清原魂最後まで 栄光と挫折…“記憶の男” プロ野球
2008年10月2日(木)08:05
「4番、指名打者、清原」のコールに、球場全体が割れんばかりの大歓声に包まれる。2年ぶりの先発出場は、一世一代の大舞台。清原は最後まで“お祭り男”だった。
まずは満員のファンの期待にバットで応えた。六回の第3打席。一死一塁、カウント2−1から杉内の真ん中の直球をたたくと、打球は右中間を真っ二つに破る。痛む足を引きずるように二塁へ駆け込んだ。ベース上で白い歯がこぼれる。
「次に打つ本塁打が一番、心に残る一発になる」。そう言って求め続けたプロ通算526号は、ついに出なかった。それでも表情はすがすがしい。「中途半端なスイングだけはしたくなかった」。ストライクはすべて振った。豪快なフルスイングを貫いた。
「番長」は、とにかく絵になる男だった。188センチ、104キロの公称よりはるかに大きく見える体が醸し出す雰囲気は迫力に満ちていた。
その半面、よく涙を見せた。試合後のセレモニーでも号泣した。怒り、喜び、苦しみと、素直に感情をさらけ出す姿にファンは引きつけられた。
PL学園高時代の甲子園制覇、日本一8度、サヨナラ安打、本塁打の日本記録…。華々しい活躍の裏で、何度も挫折を経験した。子供のころからあこがれた巨人にはドラフトで裏切られた。いちずな思いを貫きFAで移籍したが、それも戦力外通告を突きつけられる結末だった。
度重なるけがにも見舞われた。昨年2月の宮古島キャンプでは左ひざを故障。医師から「一生痛みが消えることはない」と宣告された。日常生活にも支障を来す重傷だった。
「僕の野球人生は恨みだけで終わっていた」。そう感じる時期は何度もあった。だが、そのたびに誰かが助けてくれた。巨人を追われた直後には当時の仰木彬監督(故人)が「大阪へ帰ってこい。お
前の花道は作ってやる」と誘ってくれた。
だからこそ引退セレモニー、記者会見では何度も「感謝」の言葉を口にした。
強さと弱さの両面を見せ、輝かしい記録以上の鮮烈な記憶を、ファンの胸に刻み込んだ。その23年間のプロ野球人生を、清原はこうまとめた。
「僕は幸せな野球選手でした」(月僧正弥)
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□球史に残る大打者
■2122安打・525本塁打・1530打点
歴代5位の通算525本塁打、6位の1530打点は現役最高。通算打率は・272ながら、日本プロ野球史上、清原以外に2000安打、500本塁打、1500打点を達成したのは王貞治(巨人)、野村克也(西武)、門田博光(ダイエー)、落合博満(日本ハム)、張本勲(ロッテ)の5人だけ。清原が球史に残る大打者だったことは間違いない。
しかし不思議とタイトルには恵まれず「無冠の帝王」と呼ばれた。1992年には1打点差、96年には1本差で、それぞれ打点王、本塁打王を逃した。自己最高の121打点を挙げた巨人時代の2001年も、127打点のペタジーニ(当時ヤクルト)にタイトルをさらわれた。個人の成績より進塁打などチーム打撃を優先し、勝利にこだわった結果とも言われる。
その証拠に、勝利にこだわる必要のないオールスターの成績は抜群だ。43試合に出場してMVP受賞7度は最多。通算打率・365(100打席以上)、打点34とも1位、通算本塁打13は2位と爆発。まさに「お祭り男」でもあった。
通算三振数1955、通算死球数196の日本記録保持者でもある。フルスイングの真っ向勝負を貫いた証しだ。そうした姿勢こそが野茂英雄(当時近鉄)、伊良部秀輝(同ロッテ)らとの後々まで語られる名勝負を生み、ファンに強烈な印象を与えた理由だろう。(月僧正弥)
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