2008/09/30bb (麻生総理の所信表明演説)
皆さん、こんにちは。

「正平協・大阪大会」報告の第三回です。
本田哲郎神父について検討してみます。
但し私はこの人と直接お会いしたことはありません。大会に見えていましたが、話しをする勇気はありませんでした。


(*[挿入]ダンボさんのコメント)

本田哲郎神父については、仲間の誰かに、鹿児島・郡山健司教のブログを教えられ、初めて知りました。

【24時間司教@Ken's Page】
http://sdemo.net/pken/Blog/061211
2006/12/11
市民クリスマス(ザビエル)
(前略)
フランシスコ会司祭本田哲郎神父さんの話は、聖書の勉強みたいだった。幼子の誕生は宿がなく仕方なしに家畜小屋ではない!生まれ故郷に名を届けるために帰ったのだから親戚縁者はいなかったのか?子どもが生まれるというのに知らん振りは考えられない。真っ先に駆けつけたのが、羊飼いに東の国の博士たち。彼らは当時のならず者に異教徒の罪びと、なのだという。ヨセフもいわゆる大工さんではなかった。石を切り出す最下層の労働者。

そこまではいいとして・・・。聖霊によって身ごもった?レイプの被害者だったかもしれない。それを聖霊によって、と言わざるをえなかった云々には、思わずギョッ!神父さんがますます先鋭化してしているのが少し怖かった。
(後略)

本田哲郎神父ご自身の著書に、『釜ケ崎と福音』というのがあります。

私もこの本を読み、それなりの感想はありますが、私のインターネット上の仲間、「Pas」さんに素晴らしい分析があります。一部「ダンボ」さんのコメントを加え、お二人のご了解のもと、下に転記します。原文は、“イエスの惑星BBS”にあります。
http://6019.teacup.com/sdyosefu/bbs

文章そのものの改変はありませんが、直接本田神父に関係しない部分、又は話題が第三者に及ぶ部分は編集があります。
原文は今もありますので、興味のある方は、そちらを覗いて下さい。
このページは、Pasさんの本田神父論になります。

 

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

 

投稿者:Pas 投稿日:2008年 8月19日(火)01時53分30秒
本田師にとっては、「釜ヶ崎」も「福音」も、結局は自身を語る上での間接照明に過ぎない、ということでしょう。
「釜ヶ崎」を語る時でも、「福音」を語る時でも、常に話題の中心には「本田哲郎」その人がいるわけです。
「釜ヶ崎」や「福音」を語っているようでいて、実際には、本田師は自分自身を語っているに過ぎないわけです。

だから本田師は、釜ヶ崎体験を信者たちの前で講演する際、涼しい顔をしてカジュアルな服装で登場できるわけです。
自分は矛盾しているのではないか、という自己懐疑や自省が、本田師自身にはものの見事に欠落しているようです。
「キリストその人だって、へりくだりなんかとは無縁だったんだぞ!」などと本田師は言い出すかもしれません。
聖書学者とは便利な職業ですね。キリストの姿を自分の都合のいいように、勝手にいろいろ改変できるのですから。
でもそれじゃ、キリストは腹話術の人形に過ぎず、腹話術師である本田師が都合のいいように操っているだけです。
結局ここでも、「本田哲郎」その人が中心なわけです。本田師にとっては、キリストも単にその道具に過ぎない。
自分が酒を飲みたくなったら、「キリストだって大酒飲みだったんだぞ」と言えばいい。
自分がごちそうをたらふく食べたくなったら、「キリストだって大食漢だったんだぞ」と言えばいい。
「キリストはへりくだりと無縁の人だった。だからキリストにならって、本田哲郎もへりくだりとは無縁になるぞ」
それが本田師のホンネではないでしょうか。
常に自分を正当化し続けることができるならば、人間これほどラクチンな生き方はないですからね。
それがいわゆる本田師の「自己脱皮」なのでしょうか。実に馬鹿馬鹿しい話です。
絶えず自己正当化し続ける一方、それでいて他の信者の「偽善」を責め続けるのですから、
他の信者たちにとっては傍迷惑この上ありません。
それにとどまらず、福音書に登場する全ての人物を平気で貶めている。

伝統的な「福音そのもの」ではなく、自分たちのお好みの「福音的なもの」を、信徒たちに押し付ける。
本田師と正平協活動家たちに共通する悪い癖です。しかも、「自分たちの言ってることこそ本物」だと強弁する。
「福音的なもの」をいくらでもこしらえてくれるのだから、正平協にとっては、本田師は貴重な存在でしょう。
今や、本田師は日本各地を飛び回り、こともあろうに聖母に対するひどい冒涜をまき散らし続けている、段階です。

「鹿を指して馬と為す」という有名な話があります。
秦の始皇帝の死後、秦を乗っ取ることを企てた趙高が、その機が熟したかどうかを確かめるために、したことです。
カトリック司祭が聖母を冒涜するなどというのは、信徒たちに対して「鹿を指して馬と為す」のも同然です。
現在の日本のカトリックの状況からすると、本田師や正平協活動家たちにとって、「機は熟した」のでしょうか?

釜ヶ崎の人々の誰一人として、多くの聴衆を前にしてカジュアルな服装で講演する、ということはないでしょう。
釜ヶ崎の人々の誰一人として、岩波書店から本を出して自分の遍歴を語る、ということはないでしょう。
釜ヶ崎の人々の誰一人として、聖書学者として自分の好みのキリスト像をこしらえる、ということはないでしょう。

 

投稿者:Pas 投稿日:2008年 8月21日(木)20時16分11秒
『釜ヶ崎と福音』を読まずに本田師を批判するのも、さすがに失礼と思い、実際に目を通してみました。
この本はおおまかに三つの部分に分かれています。第一部は釜ヶ崎体験を含む本田師の信仰や思想の遍歴。
第二部は本田師なりの聖書解釈と講義。第三部は第一部と第二部とを踏まえた上で今や本田師が到達した信仰理解。

本田師自身が意図してそういう構成にしたのかそうでないのかわかりませんが、まるで「テーゼ〜アンチテーゼ〜ジンテーゼ」という、弁証法を思わせる三部構成です。
「第一部:釜ヶ崎」「第二部:福音」「第三部:本田師が現在一番人々に訴えたいこと」という感じです。
では第三部で本田師が言っていること、つまりこの本で本田師が本当に言いたかったこととは何なのか。それは、
「社会を改革していくような活動や政治運動に積極的に参加することこそ、キリスト教の本当にあるべき姿」
ということです。えっ、それって正平協の言ってることと全く同じでしょ? そう、正平協の理念そのものです。

昔のことはわかりませんが、21世紀になってからの日本のカトリック教会の中で、正平協活動を理論的にサポートする思想家としては、本田哲郎神父は、最大の存在なのではないでしょうか。
活動家としてはいざ知らず、イデオローグとしては、現代日本の正平協でもNo.1の存在が、本田師です。
この点で、私は今までずっと、「本田哲郎」という存在とその影響力の大きさを見くびっていたように思います。
たぶん松浦司教も谷司教も、思想的には、本田哲郎神父の弟子みたいなものなのでしょう。
本当なら聖母への冒涜は、カトリックにおいて最大のタブーです。本田師はそれを犯しても、ろくに譴責されない。
今では本田哲郎神父への批判は、日本のカトリックにおいて最大のタブーなのでしょうか。そう言いたいほどです。
聖母を冒涜しても無傷で涼しい顔をできるのだから、日本では、本田師はオールマイティに近いのでしょうか。
松浦司教や谷司教そして正平協聖職者たちに対する本田哲郎神父の権威は、絶大なものがあるのでしょう。
いくら松浦司教や谷司教を批判しても、本田哲郎神父を放置しておいたままなら、何も変わらないと思います。
本田師に大きな影響を受けている「正平協司教」は、今後もいくらでも次々に誕生することでしょう。
もしも、松浦司教や司祭方が本田師に思想的に師事する一方、池長大司教の指示を聞き流しているとするなら、現在の大阪教区にあっては、まさに「表の池長、裏の本田」状態だということになります。

本田師が自信満々である、その自信の源泉は、正平協と表裏一体だというのがその理由でしょう。
もし日本のカトリックの中で、本田師に対する批判の声があがったとしても、本田師のバックには正平協がいます。
正平協には教会の外側に、同伴勢力である左翼活動家たちの諸団体があります。
左翼活動家たちには、何か起これば自分たちに巻き込める、左翼系文化人たちと左翼系マスコミがあります。
正平協とそのお仲間の左翼勢力は、いざという時いつでも、カトリックに内外から圧力をかけることができます。
これは青柳裁判の時の構図と全く同じです。青柳裁判は、日本のカトリックによくない前例を作ってしまいました。
「内側と外側からプレッシャーをかけられた時それでも自分を処分できる長上が、日本のカトリックにいるのか?」
本田師はそこまで見極めた上で、確信犯的な聖母への冒涜を行なっているはずです。いや大したタマだと思います。

日本の司教様の中に、大阪教区の神父様の中に、本田師を面と向かって非難できる方はおられないのでしょうか?
今や、本田哲郎神父こそ日本のカトリックの中で最も危険な人物なのではないかとまで、思えてなりません。
たぶん、いくら信徒が声をあげても、聖職者の中から立ち上がる方が出て来なければ、どうにもならないでしょう。
聖母を冒涜する司祭に対して断固として反対の声をあげる勇気のある聖職者は、日本にはいないのですか?
聖母を冒涜する司祭に対してそれを見過ごしてしまうのなら、それを容認しているのと同じことなのですよ。

青柳裁判の時、圧力に屈せず自分たちの信念をつらぬいていた修道女の方々には、本当の勇気があったと思います。
それに比べて、いま本田師を放置している聖職の方々ときたら......。男らしいところを見せていただきたい。

 

投稿者:ダンボ 投稿日:2008年 8月21日(木)22時12分15秒
Pasさん、
本田神父は確信犯でしょ。あの傲慢さがとても耐えがたいのです。私は、あの人を論破する責任は、フランシスコ会にあると思っています。聖書研究所もあって、専門に研究されているのですから。また、フランシスカン霊性研究をされている方も多くいらっしゃるのですから、自会が蒔いた毒麦は、ちゃんと刈り取って、胞子など出さないように燃やし尽くしていただきたいと思います。日本にいる聖書・霊性研究の司祭で手におえないならば、ローマから修道会本部の力を借りてでも汚名をそそぐべきです。

大阪教区の教区司祭はあそこまで脱線していませんが、「朱に交われば赤くなる」のことわざ通りに、本田神父の話には距離を置いていても、補佐司教を挟むことにより、合体してしまうのではないかと危惧しています。

彼には尊敬とか謙遜は微塵もなく、司教も教区司祭も修道司祭も偉く馬鹿にされたものです。
最近2チャンネルで次のような書き込みがありました。

638:神も仏も名無しさん:2008/08/20(水) 01:39:03 ID:jJfvmm+f
先日、本田神父様のお話を聞いて来ました。
いろいろなお話ありましたが、独自のキリスト教の解釈というなら、まあ、あれもありでしょう。カトリックとは逸脱してると思いますが。
しかし気になる事として。本田神父様曰く、自分の考えを述べて相手になる神父はいないそうです。
まっとうなカトリックの範疇であると自負する聖職者がいて、彼の思想に真正面から立ち向かえる人がいないのか、と。
本田氏の思想は全くもって正しい、思想に於いて。思想は自由だし。
しかし、一千年以上の伝統のカトリックとその信者を、ないがしろにする己れの好みを絶対と看做すのは、傲慢だと思う。
http://life9.2ch.net/test/read.cgi/psy/1213719980/l50

神様からいただいたタレントを、あのようなことに使うことは、何よりの裏切り、冒涜です。

 

投稿者:Pas 投稿日:2008年 8月21日(木)23時30分34秒
本田師の言っていることというのは、実は意外に底が浅いのではないのか、というのが私の印象です。
しかるべき聖書学者の方々が立ち上がれば、突き崩して行くのはさほど難しいことではない、と思います。
本田師は二つの肩書を武器としています。
一つには「釜ヶ崎で活動する社会運動家」としての肩書。
もう一つは「日本のカトリックを代表する聖書学者」としての肩書。
「聖書学者」として論破されそうになった時、本田師は「釜ヶ崎」体験をふりかざすことでしょう。
本田師は伝統ではなく「体験」に根ざした信仰を語っているのですから、実はプロテスタントと変わりありません。
カトリックとしての「土俵」を割ることを、本田師は全く意に介していません。
そういう相手だと認識した上で、本田師と戦っていかなければならないと思います。
トリエント公会議でカトリックの聖書を聖ヒエロニムスのラテン語訳と定めた理由が、今、よくわかります。
宗教改革の時代には、本田師のようにギリシア語やヘブライ語を振りかざして反抗する人々が多かったのでしょう。
本田師の言っていることは、プロテスタント、しかもカトリックから最も遠い、プロテスタントです。
聖母への冒涜一つ取ってみてもそうです。
ルター、ツヴィングリ、カルヴァン、ウェスレー......みな本田師よりはまだ聖母に敬意を払っていたものです。
大部分のプロテスタントの人々が認めていることすら、本田師は嘲笑っているのです。
カトリックどころか、キリスト教の範疇からも、本田師は逸脱しているのではないでしょうか。

日本のカトリックの聖職の方々の中で、どうして本田師の傍若無人ぶりに誰も立ち向かわないのでしょうか。
司教様たちも神父様たちも、みんな揃いも揃って「あかんたれ」ばかりなのでしょうか。
誰もやらないのなら、ギリシア語やヘブライ語を今から勉強してでも、私のような平信徒が立ち向かいたいです。
なにしろ本田師は聖母を冒涜しているわけです。そんな人に負けるわけにはいきません。勝たねばなりません。
私は本田師の言っていることというのは、意外に底が浅いのではないか、とみています。
結局は本田師の体験(=主観)に根ざしているのに過ぎないわけですから。

 

投稿者:Pas 投稿日:2008年 8月22日(金)01時54分42秒
(ダンボさんの引用から)
> 本田神父様曰く、自分の考えを述べて相手になる神父はいないそうです。

本田神父は聖母を平然と冒涜できるような人です。
そもそもそんな人と、カトリックとしてのまともな議論が成立するはずがありません。
カトリックにとって、聖母を冒涜するというのは、「土俵の外に足が出ている」のと同じです。

取り組みの相手から「おいおまえ、おまえの足は土俵の外に出ているぞ」と指摘されても、
「いやそんなの関係ない、さあ勝負はこれからだ」などとわけのわからないことを言い出す相撲取りと、同じです。
こんな相撲取りとは、まともに相撲が取れるわけもありません。
そこでアホらしくなった取り組み相手が土俵を後にして引き上げてしまうと、
土俵の外に足が出ている相撲取りの方が「あいつは俺から逃げたから、俺の勝ちだ」と豪語するのと、同じです。

本田神父は、「俺の相手になる奴なんぞ一人もいない」と豪語し、自分を最強だと錯覚しているようですが、
単に他のカトリックの聖書学者たちから相手にされていないだけではないでしょうか。
相手にするのもアホらしいと思われているだけではないでしょうか。

 

投稿者:ダンボ 投稿日:2008年 8月22日(金)15時07分5秒
本田神父を増長させたのは、フランシスコ会だと昨晩、思い至りました。
会報の原稿を書くため、探し物をしていて偶然下記の資料が出てきて、あまりに長い資料なので、自動送り中、何気なく見ていると、「本田」の名が。慌ててそのページを開き見てみると、フランシスコ会日本管区は賛否両論あるとしながらも、彼の活動を誇らしげに報告しているのです。その報告が、酷く偏っているのです。警察と行政は、発展途上国なみの悪者評価?医療関係者も・・・失礼な話・・・。この程度の認識しか持ち合わせていないから、手玉に取られるんだと思いました。

フランシスコ会資料「平和の道具」
JPICはフランシスコ会(国際)の正平協のようなものでしょうか?
http://www.ofm-jpic.org/handbook/japanese/JPIC-JapaneseAll.pdf (←72ページ)

しかし、このように彼の活動を偏った認識の元に評価していますが、彼の活動の源泉には触れていません。すべての善は主から出るもののはず。フランシスコの「新しい生き方」の源泉になったものは受肉、十字架、聖体の3つの秘義といわれています。受肉における聖母を冒涜し、聖体も軽んじる・・・これではフランシスカンとは言えません。このような冒涜の上に実ったものだから、偽善としか受け止められないのです。へりくだりの精神で生きる人がどうして、前に紹介した発言をするでしょうか。教区長に対してあのような態度を取れるでしょうか。

私も、まっとうな聖書学者とは思えません。でも、口が立つのでしょうか? 肝心なところに来るとギリシャ語やヘブライ語を出して、嘲笑うかのごとくはぐらかすのでしょうね。Pasさんが仰ったように、本田神父という人は、釜が崎に行くまで、大した成果を出していないと思います。フランシスコ会には今は亡き堀田神父様、庄司神父様・・・著名な神父様方がいらっしゃりながら、どうして野放しにしてこられたのか・・・。

今年は「無原罪のお宿り」の教義について重要な役割を果たしたヨハネ・ドン・スコーツス没700年であることを、昨晩、フランシスコ会HPで知りました。記念する前にしなくてはいけないことがあるのでは???と思います。

 

投稿者:Pas 投稿日:2008年 8月22日(金)18時38分50秒
(前略)
ではなぜこの場を借りて今までいろいろ書き込んできたかと言いますと、それは、大阪教区の皆さんが語る教会の色々な事柄と、私の中のカトリック教会のイメージとが、あまりにかけ離れているからです。まるで大阪教区では、極論ですが、今や新しい別の宗派が誕生しようとしているかのように思われました。490年前のドイツでルターが始めんとしていたことが、まさに始まろうとしているかのようです。自分が一番知っているみたいに豪語する現代版ルターみたいな神父様も実際におられるようですし......。

洗礼を受けて十数年になりますが、私の通ってきた教会、私の住んできた地域では、正平協活動などほとんど存在感すら感じたことはありませんでした。カトリック新聞の中で存在するものとまで思っていたくらいです。田舎なので信徒数が多くない教会がバラバラに点在しているような地域で、高齢の信徒の方が多い教会ばかりです。正平協活動にとってはどうにも「やりにくい」というか、旨味の感じられない地域です。しかもこれが一番重要なポイントですが、もともと保守志向が非常に強い土地柄です。正平協にとって足場が、足掛かりがありません。

大阪教区で正平協活動が非常に活発だというのも、これは私の推測ですが、松浦司教がどうこうという以前に、もともと「革新が強い」土地柄というのが、ずいぶん関係しているのではないでしょうか。「カトリック正平協」みたいに言ってはいても、結局は教会の外の左翼活動家たちとつるんで何かをやる場合がほとんどなわけですよね。もともと革新が強い、共産党が強い土地柄でなければ、それは不可能です。正平協にとっては足場(足掛かり)がたくさんある土地柄ということではないでしょうか。私の住んでいる地域では、共産党が主体のデモにカトリックが参加するなど誰も想像すらできません。「憲法9条」を叫んでデモを行なう人たちを東北地方の各地でもよく見かけますが、参加している人々の「のぼり」をよく見ると、民青、新婦人の会、民医連などなど、要は共産党の系列組織ばかりです。

こんなことを言ってしまうと大阪教区の皆さんに怒られてしまうかもしれませんが、大阪教区では何か新しいものが誕生しようとしているかのように思われます。それは490年前のドイツで誕生しようとしていたものです。大阪教区の指導的立場にある人たちがしようとしていることはそういうことだと思います。それくらいの危険性を感じます。実際、本田神父の言っていることは、たぶんどの宗教改革者よりも、はるかに過激です。

 

投稿者:Pas 投稿日:2008年 8月23日(土)08時05分25秒
伝統的に、カトリックがイエスさまの謙遜とへりくだりの例として列挙するのは、次のような事柄です。
「イエスさまは、神の子でありながら、人間となられた」
「イエスさまは、神の子であるのと同時に人間の子供として、御両親にお仕えになった」
「イエスさまは、神の子として洗礼を授けるべき方でありながら、人間であるヨハネから洗礼をお受けになった」
「イエスさまは、神の子でありながら、自ら人間たちの罪を背負われ、十字架上で亡くなられた」
等々......

「イエスの謙遜とへりくだり」というのは、イエスさまの神性を認めてはじめて、理解できるものなのです。
イエスさまの謙遜とへりくだりを理解する前提として、常に、イエスさまの神性があります。

ところが、本田哲郎神父は、『釜ヶ崎と福音』43ページにおいて、
「第一、イエスは謙遜やへりくだりの模範を示したことはありませんでした。」と言っています。
イエスさまの神性を認めず、単なる普通の人間として見るのなら、確かにそんな読み方も可能でしょう。

そもそも、本田哲郎神父は、イエスさまの神性を認めているのでしょうか?
本田哲郎神父にとって、イエス・キリストとはどういう意味を持つ存在なのでしょうか?
もし本田哲郎神父がイエス・キリストの神性を認めていないとすれば、「カトリック司祭」という肩書は、偽称ということになります。

 

投稿者:Pas 投稿日:2008年 8月23日(土)14時16分4秒
本田師やマシア師は聖母を冒涜する「伝承」をもっともらしく引用しますが、実は「伝承」には続きがあります。
オリゲネスは、ケルススが持ち出したその「伝承」の続きを、次のように紹介しています。

<彼女は、夫に放逐されて恥辱に満ちた放浪を続けているときに、こっそりイエスを産んだが、イエスは貧困のためにエジプトに稼ぎに行き、かの地でエジプト人が誇りにしているある種の奇跡力を実証したので、帰還したときにはその奇跡力を大いに誇り、これらの力ゆえに神と自称したのだ>
(教文館『キリスト教教父著作集第八巻 オリゲネス ケルソス駁論I』35ページより)

呆れたことに、こんな馬鹿馬鹿しい「伝承」の一部を、本田師やマシア師はもっともらしく引用しているのです!

単にキリストを神と認めない人、単に処女懐胎を認めない人は、普通は「イエスはヨセフの子」と考えます。
高校時代の私自身が、そうでした。その頃に読んだ複数の歴史の本の著者も、そう解釈していました。
キリストを神と認めないばかりか、キリスト教に悪意を抱く人は、「ヨセフの子」とするだけでは満足しません。
ケルスス(ケルソス)が持ち出した「伝承」が、まさにその好例です。

本田師は、『釜ヶ崎と福音』60ページにおいて、イエスの謙遜とへりくだりに関する例の持論を展開した後、
「しかも、その母は律法に背いて妊娠するような罪人マリアと見なされていたようですし」
などと、これまた例によって、聖母を貶める主張を繰り返しています。
しかし、本田師がいうところの、「律法に背いて妊娠」などという話は、全くの妄想に過ぎません。

さて、モーセの律法に定められた彼らの清めの期間が過ぎたとき、両親はその子を主に献げるため、エルサレムに連れて行った。それは主の律法に、「初めて生まれる男子は皆、主のために聖別される」と書いてあるからである。また、主の律法に言われているとおりに、山鳩一つがいか、家鳩の雛二羽をいけにえとして献げるためであった。(ルカ2・22〜24)

親子は主の律法で定められたことをみな終えたので、自分たちの町であるガリラヤのナザレに帰った。(ルカ2・39)

マリアが「律法に背いて妊娠」したのなら、ルカ福音書の「神殿への奉献」の記述はなぜ存在するのでしょうか?
「神殿への奉献」以前の出来事すべてもまた、律法上なんら問題がなかったからこそではないでしょうか。
ヨセフとマリアは、「モーセの律法に定められた彼らの清めの期間」の後、イエスを神殿に献げました。
ごく普通に、律法にかなった生き方を、ヨセフもマリアもしていた、してきた、ということです。
聖家族には律法上なんら問題がなかったことが、この「神殿への奉献」の記事によって暗示されているのです。

また、同じルカ福音書には、次のようにあります。

皆はイエスをほめ、その口から出る恵み深い言葉に驚いて言った。
「この人はヨセフの子ではないか。」(ルカ4・22)

処女懐胎を知らなかった人々、イエスの神性をまだ認めていなかった人々は、その時点までは、イエスのことを単純に「ヨセフの子」とみなして、疑っていなかったのです。
ここでもまた、聖家族に律法上なんら問題がなかったことが、暗示されています。
実際にはイエスは聖霊によってマリアに宿った子であったけれども、律法上は、「ヨセフの子」であるべきだったからです。

 

正平協イデオローグとしての本田師
投稿者:Pas 投稿日:2008年 8月23日(土)23時02分45秒

本田師は、「真の連帯への四つのステップ」として、次のように書いています。

(1)痛みの共感から救援活動へ
(2)救援活動の行きづまりから構造悪の認識へー怒りの体験
(3)社会的・政治的行動へー構造悪と戦う貧しい人たちの力
(4)単純な「弱者賛美」から真の連帯へ    (『釜ヶ崎と福音』193〜194ページから)

......なるほど、こうやって正平協は自分たちの運動に信者たちをオルグしていくのか。思わず膝を打ちました。

本田師は『釜ヶ崎と福音』の中では、たぶん意図的に、「解放の神学」や「正平協」には触れていません。
自分の思想の「元ネタ」がバレてしまうからでしょう。自分の思想の目的地をタネあかししてしまうからでしょう。
『釜ヶ崎と福音』は、読む者すべてを社会構造の変革に立ち上がらせようと煽動する、実に恐ろしい本です。
本田師の思想は、「社会構造を変革させる運動に積極的に参加することこそ、キリスト者の本分」というものです。
その凄まじい破壊力と毒気に満ちた内容、およびその非常に扇動的な性格において、実に危険極まりない思想です。

たぶんサボテンさんが紹介された戸田三千雄神父も、本田師の思想をどこかでもろに食らったものと思われます。
そういえば『釜ヶ崎と福音』の中には、アッシジのフランシスコに関する記述を見かけません。
キリストの姿を思い通りに変えようとすれば、ギリシア語やヘブライ語で相手を煙に巻きつつ、変えられます。
アッシジのフランシスコに関しては、本田師のその手口は全く通用しませんからね。
ラテン語に関しては、ギリシア語やヘブライ語よりは、はるかに多くの人々が知ってますし。
それに、アッシジのフランシスコに触れてしまうと、本田師の欺瞞性がたちどころにバレてしまうからでしょう。

しかし、戸田神父のような人が出て来るということは、フランシスコ会の中でも、「小さくされた者」の名の下に、伝統的なフランシスカニズムが本田師の思想によって置き換えられ始めているということでしょうか。
まさに「悪貨は良貨を駆逐する」ですね。

本田師は、「よい子症候群」からは自分は決別した、と思っているかもしれませんが、さてどうでしょうか。
例えば木邨健三氏のような人にすれば、これ以上ない「よい子」であり、目の中に入れても痛くない存在でしょう。

 

投稿者:Pas 投稿日:2008年 8月27日(水)19時29分54秒
ご指摘のとおり、本田哲郎神父やその同調者の思想には、読んでいるとこちらの信仰までおかしくなりそうな「毒気」のようなものが感じられます。まさにサボテンさんのおっしゃる通り、「ミイラ取りがミイラになりかねない」です。不用意に深入りしていくと、登山の時に硫黄の煙を吸い過ぎるような危険を感じます。
恐らく、他の神父様たちが本田神父と議論をしたがらない理由も、それです。以前、私は大阪教区の神父様方をついつい「あかんたれ」呼ばわりしてしまいましたが、これは言い過ぎでした。反省しています。
本田神父は、「自分の考えを述べて相手になる神父はいない」と豪語しているようですが、たぶん議論して本田神父を打ち負かせる神父様は、大阪教区にもいらっしゃると思います。例えば、和田幹男神父様もその一人ではないでしょうか。ギリシア語もヘブライ語も、本田神父の「煙幕」を払い除けるだけの知識をお持ちだと思われます。
しかしたぶん、本田神父の思想に含まれる「毒気」を避けるために、「ミイラ取りがミイラになりかねない」危険を避けるために、相手にならないのではないでしょうか。
以前に「O」さんから、「自分も信仰を失いかねない」危険性というのを指摘されたことがあります。私は本田神父の思想を読んでいる時、まさにその危険性を感じます。というわけで、ここしばらくは、本田神父の思想から距離を置いてみます。

聖母マリアとローマ http://mikio.wada.catholic.ne.jp/MARIOLOGIA-1.html
ローマのサンタ・マリア http://mikio.wada.catholic.ne.jp/MARIOLOGIA-2.html
神の母聖マリア http://mikio.wada.catholic.ne.jp/Teotokos.html

toppageへ

夙川教会カテキズム勉強会