習慣として
「戒律」というと、
「絶対ダメ!やっちゃダメ!禁止よ!守らなきゃダメ!」
という厳しいイメージがある。
その『戒律』の語源を調べてみたら、“シーラ”というインドのサンスクリット語で、意味は《習慣》という。
つまり、
戒律とは頭ごなしに
「ダメよ!禁止よ!」
じゃなく、
それが「習慣化」されて身に付く事を目指しているのだ。
変な例だが、
歯みがきを習慣化していると、歯みがきをサボるとどうも気持ち悪いっていう感覚。
だから、
殺生を禁じる戒があったり、盗みを禁じる戒律があったり、ウソをつくなという戒があったり、不倫を禁じるがあったり、酒を飲むなという戒があったりするのは、それを厳しく戒め、「習慣化」されるまで繰り返しながら、仏道修行の完成を目指す。
でも、実は我々の浄土真宗には「戒律」がない。
けれど、
お念仏の教えを聞きながら、教えに照らされた我が身を見つめていく、という道をいただく。
食べ物として命を奪わなきゃ生きられない痛み、ウソをついてしまう痛み、酒を飲んで失敗した苦々しさ、他の異性に興味を惹かれるてしまう弱さ・・・・など、日常化された日々の営みの中で、どれだけ自分自身の自己中心的な立ち振舞い、行為が根底となっているのか?その自分自身の姿にハッ!と気づく視点を習慣としていただいているか?
いくら戒律がない浄土真宗でも、
教えに我が身を照らされる「習慣」としての「シーラ」はあるのだなぁ。
南無阿弥陀仏。
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