ニュース: 政治 RSS feed
【正論】初代内閣安全保障室長・佐々淳行
■「権力意志」と「権力欲」は違う
≪「世襲内閣」批判に異議あり≫
麻生太郎衆議院議員が自民党総裁選挙に圧勝、国会において首班指名を受け、第92代内閣総理大臣に就任した。
早速吉田茂元総理の孫らしい強烈な個性を発揮し、総理になったことを「天命」といい、「明るく強い国」を造ると宣言した。「省益でなく国益を」と説き、前例を破り自ら閣僚名簿を記者会見で発表、人選の理由を語った。安倍晋三元総理、福田康夫前総理に次ぎ3人目の、祖父か父を総理に持つ“貴種”だ。
安倍総理の就任の際のキャッチフレーズは「美しい国 日本」だった。筆者は、これがサン・テグジュペリの「星の王子さま」みたいな感覚の繊細さに不安を覚えた記憶がある。それに比べ麻生総理の「明るく強い国」は、暗く不安な世相の今の日本には、いいスローガンだと思う。
麻生内閣が発足したとたん、予想されていた批判が始まった。それは「(首相を含む閣僚18人のうち)4人は元総理の子孫、11人は世襲議員」という雲上人内閣、庶民の苦しみがわからない人々の内閣だという批判である。これは彼らの出自に対する逆差別ではないか。
≪ニーチェ政治哲学に学ぶ≫
一方の民主党は、対立候補も出ない無投票で小沢一郎氏が代表に選出された。テレビで「政権交代の秋」「政権奪取の秋」「最後の機会」と叫び続けている。しかし、その政策は確たる財源の裏づけもないポピュリズムのばら撒(ま)き公約だ。国家の基本的任務である「治安・防衛・外交」にはほとんど触れない。国益無視の政見である。
なかでもひどいのは、「各役所(1府12省)に100人の国会議員を副大臣、政務官として任命する」という行政改革論である。1府省7人くらいになるわけだが、府省内に各局担当の政務官を置くとすれば、憲法の定める立法・司法・行政の三権分立の大原則に抵触しかねない暴論というべきだろう。
来るべき解散・総選挙で、いずれかが責任政党として政権を担当する、この2人の党首の言動を観察していた筆者の脳裏には、ドイツの政治哲学者、フリードリヒ・ニーチェの著作『ツァラトゥーストラかく語りき』での所説「権力意志と権力欲」のくだりが浮かんできた。
ニーチェはここで「権力意志」と「権力欲」とを峻別(しゅんべつ)する。「権力意志」の持ち主は、強烈な≪ノーブレス・オブリージ(高い身分にある者の重い義務)≫を持ち、権力をその高い志を達成するための「手段」と考えているのに対し、「権力欲」の持ち主は、権力とそれに伴う利益や享楽を得ること自体が目的の「病める我欲(がよく)」の人としている。
アンドレ・マルローもその名著『希望』の中で、多分本人であろう主人公マニュエルをして、レジスタンスの隊長アルバに対し、「スペインのファシストたちが求めているのは権力に伴う享楽である」と断じ、我々とは違うといわせている。
≪父祖伝来のDNAに期待≫
日本の戦後政治では、あまりに物欲、金銭欲、権力欲の逞(たくま)しい指導者が権力を振るい、いやしい“商人国家”と揶揄(やゆ)されたことがある。「政治家」ならぬ「政治屋」が横行し、「選良」であるはずの国会議員の名をおとしめた。
だから現在の国民は、「権力意志」の持ち主を求めている。その結果≪ノーブレス・オブリージ≫があり、物欲が薄く品格の高い“貴種”、安倍・福田両氏を選んだのではなかったのか。残念ながら2人とも心身の強靱(きょうじん)さに欠けて国民の期待を裏切ったが、今回は三度目の正直、御曹司だが腕白な“鎮西八郎為朝”(源九郎義経の叔父)を選んだのだ。
「権力意志」の持ち主は「思いは高く暮らしは低く」、頑固な一貫性を持ち、決断力と責任感、不屈の闘志を抱く人でなくてはならない。それを培うのは家庭である。父祖伝来の家庭教育に加えて、人に秀でたDNAが、いわゆる「血は争えない」という形で子孫に伝わり、時としてそれが光り輝く。
4人の元総理の子供、または孫、11人の世襲議員たちのお手並み拝見といこう。国会議員になるには何万票という有権者の投票が必要だ。その国会議員の中から任期中に閣僚に任命されるのはこれまた至難の業である。
人に優れた何かがないと国務大臣にはなれない。まして内閣総理大臣は1億3000万分の1、まさに選良であるべきだ。その息子、娘、孫に伝わったDNAに期待し、家庭教育で育(はぐく)まれた≪ノーブレス・オブリージ≫の精神、日本人に必要な「仁・義・礼・智・忠・信・孝・悌」の徳目を、この二世、三世たちに期待して、来るべき総選挙で一票を投じようではないか。(さっさ あつゆき)