「日本の地はキリスト教が日本人の内に守り続けるために適した国ですから、宣教のためにどんなに苦労をしても報いられます。それで、あなたが徳を備えた人物を日本へ派遣してくださるよう、心から望んでおります。なぜなら、この地方で発見されたすべての国のなかで、日本人だけが教会をずっと持続していくことができる国民だからです。だが、成功するために、きわめて大きな苦労に耐えることが必要でしよう」 (ロヨラあて1552年1月29日コーチン)
「日本の地はキリスト教が日本人の内に守り続けるために適した国ですから、宣教のためにどんなに苦労をしても報いられます。それで、あなたが徳を備えた人物を日本へ派遣してくださるよう、心から望んでおります。なぜなら、この地方で発見されたすべての国のなかで、日本人だけが教会をずっと持続していくことができる国民だからです。だが、成功するために、きわめて大きな苦労に耐えることが必要でしよう」 (ロヨラあて1552年1月29日コーチン)
サビエルは1506年、スペインとフランスの国境にあったナバラ王国のサビエル城に生れた。6才の時ナバラ国はスペイン人のため占領され、3年の後には父を失い、やがてニ人の兄も祖国の難を救うべく戦場に出ていった。 兄たちはサビエルをも軍人にしようと望んだが,彼はこれを欲せず,19才の時パリーに赴いてソルボン大学に学ぶことになつた。
サビエルが大学を終えた際かっては勇敢な騎士で、今はキリストの兵士として信仰上の同志を求めていたイグナチオ・ロヨラと知り合った。聖書の「人もし全世界を得ようとも、その霊魂を失ったなら何の益かがあろうか」とロヨラの言葉に彼は前途ある教授の職をすて、神の使徒として働く決意を固めた。
サビエルは聖母マリアの祝日である 8月15日に、他の6人の同志と共に、清貧と貞潔を誓って、主キリストに従うことと聖地への巡礼を誓約した。この記念すべき日がイエズス会創立の日となった。
サビエルは同志と共にパリから聖地への船の出るイタリヤのヴェニスの港まで7週間の苦難の旅をつづけた。たまたま戦乱のため出航が出来なかったのでローマに赴き教皇に身を任せることになった。
ポルトガル王の請願によるインド派遣の司祭に選ばれたサビエルは、教皇の祝福を受けた後、キリストのため新しい世界を開拓し、ポルトガルの首都リスボンに向け、ローマを出発した。
リスボンをいよいよ出航するにあたり、 40年前インド航路の開拓者ヴァスコダ・ガマが航海の安全を祈ったという小さな聖堂で、その使命達成の守護を祈った。また海岸の高台に登って同船者たちに信仰の勧めと、布教についての協力を求め、熱心に説教した。
インドへの航海の途中アフリカ沿岸のメリンダ市に到着したサビエルはこの回教徒の町の海岸に、ヴァスコダ・ガマの建てた十字架のある大きな石性を見て大いに喜び、回教徒たちに彼らの誤りの宗教をすてて、真の信仰に立ち帰るように勧めた。
一年の長い航海の後インドのゴアに着いた。サビエルは、直ちに活動を始めた。最初は人に嫌われる癩病人と囚人、貧しい人たちを慰めた。子供の教育には特に留意し、小さな鈴を鳴らして子供たちを集め教えをひろめた。
インドの南端コモリン岬附近には真珠探取を職業とするパラヴェル人が住んでいたが、サビエルはこの地方に伝道に赴き多くの奇蹟を表した。コンプトウルーという所では井戸に落ちた男の子を祈りによってよみがえらせ、これが機縁となって一層多くの改心者を出した。
パラヴェル人はキリスト教をよく聞いたがバラモン教徒は頑として改宗を拒んだ。その僧侶たちはキリスト教の真実を認めながらも改宗をすると直ちに生活が出来なくなることをおそれたのである。
カルア人とトラワンコールのマクア人はよく教えを聞き、一ヶ月に一万人以上の信者を得ることが出来た。マクア人は今日でもサビエルを尊敬し、聖フランシスコ・サビエルの子と称するのを誇りとしている。
サビエルはトラワンコールへ帰る途、船中で一人の兵士が賭博にまけて無一物になり、神を罵っているのを見て、彼に金を与え今一度勝負させて失った分を取り返してやった。その兵士は恩を感じて罪を告白した。次の港に立ち寄った時森の中でこの兵士の罪の償いのため、自分の体をむち打っているサビエルを見て、この兵士の信仰は一層強められた。
サビエルがマラッカに滞留中の時サビエルの友人たちは毎夜彼が何をしているかとそかにその部屋をのぞいてみた。そこにはキリストの磔像と祈祷書がありベッドの上には枕にする石が置いてあった。彼は終夜聖像の前にひざまずき時々両手をあげ涙を流しながらキリストのご苦難を黙想し、又祈り、ほんの僅かな時間だけこの石を枕として寝るのであった。彼の伝道の準備はこうしてすすめられ、神はサビエルの行く所どこにでもおられ、いつも祝福を与えられた。
マラッカから更に東方にアンボイナ島がある。そこには以前多数のキリスト信者がいた。サビエルはこの島に赴きマノエルという少女を案内者として古い信者を尋ねて廻った。後に回教徒の迫害が起こった時、マノエルはサビエルに教えられたイエズスキリストのために死ぬことを名誉とするという信念が、他の信徒たちの信仰を守った。
アンボイナからセラン島へ渡る途中暴風にあって船は沈没しそうになった。サビエルは胸にかけた十字架をはずし海中に浸して神に祈った。すると暴風は静まったが紐が切れて十字架は波の中に消えていた。その後セラン島に上陸すると海中から一匹のカニがその十字架をはさんではい上がってきたので彼は心から感謝の祈りを神に捧げた。
セラン島からヌッサラウト島に渡るとこの島にはアルフール族という人肉を食べる野蛮人が住んでいた。サビエルは教化に努力し漸く霊名フランシスコという一青年を得た。この青年はその後に回教徒との間で、勇敢な戦いをしてキリストの御名を唱えつつ死んで行った。
サビエルはテルナテ島やモロ島にも渡った。モロ島には未知の旅人に毒を盛るという野蛮人が住んでいるとのうわさがあったので、友人たちは船を出さないようにし、その島へ行くことを止めたのであるが彼は泳いででも行くと絶対なる神への信頼を示したので、それに反抗することも出来ず数名の友人も彼と同伴することを申しでた。
サビエルはモロ島へ渡り、その真心と情熱でこの粗野な蛮人の中に美しい花を咲かせたか。彼は木の実を食べてけわしい山や、暗い森を通って伝道をつづけた。しかし神の霊に満たされていた彼には恐ろしいという観念は全くなく、いつも幸福であった。
アンチン回教徒がしばしば海をこえてマラッカに襲撃してきたので、サビエルはキリスト信徒を鼓舞し信仰の敵である彼らを退散させた。戦いに行って二週間たっても何のたよりもなかったので、信者の家族たちの不安はつのり落ちつかなかった。
そのある日曜日、サビエルは説教の途中で突然「私たちは神に感謝しなければなりません。すでに敵に打ち勝ち、勝利の知らせがまもなく来るでしょう」とさけばれ、その言葉の通り味方は大勝利を得て凱旋した。
マラッカで弥治郎という日本の青年が心の悩みをもってサビエルに面会し、神の道を聞き心の平和を得た。その弥治郎の案内で日本に伝道しようと思ったサビエルは、今から448年前(天文18年)の8月15日、弥治郎の郷里である鹿児島へ上陸した。領主島津貴久の許可を得て熱心に布教した。ある者は嘲り笑ったが真面目な信者も次第にふえた。これがキリスト教の日本伝道の嚆矢である。
鹿児島の禅僧忍室はサビエルに神の道を聞いてひそかに神に祈っていたが、その地位が敢えて改宗することを許さなかった。しかし病床で死期の迫るを感じた時始めて司祭を招いたが、司祭の赴いた時忍室はすでにこの世の人ではなかった。
約一年の鹿児島の滞在後、京都へ向うためイルマン・フェルナンデスを伴い、平戸博多を経て下関に上陸した。その頃西日本一帯で勢力を誇っていた山口の領主大内義隆を訪ね、山口に留まり市内で始めて伝道した。
サビエルは山口を登って厳寒積雪の中で苦難の旅をつづけ、ようやくあこがれの京都へ着いた。しかし戦乱の巷でどうすることも出来ず10日余りの滞在で立ち退くことになった。船が淀川を下って行く間彼は都の空を眺めながら、感慨無量なものがあり、心の中で日本の改宗を深く祈りつつ詩編23章を繰り返しした。
京都から再び平戸へ引返したサビエルは、ここで仕度を整えて再び山口へ戻り、領主大内義隆へ正式な会見を申し込んだ。この時インド総督の手紙の他に時計楽器などたくさんの贈り物をした。
義隆は非常に喜び、大刀と黄金一箱を返礼として贈ったが、彼はこれを拒み、その代わり布教の許しを願い出た。義隆はすぐにこれを許すばかりでなく、彼らの住居として大道寺を与えた。これは彼に日本最初のキリスト教会となったのである。
山口では毎日二回町の井戸の側で説教した。そして宗教以外の色々の質問にも答えた。地球の形、太陽の動き、いなずま、雪、雨等の天文学に関するものや自然科学に関する解答などは武士たちを驚かせた。
ここでは奉行の内藤隆晴を始め有力な信者を得たが、そのうちでも琵琶法師のロレンノは最も有名である。彼は後に京阪神方面で活動し、織田信長や豊臣秀吉にも神の福音を説き、高山右近等の名高いキリシタン大名を得たのであった。サビエルの生涯中最も愉快な伝道は山口滞在中であったと述懐している。
豊後の大名大友義鎮はポルトガル人からサビエルのことを聞いて彼を招いたので、山口にはコスモ・トルレス神父を遣わして豊後へ赴いた。その時ポルトガル人は目も醒めるような行列をして、彼を大友の居城へ送った。彼は又領主義鎮にも福音を説いたが、これが後に大きな実を結んで、フランシスコの霊名はローマにまでも聞こえるようになった。
日本を教化するにはまず中国に伝道する必要を感じた。サビエルは豊後からインドのゴアに帰って旅の仕度を解く間もなく引返して中国に渡航した。しかし中国は当時鎖国のため入国できず、広東の港の外にある一孤島サンシャン(上州島)に待機していた。
ここで彼は疲労のために倒れ、高熱に悩まされた。衰弱が増やして死期の近づくのを知った彼は、一切を神の御心に委ね十字架を見つめてただ祈っていた。信仰の英雄サビエルは漸く永遠の眠りに入り神の御許へ帰っていった。時は12月3日の前年2時であった。ゴアの聖堂に銀の櫃がある。
腐乱しないサビエルの遺骸はその中に納められ現在も世界各国からの参拝者が引きもきらない。