Dive#400 Wreck Fujikawa
2001年8月28日、例によって小鳥のさえずりと遙かなモーターボートのエンジン音で目覚める。ベッドから出てカーテンを開く。朝露に濡れたヤシの木々が黄金色に輝きその向こうに青のグラデーションが広がる。ただひとつ昨日と違うこと、それは沖合に白波が立っていない。かぜはほとんど凪いでいた。
急いで朝食を済ます。そのあいだ中トシエが「キミオさんが守ってくれてるんだ!」。これから始まるプロジェクトを前にみんな興奮気味だ。集合時間の9時30分にダイブショップの桟橋に向かう。記念碑は既にロープでしっかり固定されボートに積み込まれていた。「積み込むところから撮影したかったのにな・・・」とふーさんが少し残念そうだ。
各自が潜水機材や撮影機材、そして食料飲料の点検をすませた頃、でかいダイビングバックを背負ったメイソンが、例によって声から先に現れた。「おまえ、くれぐれも気をつけろよ、オヤジになったばっかりなんだからな、家族を悲しませんなよ。まっ、もっとも今日は富士川だから大丈夫だけどな」。心のなかでボクはそうつぶやいていた。
さあ出発だ。期せずしてこれはボクにとって400回目のダイビングになった。キミオを記念するプロジェクトがボクにとっても記念ダイブとなったわけだ。アッピンがおどけてトシエとナオコをボートにエスコート。コイツオヤジに似て女好きなんだから。ボートはウェロ島を出て、トロアス島とフェファン島の間をエッテン島に向けて進む。西の微風で海面は穏やか、ボートは飛ぶように進む。ボートはトロアス島のトルモン山の直下にさしかかる。「戦争中、この山の守備隊の兵隊さんたちにキミオは遊んでもらっていたんだなあ」などと考えている。ふと気づくとみんなそれぞれ物思いに耽っている。特にメイソンはこみ上げてくる感情を押し殺したコワイ顔をしている。よいよだよ! 待っててね」。疾走するボートの風圧でボクの目尻から耳へと熱いものが伝わっていった。
エッテン島の沖合、目的の海域に到着するとアッピンがボートの舳先に立つ。今、彼は周囲の風景を基に、目に見えない海の底に眠る富士川丸の正確な位置を探っている。そして彼がここだと決めた場所に錨を投げ込む。すると我々のボートの錨は見事に富士川丸に引っかかった。最近はダイブショップのオーナーでトロアス島の知事という要職にあり、めっきりデスクワークばっかりになったアッピンだが、チュークでナンバーワンと言われた名ガイドの腕は衰えていなかった。「やっぱりおまえ、オレのmy bro だぜ」。
ちょうど富士川丸にはダイブクルーズ船のオデッセイが来ていた。今、多くのアメリカ人ダイバー
が富士川丸を潜っているんだ。「よしよし、ギャラリーが多い方が燃えるぜ!」さあ、いよいよだ! まずアッピンとケンとボクがエントリーする。船上ではメイソン、ニック、ミカが記念碑を海中に降ろす。ふーさんとトシエは撮影のためにエントリー、船上ではナオコがみんなの奮闘を撮影している。
水中では降りてきた記念碑にリフトバッグを固定した。アッピンがその浮力を調節し、ボクがロープをコントロールしながら、ケンが記念碑を運ぶ。ボクたちに記念碑をバトンタッチしたニックとメイソンがエントリーして僕たちに合流。直下にはうっすら陽の光に照らし出された富士川丸の左舷デッキが見えている。アッピンがリフトバッグにエアを送り込み、盛んに浮力を調節している。ケンとニックそしてメイソンがデッキのHailstormの記念碑の隣りめがけて一気に記念碑を運んでいく。設置場所に着いた記念碑は位置の微調整の後、リフトバッグをはずされロープが解かれた。ボクがリフトバッグを、ケンがロープを回収する。そして出航の時、ロレンソーが持たせてくれた花を記念碑に供えた。そしてすかさず時計を見る。ここまで所要時間が14分だ。
「やったな」ボクはアッピンに握手を求める。だがアッピンはそのボクを強く抱きしめた。コイツまたレギュレターの奥であの魂から滲み出るような”Thank you, Thank you”を言ってるんだろうな。彼の抱擁の強さと達成感で、涙が溢れる。思わずボクは自分のマスクをはずして水中で顔を洗っていた。
気が付くと、周囲にはほかのダイバー達が集まってボクたちの作業を見入っていた。中には夢中になって写真を取りまくっているダイバーもいる。「そうだよ、その写真、国に帰ったらいろんな人に見せてやってくれよ」。ふーさんが記念碑を囲んだボクたち「記念碑沈め隊」の記念写真を撮っていた。その水中写真家は、彼女と一緒にボクたちを撮っていた。ボクは心地良い達成感と少し誇らしい気持ちに酔っていた。
ボクたちはすこしずつ、ゆっくりゆっくり浮上を始めた。記念碑のもとを去りがたい気持ちを抑えながら。水面から差し込む陽光が水深17mの記念碑の上で、富士川丸のデッキの上でゆらゆら揺れている。2月4日、この地を後にしてから今日までのことが走馬燈のように脳裏をよぎっていく。次第に記念碑が小さくなっていく。記念碑に焼き付けたキミオの写真が微笑んでいる。
水深5mで安全のため減圧停止。ここで数分間呼吸して、高圧下で体内に溜まった窒素を排出して、減圧症の予防をしてから浮上だ。早くボートの上でみんなと歓びを分かち合いたい。時間が経つのが遅い。ふと見上げるとナオコが水面でマスクとスノーケルそしてフィンをつけて水面に浮かんでこちらを覗いている。ボクは富士川丸のマストの上に座って彼女に手を伸ばす。そこは水深5m。沈没してから57年の間に船体について育ったサンゴやソフトコーラル、そしてイソギンチャクが陽光に照らし出され極彩色を競いあっている。その間を無数の稚魚たちが泳ぎ回り、竜宮城があればきっとこんな美しさなんだろうなと思ったりする。ナオコが潜ってくる。あと少しで手が届く所まで来るのだが・・・「だいぶ素潜り上達したな。」水面に向かうナオコの体にもコーラルにも陽光がゆらゆら漂う。やっぱり海は浅いほど美しいものだ。
ボートの上では、先に上がった仲間が迎えてくれる。「やったな、大成功だ!」。みんなと握手しまくる。そしてアッピン、どちらからともなく再び抱き合って健闘をたたえる、「3000マイル離れていても、オレたちやっぱり兄弟だよな・・・」
ボクたち記念碑沈め隊を乗せたボートは、名人ミカの操船でややうねりの残るチューク環礁をウェロ島に向かって疾駆していく。作戦成功にみんな底抜けに明るい。達成感や安堵感、そして充実感に心地よい潮風がボクたちをくすぐる。「よし、明日は愛国丸だ!」とアッピンの明るい声。「とにかく今日は成功だ! これで世界中からここを訪れるダイバーたちにキミオの功績を知ってもらえる。たとえ明日、愛国丸の作戦に失敗しても、とにかくキミオとの約束の半分は果たせた。よかった・・」みんなと騒ぎながらも、ボクはそんなことを考えていた。両肩が僅かに軽くなっていた。
ウマン島を背に、右舷にトロアス島、左舷にフェファン島を見ながら、正面のウェロ島にボートは進んでいく。インディゴブルーの海に長く真っ白な航跡、瞳に溢れるまぶしい陽光。ウェロ島に聳える山の稜線が緩やかに右に流れる。島の左端には平坦なビーチが輝き、ヤシの木がまばらに並ぶ。その合間からホテルが小さく見えている。
いつも海から帰るときに見慣れた風景。一日海に出ていた後の心地よい疲労感と共にこの風景に抱かれる。今までに何百回もこの風景の中を走ってきた。だが決して飽きることのない風景。ボクの人間性の原点だ。もうすぐウェロに着く。
だが、ボクには気がかりがひとつあった。17mで所要時間が14分。43mの愛国丸では何分かかるんだろう。これじゃ時間がかかりすぎて大深度では危険すぎる・・・