鳥取県岩美町出身の外交官で、戦後初の国連大使を務めた沢田廉三(一八八八−一九七〇)が太平洋戦争の終結が迫った四五年八月十四日に、岩美町に疎開していた妻の美喜にあてた手紙で戦争終結をほのめかし、戦後の日本再建に参画する意欲を書き残していたことが十三日までに、県立公文書館の調査で分かった。
|
妻に終戦をほのめかした1945年8月14日付の手紙=鳥取市尚徳町の県立公文書館
|
同館によると、外務省の中枢にいた沢田が無条件降伏を決めた十四日の御前会議の内容を事前に知っていた可能性もあり、終戦前後の現代史を研究する貴重な史料という。
沢田は二度にわたって外務次官を務め、この時期は外務省嘱託。戦中、戦後に外務大臣として活躍し、日本側全権として降伏文書に調印した重光葵(まもる)と親しい関係にあった。
手紙では「国際情勢の急変により浦富の冬籠(ごも)りも必要なくなり存外早く(東京の)番町の家に家族のレーユニオン(再会)を行ひ得るに至るやも知れずそのつもりにて居(お)られたく候(そうろう)」と終戦によって家族が東京で再会できる期待をにじませた。
さらに「時局急転につき重光君も上京し来り…小生の浦富帰省も実現不可能かもしれず候」と記しており、終戦の情報を入手していち早く戦後の新体制構築に参加しようという意欲も読み取れる。
沢田は開戦後の早い時期から重光と連携して終戦処理に向けて活動しており、戦後の自らの役割を見いだしていたと思われる。
手紙は、美喜が戦後に創設した混血孤児の養育施設「エリザベスサンダースホーム」に残されていた史料の中にあった。史料は終戦前後に美喜にあてた手紙やアルバムなど約千点あり、財閥解体の予想や進駐軍統治の混乱ぶりなどを記した内容もある。
貴重な新史料
酒井哲哉東大教授(日本外交史)の話 機密保持に敏感な外交官のまとまった史料は珍しく、終戦前後の歴史を解明する貴重な新史料だ。終戦の情報をどこで得たのか確定は難しい。この時期の外交官は国内政治家の役割も務めており、重光と一体となって戦後の再建に取り組む意欲を示している。