今回の控訴審差し戻し判決は、結論として当然の判決だったが、裁判を担当して判決文を書き上げた裁判官の苦労に対して慰労の言葉をかけたいと思う。全国民が注目する裁判で判決する責務の重圧は尋常なものではなかっただろう。特に私が感心するのは、被告人と弁護団が差し戻し控訴審で陳述を始めた一連の奇想天外で荒唐無稽な主張に対して一つ一つ丁寧に吟味しながら、それを嘘であると判断して明確に退けた点である。例の「魔界転生」の精子注入の件についても、山田風太郎の小説を実際に読み、被告人の主張が小説の記述内容と相違している点を指摘していて、細部まで注意して事実を確認した上で判決を構成した裁判官の努力が窺える。この裁判は、一面では死刑制度の存否をめぐる争いであったけれど、別の一面において理性と非理性の戦いでもあった。弁護団の行為が司法への挑戦や挑発に見えるのは、そこに理性の問題があるからだ。
私が否応なく注目させられたのは、ある弁護士が判決当日の弁護団記者会見の中で漏らした一言で、「
裁判所の判断はあまりに合理的な人間像を前提し過ぎている」という反論だった。この言葉と言葉の背後にある思想がまさに問題の鍵ではないかと思われたのである。この主張は、世の中には非合理的な生き方をしている人間が数多くいて、そうした非合理的な生き方をしている人間を内在的に理解する法律家の視角が裁判でも必要だと言っているように聞こえる。すなわち、この主張の裏側にある思想というのは、近代合理主義への懐疑であり、脱構築主義の司法世界への浸潤と影響であると認められるだろう。そして、この主張から何が見えてくるかと言うと、未熟で横柄で驕慢な福田孝行が拘置所の中で話す身勝手で不可解な犯行説明の自己正当化の放埓に対して、窓ガラス越しに弁護士連中がペコペコとご機嫌を伺うように供述の始終をメモしている姿である。
恐らく、指導者の安田好弘だけは最初から死刑判決を前提した上で「死刑廃止キャンペーン」の政治活動を確信犯的にやっているのだ。福田孝行の命は捨てているのである。しかし、他の弁護士たちはどうやらそうではなくて、脱構築主義(近代否定主義)の観念で、凶悪犯の福田孝行にどこまでも内在して、その行動や言動に積極的な意味を汲み取ろうと尽力しているのである。それを見た福田孝行がますます増長して、大勢の弁護士が自分の前で謙って一生懸命に話を聴き出そうとするものだから、得意になって、さらに支離滅裂で意味不明なストーリーをべらべらと喋くって聴かせたということなのだろう。ほとんど宗教の世界のような情景である。福田孝行による「復活の儀式」や「ドラえもん」の自己正当化の陳述は、実は単に狂気や妄想というだけでなく、そこには本村洋に対する強烈な敵意と憎悪があり、本村洋を傷つけて悦を得る攻撃の衝動と嗜虐の本能が見え隠れしている。
脱構築の原理主義の狂気と暗黒と不毛をあらためて感じさせられる。差し戻し控訴審の弁護団が試みたのは、近代刑事裁判制度の解体脱構築だったのだろう。弁護士たちは言わば脱構築主義の神を信じて法廷を支配する理性の前提と秩序に戦いを挑んだのであり、理性に逆襲されて無残な全滅を喫したのだ。弁護士たちが頼ったのは精神鑑定士の言葉であり、精神鑑定士の言う「母体回帰」だとかそういった瑣末な空論を武器にして近代合理主義の司法制度に突撃した。精神医学の世界というのは、野田正彰とか香山リカの顔が浮かぶが、私の偏見で言えば、養老猛司の脳科学と同じほどに、無知か眉唾でなければ売名であって、その専門領域の技術や方法や体系を人間の内面を分析理解する説得力だとは思えない。それを司法の世界に持ち込むことがどれほど意味のあることなのだろうか。刑事事件の真実を解明する装置として有効だとは思われず、単に犯罪者を「精神異常者」に仕立てて法的責任を免責するために応用されているように見える。中世カトリック教会の免罪符のようだ。
裁判官の判決は、近代法制度は理性を前提とし合理主義で構築されているシステムだという基本的事実をわれわれ国民と法曹界関係者の全体に知らしめたように思う。この裁判のキーワードは「理性」なのだ。理性とは、辞書によれば、「
道理によって物事を判断する心の働き。論理的、概念的に思考する能力」であり、「
善悪・真偽などを正当に判断し、道徳や義務の意識を自分に与える能力」である。理性を前提にして、はじめて、人間が犯罪を犯した場合でも、その人間は反省するということができる。動物は反省することができない。裁判官の合理主義を批判した弁護士は、人間の理性の存在を信じているのだろうか。私にはそのことが疑問に感じられた。理性を信じられなくては、本来、法曹界で仕事に就くことはできないはずだ。弁護士が理性を信じている人間であれば、福田孝行に接見した際に、福田孝行が犯した事実を理性で省みるよう促し諭さなければならなかったはずで、それは、すなわち、物事の善悪・真偽を正当に判断する能力を啓発し体得させるように働きかけて教育することではなかったのか。
弁護団と福田孝行との間に理性のプロトコルが介在したならば、弁護団は福田孝行の「復活の儀式」や「ドラえもん」の説明を不具合な情報と判断してエラーメッセージを返さなければならなかったはずだ。その「情報」ではシェイクハンドできず、コミュニケーションを成立させられない。もう一度正確な「情報」を寄こせと同期を取るべくポーリングのリクエストを送らなくてはいけない。正確な情報とは理性というプロトコルに即して正確な情報である。弁護士の側が理性の前提を崩し、両者の通信から理性のプロトコルを排除したから、福田孝行の荒唐無稽で法廷侮辱的な「情報」が法廷の情報処理空間に乱暴に侵入してしまったのである。理性の神が支配する法廷の場で福田孝行の「情報」が正当に受容されるはずがない。弁護士の接見行動から理性の前提が消えたのは、脱構築主義の人間観の影響と、そして死刑廃止のイデオロギーのなせる業だと考える以外にない。イデオロギーが無反省の福田孝行を聖化し、腫れ物に触るような取り扱いになったのだろう。死刑廃止の使命と執念による理性の否定と軽視。
また弁護士が、「
反省の姿勢を見せずに事実で争えば死刑になり、反省の素振りを見せて争わなければ死刑にならないのであれば、被告人は怖くて裁判で事実を争えなくなる」という趣旨の発言をしていたが、この主張も奇妙で納得できない。死刑判断が下るか下らないかは別にして、罪を犯した者には反省は必要だ。今度の差し戻し控訴審では、被告人と弁護人は殺人ではなく傷害致死が事実であるとして争ったのだから、裁判官の前で殺人の罪を反省する陳述や態度は必要ない。すなわち弁護士のこの泣き言は、傷害致死で争う方針で臨んだ公判戦略が失敗して責任が我が身に降りかかったのを、自分の責任と認めず裁判所の責任に転嫁しているだけだ。そもそもこの弁護団において反省という言葉はどれほど重い意味で受け止められているのか。没理性としか思えない弁護団に反省の概念は本当にあるのか。罪を反省している人間が「復活の儀式」だの「ドラえもん」だの言えるのか。それを法廷で言わせた弁護団の語る「被告人の反省」を信用することができるのか。弁護団の言う「反省」の言葉は詐術的で欺瞞的だ。
判決では「反省」も大事なキーワードだった。反省の不在を重視した点もよかったと思う。裁判官は被告人に反省を求めた。弁護団やブログ左翼は、真の反省ではない反省のフリが裁判官の情状判断に影響するのは問題だという意味のことを言うけれど、態度としては三つある。①心から反省して言葉でも反省する、②心中では反省せず言葉だけで反省を言う、③心中でも言葉でも全く反省しない。この三つの態度類型を見て想起するのは、日本の中国や韓国に対する戦争責任の態度ではあるまいか。最近は政権の中でも③が増えて多数になりつつあるが、政府は②の態度を離れられない。本当は①でなくてはいけないが、被害者である中国や韓国の立場からすれば、③に較べれば②の態度の方がはるかに評価できるだろう。③は本来、両国関係の断交もしくは戦争を意味するものだ。詭弁や捏造や荒唐無稽作戦で「事実」を争おうとする政治家が増えて困る。光市母子殺害事件の弁護団と同じだ。南京事件で虐殺と婦女暴行した日本軍の兵士たちもその行為を「不合理な真実」の論理で正当化できるのだろうか。
私は、理性の存在を懐疑している弁護団が反省の言葉の意味を正しく理解しているとは思えない。反省だけではない。真実という言葉もそうだ。弁護団は福田孝行の言う「復活の儀式」や「ドラえもん」の供述を真実であるとして、その真実の立証に全力を挙げたが、われわれにはそれは不誠実で悪趣味な弁解の戯言であって、およそ真実からは遠いものである。本人の思い込みとしても信用できない。思い込みではなく思いつきだ。思いつきが思い込みに転化した虚言だ。あの証言を真実だと言い張る弁護団は、真実の言葉の意味を理解してないか曲解しているとしか言いようがない。被告人の証言したままが真実であるとする弁護団の主張は不当で、その真実の主張は欠片ほども説得力がない。問題は、弁護士にとって真実とは何かということもあるが、それ以上に、誰をも説得できる真実を追求して明らかにしようとしなかった弁護士の態度にある。弁護団は事件の真実を追求しようとしなかった、と私たち一般市民にはそう見える。その必要がなかったのは、差し戻し控訴審が彼らにとって死刑廃止キャンペーンの宣伝の場だったからだ。
弁護団には理性の不在があった。そして反省と真実の軽視があった。敗北するべくして敗北し、死刑廃止の宣伝も逆効果に終わった。
【世に倦む日日の百曲巡礼】
今日の一曲は1979年の日本レコード大賞受賞曲、ジュディオングの『魅せられて』。
何と言ってもイントロの衝撃的な映像、
バックライトを浴びて美しい全身のシルエットを浮かび上がらせる演出が素晴らしかった。
台北市生まれ。レコ大受賞のときは台湾中が沸いたことだろう。
欧陽菲菲とか、テレサテンとか、台湾には素敵な歌手がたくさんいるね。
どこまでも人にやさしく暖かな台湾の風土。確かに中国大陸とは大違いだ。
台湾へ行ったこと、ありますか?
台湾にご旅行の際は、ブログ推薦の高雄アンバサダーホテルをよろしく。
世界一のホスピタリティが満喫できる。
凍頂烏龍茶も最高。 やさしいやさしいやさしい台湾。
この歌は池田満寿夫の小説を映画化した『エーゲ海に捧ぐ』のイメージ曲でもあった。