チベット問題を考えるための資料
横浜国立大学教育人間科学部教授 村田忠禧
チベットの地理
中国の西南辺境に位置し、面積は122.84万平方キロ。全国の8分の1。
ミャンマー、インド、ブータン、シッキム、ネパールと国境を接しており,国境線は4000キロほど。平均で海抜4000メートル以上。7000メートル以上の山が50以上ある。
自治区政府の所在地 ラサは 海拔3658メートル、気圧は平地の64.35%しかない。日照時間は年間3021時間。天候のよい日は年間で363日。紫外線が強く、東部平原地帯の2.3倍になる。自然状況が厳しく、漢民族の定住は不可能。漢民族の女性は内地に戻って出産しないと子供が死んでしまうとのこと。
チベットの歴史
唐の時代 吐蕃 唐朝との間で一種の同盟関係を結んでいた。
元の時代より中国の一部に組み込まれる。明、清、中華民国いずれにおいても中国の一地方政府として存在してきた。
中華人民共和国成立直前の1949年9月29日、「中国人民政治協商会議共同綱領」第51条は少数民族の聚居状況に基づき民族区域自治を実施することを明記。1951年5月に中央人民政府はチベット地方政府との間で「チベットの平和解放のやり方についての協議」を交わし、上述の共同綱領に基づく民族区域自治政策を実施すること、ダライ・ラマの固有の地位および職権について、中央は変更を加えないことを確約し、人民解放軍がチベットに進駐することとなった。毛沢東は少数民族地域における社会改革については慎重に行うべきと指示し、政教合一の統治を実行しているダライ・ラマらの指導者としての地位を尊重していた。1954年にダライ・ラマらチベットの指導者は北京に行き、毛沢東にも会見。(写真は左からパンチョン・ラマ、毛沢東主席、ダライ・ラマ)ダライ・ラマは全国人民代表大会常務委員会副委員長、パンチェン・ラマは全国政治協商会議副主席に選出された。
1956年4月にチベット自治区準備委員会が成立。準備委員会主任はダライ・ラマ。土地革命が中国全土で展開されたが、チベットにおいては実施しなかった。しかし内外さまざまの要因から1959年3月にチベットで共産党の支配に反対する反乱が発生。ダライ・ラマはインドに脱出、その後、亡命政権を作る。パンチェン・ラマは反乱に参加せず、チベットにとどまった。
中国政府はチベットにおける反乱を鎮圧したあと、民主革命を実施し、それまで手をつけなかった農奴制を撤廃。1965年9月にチベット自治区が成立する。1960年代は世界規模で中国封じ込め政策が展開された。中国自身も毛沢東が文化大革命を発動したことにより、階級闘争至上主義の風潮が蔓延し、民族問題=階級闘争とする単純化の過ちを侵し、チベットはもとより全国が大混乱、大破壊の局面が生じた。
1978年12月の中共十一期三中総において毛沢東の階級闘争至上主義を批判し、ケ小平の提起する経済建設を第一とする四つの現代化政策(改革開放路線)を基本路線と定める。少数民族政策も転換し、ダライ・ラマらチベット亡命政府側への働きかけも始まる。
1979年3月12日、ケ小平はダライ・ラマの兄に会い、「ダライ・ラマが帰って来るのを歓迎するし、より多くの人が見学に来るのを歓迎する。もしも帰国したくないのなら、ただ帰って見るだけというのも歓迎する。帰ったあとまた出て行ってもよい。もし彼らが帰国するなら、政治的に適切な配置を行う。往来は自由である、ということを保証する」と伝える。実際にダライ・ラマ側との交渉はその後何度か行われたが、実際にはダライ・ラマ側は「チベット独立」の方針を取り下げていない。
1984年には「中華人民共和国民族区域自治法」が実施され、民族区域自治制度を国家の基本的な政治制度と確定し、政治、経済、文化等に関する少数民族自治地域の自治権と中央政府との関係が法律的に明確に規定された。チベットへの財政支援と優遇政策・措置が制定され、中央政府のチベット建設への直接投資、財政援助とともに、全国各地でチベット現代化建設支援のためのプロジェクトを立ち上げた。
ダライ・ラマ側は1989年3月(チベット反乱30周年)にも暴動を企てたが、鎮圧された。今回もオリンピックを直前に控えた中国政府の対応の難しさを見越してのきわめて政治的な攻撃といえる。少なくともチベット自治区内でデモや暴動による抗議行動をせざるを得ない客観的要因は見当たらない。
チベットの人口
チベット族の人口は中国全土で542万(2000年段階、少数民族としては9番目の多さ)、1953年の段階では278万であったので、ほぼ倍増している。
チベット自治区の人口は1988年末現在で212.31万人,人口密度は1平方キロ当たり1.73人,全国平均の60分の1。2006年末段階になると人口は281万人、人口出生率は17.40‰,死亡率は5.70‰、自然増加率は11.7‰。全国平均がそれぞれ12.09‰、6.81‰、5.28‰なので、チベット自治区の人口の増加ぶりが判る。チベットに漢民族の移住が進んでいるというダライ・ラマ側の主張は正しくない。少数民族には一人っ子政策は適用されないため、少数民族は押しなべて人口が増えている。
2006年段階で中国全体での都市人口と農村人口の比率は43.90対56.10であるが、チベットの場合には28.21対71.79で、貴州省(27.46対72.54)についで農村人口の比率が高い。
自治区内の民族割合
2005年末でのチベット自治区の人口は277.00万人、うちチベット族は241.11万人、92.2%を占める。漢族人口は15.53万人、5.9%、その他の少数民族人口は4.99万人、1.9%である。
1990年の第四次人口センサスと比べると,チベット族は31.44万人,15.0%増加した。自治区内には漢族、回族、門巴族、珞巴族、怒族、納西族などの民族がいる。
2000年のチベットの平均寿命は64.37歳。(全国平均は71.40歳)。1990年の平均寿命は59.64歳(全国平均68.55歳)なので、10年間で5年ほど伸びた。厳しい自然条件のもとでのこの平均寿命の伸びは注目に値する。全国平均の伸びは3年未満。
チベットの教育
解放前のチベットでは95%以上が文盲であったが、2006年のサンプル調査では15歳以上に占める文盲人口の比率は45.65%、うち女性は57.17%。全国平均が9.31%(女性は13.72%)なので、チベットの文盲率は解放前に比べると大幅に下がってはいるが、全国的に見ると極端に高い。1982年のチベット自治区の教育を受けた年数は平均で1.52年に過ぎず、全国平均4.64年との間に3年以上の差がある。2002年になると3.03年となり、全国平均7.00年とでは4年近い差はあるが、倍近く向上したともいえる。このうち自治区内のチベット族は2.61年、漢族は9.02年、門巴族は2.45年、珞巴族が2.66年、回族が4.25年と、チベット族の教育水準が他の民族に比べて低い。
チベット自治区の中学卒業生の進学率は1982年が38.1%、2004年には61.7%になった。同年の小学校卒業生の進学率は92.3%である。2006年の人口10万人あたりの大学生の数は全国平均が1816人、チベット自治区は1014人で、貴州省(910人)、青海省(935人)より多い。チベットで人材育成が重視されている結果であろう。2007年の大学受験のチベットでの文科系合格最低ラインが少数民族出身者は365点、漢民族は515点と差が付いているのは、チベットの教育状況を踏まえ、より多くの民族人材を育成するための措置である。
チベット自治区が成立した1965年にはチベット族およびその他の少数民族幹部は1.6万人で、その大多数は農奴もしくは奴隷の出身であった。今日ではチベット自治区でのチベット族およびその他の少数民族幹部は6万人余となり、幹部の69.36%を占めている。少数民族出身の技術者は3.2万人で、技
術者総数の74.39%である。チベット自治区内の県、郷レベルの人民代表大会で84.04%、政府で87.49%がチベット族その他の少数民族幹部が指導者になっている。チベット自治区において少数民族が主人公になることを積極的に奨励しているのである。
チベット支援
1984年〜1994年に、中央政府の投資と全国9省市のチベット援助プロジェクトが43あり、総投資額は4.8億元。1994年〜2001年には中央政府の直接投資が62項目、総投資額は48.6億元、15の省市と中央各部委(政府機関)の無償援助建設が716項目、投入資金は31.6億元となった。2001年からの第10期5カ年計画では中央政府の投資が312億元、117項目、財政補助が379億元。全国各地からの支援項目が71、投入資金は10.62億元となった。第11期5カ年計画では中央政府は180の建設項目を実施することを確定している。40年間のチベットの財政支出は875.86億元、そのうちの94.9%は中央からの補助による。
チベットの経済と生活
2005年のチベットのGDPは250.60億元、前年比12.2%増。一人当たりGDPは9098元、前年比10.8%増。2007年のGDPは342億元、前年比14%増に達し、一人当たりGDPは12000元を突破。産業構造は伝統的に農牧業が優勢だが、近年は鉱産業、観光業が活力を持つようになり、2007年には第一次産業、第二次産業、第三次産業の比率が56.2:28.0:15.8になった。
チベットの都市住民の人民元貯蓄残高は2006年で139.8元。青海省が406.3元、寧夏回族自治区が581.1元であるのに比べ、チベット住民の貯蓄額の低さが目立つ。ただし2002年を100とした指数で見た場合、2006年は198.6とほぼ倍増している。
職業別平均賃金で見ると、チベットの賃金は他の地域よりも高い。たとえば2006年の建築業の全国平均は16406元であるのに、チベットは19300元である。おそらく高地手当てのようなものがあるのだろう。チベットの法定労働時間は週35時間で、他の地域より5時間少ない。
1994年にはチベットに48万人が貧困ライン以下の生活をしていたが、1997年までに21万人に減少させた。1998年時点で農村人口の9.8%が貧困ライン以下で暮らしている。チベットの農村はとりわけ貧しい。それでも2007年の農牧民の一人当たり平均純収入は2788元で、2002年より83.3%増である。
チベットの大きな産業として観光業が挙げられるが、1995年にチベットに来た旅行者数は6.78万人(うち外国人は6.54万人)であったが、2006年になると15.48万人(うち外国人は13.61万人)と大幅に増えている。外国人旅行客の比率が高いのもチベットの特徴(たとえば2006年の雲南省の場合、旅行客は181万人、うち外国人は111万人)である。2007年7月の青藏鉄道の開通で旅行客が急増し、2007年は402万人となった。外国人観光客の落とす外貨収入は1995年が1100万ドルであったのが、2006年には6100万ドルに増えている。それだけでなく、貨物輸送においても鉄道の果たす役割はきわめて大きいだろう。2008年は本来、チベットにとって飛躍の年になるはずである。
このような状況で暴動を起こし、危険なチベットを演出することがはたしてチベットで生きる人々の利益になることであろうか。