海の底の慰霊碑―

 

「おまえ今日、本当に愛国に潜るのか?」、朝、ホテルのボクの部屋にチェニーが電話してきた。グラドヴィンの従兄でボクとは同い年。もう15年のつきあいになる。どこかボクとヤツは大人になりきれないところが似ている。年下のグラドヴィンの方がどう見てもボクたちより大人でしっかりしている感じだ。ボクとチェニーは相変わらず悪戯して逃げ回っている悪ガキというところだ。

「もちろん行くさ、キミオを探しに行く。」と言うボクに「わかったボートを一艘用意するから好きなところへ行ってこいよ」とチェニー。彼が電話してきたわけはよく分かっている。昨日から貿易風は更に強くなっていた。愛国丸はトロアス島の南東の沖合に沈んでいる。キミオの最もお気に入りの沈没船だ。57年前、彼の戦友達がアメリガ軍の”Hail Storm”作戦の総攻撃に反撃しながら愛国丸と共にここに沈んでいくのを彼はトロアス島の高台から見ていたのだ。ボクたちの航路は、まずホテルのある島ウェロとトロアスの間を東西に遮る海を横断する。まずここでとんでもなく高い横波をかわして進まなければならない。そのあとトロアス島の西端を通過することになる。ここはトロアスの島影になるので風が当たらないので波がないはずだ。比較的楽に航行できる。問題はそのあと、いよいよトロアスとエッテン島の間の海を風上に向かい一気に進むことになる。ここが多分勝負だろう。だけどボクの経験では、これだけ安定した貿易風は明日になっても変化無く吹き続けるはずだ。だとしたらあと一日待っても同じこと。ほかに日本から仲間が来ているならやらないけど、ボクとブルーラグーンのベテランオペレーターとベテランダイバーの3人だけだ。うまくたどり着いて、うまく潜れるさ。チェニー大丈夫だよ。

ブルーラグーンの桟橋に行くとメケンシーが待っていた。「今日はオレがおまえと一緒に潜る」、口数が少なくてちょっとはにかみ屋で二枚目だ。「こんな日にゴメン、ありがとう一緒に来てくれて。」「キミオに祈りを捧げに行きたいんだ。だから愛国丸じゃなきゃ意味がないんだ。」とボク。「ああ、わかってる。」言葉少ないメケンシーの行間から感じる想いに感謝。確かに今日愛国丸へ行くなんて並のことじゃない。桟橋を出発してすぐにとてつもない横波の洗礼を受ける。あっという間にずぶぬれ。だけど3人ともそんなこと意に介さないで船を進める。船の喫水より高い横波をすり抜けて進む、かわしきれないとボートの上を波が通っていく。ずぶぬれで目も開けていられない。だけど必死に3人で進路をにらむ。ここまでひどい揺れだとボートの中で座っていられない。立って何かに掴まっているしかない。膝で揺れをかわし、手すりに掴まって波にさらわれないように耐える。ようやく苦闘の末、トロアスの島影に入った。3人とも表情はリラックスしている。よし、これなら行ける!

トロアスの島影の比較的穏やかな海をボートは飛ぶように走る。トロアスの南西の端に張り出したハウスリーフを回り込み、いよいよエッテン島とトロアスの間の海を北西、すなわち風上に一気に向かう。さあ勝負だ! ボートの喫水より高い波が向かってくる。オペレーターのアントニオはエンジンをフルスロットルにして一気に波頭に登りあがる。そして波頭で瞬間的にエンジンの出力を落とし波間に落ち込んでいく。ここでエンジンの出力を落とすタイミングが遅れるとボートは舳先から海中に突っ込んで沈没してしまう。いわゆる「バウ沈」だ。乗り越えても乗り越えても真正面から波が牙をむいてくる。

どれだけの波を乗り越しただろうか。ようやくボートは愛国丸の沈む海面に着いた。アンカーを打って機材をセットアップ。しかしあまりの揺れでボートの上で座っていられない。半ば転がりながら用意して、転げ落ちるように潜行開始だ。水深12メートルくらいまでひどい揺れだ。そのあとはようやく静かな海になった。水深38メートルで愛国丸のマストのてっぺんに到着した。甲板はここから更に22メートル下だ。もはやスポーツダイビング の深度限界を超えている。しかし甲板にはキミオが1994年に設置した慰霊碑がある。ボクはどうしてもそれを見たかった。メケンシーは非常用に予備タンクを1本持ってきているし、よし行くか。ボクが更に潜行を始めてもメケンシーは驚かなかった。最初からボクがそこまで行くだろうと思っていたんだろう。水深50メートルを過ぎる頃、さすがに水圧で少し目眩がした。甲板にたどり着く、水深60メートル。スポーツダイビングの深度限界の2倍だ。そこでボクはキミオが作ってそこに設置した慰霊碑に対面した。慰霊碑の周りにはまだ遺骨が散乱していた。

海の中というのは意外と騒々しいものだ。時によると大きな魚の歯ぎしりする音まで聞こえてくる。しかしこの深さまで来ると水圧のせいで、自分の排気音意外何も聞こえない。「キミオさん、あなたは慰霊碑をここに取り付けるのに相当な危険を冒したのですね。いま初めて分かりましたよ、身をもってね。」「何があなたをそこまでさせたのですか?」「あなたにとって愛国丸ってなんなんですか?」「もしかしてあなたの青春の象徴なんですか?」「神様、どうかキミオのことを心に留めてください。」 さあ浮上しないとエアーがもたなくなる。

ボクたちは浮上を開始した。上がっても上がっても水面が見えてこない。そりゃーそうだ。60メートルなんていうとんでもない深度から上がるんだから。ようやく水深18メートル。ここからは忍耐力とエアーの残りの勝負だ。ここから体内に残留した窒素を充分に排出してから浮上しないと減圧症に罹ってしまう。18b・16b・14b・12bと一定の水深に一定時間留まりながら徐々に浮上していく。合計の減圧時間は約50分。ウエットスーツを着ずにショートパンツとタンクトップの体には少々水が冷たく感じ始めた。残圧計はタンク内に残っているエアーが1000PPIであることを示している。日本流で言えば40気圧ほどか。メケンシーの残圧計もほぼ同じ数値を指している。「よしこれなら二人とも予備タンクのお世話にならないでタンク1本で上がれるな。」 ようやく無事潜水が終わろうとしている安堵感が湧いてきた。だけど寒い。そしてアンカーロープに掴まっているボクたちは嵐の中の鯉のぼり状態だ。よくこれに50分近くも耐えたよなあ・・・

水面が荒れているので船に上がるもの一苦労だ。油断すると体を船にブチ当ててケガしてしまう。波のタイミングに合わせて一気にラダーを登る。船上ではまた転がりながら用具の後始末をする。見るとタンクの残圧は二人とも約500PPI、つまり30気圧くらいだろうか。アメリカ人ダイバーが愛国丸にトライするときはタンクを2本背負っていく。「メケンシー、オレたち大したもんだよな!」

安心している場合ではない。今度は追い風を受けて帰ることになる。だけどこれは向かい風より遙かに楽だし時間もかからない。再びトロアスの南西の端のハウスリーフを回り込んで島影に逃げ込んで一息ついた。だけどまだものを考える余裕はない。あっという間に最後の難所にかかる。トロアスとウェロの間の海を例によって横波を食らいながら横断するのだ。「さあいくぞ!」メケンシーが声をあげる。例によってボクたちはボートの上にいるのに波に洗われ、もみくちゃにされながら、そしてずぶぬれで目も開けていられないのに必死に波の方向を見定めボートを誘導していく。船は横波に一番弱い。必死に横波をかわしていくうち目を上げるとブルーラグーンの桟橋が近づいてきた。

桟橋にドッキングしてボートを固定する。終わった・・・

部屋に戻りあついシャワーを浴びながら考えた。あれはいったい何だったんだろう。こんな日にそれも条件の最悪な、そして超大深度の愛国丸に潜ると言い出したボクに、チェニーは意思を確認しただけで止めはしなかった。メケンシーはそれがどんなに厄介でつらい潜水になるか百も承知で寡黙に付き合ってくれた。帰り着いてボクが「つきあってくれてありがとう」、メケンシーはひとこと「ああ・・・」。アントニオはどんなにひどい波を食らっても決して舵を離さなかった。潮で痛む目を必死に開けて波を睨んでいた。そうなんだ!ボクも彼らもみんなキミオのもとで鍛え上げられた強者だ。ボクのパートナーだ。そうなんだ!みんなキミオで結ばれたキミオファミリーなんだ。誇り高き強者たち。そしてこのチュークの海を愛している。大胆かつ臆病にこのチュークの自然と付き合っている。みんなの中にキミオの精神はしっかり受け継がれ生きている。そしてあんな大深度の愛国丸に危険を顧みず慰霊碑を設置したキミオ。あの戦争の記憶がキミオにとってどんなに尊いものか思い知らされた。

夕方、ボクはブルーラグーンのオフィスでグラドヴィンとキミオのメモリアルプレートを作って愛国丸に設置する計画を打ち合わせていた。それが危険な作業でもボクはゼッタイやる。キミオが作った慰霊碑の隣に絶対に設置してくる。グラドヴィンとそんな話をしていると二人ともまた涙が止まらない。ボクはブルーラグーンの桟橋に出た。一日の仕事を終えてウェロからトロアスに帰る人々が三々五々集まってきて賑わっている。ボクはひとりで座って海を見ていた。気が付くといつの間にか隣にメケンシーが座っている。きっとボクが悲しげに見えたんだろう。リッチーもニックもドゥーンもミカもデイビーもゲッティーもチャンもリオもチェニーもロバートもみんないる。「また明日な」「明日また会おうokada」口々に声をかけてくれる。リッチーはコンプレッサーが壊れたとボヤいてるし、チェニーはわけわからないチューク語で何かまくしたててるし、いつもの風景だ。ボクがうるうるした目のままふざけてチェニーにからんでいくと、アイツ偉そうなヒゲともはやキミオにも負けない巨大な腹で思いっきり微笑んだ。笑うときのアイツの目、ほんといつ見ても情けない目だ。やっぱりみんなファミリーだよな。キミオのもとで鍛え上げられたファミリーなんだよな。

今日の4時間の苦闘からボクは確実に何かを得た気がした。

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