第18回 「演習問題 評価と講評 ②」
●演習問題 評価と講評 ②
〈演習問題1
シュライエルマッハーが、「宗教の本質は直観と感情である」と規定することによって、神の位置が変わったという。具体的に神はどこからどこへ移動することになったか。簡潔に記せ。(400字程度)〉
回答
第1答案
古代以来、カトリシズム、古プロテスタンティズムにおいて、神は上(天)にいるという認識だった。ところがコペルニクス、ガリレオ・ガリレイの出現によって、地球が球体であるということになり、上下の意味がまったくなってしまったため、神の場所をめぐる問題が深刻になってきた。この問題を解決したのがシュライエルマッハーであった。シュライエルマッハーは、初期の『宗教論』において「宗教の本質は直観と感情である」と言い、後期の『キリスト教信仰』においては「宗教の本質は絶対依存の感情である」と言った。神は感情によって把握される。つまり、ひとりひとりの心の中にある。心がどこにあるかということについては、誰もその場所を示すことはできない。そういった、場所を示すことができないところが神の世界なのだ、という形で、神の場所の問題における自然科学との衝突を阻むことができた。
講評 A よくまとまっている。ここで追加的に少し難しい問題を出しておく。
〈演習問題8【やや難問】
シュライエルマッハーは、〈宗教は、形而上学のやうに、宇宙をその性質に従つて規定し且つ説明しようとは欲しないし、道徳のやうに、自由の力、及び人間の神的自由意志から宇宙を発展させ、且つ完成させようとは欲しない。宗教の本質は、思惟でも行為でもなく、直観と感情である。〉(シュライエルマッヘル[佐野勝也/石井次郎共訳]『宗教論』岩波文庫、1949年、49頁)と述べている。ここでは、宗教の本質を思惟であると考える論者、行為であると考える論者がそれぞれ想定されている。それは具体的に誰で、どのような言説を述べているのか。簡潔に説明せよ。(300字~600字程度)
ヒント:道徳律を唱える論者と絶対精神を唱える論者が恐らく想定されている。〉
〈演習問題2
プロテスタント神学は、なぜ教義という概念を嫌い、教理という言葉を用いるのか。簡潔に記せ。(300字~600字程度)〉
回答
第1答案
カトリック教会、正教会には、教会が確定した絶対に正しい教義(ドグマ)があるが、プロテスタント教会には、その成り立ちから元々単一の教義はない。人間は原罪をもった不完全な存在であり、そのような不完全な存在である人間が、神について正確に知ることはできない。人間とは徹底的に異質な神について、人間が知ることは原理的にできないのであるが、神について知るための努力をしなければならないという「不可能の可能性」に挑む中においてのみ信仰はあるとプロテスタント神学では考える。したがって、人間が考える以上、ただ一つの正しい教義は確定できないものとする立場から、単数形である教義(ドイツ語のdas Dogma)に対して、常に複数形の教理(die Dogmen)を用いる。そのため、プロテスタント教会は、それぞれの教会が自ら正しいとする教理をもち、教会同士ではそれらを支持する場合と支持しない場合がある。
講評 A よく理解している。
第2答案
プロテスタント神学においては、それぞれの教会が持つ教理について他の教会が支持するか否かという選択権を持たせており、それゆえ複数の教理が存在している。これは、プロテスタント神学においては、カトリックや東方正教会では当たり前の概念である教義、すなわち絶対的な正しい考えが現世において実現されるものと認識していないためである。プロテスタント神学の泰斗バルトの教会教義学へのこだわりが同神学の方向性を示している。つまり、プロテスタント神学においては複数の教理が神による救済という一点に収斂され、それら教理の収斂の結果として神の国において一つの教義が実現されると考えている。
講評 A よくできた答案だ。キリスト教の本質は救済宗教であるということだ。
〈演習問題3
弁証学と論争学の違いについて、簡潔に説明せよ。(300字~600字程度)〉
回答
第1答案
弁証学も論理学も教義学ということでは同じ出発点であるが、弁証学が主に非キリスト教の宗教、世俗思想に対してキリスト教神学者がキリスト教の正しさを証明するための学問であるのに対して、論理学はキリスト教内部において他のキリスト教解釈の誤りを指摘、論破することを通じて自分のキリスト教解釈が正しいことを証明する学問である。
講評 B 論理学ではない。論争学である。
第2答案
まず弁証学と論争学の両学問は、どちらも17世紀以前の神学そのものに起源をもち、近代初期になり弁証学と論争学という名称で呼ばれるまでは、教義学という名で語られたという歴史をもつ。補足だが、プロテスタント神学においては本来、単一の絶対の教義は存在しないため教理学と呼ぶのが正しいが、一般には教義学という術語が定着している。弁証学と論争学の違いは、弁証学はキリスト教神学者が非キリスト教の宗教や世俗思想を相手にキリスト教の正しさを証明するのに対し、論争学はキリスト教の内部において他グループのキリスト教解釈の誤りを摘出、論破し、自グループのキリスト教解釈が正しいことを示すところにある。キリスト教の正しさを証明する際、キリスト教外部に対して行うか、あるいはキリスト教内部に対して行うか、つまりキリスト教を軸として、相対する対象が外か内か異なる点が、弁証学と論争学の違いであるといえる。
講評 B 弁証学と論争学の違いについてはポイントを正確につかんでいる。ただし、中世初期の弁証学、論争学が次第に教義学の形をとるようになった。流れを正確におさえておくこと。
〈演習問題4
キリスト教神学と宗教哲学の違いについて簡潔に説明せよ。(300字~600字程度)〉
回答
第1答案
キリスト教神学の根本は、人間が不完全な存在であって神を知ることができない一方、その神を知る努力を怠ってはならないという「不可能の可能性」に立っている。そのような視点に立って、真理の源泉である神の啓示を時代の状況に合わせて解釈することが求められ、神学を学ぶ者は知識を得て信仰することになる。他方、宗教哲学は教会という信仰共同体を経由することなくキリスト教を思弁することであり、人間の知的活動である哲学とキリスト教の整合性を図るものである。しかし、宗教哲学は啓示によって破壊される。よって、神学が宗教哲学を補助学とすることは可能だが、宗教哲学が神学を包含することはできない。
講評 A よく理解している。
第2答案
キリスト教神学と宗教哲学との違いは、キリスト教神学が、原罪をもつ不完全である人間がそのことを認識しつつも、完全である神を知ろうとする「不可能の可能性」に挑むことを任務とすることに対して、宗教哲学は、不完全である人間の知的営為である哲学(知を愛すること)と、キリスト教を教会というフィルターを通さず整合的に理解することを主題にする点にある。つまり神を学問の対象、あるいは理解しようとした時に、神の側から神を見るか、人間の側から神を見るかという立脚点の違いであるのではないか。キリスト教の理解では、神学は確かにその時代の哲学の形を借りており、その影響があることを認める一方で、有限で不完全である人間の知的営為である哲学が、完全なる神の啓示、真理を理解することはできないとする。そのため宗教哲学は、厳密には、キリスト教神学には含まれず、あくまで神学の補助学と位置づけるのが適切である。なお神学の区分では、キリスト教以外の宗教について研究する宗教学や宗教史も、宗教哲学に含まれる。
講評 A 論点を正確におさえている。
第3答案
キリスト教神学は、人間がキリスト教の神について根本的には知ることができないながらも、これを知ろうと努力をし続ける営み。これは教会内部の学びでもある。宗教哲学は、人間の知的営みを重視し、教会以外のキリスト教、あるいはキリスト教以外の宗教をも思弁的に理解・研究しようとする営み。両者は共に人間学だが、前者は、神あるいはキリストとの人との出会い(啓示)「における」学、後者は、キリスト教および諸宗教「についての」学。
講評 B 少し論点がずれている。哲学の意味についてもう一度よく考えてみること。
第3答案を書かれた方から、〈なかなかうまく書けない。とくに啓示や教理・教義のことが・・・「人間学」と書いたのは、和辻哲郎が仏教を引用しながらこの語を重視し使っており、その和辻と波多野精一の「宗教学」は親和性が高かったらしいので、そのあたりを考えたかった。〉という意見が寄せられているが、まずは基本をおさえることだ。和辻倫理学も波多野宗教哲学も、記述はそれほど難解でないが(要は優れたテキストであるということだ)、内容は哲学史を大学で2年くらい学んだ者でないとわからない。具体的には、淡野安太郎『哲学思想史』(勁草書房)、大井正/寺沢恒信『世界十五大哲学』(富士書店)あたりの定評のある基本書を読んで、哲学的常識を身につけておくことだ。
第4答案
キリスト教神学は、人間は原罪をもつ不完全な存在であるゆえに、絶対的な神について正確に知ることは不可能であることを前提としている。その不可能性の裡で、神の啓示が記されている聖書を、教会を媒介とし、時代の思想的状況の中で解釈し表現していくことがキリスト教神学の責務である。キリスト教神学においての神と人間の関係は、神>人間なのだ。宗教哲学も、原罪をもつ不完全な人間が、時代の思想的状況の中で神について思索するという点においては、神学とそう変わらないように見える。だが、教会を媒介していない点に加え、哲学の枠組み、つまり人間の考えの範囲内で神を考えることとなり、神と人間の関係が逆転し、神<人間となってしまう。絶対的な神の啓示には、不完全な人間の作り出した哲学を破壊する力があると捉えるのが、キリスト教神学なのだ。神と人間の関係の違い、教会の存在の有無が、両者の違いといえよう。
講評 A よくできている。ただし、神と人間の関係を不等号で表すと、量的差異に問題が解消されてしまう危険性がある。この点について、よく考えてみよう。