今日(9月23日)は、お彼岸の中日で、お寺では「秋の彼岸法要」が勤まりました。そして、お参りに来てくださった皆さんに、住職としてお話(法話)をさせていただきました。
今日の僕の話は、最近読んで、とてもとてもとてもとても面白かった本から学んだ事を基本にしました。
その本とは、
釈徹宗という本願寺派(お西)のお坊さんの書かれた
『いきなりはじめる仏教生活』(バジリコ 2008年)
です。
今まで、色んな「仏教関係」の書物を読んできましたが、こんなにワクワクしながら、そしてトキメキながら、読んだ本はあまりなかった気がします。
ホントに面白い。
この本の内容の一部を自分なりにまとめると、
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我々の脳は、「2項対立」という図式で理解するのが分かりやすく出来ているらしい。
勝ち・負けとか 上・下とか 高・低とか 役立つ・役立たないとか 損・得とか・・・。
我々は、通常、この図式での「枠組み」を通して物事をみています。それは、つまり、何でもワタシの都合よくなって欲しいという「想い」であり、もちろん、この「枠組み」がないと進歩も向上もなくなってしまうことになるので、ある程度は必要です。
しかし、仏教は、この「2項対立」を生み出している根源は我執(がしゅう)という煩悩であり、それが苦しみを次から次へと再生産している、と説きます。「枠組み」をそのままにしていると、2つの両極だけを行ったり来たりすることになり、自分にマジメであればあるほど、その「こうでなければならない」という枠組みが強固になり、認識と現実のズレが生じたときの絶望も大きくなります。
つまり、「2項対立」という「軸」だけで生きていく危うさがあります。
そこで、仏教は、そんな「2項対立」を超えた「第3の場」「第3の時間」を持つことをススメ、そこから、自分の「枠組み」を「点検」し見つめ直して、再び「現実」を生きていくことを教えます。なので、仏教を学ぶということは、日常の前提としていた自分の「枠組み」が揺さぶられるという手続きが必要になります。
浄土真宗という「宗派」では、その「点検方法」として、ひたすら「教えを聞く・学ぶ(聞法)」という事を大事にします。「聞く」ことに重ねることによって、「外部への回路」が開かれる、ということになります。
つまり、ワタシが、当たり前にしている「枠組み」を「第3の場」から点検することによって、今、生きている自分を「再構築」していくこと、外部への回路を開いて今ここを生きること・・・・
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うぅぅ・・・うまくまとめられない
でも、以上のような事が、色んな実例やら面白い喩えを使って(くだけた文章や言葉使いで)釈徹宗先生は本の中で語っています。
・・・・・日常の前提としていた自分の「枠組み」が揺さぶられる・・・・
なるほど。この言葉を読みながら、むしろ「枠組み」を甘やかす宗教が多くないか?と考えてしまった。このカミやホトケを拝めば、願い叶うよ、健康でいられるよ、長生きするよ・・・・など。
道理を無視し、自分の都合(ワガママ)をそのままにして、その「枠組み」を強固にしていくのでは、仏教ではないだろう。
だから、
仏教徒の生活の基本である「帰依三宝」、つまり、仏・法・僧という3つの宝をよりどころとする意味についても、
(1)仏→本当に敬う「目覚めた人(仏)」によって、ワタシの生き方が「ひとりよがり」になっていないかチェック。
(2)法→2項対立の「枠」に縛られるワタシを目覚めさせる「道理(法)」によって、自分勝手な決めつけはないかチェック。
(3)僧→「自分」とか、都合の良い「仲間意識」に閉じこもっていないか、色んな人と、お互いが認め合える人間関係を開いているかチェック。
というように考えることができる。
つまり、
仏教徒の基本姿勢として、
自分が苦しみを生み出している「枠組み」について点検するということが大切なんだなぁ・・・・
・仏も
・法(おしえ)も
・僧(仲間)も
このワタシの「枠組み」をチェック点検してくださるから「三宝」なのである。
以上のようなことを、「秋のお彼岸」(第3の場所から自分の生き方をチェックする期間)の法要で考えさせていただいたのでした。