当然」

と、まったく逆の記述がされていました。なのでその旨返答したのですが、それに対してトラックバックを頂きました。これがまたどう返答していいか悩む文章なんですが、最後に質問も頂いていることですし、頑張って書いてみることにします。

(以下、引用は特に断りのない限り上記エントリーから)

>念のためいくつかの辞書で確認してみましたが、そのような記載はありませんでした。

本当ですか?

すべからく○○すべし」といった用例の記載は本当に無かったのですか?

ええと、私は“「すべからく○○すべし」といった用例の記載がない”とは一言も言ってないんですけど

takoponsさんの主張は“(「すべからく」を)当然の意味で使う場合、「すべからく○○すべし」といった用例になるのでは?”ですよね。それに対して私は“「べし」を伴わなくても「当然」という意味になる”と理解しているわけです。念のため言いますと“「べし」を伴う場合「当然」という意味にはならない”という主張もしていません。すべからく」が「べし」を伴った場合にどういう意味になるかについては、私は何も言っていません

「そのような記載がない」というのは、「『すべからく』は『べし』を伴うことによって『当然』という意味になる」という旨の記載がない、ということです。

すべからく」を用いたら「○○すべし」または「○○すべき」と続くハズであるが、しかし、sci98さんの文章は「すべからく○○べし」というような言い回しになっていなかったので、もしかして誤用なのかな?と思ってコメントしたのです。

“「すべからく」を用いたら「○○すべし」または「○○すべき」と続くハズ”というのはtakoponsさんの誤解でしょう。「すべからく」は「べし」で結ばれることが“多い”ですが、“絶対”ではありません。

↑『多くは下に「べし」を伴って、ある事をぜひともしなければならないという気持ちを表す』と書いてあります。

そうです。多くは「べし」を伴いますが、“多く”に止まります。そして「『べし』を伴う場合は『ある事をぜひともしなければならないという気持ちを表す』」のであって「『べし』を伴う場合は『当然という意味になる』」のではありません。

引用文の用例を補完すると、「学生はすべからく学問を本分とすべきである」となります。

私は「すべからく〜べし」という用例はないとか、「べし」を伴ったら「当然」という意味を持たなくなるとかは主張していませんので、意味のない一文です。言ってもいないことについて言及されても困ります。

↑ここの用例に「〜運動すべし」と書いてあります。補完すると、「すべからく運動すべし」となります。この用例から私は、『当然の意味で使う場合、「すべからく○○すべし」といった用例になるのでは?』と質問しました。ですので、私の見た辞書は、sci98さんご自身が提示なさった辞書(三省堂 Web Dictionary)となります。

辞書の読み方に相当問題があるようです。「そういう用例が記載されている」からといって「それ以外の用例はありえない」とはなりません。「果たして」を同辞書で検索すると、

〈副〉 (1) 予想どおり. (2) 本当に. ▼〜どうなるか

と記載されているんですが、これを見て“「果たして」は疑問を表す語を伴う”と判断するんでしょうか。「果たして」は疑問文でも使いますが、疑問文以外でも使います。用例が疑問文の場合を使っているだけです。

すべからく」を「当然」の意味で使う場合、「すべからく〜べし」といった用例になる場合がある、という主張なら正しいです。ただし、その主張なら「それがなにか?」としか言えませんが。

もう一度、最初の質問を繰り返します。

sci98さんはもしかして、「すべからく」を「すべて」の高級表現として使ってますか?

いえ、「当然」の意味で使っています。


私の方からtakoponsさんに質問させていただきますが、

(1)takoponsさんは「すべからく」は必ず「べし」を伴わなければならない、と考えていますか?

上記質問に対する答えが「はい」ならば、それを裏付ける記載のある辞書をお示しください。念のため言いますが、「『べし』を伴うことが多い」とか「『べし』を伴う用例が記載されている」ではダメですよ。「『べし』を伴うことが多い」というのは「多くはないが『べし』を伴わない場合がある」ということで、「必ず伴う」という主張の反例にしかなっていませんし、「『べし』を伴う用例が記載されている」というのは「『べし』を伴う場合がある」という主張の裏付けにしかなりません。

上記質問に対する答えが「いいえ」ならば、次の質問をどうぞ。

(2)takoponsさんは「べし」を伴わない「すべからく」には「当然」という意味はない、と考えていますか?

上記質問に対する答えが「はい」ならば、それを裏付ける記載のある辞書をお示しください。念のため言いますが、「『べし』を伴う用例が記載されている」ではダメですよ。「『べし』を伴う用例が記載されている」というのは「『べし』を伴う場合がある」という主張の裏付けにしかなりません。

上記質問に対する答えが「いいえ」ならば、「『すべからく』は『べし』を伴うとは限らない。『べし』を伴わない『すべからく』は『当然』の意味で使われ得る」ということでよろしいかと。


  • 追記

エントリーにいくつかのブコメを頂き、takoponsさんのエントリーの方にもブコメがありましたので、それに対するちょっとした補足やまとめなどを追記しておきます。

2008年09月26日 kana-kana_ceo 言葉

必ずしも「べし」と呼応するかどうかは微妙だけど、「なすべきこととして」から「当然」の意が導きだされるので、「当然」の別表現として単純に使用出来るかどうか。「べし」の無い場合の例文の正しいあり方。

すべからく」が「当然」の別表現として単純に使用出来るかどうかというと、私は否定的です。「すべからく」が細かなニュアンスまで含めて「当然」と全く同じかというとそうではないからです。

上記2つの文は基本的には同じ意味なんですけど、ニュアンスが異なります。どう異なるかというと、困ったことに正確に文章では表現できません。これは私の文章表現能力が劣るせいなのか、文章で表現することの限界なのか、それはわかりません。できないのは承知の上で、頑張って書いてみます。

すべからく」はその由来ゆえか、単なる「当然」とくらべて、その結論に対し「あらまほし」という香りを漂わせています。本当に微妙なニュアンスなんですけど、そういうものがあるのですね。で、私の9月10日のエントリーの「三笠フーズ叩きの意見に対する反対意見はすべからく擁護意見であり、関係者の火消しだ」なんですが、これは、具体的には紹介エントリーの一発目のコメントを書いた人、一般的には「論理的に考えることを放棄して、ただ三笠フーズを叩いている人」が、「そういう意見を持っているだろう」と私が主張している文章です。そしてこういう人たちは、「だってそう思うんだもん」という、理屈もなにもない、単なる自己願望をもって、そう判断しているわけです。当然でもなんでもないことを、単なる思い込み、決め付けで当然だと思っているわけですね。そういう自己願望に基づく決め付け意見であるという含みを持たせるため、「すべからく」を使ったのです。

(何度書き直しても上手い説明ができないんですが、言わんとすることを汲み取って頂ければと思います)

そういう意味では、

2008年09月26日 rinsenan 言葉, 表現

つまり「当然」の気取った表現である、というFA/今後呉先生に絡まれた知識人はこの手を使おう

“「当然」の気取った表現である”というコメントは、的を射てはいませんが、大きく外してもいません。「当然」にはない含み(それを言葉で表すのは困難ですが)を持たせるための表現です。

そしてtakoponsさんのエントリーの方には以下のようなブコメがありました。

2008年09月25日 NOV1975 言語, 言葉

伝統的用法こそ正しい日本語派なのかな。すべからくXXはそろそろ辞書に載りそうなくらい「全て」の意味で使われているようにも。

“伝統的用法こそ正しい日本語派”も程度問題とは思いますが、私の場合はそれとは逆で、言葉は時と共に変わると思っていますから、見慣れない用法であっても気にしません。同じ副詞を重ねて強調を表す「とてもとても」とか「極めて極めて」という表現は一般的なもので誰も気にならないでしょうが、別の副詞を重ねた「極めてとても」とかは気になる人もいるんじゃないかと思います。でも私は気にしません。「すべからく当然(あるいは当然すべからく)」とかも、別に気にしませんし、自分でも、その表現によって出せる含みが必要だと思ったら使用することでしょう。


  • 追記2

またまたトラックバックを頂きました。

“Put 「べし」 or not, that is not a question.”からみて「『べし』を伴う伴わないに関係なく、『すべからく』単独で『当然〜しなければならない」』の意味になるんだ」という主張かなと思い読みましたら、果たしてその通り。「女性はすべからく美しい」は「女性であるからには当然美しくなければならない」という意味になるんだそうです。

面白い意見ですが、惜しいことにソースがありません(致命的な欠点と思う人もいるでしょうが、私はこんな個人的見解を読むのも好きです)。「『すべからく』は単なる当然と異なり、願望・希望的な含みがある」という主張ならわかるんですけど。

三省堂 Web Dictionaryの記載に対する主張がちょっと面白かった。

「記載されて」いた「当然」は、「意味として」ではなく直接の表記に過ぎず、意味は「〜すべし」の方にあるんじゃないの?

それ、親見出しの用例ですから。

一瞬、子見出しと間違えたのかなと思ったけど、それでもこの主張はないよね。ちなみに「果たして」についての記載は

〈副〉 (1) 予想どおり. (2) 本当に. ▼〜どうなるか

「予想通り、本当に」は直接の表記に過ぎず、意味は「〜どうなるか」の方にあるそうです。しかし「直接の表記に過ぎず」というのも、何が言いたいのかよくわからない表現ではあるなあ。


  • 追記3

またまたブコメを頂きました。追記がどんどん長くなってくる…

2008年09月27日 crimsonstarroad

広辞苑より。意味:なすべきこととして。当然。 用例:「すべからくあながちおぼつかなさをあきらめむ」「すべからくは神武天皇をはじめ奉りて」 なすべきこととしてと言い換えられるかがポイント?

すべからくあながちおぼつかなさをあきらめむ”は、「すべからく」を「べし」でなく、同じく推量の助動詞である「む」で受けている形ですね。

  • すべからく日本の伝統を守るべし ←「べし」で受ける
  • すべからく日本の伝統を守らん  ←「む」で受ける(現代仮名遣いでは「ん」)

takoponsさんは“「すべからく」を用いたら「○○すべし」または「○○すべき」と続くハズ”と主張されているので、これも誤用だとされるんでしょうけど、私にはその主張は違和感ありありです。

なすべきこととしてと言い換えられるかがポイント?

そのまま言い換えられるかどうかはともかく、単なる「当然」との違いは、なすべきこと、あるいはあるべきことという、そういう願望的な含みがあることだと思います。kana-kana_ceoさんのブコメへのコメントでも書きましたが、単純に「当然」と同じものとは感じません。「当然のこととして」とか、そういうニュアンスでしょうか(これも微妙な表現だな)。


  • 追記4

takoponsさんから回答を頂きまして、共に「いいえ」だそうです。ならば「『すべからく』は『べし』を伴うとは限らない。『べし』を伴わない『すべからく』は『当然』の意味で使われ得る」でよろしいかと。takoponsさんの細かいコメントについては他の方から同様のコメント・トラックバックが寄せられており、そちらへのコメントで十分と思います。

ただ、takoponsさんの追加質問についてちょっと苦言を述べさせていただきます。takoponsさんの前回エントリーのタイトル「すべからく用例を確認すべき 」、これこそ誤用ではないかと疑問を持たれる一文です。takoponsさんは「すべしを伴っているのだから誤用と思われる心配はない」と思っているのかもしれませんが、話の流れ的には、「すべて」の意味、すなわち誤用だと判断する方が自然です。正直言うと、この部分にはあきれました。それを自覚しないまま相手に質問を投げかけても答えを期待するのは難しいでしょう。

通りすがり通りすがり 2008/10/01 04:07 論じ合うことが目的であるのなら、、、すばらしいことだとおもいます。

が、コミュニケーション(意思疎通というべきか)が最終的な目的だとすると、
「誤用と捉えられる表現を敢て選択する」ことは、マイナス面が多すぎるでしょう。

もっとも、その微妙なニュアンスを伝えるためには、言葉の由来的には、
「限りなく誤用に近い領域」でしか表現できない感覚なのかもしれません。

勢いで書き、後悔しているのか。
推敲を重ねた結果、満足しているのか。

sci98sci98 2008/10/04 23:54 通りすがりさん、コメントどうも。
私がいま思いついた例ですが、生きる希望を失った人々がイエスの元に集まり、それに対してイエスが神の愛や自ら死を選ぶのは神の意思に背く事などを説く場面があったとします。それを日本語の文書にしたとして、最後の文が以下のようになっていたとします。
・最後に、主イエスは民に向かって言われた。「すべからく生きよ」
通りすがりさんはこれを否定されますか?「すべからく生きるべし」にした方がいいと思いますか?私はそうは思いません。その理由が「すべからくは必ずべしで結ばれる」と勘違いしている人が誤解しないため、というだけのことならなおさらです。
ちなみに、このような用法が昔からあるのはご存知ですよね。

通行人さん、コメントどうも。
大本を遡っていけばずべからくをべしで結ぶのは寧ろ後になってからなので、明治時代ですらそんな話はなかったと想像するんですが…。単なるかっこつけで流行った可能性もありますし。まあ大筋は同意。由来がどうこう言えば「男はすべからく妻子のために一所懸命働くべし」なんていうのも誤用になるんですが、いまどきそんなことをいう人はいませんしね。

通行人通行人 2008/10/04 12:05 明治時代に「すべからく」を受ける「すべし」の無い文章を書いたら無教養と見做されたでしょう。しかし平成のこの世では、本題を無視してそこだけ突っ込み入れるほどの誤用ではありません。伝聞で申し訳ないのですが、昭和初期の公文書において既に「すべし」が抜けている物は散見されるそうです。