2008年10月 1日 (水曜日)

拝哲?

拝哲?

いやぁ、
久しぶりに先生にお手紙を書こうとして………

しょっぱなからミスった。
いきなり「拝哲」って…(苦笑) 

集中したのに、腰砕けだわ、まったくwobbly

文字が書けない…。
書いても、「蜘蛛の巣」のような幾何学模様に見えて、合っているか不安。

ホントに最近は、パソコンと携帯のメールばかり。(あと実際に書くのは毛筆で位牌に法名くらい?) 実際に文字を書かないなぁ。。。

いやぁ、文字って書かないと忘れるよ。

それに
昔よりキレイな文字も書けなくなってるよ。

さて、気を取り直して手紙書き直すか(汗)

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2008年9月28日 (日曜日)

みのや雅彦 ライブツアー2008

happy02師匠のコンサートツアーのチケットが昨日、発売になった。

今回のツアーは4箇所。

■みのや雅彦 ライブツアー2008 「がんばってね」
Shisyou_2_2 ・11/ 8 (土)帯広メガストーン
・11/15(土)函館金森ホール
・11/29(土)旭川アピスホール
開場17:30/ 開演18:00 自由席\3.500(当日 ¥4,000)  

・12/6 (土) 札幌・Zepp Sapporo 
開場17:15/開演18:00 指定席\4,500 (ワンドリンク付)(当日¥5,000)

オープニングアクト:SACON (全会場)

■発売日:2008年9月27(土)
ローソンチケット(Lコード 15837)
チケットぴあ(Pコード 305-546)

お問い合わせ ウエス(011-614-9999)

http://www.wess.jp/pc/artist/html/minoya.html

  

師匠のブログ(9月19日更新分)によると、

もっと回りたいんだけどな、なんせ土日限定だからスケジュールと会場の空き具合の折り合いがな、なかなか難しかったりしてね、ごめんな。

とのこと。

 

去年は、ウチの近所の「苫小牧」や「室蘭」もツアーに入っていたんだよな・・・・。(ま、お寺の法要期間とバッチリ重なって、札幌会場にしか行けなかったけど。)

実は、今年の1月以来、師匠とはお会いしていないし、単独での「ライブ」は1回も見ていない・・・。こんなに師匠に会っていないのも珍しい年だなぁ。

それにしても、

北海道内ではどんどん有名になっていく師匠。

  

というか、

こんなに長い間応援しているのに、

ワタシの住んでいる北海道の胆振地方エリアを、「みのやライブ」常連の地として盛り上げる事に協力できていない自分を申し訳なく思います・・。

  

  

今年のツアー、12月6日札幌に行くぞ~~~~♪

その日は、坊さん関連の予定とか会合が入っても、パスしますcoldsweats01

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問い

ばあちゃん、
カンタンに言うとさ、

仏教とは、
例えば、
いま握りしめているコブシをパッと開くこと、だと思うんだ。
こだわり、しがみつき、思い込みなどの固定化をパッと離れる道。

いや、コブシを握りしめている自分の姿、有り様に気づかせてもらう、
そんな自分自身を点検する道・・・。

それなのに、
こうしなきゃならないノダ!
迷っているノダ!
浮かばれないノダ!
可哀想ナノダ!…
などの
こだわり、しがみつき、思い込みなどの固定化をそのままにして、
そんな自分自身の「枠組み」を点検するどころか、
強固にし、さらに増長させていく…………

握りコブシをギュッと固くしたのでは、反対だよ、ばあちゃん。
ばあちゃん、何が気になるの?
それをしないとどうなるの?
苦になるってばあちゃんがどうなることなの?
じゃ、ばあちゃんにとって楽になるってどうなることなの?
お骨の前でお経をあげたらどうなるの?逆に、お経をあげなかったらどうなるの?
お経って何だと思う?
お釈迦様って何を説いたと思う?

 

………今朝の「月参り」の場面で、あるお宅のばあちゃんに語りかけながら、
実は、どんどん僕自身が問われていたのだった。

枠組みの中で固まってしまった“コリ”をどう解きほぐしていくのか?
どうやら
お坊さんの向き合わなきゃならない場面はその辺りにあるみたいだ。

  

「自分は何を気にしているのか?」

「自分はどうして苦しいのか?」 

「この自分がどうなっていくのか?」

その「自分」という1点を抜きにして、「自分不在」の法要や墓参りをしても、飽きればやめる。続かない。「仏教ごっこ」である。

  

亡き人がどうなっているの?

という問いは、

この私がどうなっていくの?

という問いと重なる。

  

亡き人を 案ずる私が 亡き人から 案じられている(伝道掲示板より)

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2008年9月27日 (土曜日)

真夜中、ストーブつけた

夜中目覚める。

寒い……

ベッドから落ちて
ゴロゴロ転がり

フトンもかけずに
眠りこけてた。


寒い……


思わず
ストーブのスイッチを入れる。

久々につけたシーズン初めてのストーブは、
ストーブ内にたまった“ホコリ”が焼けるような独特な臭いを放つ。

その臭いを感じながら、二度寝する。


しかし、
しばらくして目が覚めた。

暑い………


まだ
ストーブはちょいと早かったかな。

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2008年9月25日 (木曜日)

YouTubeで遅刻しないでね

空き時間にパソコンをつけて、何気にYouTubeを見ていたら、

時間があっという間に過ぎるな・・・coldsweats01

今日も、午後のお参りに遅刻しそうになった(汗)。

で、

以下の動画は、この動画から「関連動画」をハシゴしていくための僕個人の「ブックマーク」のかわりに載せます。。。

単なるワタシの好み。

  

ああ、このドラマ去年ハマッたなぁ・・。ビデオ消さなきゃよかったなぁ。 DVDがもうすぐ出るらしいが・・・・ このドラマの彼女を見てると、脱力感と共に、愛しさがこみ上げてしまうわ・・・。

で、やっぱり、綾瀬はるか、といえば、

ああ、やっぱりこれなのね、これなのよ。↓

マジでこのドラマの「DVD-BOX」が欲しいなぁ。

いやいや、このページから、セカチューの他の動画をハシゴすると、またしても泣きまくってしまった・・・。

      

あ、こんなのもあるのね!

数年前まで長渕ファンクラブに入るくらい惚れ込んでいたから、

長渕サンの過去の楽曲は、もちろんCD音源としては所有しているけど、

この頃の映像ってなかなか見れないから貴重だ・・。

でも、やっぱり「ガンジス」はそれまで僕が聴いていた歌という概念を覆すくらいの衝撃だったなぁ。

当時、ガンジスを歌ったテレビ番組録画して、何回も繰り返し見た映像もYouTubeに発見!

この動画で、ワタシも同じ「タカミネ」のギターを買い、この曲を忠実にコピーしたなぁ・・・。

1回目にインド行ったときの記憶を重ねながらこの曲に傾倒し、

2回目にインドに行ったときは、心の中で何度もこの歌を歌っていた自分を思い出す。。。

まだまだあるけど、この辺にしとこ・・・・

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2008年9月24日 (水曜日)

帰依三宝の生活とは?〜〜秋彼岸法要で考えたこと〜〜

今日(9月23日)は、お彼岸の中日で、お寺では「秋の彼岸法要」が勤まりました。そして、お参りに来てくださった皆さんに、住職としてお話(法話)をさせていただきました。

今日の僕の話は、最近読んで、とてもとてもとてもとても面白かった本から学んだ事を基本にしました。

その本とは、

釈徹宗という本願寺派(お西)のお坊さんの書かれた

『いきなりはじめる仏教生活』(バジリコ 2008年)

です。

今まで、色んな「仏教関係」の書物を読んできましたが、こんなにワクワクしながら、そしてトキメキながら、読んだ本はあまりなかった気がします。

ホントに面白い。

この本の内容の一部を自分なりにまとめると、

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

我々の脳は、「2項対立」という図式で理解するのが分かりやすく出来ているらしい。

勝ち・負けとか 上・下とか 高・低とか 役立つ・役立たないとか 損・得とか・・・。

我々は、通常、この図式での「枠組み」を通して物事をみています。それは、つまり、何でもワタシの都合よくなって欲しいという「想い」であり、もちろん、この「枠組み」がないと進歩も向上もなくなってしまうことになるので、ある程度は必要です。

しかし、仏教は、この「2項対立」を生み出している根源は我執(がしゅう)という煩悩であり、それが苦しみを次から次へと再生産している、と説きます。「枠組み」をそのままにしていると、2つの両極だけを行ったり来たりすることになり、自分にマジメであればあるほど、その「こうでなければならない」という枠組みが強固になり、認識と現実のズレが生じたときの絶望も大きくなります。

つまり、「2項対立」という「軸」だけで生きていく危うさがあります。

そこで、仏教は、そんな「2項対立」を超えた「第3の場」「第3の時間」を持つことをススメ、そこから、自分の「枠組み」を「点検」し見つめ直して、再び「現実」を生きていくことを教えます。なので、仏教を学ぶということは、日常の前提としていた自分の「枠組み」が揺さぶられるという手続きが必要になります。

浄土真宗という「宗派」では、その「点検方法」として、ひたすら「教えを聞く・学ぶ(聞法)」という事を大事にします。「聞く」ことに重ねることによって、「外部への回路」が開かれる、ということになります。

つまり、ワタシが、当たり前にしている「枠組み」を「第3の場」から点検することによって、今、生きている自分を「再構築」していくこと、外部への回路を開いて今ここを生きること・・・・

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

   

うぅぅ・・・うまくまとめられないweep

でも、以上のような事が、色んな実例やら面白い喩えを使って(くだけた文章や言葉使いで)釈徹宗先生は本の中で語っています。

・・・・・日常の前提としていた自分の「枠組み」が揺さぶられる・・・・

なるほど。この言葉を読みながら、むしろ「枠組み」を甘やかす宗教が多くないか?と考えてしまった。このカミやホトケを拝めば、願い叶うよ、健康でいられるよ、長生きするよ・・・・など。 

道理を無視し、自分の都合(ワガママ)をそのままにして、その「枠組み」を強固にしていくのでは、仏教ではないだろう。

  

だから、

仏教徒の生活の基本である「帰依三宝」、つまり、仏・法・僧という3つの宝をよりどころとする意味についても、

(1)仏→本当に敬う「目覚めた人(仏)」によって、ワタシの生き方が「ひとりよがり」になっていないかチェック。

(2)法→2項対立の「枠」に縛られるワタシを目覚めさせる「道理(法)」によって、自分勝手な決めつけはないかチェック。

(3)僧→「自分」とか、都合の良い「仲間意識」に閉じこもっていないか、色んな人と、お互いが認め合える人間関係を開いているかチェック。

 

というように考えることができる。

つまり、

仏教徒の基本姿勢として、

自分が苦しみを生み出している「枠組み」について点検するということが大切なんだなぁ・・・・

・仏も

・法(おしえ)も

・僧(仲間)も

このワタシの「枠組み」をチェック点検してくださるから「三宝」なのである。

以上のようなことを、「秋のお彼岸」(第3の場所から自分の生き方をチェックする期間)の法要で考えさせていただいたのでした。

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2008年9月22日 (月曜日)

最後の見せ場?

最後の見せ場?
◎最近、ビートル君のエンジンの調子がやけに良い気がする。総走行距離が12万キロ近くなり、ある意味、車の寿命の中で今が「最後の見せ場」なのかもしれない。快調に日々を走っている。

◎最近、私KONOのノドの調子がやけに良い気がする。今月は葬儀や法事が立て続けにありとても忙しいけど、どの「ステージ?」でも伸びやかで まっすぐで、綺麗な「声質」でお経が上げられていると自分でも思う。昨日もそして今日も、参列していた方にホメられた。

ま、でも、ホメられても悪い気はしないが、スバラシイ声質でお経を上げられる事と、仏教の教えとは何の関係もない。
法要で伝えなきゃならないのは声質ではない。


そうは言っても、
なんでこんなに調子がよいのだろう?
今が、ワタシの声帯の「最後の見せ場」だったりして(笑)

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2008年9月21日 (日曜日)

口の中に生ゴミを包んで陰干しをした雑巾が入っているような・・

森達也さんの本を読んでいた。

本論とは直接関係ないけど、そこに「面白い表現」があったのを見つけた。

それは、「口臭」についでである。

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 ヘビースモーカーの同世代で、凄まじい口臭の男がいる。濡れたままの雑巾に生ゴミを包んで三日ほど陰干ししてから、口の中に入れたのじゃないかと思いたくなるほどに凄まじい。ところが本人は気づいていない。誰かが言ってやればよいのだろうけど、「ねぇ、口の中に生ゴミを包んで陰干しをした雑巾が入っているようだよ」とはさすがに言いづらい。

   森達也著『メメント』(実業之日本社2008年)82頁より

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この一節が出てきたとき、僕は、またその箇所を何度も、一字一句を確認しながら、その「臭い」を妄想しながら読み返した。 そして、最初はその表現に爆笑し、その後、思い当たる「臭い」がリアルに浮かんできて、うへぇぇぇぇ~~~と苦笑しながら唸ってしまった。

自分も口臭を気にする。車にはガムを。そして、部屋にはモンダミンを常備している。気にしすぎても仕方ないんだけど。

でも、自分以外の他人に「臭い!」などと指摘されようものなら本気でヘコム。そして、僕のまわりにも、口臭のヒドイ人がいる。誰とは言わないけど(言えないけど)。

  

で、僕は、今まで、ヒドイ口臭に対しては、

「ザリガニの死骸のような臭い・・・」

という表現を使っていた。(この表現は誰の受け売りかは忘れたけど・・・。)

朝起きて、ふと自分の口臭に気づいたとき、

「うわ、俺、ザリガニの死骸みたいだな・・・」

なんて思っていた。

  

それにしても、森達也さんの、

濡れたままの雑巾に生ゴミを包んで三日ほど陰干ししてから、口の中に入れたのじゃないか

という表現は、見事である。(生ゴミを出す際に、ゴミ袋から床に滴り落ちた「汁」を濡れた雑巾(すでに臭い)を使い掃除した直後、手の臭いを嗅いで、悶絶したばかりなので・・・。)

  

 

口臭を気にする自分は、他人の口臭もとても気になる。でも、他人の口臭を注意するほど、自分の口臭は「フローラルの香り」ではない・・・。

そして、

僕は、今日も、自分の発する「臭い」におびえたり、警戒したり。

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