日本に渡ってきたわけ

 朝鮮王朝は、1897年に国名を大韓帝国とあらため、自主独立をはかろうとしましたが、
日本の武力による圧迫のため保護国とされ、1910年にはついに植民地にされました。日本
の植民地政策により、土地を奪われたり、没落したりした朝鮮農民は、生活の糧を求めて
日本に働きに来ざるを得なくなりました。

川崎に来たわけ

 川崎における在日朝鮮人の歴史は、工場地帯の歴史と共にあるといえるかもしれません。
 1920年代から30年代、朝鮮の厳しい植民地政策と川崎の工業化の発展が重なり、川崎の
街には朝鮮人が増え、下請け、雑用などで働きました。日本の生活が長くなり、家族を呼び
寄せ、大雨が降れば家屋が水につかり「あひる長屋」と呼ばれるような環境の中で、朝鮮人
集住地域が形成されていきました。1920年代、不況が深刻化しても、低賃金労働者として
雇用され、さらに地縁(同じ故郷の出身)、血縁(親戚関係)を頼って、「朝鮮人が働ける
場」として、川崎の位置が定まっていきました。
 1923年9月1日、関東大震災が起こりました。関東一帯に「朝鮮人が暴動をおこす。」
「井戸に毒を入れている」というデマが広まり、日本人は自警団をつくって、各地で朝鮮人
狩り、リンチ殺人を繰り返し、6000人に及ぶ虐殺を行いました。川崎市内で日本人住民に
暴行を受け、虐殺された朝鮮人の記録もありますが、十分な調査はされていません。
 震災により、一時的に帰郷した人はたくさんいましたが、日本の植民地支配によって、朝
鮮で土地を失い、別の生活の手立てを求めざるをえないという状況は、ますます深刻化しま
した。関東では、震災の復興事業として、働く人たちが求められていました。そして、朝鮮
人虐殺の恐怖もさめやらない時期に、朝鮮人労働者が急増しました。1925年、日本鋼管や
浅野セメント(今の第一セメント)に労働者を運ぶために、鶴見から大師まで、海岸沿いに
電車がひかれました。電車の海側は、干拓が進められていましたが、一面アシが生い茂って
いました。その一画、今の池上町あたりに、朝鮮人が数戸軒をつらねはじめました。そして
、道を隔てた向かいに鋼管に電気を送る「群馬水電」がありました。(現在の東電資材置き
場)今でも池上町を「群電前」と俗称する由来です。
 また、震災による防災意識が高まり、燃えない建築材料として、砂利(ジャリ)が求めら
れ、多くの朝鮮人が多摩川の砂利を取る仕事につきました。戸手の多摩川河川敷の朝鮮人集
落の成立も、この時代までさかのぼります。
 1930年代後半、日本と中国の戦争が本格化すると、戦争にかり出されることも本格化し
ていきました。そして、1939年からは、朝鮮人も強制的に戦争のために働かされることに
なります。「募集」や「官斡旋」という形をとったものから、畑で働いていて突然暴力的に
連れて行かれることまで、さまざまでしたが、みな、そこから逃れることは許されませんで
した。娘が徴用にとられ乱暴されることを恐れた親たちは、娘を早くに結婚させようとしま
した。
 川崎でも戦争に必要なものをつくるため、たくさんの労働が必要になり、田島地区に
急ごしらえの住宅が無計画に建てられ、飯場や寄宿舎が建ち並びました。1935年急激な人
口増加で、大島小学校から別れ出るように桜本尋常小学校が創立されました。この頃の地名
は、「川崎市字堤外」という名でした。
 こうして、1940年代には、川崎は朝鮮人集住地帯として有名になり、朝鮮人にとって、
川崎に行けば仕事と住まいがなんとかなるという空間として機能してきました。共同体とい
うほど居心地のいいものではなく、とりあえず身を寄せる緊急避難所として、特に地縁をた
どって、慶尚南道出身の人たちが、身を寄せあうようになりました。
 戦争末期、日本各地で地獄のような強制労働の場から、命からがら逃亡した朝鮮人労働者
は、川崎を目指しました。

戦時下のくらし

 戦争に動員され、あるいは結婚や親に連れられて渡日した朝鮮人は、働きづめに働かされ
ました。見知らぬ土地での生活で、ことばもわからず、たべものも不足し、その上厳しい民
族差別にもさらされました。
 日本に来た時期や年齢によって、暮らす環境に違いはありましたが、日本に来てからは、
外にでて働かざるを得ませんでした。川崎には、重要な生産の工場がありましたから、空襲
も大変に厳しく、それでも、疎開によって働き手が不足する中、命がけで働く朝鮮人労働者
の姿がありました。小さいうちから子守り奉公や親の手伝いで学校にも行けず、学校にいっ
た経験をもつ人も、朝鮮人にはみな貧しく、「きたない」と朝礼でつつかれるので、何人も
の朝鮮人のこどもたちが、講堂の裏で、朝日を見ながら、朝礼が終わるのを待っていたとい
うことです。

解放ー帰国準備

 1945年日本の敗戦は、朝鮮人にとっては、日本の植民地支配からの「解放」でした。戦
争後期、強制連行、強制労働させられていた人たちは、その多くが単身であり、生活の基盤
もないので、家族の待つなつかしい祖国へとなだれを打って帰っていきました。 しかし、
長く日本に暮らしてきた人たちは、そう簡単には日本を離れられませんでした。しばらく
は、日本政府の朝鮮人への送還体制が整わず、博多や下関などの港付近に滞留せざるを得
ませんでした。さらに手荷物・所持金が制限され、アメリカとソ連の分割占領下の朝鮮の
社会が混乱していることが伝わってきて、故郷に生活基盤を持たない人、小さいこどもを
抱えた人がしばらく、帰国を見合わせました。また、一度帰国して、朝鮮では食えないと
日本に戻ってくる人もいました。そうした人たちも、ひとまず川崎に身を寄せました。
 空襲で焼け野原になったセメント通り一帯にも朝鮮人によるバラックが立ち始め、どぶ
ろく小屋も2軒ほど店を開きました。産業道路沿いには、軍需産業に従事する日本人従業
員の社宅が立ち並んでいました。。敗戦と同時に、ほとんどの従業員が郷里に引き揚げ、焼
け残った日本人社宅は空き家になってしまいました。そこへ、それまで、工場内の寮などに
収容され、強制的に働かされていたり、粗末なバラック小屋で雨露をしのぎながら土木作業
を続けていた朝鮮人が移り住みました。
 こうして、戦前よりあった池上町(旧桜本三丁目)や現在の桜本二丁目(旧池上新田中留
耕地)そして、セメント通りを中心とした、浜町に、朝鮮人が集住するようになりました。

日本ーアメリカの朝鮮人敵視政策

 戦争が終わって、朝鮮人は解放されました。戦争と差別に最も苦しめられた生活を余儀
なくされた朝鮮人は、戦争のない平和な世の中になってほしいと戦争に反対し、人間らし
い生活を求めて果敢に活動する人たちもたくさんでてきました。日本人といっしょになっ
て、反戦平和、弱い立場の人の暮らしを守る活動を展開しました。しかし、世界は戦争が
終わっても、アメリカとソ連という二つの大国を中心とした新しい戦争の匂いが漂い、ま
たも朝鮮を舞台に、戦争がくりかえされました。
 日本を統治するアメリカと日本の政府は、そうした朝鮮人の活動を快く思わず、敵視政
策をとりました。同化(民族性を抹殺する)と追放(日本から出て行け)の政策が、巧妙
に展開されました。
 日本人が朝鮮を植民地にし、36年間占領統治したことから、今度は、日本に暮らす朝鮮人
に、本人が選ぶ権利も認めず、一方的に日本国籍を奪いました(1952年)。そして、一律に
外国人登録をするように求め、いつも登録証を持ち歩くことを決定していきました。その
一方で、国民健康保険、国民年金、公営住宅入居など、その後、国民生活の安定のために
整備される社会保障制度には 、すべて国籍条件を設け、日本に暮らす朝鮮人をその恩恵か
ら排除していきました。
 民族教育、学校を守る活動でさえ、警察と向き合い、命がけで守らねばならないほど、在
日朝鮮人の民族的活動には敵視、抹殺政策がとられました。
 地域社会でも、朝鮮人家庭は、朝鮮語のわかる掲示が近所を訪ね、情報収集にさらされ
ていました。日本人家庭では「民主警察」の指導のもとで、戦争遂行の地域単位として解
散させられた隣組制度が「町内会」として再生され、今度は地域の「治安」回復、生活モ
ラルづくりがすすめられました。結果、日本人の民衆と朝鮮人の民衆が、戦後生活の中でき
っちり分断させられ、朝鮮人は、生活上の様々な悩みも民族団体に依拠せざるを得なくな
り、日本人は「朝鮮人は町内会に消極的」と陰口をたたき、ごみの出し方ひとつにも排外
的言辞をあびせる差別の再生産が行われました。

住宅 住環境

 朝鮮人の多く澄む場所は、その多くが住環境の悪い場所に集中しています。朝鮮人の多
くの家庭では、主に女性たちが、どぶろく作り、くず鉄あつめなどの雑業的な仕事をなん
でもこなして、生活を支えました。家の中でせざるを得ないので、大家から、家で勝手な
ことをやると立ち退きを迫られることもありました。「追い出されない家」を確保するため、
人のいない場所(沼地や河川敷)にバラックを建てて住むなど、たいへんに苦労しました。
そうやってやっと建てたバラックが、「不法占拠」としてまた、立ち退きを迫られました。
「朝鮮人に家を貸すとたいへんなことになる。汚くされ、何人もいろんな人が出入りする」
 差別の結果、厳しい暮らしを強いられた朝鮮人の生活の実態をみて、さらに朝鮮人への
差別意識を再生産していきました。
 おおひん地区では、軍需工場の閉鎖で空き家になった社宅などに朝鮮人が住み込み、また、
朝鮮に帰国した人の空き家に引揚者の日本人や他地域からの朝鮮人が入るなど、混在が進み
ました。職と家のない人たちは、同じように、日本人も朝鮮人もどぶろく作りやくず鉄集
めなどの生活で助け合いました。が、家持ち、土地持ちの人たちの中には、今も「朝鮮人に
家を取られた」という強い被害者意識が存在しています。
 池上町では、水道が一個しかない中で、暮らさざるをえないなど、住環境では川崎で最
も厳しい地域でした。また、煤煙もひどく、今、公害で苦しむ在日一世の健康は、この時期
蝕まれていったものです。

しごと

 戦争が終わり、朝鮮人は解放の喜びを力いっぱい表現する一方、生活は厳しさを増しま
した。軍需産業の仕事がなくなり、戦時産業に携わっていた男たちは仕事を失い、戦後生活
を支えたのは主に女性たちの驚くべき長時間、重労働でした。戦後すぐは、焼け野原とな
った街で、スクラップ、廃品を集めました。
 それから、川崎の女性たちは、どぶろくづくりで一時的に生活を支えました。
 朝鮮の農村では、酒作りの伝統がありました。その技術が、日本社会の庶民の暮らしに
強く支持されました。日本人の働く人たちも、どんぶりをもって買いにきましたし、同じ
長屋に住む日本人も、どぶろく作りの手ほどきをうけ、生活のたしにしました。東京から仕
入れに来る人、清酒を精製する機械を導入し、流通に関わる人も出てきました。
 また、朝鮮の進んだ食肉文化も、戦後生活のなかで、庶民の暮らしを支えました。日本
人が調理しない内臓肉を安く仕入れ朝鮮風に味付けして、どぶろくといっしょに出して
商売を始める人も出てきました。これが、重労働で働く人の安くておいしいエネルギー源と
なった、川崎の焼肉屋街のはしりでした。
 しかし、お酒は、国の税収になり、当時も今も、自分で作って飲むことさえも禁止され
ています。
 品不足で、なかなかお酒も出回らない時代、広く庶民の生活を支えましたが、国の取り
締まりは、だんだん厳しさを増しました。武装した警察官を大量動員し、国税庁による大
量検挙も重ねられました。1949年に復活開庁した臨港警察署は、どぶろくの検挙に躍起に
なりました。このことは、単に酒税法違反の事件としてだけではなく、背景に、日本政府の
朝鮮人敵視政策が見え隠れします。新聞各紙は、密造酒があたかもすべて朝鮮人の不法行為
であるかのように書きたてました。しかし、実際は、密造酒で検挙された人の8割5分は日
本人でした。一般の日本人は、マスコミの報道などにより、「不法行為で金儲けする朝鮮人」
という偏見を植え付けられました。
 また、敗戦後すぐ、食糧不足が続き、やみ市が庶民の生活を支えました。「やみ米」を断
固として食べずに亡くなった日本人裁判官は広く知られていますが、流通の仕組みが崩壊
していた戦後、人々は、やみ市にたより、それに関わる朝鮮人もいました。しかし、圧倒
的多数が日本人であったにもかかわらず、「日本経済をかく乱する『第三国人』」というキ
ャンペーンが繰り返され、「朝鮮人がやみ市を牛耳っている」「新しい円の大半を手中に入
れている」という話が、国会議員の発言や新聞、雑誌で伝えられ、日本人民衆に差別意識
を拡大再生産していきました。
 どぶろくづくりも、やみ市も、朝鮮戦争で日本経済が上向き、品物が正規に流通してい
くと、急速に壊滅状態になっていきました。

教育 学校

 戦争、貧困、民族差別、女性差別により、特にハルモニたちは、ほとんど学校教育を受
けることはできませんでした。しかし、解放を迎え、日本にいる朝鮮人は、力を合わせ、
帰国-建国事業にとりくみました。そして、こどもたちには、将来の国づくりのために、同
化教育で失われた民族の言葉を取り戻すべく、「金のあるものは金を、知恵のあるものは知
恵を、力のあるものは労働力を!」をスローガンに、全国各地に民族学校を作りました。
1948年の統計では、642校、67164人が民族学校に就学しました。
 しかし、帰国-建国事業、民族教育事業、反戦平和、生活権擁護と、朝鮮人の活力ある
運動に対し、日本政府もアメリカ(GHQ)も、脅威に感じ、敵視する政策を打ち出して
いきました。戦後すぐの朝鮮人に対する扱いは、「外国人」とみなしたり、「日本人」とみ
なしたり、都合のいいように管理しました。そして、1948年「いまだ、日本国籍があ
るのだから、朝鮮人だけの学校は認められない」と「民族学校閉鎖令」が出され、全国の
在日朝鮮人の活力の拠点となっていた民族学校を力で大弾圧しました。
 川崎でも、1946年戦災のために焼け跡となっていた大島小学校地に、自主学校川崎
朝鮮小学校が創設されましたが、閉鎖令に対して、桜本小学校分校として、民族学校を守
る活動が続けられました。その後、大島小学校復興運動が、地域で起こり、現在の桜本2
丁目に移転しました。地域に古くからいる人の中には、「朝鮮人に学校をとられた」と考え
ている日本人、「日本人に学校をとられた」と考える朝鮮人がいます。日本政府は、その後
も、日本の学校では、民族教育は認められないと閉鎖命令を出し、日本人学校の分校と
しての位置付けも廃止され、自主学校を経て、現在にいたってます。
 一方、日本の学校に就学せざるを得なかった朝鮮人に対しては、外国人として恩恵的に
就学を認め、民族教育の配慮はしてはならないとされました。そして、入学にあたって、
「日本の法律を守ります」とする誓約を取らされました。
 何もない厳しい生活を支えたのは、朝鮮の女性たちのたくましさでした。戦中、戦後の
何もない時代、それでも、朝鮮の味を家庭に守るため、とうがらしやごまの葉の苗が出回
りました。公園や路地の小さな場所に苗を植え、育て、キムチをつけ、それで、食卓を守
りました。朝鮮の農村で育ったハルモニたちは、薬食同源で、緑豊かな季節には草木を採
取し、身体にいい食べ物を分かち合いました。
 民族差別の厳しい中、民族を守り、地縁、血縁での支え合いでしか生活できなかった中
で、チェサ(祭祀)は、大きな意味をもっていました。先祖の命日や、旧正月、旧盆に行
われる祭事であり、一族の一大セレモニーでした。祭礼のあとにしばしば、生き方が年長
者から説かれ、民族差別の中「一人の従業員でも社長になる」生き方が、尊ばれ、どれだ
け自分自身に力をつけるのかという被差別の中の人生哲学が形成されました。在日として
のアイデンティティをはかる場のひとつとして機能しましたが、お酒を飲んで激論する大
人たちが嫌で嫌でたまらないという原体験をもつ在日2世、3世もまた多くいました。
 商売をして生計を立てる人も多い中で、金融機関の民族差別も大きな課題でした。民族
差別による不安定な就労状況が、金融などの分野で「朝鮮人への融資は気をつけろ」と
いう差別を新たに再生産しました。やむなく、無尽という私的関係での資金調達を余儀な
くされ、持ち逃げなど、無尽にまつわる共同体崩壊も多く存在しました。
 在日韓国・朝鮮人を取り巻く厳しい社会状況の中で、どっこい生き抜く力強い若き日の
「ハルモニ」たちの歩みがありました。

さらに厳しい状況

 戦争が終わり、職を失った朝鮮人は隣近所の情報を頼りに、何でもこなして生活してい
きました。そこには、朝鮮の女性たちのたくましい生活力がみなぎっていました。しかし、
その多くは雑役的で家庭内の仕事の域を出なかったため 、日本人引揚者が増え、失業者が
街にあふれる中で、押し出されるように、ますます生活は苦しさを増しました。また、1950
年の朝鮮戦争のために、産業が活力を取り戻し、流通機構が整備されていくと、主な生産
流通の過程から朝鮮人の商工業が押しやられ、厳しさを増していきました。そして、朝鮮
戦争後の一時的な景気の停滞が朝鮮人の生活を直撃しました。
 そうした事態に、民族団体(在日本朝鮮人聯盟が強制解散させられ、朝鮮民主主義民族
解放戦線が結成されていました。)は、生活保護獲得闘争として、生活権を守る活動を展開
しました。
 日本政府は、朝鮮人の生活保護者が急増したことに対して、不正受給摘発を掲げて、生
活保護打ち切りのための集中調査を「朝鮮人狩り」と称して川崎、横浜の集住地域で実施
しました。このキャンペーンにより、「朝鮮人が不正に生活保護を受給して、国の財源を食
いつぶしている」という印象を植え付けさせるマスコミ報道がなされ、失業に苦しむ日本
人が、朝鮮人への反発を強める契機ともなりました。
 川崎の朝鮮人は、こうした厳しい状況の中で、「共和国帰国運動」の背景が作られていき
ました。

社会保障・健康

 1947年、日本の植民地支配から今度は、一方的な国籍剥奪がなされ、外国人登録を
し、登録証をいつも持ち歩くよう義務づけられました。そして、その後、日本社会の安定
に伴い整備される社会保障制度(国民健康保険、国民年金、公営住宅への入居など)には、
ことごとく国籍条項が設けられ、排除されていきました。同じ税金を納めていて、なぜ、
社会保障制度がうけられないのかという、今では誰もが不条理を理解できることでさえ、
その不平等を怪しむ日本人はほとんどいませんでした。
 そして、社会保障制度のみならず、一般のサービス利用(金融商品や保険、クレジット
など)に、あたりまえのように提出書類に住民票を要求し、朝鮮人住民は、自分たちは利
用できないと甘んじてその不条理を受け入れなければならない状況が長く続きました。
 国民健康保険に加入できず、医者にかかった経験があまりなかったため、「この薬は頭が
痛いときにはよく効くよ」とばかりに薬を調合しあい、しばしば、服薬事故を起こしたり、
民間信仰にだまされたりする経験もたくさんしました。1965年の日韓条約において、
韓国籍の国民健康保険加入が認められ、その後、朝鮮籍の人も加入が認められるようにな
るのは、川崎でさえ、70年代に入るのを待たなければなりませんでした。

入管体制 帰国運動

 戦争によって渡日を余儀なくされた在に韓国・朝鮮人に対して、日本政府は戦後も一貫
して「同化」と「追放」の政策を強いました。在留資格を安定的に認めないまま、「強制送
還」をちらつかせて、管理しました。
 そうした暮らしを強いられる中で、共和国への帰国運動が、川崎から始められました。
日本社会の厳しい民族差別の現実、共和国では、病院も学校もみな無料だという社会主義
祖国の建設の情報は、在日韓国・朝鮮人に大きな希望の念を抱かせました。帰国運動は、
全国に広がり、ハルモニ、ハラボジたちの親戚やこども、知人が共和国に渡りました。
 日本政府は分断国家の一方とだけと国交を結び、在留の資格と待遇に差異を設けていき
ました。さらに、朝鮮半島南半分の出身である在日韓国・朝鮮人は、故郷へのパスポート
取得のために、韓国籍への書き換えが必要になり、韓国籍保持者が漸増していきました。
こうして、分断国家の状況は、日本政府の政策と絡み、少なからず在日社会をも巻き込ん
でいきました。

新しい市民運動の台頭

 日本の植民地支配は、朝鮮民族を日本民族より劣った存在として位置付けることにより
成立してきました。そして、戦後生活では、日本人民衆と朝鮮人民衆が、同じ地域、同じ
時代に暮らしながらも、きっちり分断され、真実が明らかにされないまま、不信と誤解が
渦巻き、あつれきが生じ民族差別が再生産される時を積み重ねてきたといっても過言で
はありません。
 しかし、70年代に入り、2世が在日社会の担い手になってくる中で、日本社会で人間
らしく生きていく活動を、日本社会に情報発信しながら進めていく取り組みが始められま
した。その一番大きな取り組みが日立戸塚工場での民族差別事件、裁判闘争、全国直接抗
議行動へと流れる「日立闘争」でした。日本名で受験し、内定した朴さんが、住民票を要
求され、外国人である旨告げると採用を取り消された事件でした。会社側は、「日本名を
使ったことをうそつきで信用できない」と言ってのけました。この裁判では、在日の生活
点での歴史と現実が明らかにされました。その裁判を通じ、同じような体験や境遇、悩み
や怒りをもつ在日二世が全国で立ち上がり、活動の仲間に参加しました。日本人もまた、
厳しい事実をはじめて知り、衝撃を受け、何も知らされてこなかった自己を見つめるため
に、活動に参加しました。こうして、民族差別をなくすことを機軸とした新しい市民活動
が生まれました。
 川崎でも、長い民族差別の歴史の中で、日本社会に訴えてもしょうがないという「あき
らめ」『絶望』「自暴自棄」といったものが、地域社会の在日のこどもからお年寄りまで
渦巻いていました。公営住宅に入れない、児童手当がもらえない、奨学金がもらえない、
住宅ローンが借りられない、そういった一つ一つの不条理について、逃げないで「おかし
いことはおかしいと言おうよ。粘り強く解決するまでみんなで力を合わそう!」という地
域活動が始められました。その担い手は主に、在日二世の女性たちでした。「我が子には
自分のこども時代のような惨めな少年期を送らせたくない。当たり前に朝鮮人として、人
間として生きられる地域社会であってほしい」こうした思いを共感しあう地域でのこども
を見守る活動、本名を呼び、名乗る取り組みが進められました。保育所活動、こども会活
動、学習会などが市民活動として取り組まれました。「本名を呼び名乗る」運動は、地域
社会の中で、互いを認め合う新しい関係づくりの柱でした。
 こうした在日二世を中心とした反差別、人権の活動が、日本人の連帯を生み出し、新し
い地域活動の中身を創造していきました。そして、その延長線上に、自治体に働く人の真
摯な関わりや、行政とのパートナーシップを築き、ふれあい館建設、在日外国人教育基本
方針として、結実していきました。
 日本の学校で在日韓国・朝鮮人教育の取り組みが始められ、地域社会にふれあい館とい
うシンボリックな建物が行政の関わりの中で建てられたことにより、地域社会が在日韓国
・朝鮮人に開かれていきました。そして、何よりも、在日社会に元気をもたらしました。
多くの日本人の友人と理解を深める出会いの場ができ、ネットワークが広がりました。そ
して、そのことがまた、地域に暮らす多くの市民に共感と力を生み出しています。
 ふれあい館開館と同時に、これまで学校に行く機会もなく、働きづめに働いた在日一世
が識字学級に通ってきました。「今更この歳になって」としり込みしていたハルモニたち
も、一人が少しの勇気で通うようになると、われもわれもと大変なエネルギーで通ってき
ました。共同学習者との学びあいを通じ、今までの苦労を「学がないからいけなかったん
だ」「国を取られたからいけないんだ」と自らの責任に押し込め、つらい自分史を切り捨
てようとして暮らしてきたハルモニたちが、だんだん表情を豊かにしてきました。私たち
も今さらながらに、在日一世の歴史に学び、ふれあい館の共に生きる仲間の中心に在日一
世がいなければならないと考えるようになりました。
 国民年金に加入できず、今も大変な生活課題を抱えている一世、介護保険の中で利用で
きるサービスがないという問題、まさに在日一世の今の問題を多くの人のかかわりの中で
解決していこう、そして、何よりも、世代と民族を結ぶ活動を通じ、子や孫が生きるこの
日本の社会が、少しづつでも良くなっていることをいっしょに感じながら、同じ時間、同
じ地域で暮らす当たり前の隣人として過ごす活動を積み重ねていきたいと思います。

            発行責任 おおひん地区まちなか交流センター