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厚生年金の記録の改ざん問題で、保険料算定のもとになる標準報酬月額を大幅に引き下げた例が75万件あることが明らかになった。
ほかに、半年以上さかのぼって標準報酬月額を引き下げた例が53万3千件、厚生年金からの脱退手続きと月額の引き下げをほぼ同時期にしたのが15万6千件あるという。
改ざんが疑われるのは6万9千件とされていたが、もっと大量にあると疑わせる数字だ。
これらがすべて改ざんだとは言いきれない。経営難で給料を大幅に下げることもあるし、中小・零細企業などで事務が追いつかず後で訂正するケースもあるからだ。しかし逆に、これら3条件に当てはまらない改ざん例も、このほかにあるに違いない。
政府はまず、改ざんされた疑いのある事例を徹底的に洗い出し、全容を公表すべきだ。そのうえで、改ざんされたものか1件ずつ確認して記録を正し、本来の額の年金を支給するよう全力をあげなければならない。
同時に舛添厚生労働相には、改ざんされた経緯とその責任を明らかにしてもらいたい。すでに舛添氏は改ざんに「組織的関与はあったと思う」と認めている。責任者を突き止め処分するとともに、こんなことが二度と起きぬよう、社会保険庁を解体した後の態勢づくりに生かさねばならない。
それにしても、今回の公表には疑問がわく。先に疑わしい6万9千件を抽出した時点で、今回の数字も分かっていたはずだ。それなのに、なぜいまになって明らかにしたのか。
9月末にもとされていた衆院の解散が少し遠のき、来週からは予算委員会でこの問題も審議される見通しになった。数字は隠しておくつもりだったが、国会で野党の追及を受けるなら、その前に出した方が得策だと考えたのか、と勘ぐりたくもなる。
折しも、自民党の国会対策委員会が全省庁に対し、野党から資料請求があった場合には、自民党に相談するよう求めていたことが明らかになった。
与党から「相談せよ」と言われれば、役所が資料を出し渋るようになるのは目に見えている。政権側に都合の悪い内容であれば、なおさらだ。
年金記録問題に始まって、道路予算のずさんな使い方に、居酒屋タクシー……。野党の資料請求をきっかけに、政府と役人のあきれた実態が次々に暴かれてきた。自民党は総選挙を控え、そうした追及の元を絶ちたいということなのだろうか。だとすれば、なんとも姑息(こそく)ではないか。
もとより、役所の持つ情報は国民全体のものだ。国会から求めがあれば公開し、それをもとに堂々と議論を戦わせてこそ、年金記録問題の解決の道筋も見えてくるのではないか。
秘密の情報を新聞記者に提供したとして、防衛省はおととい、航空自衛隊の幹部を懲戒免職にした。この幹部は自衛隊法違反容疑で書類送検されていたが、検察庁が起訴するかどうかまだ判断していない段階での処分は極めて異例である。
問題となったのは、3年前に中国海軍の潜水艦が南シナ海で事故のために航行不能になっていることを報じた読売新聞の記事だ。
防衛省によると、防衛省情報本部の課長だった1等空佐が読売新聞の記者に秘密情報を伝えた。それが、自衛隊員が漏らした場合に厳罰が適用される「防衛秘密」にあたるというわけだ。
1等空佐は自衛隊の警察組織に事情聴取を受け、自宅も捜索された。だが、昨年、事件が明るみに出た後も、記者の側は取り調べを受けていない。当時の久間防衛相は、自衛隊法について「漏らした方を罰する仕組みで、通常の取材を罰する法律ではないから」と説明した。
しかし、政府の職員が報道機関に情報を漏らしただけで罰せられるならば、取材を受ける方もする方も萎縮(いしゅく)しかねない。つまりは、報道の自由、国民の知る権利を妨げることになる。
さらに疑問なのは、何が「防衛秘密」なのか、その基準があいまいなことだ。このまま厳罰化が進めば、政府は都合の悪いことは何でも隠せることになってしまう恐れがある。
今回の拙速な処分は、こうした国民の知る権利をめぐる懸念に対して、あまりに配慮が足りない。
そもそも、中国の潜水艦が事故を起こしたことは、周辺海域の航行の安全を考えれば、むしろ国民に明らかにしてもいい情報ではないか。
ところが、日米間では軍事情報の共有化が急速に進み、米側は機密保全を強く求めている。防衛省は米軍の意に添うことを重視するあまり、日本側にとっての公共の利益を軽んじた面はなかったろうか。
国防の根本は、自由で開かれた日本の民主主義体制を守ることだ。そのための自衛隊がむやみに「防衛秘密」を肥大化させ、結果的に民主主義の基本である国民の知る権利を制約するようでは、本末転倒である。
米国でも、軍事に関する情報の漏洩(ろうえい)をめぐって、政府の利益か、国民の知る権利かで激しい論争が繰り広げられてきた。
たとえ政府が隠そうとしても、国民が知るべき情報を探りだし、明らかにするのは報道機関の責務である。今回の事件を通じて、その責任の重さを改めて痛感する。
読売新聞が結果として情報源を守れなかったのは極めて残念だ。報道には、それにふさわしい自覚と厳しい自己点検が伴わなければならない。