Hatena::Diary

吾輩は馬鹿である

2008-08-14

捨て駒にされる将棋の駒は「かわいそう」か

とある架空の問答

「この将棋というゲームでは、持ち駒を全部捨て駒にしてでも、相手の王様を詰めることが大事なんだよ」

「そんなの、捨て駒にされた駒がかわいそうです!」

「このような、合理主義に基づいて目的達成のために無慈悲に犠牲を払う態度はホロコーストに通底する!」

はじめに

トリアージ騒動について呈した疑問に、id:sk-44氏、id:Apeman氏、id:K416氏、id:hokusyu氏、id:Dr-Seton氏から丁寧なお返事を頂いた。おかげさまで、私に理解できなかった問題の所在がようやく見えてきたように思えます。どうもありがとうございました。

しかし、その上でも私は福耳氏の講義に問題があると考えることはできない。この点で上記の各氏と私は見解を異にするように思えるので、その点を説明しておく。

福耳氏の講義に問題がないと考える理由

福耳氏の講義の主旨は、状況は所与のものとしてその中での行動を考えよという問題に関するものであって、トリアージはその一例として持ち出されたものである。

つまり、必要に応じて話の枠組みをあらかじめ限定した上でものを考えてみよ、というのが福耳氏の問題提起である。そして、これに対して「かわいそう」という反応は「ナイーブ」と呼ばれて当然であろう。話の前提を否定してしまっては何の意味もないからだ。

本記事冒頭に掲載した架空の問答はこの状況を説明したものである。この観点からすると、「トリアージのような極限状況を発生させないためにはまず医療資源を充実するなどの対策を取るべき」といった批判はずれているとしか言いようがないのだ。その話は、「資源が限定されていると仮定して」の思考実験を終えた後の検討としてなすべきことである。言ってみれば、361目という限定された陣地を取り合うゲームである囲碁を目の前にして、「碁盤を拡げれば石が殺し合ってまで陣地を拡げなくてすむのに!」と批判するようなものだ。意味がないのである*1

そして、私が「価値中立的」であると強調しているのはここでいう囲碁や将棋にあたる「思考実験」のことなのだ。なるほど確かに学問的成果を現実に適用する段階では倫理性が問われよう。それは当然だ。だが、思考実験の段階で様々な極限状況を想定しておくことは、現実に対峙する上でも有用な訓練であろう。極限状況においてトリアージを行うしかない、という結論を思考実験にて痛感することによって「トリアージをできる限り回避できる策を考えよう」というような思考も触発されるのである。

いずれにせよ、倫理が問われるのは、思考実験などの考察を得て結論を公表する段階であって、思考実験を行う段階ではない。そして、状況をモデル化して思考実験を行うという手法は多くの学問分野において普遍的に行われている方法論であり、これを批判するのはそれこそ無茶というものであろう。

以上のことを踏まえた上で、各氏のご意見にお返事する。

sk-44氏:机上の議論の段階では、どこにも問題はないと思います

引用元:Sokalianさんへの再レス - 地を這う難破船

現実をモデル化する際にナチスな価値判断が入ってくることの問題、が今回問われています。ナチスな価値判断とは何か。平時を極限状況と見なす発想のことです。

もちろん、モデルの適切さというものは存在します。そして、ホロコーストが現実のモデル化に基づく合理主義の帰結だとするのであれば、そのモデル化(目的や制約条件の設定)に倫理的問題があるはずです。それに異論はありません。

しかしそのことが直ちに、現実のある種のモデル化の問題を指摘するものではありません。例えば、ナチスにせよオウムにせよ、極端な価値観の元で行動している集団の行動を我々は分析するわけですが、これはまさに、ナチスオウムが行った「現実のモデル化」を追究しているものです。そして思考実験でそれを追認することにより、彼らのどのような思考法に問題があったかを探り当てるのです。

このことから、ある種の危険性を元に思考実験自体を批判することは、逆にその危険性の内実に関するの思考停止を促すことになると言えるはずです。私はこれを危惧すればこそ、福耳先生への批判に強い関心を持っているのです。

Apeman氏:その判断は講義の主題から外れているのでは?

引用元:トリアージは包丁じゃないよ - Apes! Not Monkeys! はてな別館

「道具」説が隠蔽してしまうのは、トリアージが何重もの意味で人間による意思決定だ、という点。まず(1)緊急時にはトリアージを行なうのだ、という意思決定があり、次に(2)「なにが緊急時か」に関わる意思決定があり、それから現場での(3)誰にどのタグをつけるかという意思決定(これは「どのような状態の人間にはどのようなタグをつけるか」という事前の決定、とした方がよいかもしれないが)、があるわけである。(略)トリアージそれ自体ではなく経営学の授業の中でトリアージが扱われたことが問題になったのは、主として(2)のレベルに関連して、だ。

福耳氏の該当回の講義の主題においては、「現在は緊急時である」というのは所与の仮定として与えられていたわけで、それは無い物ねだりというものではないでしょうか。先の将棋の喩えで言うならば、「王様を取りさえすればよい状況とは何か」ということを論じるのは、将棋というゲームの主題から外れているわけです。もちろん、「緊急時とは何か」を考えること自体は必要なことでしょうが、そうしたことは回を改めて行ってよい事項だと私は考えます。

K416氏:月とスッポンが類似する思考の枠組みは価値の本質と無関係

引用元:アホ話の補足 - 吾輩は馬鹿である(コメント欄)

論点となっているのは、fuku33さんの論(に象徴される論理展開)が、いかなる思想と親縁性を持つのかということなのではないでしょうか。つまり、問題とされているのは、「ある思想が、ある状況や出来事を実現してしまいかねない」ってことじゃなくて、「ある思想と、ある状況や出来事を導いた思想とは構造的に類似している/同型の思想である」という話です。

ある論理展開が「人を救う(ドラッカー)」「人を殺す(ホロコースト)」という両極端な結論を導き出してしまうのであれば、その論理展開の型自体が価値中立的だというだけのことではないでしょうか。その点で、そのご意見は「問題は論理展開ではなくその前提になにを持ってくるか、そこから何を結論するかである」という私の主張をむしろ裏書きされているように思えます。

hokusyu氏:「生かす」と「殺す」が一体化する元凶は「資源の制約」あってこそ

引用元:説明責任ですってよ、説得ですってよ - 過ぎ去ろうとしない過去

「生かす」ことと「殺す」こと、「生きるがままにしておく」こと、「死ぬがままにしておく」こと、これらのプロセスは、常にあるもう一方(あるいは複数)のプロセスと並行して行われるのです。

それはそうでしょう。しかし、それがどうして福耳氏批判になるのでしょうか?私にはそれがわからない。自明かつ非本質的な事実を指摘しただけにしか聞こえないのです。

「生かす」ことと「殺す」ことが表裏一体になってしまうのは、資源が有限であるという制約があるからで、この制約は人為的なものであると限らず、自然法則である場合もあります。だとすれば、その現実をモデル化するという行為に一体何の問題があるというのでしょうか。

Dr-Seton氏:お里が知れますよ

引用元:元増田は馬鹿である - シートン俗物記

キミの大好き(らしい)な「価値中立的」話などではない。福耳先生は、しっかりと自分の判断を加えて「トリアージ経営学」を称揚し、それに反応した学生を評価しているのだよ。

上に将棋の例を用いて述べたように、それは学問の価値などというような高級な話題ではない。「将棋をせよ」という課題を与えて、相手の王様を指でつまみ出す反則行為を行えば評価できないのは当然である。将棋というゲーム(つまり、トリアージの類推による現実のモデル化)自体に批判的な意見を持つようになった学生を批判したのとは訳が違う。

あとは付け足し。

これ以降は本当に「付け足し」であって、枝葉末節であったり私の論点を意図的に逸らしてご自身の書きたいことを書いているだけだと思えるので応答は省略させて頂く。ただし、一言だけ述べておく。

キミの示す態度は、あからさまに“東工大系”工学者のノリだ*3。

いくら脚注で「東工大生や出身者が皆こういう人ではない」という断ってはいても、こういう粗雑かつ有害な物言いをされる方が他人の講義の話題を批判する資格はないだろうし、ましてこのような方に倫理を説かれるなどは私としては一切御免被りたい*2

追記:トラックバック及びブコメ返信

極限状況においてトリアージを行うしかない、という結論を思考実験にて痛感することによって「トリアージをできる限り回避できる策を考えよう」というような思考も触発されるのである。

「ケーキ」をちゃんと読むといいと思います。福耳先生にはそんな意図まるで無いですよ。

説明責任ですってよ、説得ですってよ - 過ぎ去ろうとしない過去

確かに記述はされていませんが、「そんな意図まるで無い」という読解は非常に恣意的だと思います。私の感覚では「自明だから記述しなかった」だけのことかと。これは別に福耳氏に過度に好意的な反応というわけではなく、習慣化していることについては特に記述しないというのは当たり前のことです。例えば「横断歩道を渡った」という記述を読んで「お前は信号無視をした、なぜなら『信号を確認した』と書いていないからだ」と言えば、誰が見てもいちゃもんですよね。

b:id:Romance これはひどい, 三宅秀道 結局福耳が最悪って言う原点を共有するかしないかの話になってんじゃん/自称馬鹿のソーカリアンとはいえさすがにこれはひどすぎる

「福耳が最悪」が「原点」だったとは初耳です。そりゃまあ、「福耳が最悪」という前提に立てば福耳氏を批判する結論はトートロジーとして出てきますけれど。

b;id:tokoroten999 もう一回元エントリと派生記事読んできなよ。読んだ上でこれならもう話すことはない。あと例え話禁止な。

私こそ、「読んだ上でこれならもう話すことはない」としか申し上げようがありません。また、本記事の比喩が気にくわなければその部分を読み飛ばしてお読み頂ければ論旨はそれでも繋がるようになっています。比喩は論旨を明快にするための補助線に過ぎません。

b:id:tikani_nemuru_M 愉しい煽り 将棋の駒が将棋というゲームのルールに対して抗議したのなら、それは「かわいそう」であり、少なくとも考慮すべきことなのだよ/例え話が悪いとは思わんけどね、出来が悪すぎる。ソーカルが泣くぜ。

出来が悪いのは認めます。ところで、この場合の「将棋の駒」って誰ですか?

b:id:ruletheworld はてなタックル ブサヨと同じく極論に走る作戦?

私はこれを「正論」として書いたつもりで、これが「極論」としか読めないのであれば、思考実験というものを理解していないか、あるいは「理解を拒んでいる」ことだと言わざるを得ません。

b:id:Midas アホか。駒が、じやなくて将棋という特定のルールをもつゲームそのものが可哀相なの。例・1)死んだはずが何度も「敵方の」棄て駒として生まれかわって戦場へ投入される2)出世の為には敵陣へ切込まねば(笑)ならない

あなたが将棋をお嫌いなことはわかりました。注釈に書いた通り、私も「信長の野望」や「大戦略」が嫌いです。程度の差はあれ戦争ゲームが嫌いな者同士、仲良くしましょう。もっとも、そうした個人の嗜好を議論の場に持ち込むことはお互い慎みましょう。

*1:もちろん、ゲーム自体の嗜好というものはあり得る。例えば私はコンピュータゲームの「三國志」や「信長の野望」は嫌いだ。戦争を娯楽にすることに生理的に堪えられないものがある。しかし近代戦を舞台にした「大戦略」はもっと嫌いであり、逆に「ドラクエ」には何の問題も覚えないし、囲碁や将棋は洗練された文化であると思っている。こういう私の嗜好はある程度受け容れられるものと思うが、倫理的一貫性も何もないことは明らかだろう。それ故、私は囲碁や将棋を殊更他人に勧めようとも思わないし、「大戦略」を糾弾しようとも思わない。

*2:蛇足ながら、私の知る限り東工大関係者には、真面目で善良な方が多いように感じる。だが、そもそも世の中の人間の多数は真面目で善良であろうし、私ごときの主観が何の意味を持つとも思わない。

K416K416 2008/08/15 11:41 お返事ありがとうございます。
俺は、(自分自身考えることにはしていますが)あまりこの議論の中身そのものに踏み込むつもりはなくて、議論の筋を自分なりに理解し、「そこ(議論に関する自分なりの理解)から議論がそれそうだな」と思ったときに、「こういう話なんですか?」「こういう話なんじゃない?」と口を挟ませていただいている、ということを最初にご理解ください。勝手な態度で申し訳ないのですが。議論そのものには関心があって勉強させてもらえればなと思っているのですが、でも中身に参入するほど知識がないので。

その上でいただいたお返事ですが、
>ある論理展開が「人を救う(ドラッカー)」「人を殺す(ホロコースト)」という両極端な結論を導き出してしまうのであれば、その論理展開の型自体が価値中立的だというだけのことではないでしょうか。
というのは、結構分かる気もします。
ただ、お書きになっている文章だと、若干誤解が(「『人を救う』『人を殺す』どっちだって導けちゃうよね」って話だと理解されそう)生じそうなので、これまでされてきた批判(として俺が理解しているもの)を具体的に書いておくと、それは「限られた資源の中でそれをどう配分するかという一般的な話を説明するためにトリアージ持ち出しちゃうのはどうなの?トリアージは本来限定的・緊急的な状況における行動原理の話なのに、一般的な有限資源配分の枠で出すと、『限定的・緊急的』っていう前提が見えなくなっちゃうから、もう少し注意深く扱ったほうがいいんじゃない?(で、その注意深くない扱い方にはホロコーストと同型の思想があるように感じられるよ。意識してないかもしれないけど)」って話だったように思います。Sokalianさんは分かっておられると思うので、むしろ読まれる方にご注意いただきたいと思いました。

で、こうした「あなたの話って、意識してないけど問題点がありそうだよ(と批判する)」式の話は、人文系と近いところにいる俺とかはそれなりに分かる(理解しやすい≠賛同しやすい)話なのですが、そうでない分野からは「そんなの批判してどういう意味が?」って疑問が生じるというのは、あり得る話だし、「そうだろうな」とも思います。また、そう問われた際には、「問うことの意味」をできるだけ説明しようとするのも大事だろうな、とも。

書いていただいたことそのものへの返事にはなっていない(冒頭に書いた理由から)のですが、そのように思いました。
今後も、議論がそれそうだと感じた場合は、Sokalianさんに(あるいはhokusyuさんやApemanさんに…ってここで書く話じゃないですが)「こんな話じゃありませんでしたか?」と口を出させていただくこともあるかもしれませんが、(口出し内容に賛同するかどうかは別として)またいろいろとご意見いただければ幸いです。

ApemanApeman 2008/08/15 11:51 >しかし、その上でも私は福耳氏の講義に問題があると考えることはできない。

つーか、そもそもが「講義」それ自体だけではなく学生の反応をブログで晒して「ナイーブ」と切り捨てたことまで含めて問題にされたんですが、元エントリがどのように改変されたかまで含めてきちんと事情をフォローしてるんですか?

>そして、これに対して「かわいそう」という反応は「ナイーブ」と呼ばれて当然であろう。話の前提を否定してしまっては何の意味もないからだ。

いや「当然」だと思わない人間がいたからこそ問題化されたんですが。「話の前提」を問い直すのは立派な学問的営為でしょうが。私は「もちろん、学部の授業なんて各ディシプリンの「仮言的命題」をまずは飲み込んだうえで受けるべきだ、という考え方はあるかもしれません」としたうえで、「しかし教師の側、ないし研究者の側はどうなんでしょう?」と問うたのですよ。
http://homepage.mac.com/biogon_21/iblog/B1604743443/C497052863/E20080524113420/index.html

>本記事冒頭に掲載した架空の問答はこの状況を説明したものである。この観点からすると、「トリアージのような極限状況を発生させないためにはまず医療資源を充実するなどの対策を取るべき」といった批判はずれているとしか言いようがないのだ。

福耳先生は救急医療について講義していたのではなく経営学について講義していたのであって、それゆえトリアージを持ち出すのは不適切だった、という批判があったことはご存知ですね? 私自身はむしろブログで学生の反応を晒して「ナイーブ」と切り捨てたことの方を問題視しているのでこれは二次的な論点ですが、福耳先生の講義それ自体をあなたが擁護しようとするならその批判に応えるべきでしょうね。

>いずれにせよ、倫理が問われるのは、思考実験などの考察を得て結論を公表する段階であって、思考実験を行う段階ではない。

そんなことはありません。思考実験だから現実には許されないであろう非倫理的な想定をすることが可能だ、という意味で「倫理は問われない」というなら分かりますが、思考実験がある倫理的な問題を浮かび上がらせるなら当然それについて考えることが要求されるはずだし、ある思考実験を「それがなにを問うていないか」という観点から検討することも立派な学問的営為でしょう。だって、倫理を問わなかったら「「トリアージをできる限り回避できる策を考えよう」というような思考も触発」されるわけないでしょ? 例の男子学生みたいに「それを「戦略性」とでもいうのでしょうか?」と言って終りでしょう。
というか、トリアージって別に「思考実験」ではなくて実際に行なわれてるんですけど? 福耳先生はある前提を学生に与えたうえで思考実験させたのではなく、「こういう時はこうするんだ(それが正しいんだ)」と教えたんですけど。救急医療について考えさせるためではなく、経営学を教えるために。

>福耳氏の該当回の講義の主題においては、「現在は緊急時である」というのは所与の仮定として与えられていたわけで、それは無い物ねだりというものではないでしょうか。

いいえ、そうは思いません。救急医療の専門家が緊急時の医療について講義してたわけじゃないんですよ? 講義の主題は「トリアージ」じゃありません。政治的なデマゴーグが「現在は緊急時である」という(あるいは「リソースは限られている」という)認識を煽ってきた歴史をふまえることを経営学の研究者に要求するのが「無い物ねだり」だとはまったく思いません。「たかが経営学者」とおもっているHALTAN氏とは違って。

>そのご意見は「問題は論理展開ではなくその前提になにを持ってくるか、そこから何を結論するかである」という私の主張をむしろ裏書きされているように思えます。

根本的に誤解してませんか?

>さて、「限られたリソースを適切に分配すべきである」という言説について考えてみましょう。こんなこと当たり前です。
http://d.hatena.ne.jp/hokusyu/20080523/p1

「論理展開」と「前提」の区別はあなたが持ちこんだもので他の人間はそういう二分法を前提に議論してるわけじゃありませんが、その二分法に乗るなら、問題にされたのはその「前提」を問おうとしない姿勢ですよ。

>それはそうでしょう。しかし、それがどうして福耳氏批判になるのでしょうか?

福耳氏がそれを問題にする回路をぶった切ったからです。

>「生かす」ことと「殺す」ことが表裏一体になってしまうのは、資源が有限であるという制約があるからで、この制約は人為的なものであると限らず、自然法則である場合もあります。だとすれば、その現実をモデル化するという行為に一体何の問題があるというのでしょうか。

そう、この制約は自然法則であるとは限らず、人為的なものである場合もあります。トリアージで経営を語ること(経営における資源配分のモデルとしてトリアージを用いること)は、あたかも制約が「自然法則」であって問うてもしかたないかのような前提を学生に注入する手段になっているわけです。批判されて当然でしょう。

CloseToTheWallCloseToTheWall 2008/08/15 21:19 喩えはあくまで喩えです。具体的背景が異なる状況設定は著しく価値が変わってくることを理解してください。将棋の駒を捨て駒にしても誰も怒りませんが、人間を捨て駒にしたら怒る人はたくさん出てくるでしょう。人権とは、人間は駒(モノ)ではない、という発想です。だから、事例として、将棋を例にするのと人間社会を例にするのでは、まったく異なる意味を持つ、ということです。誰も将棋の話なんかしていません、経営学はいつから将棋を扱う学問になったんですか。福耳先生も誰もが最初っから生身の人間を対象にした話をしているんですよ。農作物を間引いたって誰も気にしませんが、子供を間引いたら大ニュースでしょう? それをちゃんと理解して頂ければ、今回なぜ福耳先生が批判されたかわかるはずです。

思考実験は価値中立だ、とあなたは仰いますが、思考実験というのは何らかの理論や主張が正当か否かを検討するために行われるものです。そして、福耳先生は、経営学の講義において、「トリアージ」という思考実験(実例)を用いて自身の主張を理解させようとした。これがまずいのです。

なぜか。「トリアージ」というのは、緊急時であるために「人権」が機能停止する状況が前提だからです。「トリアージ」の正当性はその意味できわめて限定的なものです。「トリアージ」という思考実験を用いて正当、とされた主張を、経営学にそのまま組み込むことはその点で間違いです。普通は、いくら人件費が嵩んでいるからといって、最低賃金以下の時給で働かせては違法になります。暴行犯から逃げるために他人の家の庭に入ることは緊急避難として許されても、遅刻だからといって他人の家の庭を通れば犯罪です。これが平時の論理です。極限状況で正当とされても、極限状況以外での検討を経ずには正当とは見なされません(これが、トリアージそのものの批判でない、と皆が口をそろえる理由です)。

福耳先生は論証の手続きを間違えているため、「経営学」に人権とかを入れ忘れて、それが「ホロコースト」と地続きの論理になってしまっている。だから皆から厳しく指摘されているのです。適切な配分をすることには誰も異を唱えていませんが、その「適切」の基準に「人権」を入れ忘れていませんか?という話です。そんな理論は平時には使い物にならないだろう、というのが核心です。

で、ホロコーストを再来させないための防波堤の一つが「人権」です。「人権」は「資源の有限性」に優先させるべき目的だ、というのが「最低賃金」だとか「生活保護」等の発想の背後にあると言うのは分かりますよね。そもそもが「人権」というのは現実という所与の前提に対する批判的根拠を提供するものではないですか?

http://d.hatena.ne.jp/sivad/20080527#p1
あなたも読まれたようですが、このsivadさんの記事にあるように本来経営学は、ホロコーストを乗り越えるために発想されたものとのこと。ドラッカーは「経済そのものは、完全雇用をはじめとする非経済的な目的に従属させるべきであることを明確にしておく必要がある」といっていますが、これこそ、「人権」と同一の発想であり、非「トリアージ」の発想でしょう。

「「トリアージ」のような事態を引き起こさないことがドラッカーのいう「マネジメント」のはずです。福祉の現場で圧倒的にリソースが足らない、それ自体が決定的な「マネジメントの失敗」なのであって、そもそも経営学はそういう事態を防ぐためにあるのです*1。*1:ドラッカーがイノベーションを強調するのは、それがゼロサムを避ける最大の方法だから」

だから、トリアージを耳にして、「かわいそう」とか「人権侵害じゃないか」と述べた学生は経営学的にはまったく正しいということになる。あなたは「極限状況においてトリアージを行うしかない、という結論を思考実験にて痛感することによって「トリアージをできる限り回避できる策を考えよう」というような思考も触発されるのである」というけれど、「かわいそう」というのはトリアージを否定しているのではなく、まさにその回避策へ向かう動機だと受け取るべきじゃないですか(人権侵害、というのは否定的、かな)? 「やらなきゃいけない」、と「かわいそう」は対立するモノではないはずです(まあ、福耳先生が他で書いているように、「かわいそう」から始まるのではなく、「かわいそう」で終わるのがダメというのはわかりますが)。

「福祉予算が限られているからある人の生活保護は打ち切ります」といえば、当然、かわいそうだ、人権侵害だ、ということになり、「福祉予算」を何とかして増やすべきだ、という議論になりますよね。もちろん、どうしても足りない、掛け合っても出てこない、ということはあるとしても、そういう事態は決して正当化されてはなりません。しかしここで、かわいそうだ、人権侵害だ、という発想が否定されたらどういうことになりますか? ナチスの論理と区別できなくなる、というのはそういうことです。ナチスでご不満なら戦時中の総動員体制、徴兵、徴発、あるいは強制収用などを例示してもいいんですが(それなら紛糾しなかったかな)。

一つ考慮して頂きたいのは、そのような議論を福耳先生は福祉を学ぶ学生に講じたことです。具体的にどういう話がなされたのかは分かりませんが、反発がないとしたらその方が危機感を持つべきなのではないかと思いますよ。

あと、福耳先生はいろんなところで自分の意図を説明して回っていて、それを読むと、かわいそうだとかいう意見を非難したのは授業の進行上のことであって、本意ではないと言っているので、上記の論旨は当該記事のみを題材にした場合の議論だと言うことはご理解ください。

SokalianSokalian 2008/08/16 01:58 >K416様
> トリアージは本来限定的・緊急的な状況における行動原理の話なのに、一般的な有限資源配分の枠で出すと、『限定的・緊急的』っていう前提が見えなくなっちゃうから、もう少し注意深く扱ったほうがいいんじゃない?(で、その注意深くない扱い方にはホロコーストと同型の思想があるように感じられるよ。意識してないかもしれないけど)」って話だったように思います。Sokalianさんは分かっておられると思うので、むしろ読まれる方にご注意いただきたいと思いました。

ああ、その辺が一般の人にはわかりにくいのかもしれませんね。ちょっとそのあたりは鈍感だったかもしれません。
私の馴染んでいる思考法からすると、「限定的」といいうのは資源の逼迫性、「緊急的」というのは「時間」という資源の限定という形で「一般的な有限資源配分の枠」に含まれるというのが自明なので、その点が理解されにくいことになかなか想いが至りませんでした。
ご指摘どうもありがとうございました。

> 「こんな話じゃありませんでしたか?」と口を出させていただくこともあるかもしれませんが、(口出し内容に賛同するかどうかは別として)またいろいろとご意見いただければ幸いです。

こちらこそどうもありがとうございます。

>Apeman様

論点が多岐にわたりますので、別記事を立てさせて頂きます。そちらをご覧下さい。

>CloseToTheWall様
> 将棋の駒を捨て駒にしても誰も怒りませんが、人間を捨て駒にしたら怒る人はたくさん出てくるでしょう。

当然です。では、福耳氏の比喩によってだれが捨て駒にされた、あるいはされる危険性を生じましたか?

> 福耳先生は、経営学の講義において、「トリアージ」という思考実験(実例)を用いて自身の主張を理解させようとした。これがまずいのです。

その読解は随分福耳氏に対して先入観のあるものに思えます。私には「トリアージ」に「資源に制約のある状況下での、ある種の価値基準に基づいた対処法の一例」以上の意味が込められているようにはどうしても読めません。

> 極限状況で正当とされても、極限状況以外での検討を経ずには正当とは見なされません(これが、トリアージそのものの批判でない、と皆が口をそろえる理由です)。
> (略)
> そんな理論は平時には使い物にならないだろう、というのが核心です。
福耳氏がされていたのは、極限状況に限定した話でした。それが「平時には使い物にならない」といわれても「当たり前です」としか答えようがありません。

> ドラッカーは「経済そのものは、完全雇用をはじめとする非経済的な目的に従属させるべきであることを明確にしておく必要がある」といっていますが、これこそ、「人権」と同一の発想であり、非「トリアージ」の発想でしょう。

福耳氏の当該回の講義がドラッカーの思想を理解させるためにあったという前提はどこにもありませんし、仮にそうであったとしても、近似としてある程度乱暴な理論を持ち出すということは教育の場ではよくあることです。
例えば、ニュートン力学は近似理論である(細かいことを言えば議論の余地がなくもない)ことが現在では実験的に知られていますが、高校や教養過程でいきなり相対論や量子力学を教えることは普通はしないし、それを批判する人はいないでしょう。
近似理論も、近似が十分成り立つ範囲(これが非常に広い)では十分有用だし、歴史的経緯から言ってその方が理解が容易だからです。

> もちろん、どうしても足りない、掛け合っても出てこない、ということはあるとしても、そういう事態は決して正当化されてはなりません。しかしここで、かわいそうだ、人権侵害だ、という発想が否定されたらどういうことになりますか? ナチスの論理と区別できなくなる、というのはそういうことです。

それは確かにナチスの論理です。しかし福耳氏はそうした事態を少しも「正当化」していません。

> 上記の論旨は当該記事のみを題材にした場合の議論だと言うことはご理解ください。

いえ、それはむしろ私が申し上げたいことで、当該記事を私なりに素直に読解すれば本記事のようになるのですが。

ApemanApeman 2008/08/16 09:21 >福耳氏がされていたのは、極限状況に限定した話でした。

違いますよ。
http://d.hatena.ne.jp/fuku33/20080522/1211444127#c

>「そんな重傷者をもう助けないなんてレッテルを貼るなんて、人権侵害じゃないですか?」と書いてきたお嬢さんもいた。そりゃあ、この大学のOGが、福祉業界に入って数年で燃え尽きてしまうというのは当たり前だよこれじゃ。

WallersteinWallerstein 2008/08/16 09:48 私はトリアージに関して軽々に語れる知識も能力もないのですが、いつも思い出すのは実際にトリアージに携わった医者の方の次の言葉です。buyobuyoさんのところで紹介されていたのでSokalianさんもお読みのことと思いますし、もちろん考慮されているとは思いますが、問題提起の意味もこめて。
「あのとき救えなかった、というか、救う手をさしのべることもしなかったことにたいして、それを悪だと他者から糾弾されても理不尽だと思うけど、でも、全く正当だと言われてもなんだかなあと思うわけです。やっぱり救えなかったってのは、経営学にはともかくも、医学的にはどこか悪なんだろうと思います。悪なんだけど、でも必要とされる場所においては確かに実行せざるを得ない。でも、実行しなければならないからそれは善なのだという理屈にはならんように思います。」
「そりゃあ私はあのとき下っ端だったしあの朝のトリアージを自分の責任で行うなんて立場にはなかったわけですけど、でも、あの朝以来、自分の中でなにか死んだような気はしてるんですけどもね。福知山線の事故の現場でご活躍だった救急の先生が、後に自ら命を絶たれたご心境も、むろんその一面のごく僅かなところではありましょうけれど、自分と共通のところがあるのではないかと拝察しています。いったん手を染めてしまった医者には、心の内になにも陰影なくあっけらかんとトリアージを語ることは不可能なように思います。救えなかった人を悼む心もなしに純粋な技術論(「戦略」ってやつですか?)で語れる話題ではないのですよ。」(http://childdoc.exblog.jp/7140736/)
そのブログで展開されたfuku33氏とyamakaw氏の対話も私には非常に示唆に富むものでした。こうした釈迦に説法の話を持ち出したのは「福耳氏の講義に問題がないと考える理由」という項目立てにいささか違和感を感じたからなのです。これではfuku33氏の感じたであろう葛藤も切り捨てられてしまうのではないかな、と思うわけです。fuku33氏に肯定的に言及する場合にはこの問題は避けて通れないのではないかな、と思います。fuku33氏に否定的に言及する場合にはfuku33氏の葛藤には触れない、という戦略もあり、とは思うのですが。

通りすがり通りすがり 2008/08/16 12:42 私はsokalianさんではないから、単なる野次馬の感想として聞いてもらっていいけど。
なにかとすぐ他人に「あたまがわるい」とか「調べろ」とか言ってきたくせに、
ブコメで「専門外のことに関して無知な私でもみんないいよね?」と
得々と語る人が、議論に参加する資格はないと思う。

ブコメっていいよねー、すぐ直せるし。
それとファウスト云々はどうでもいい。「得々と語る」ところが問題だから。

tikani_nemuru_Mtikani_nemuru_M 2008/08/16 13:21 >出来が悪いのは認めます。ところで、この場合の「将棋の駒」って誰ですか?

それは将棋の例えを引っ張り出したチミが考えるべきものだにゃー。
「将棋の駒」が何に例えられるかがチミにもわからにゃーっていうのなら、例えが最初から破綻しているということなんだにゃ。

K416K416 2008/08/16 14:36 >Sokalianさん
お返事ありがとうございます。
>私の馴染んでいる思考法からすると、「限定的」といいうのは資源の逼迫性、「緊急的」というのは「時間」という資源の限定という形で「一般的な有限資源配分の枠」に含まれるというのが自明なので、その点が理解されにくいことになかなか想いが至りませんでした。
この辺については、俺が(制度的には)人文系に結構近いところにいることもあってなのか、すぐにスッとこないところも(多分Sokalianさんとは逆に)あると思うのですが、考えてみるとなかなか興味深いことか(「なるほど」と思いつつ、多少引っかかるところもアリなので、考えてみるとまた何かが得られるか)と思いました。

で、今回の議論について、なのですが。個人的には、俺自身も、誰かに話をするときに(講義・報告等々)、聞き手の理解が促されるように、類似する別の例(有限資源配分を説明する場合のトリアージ等)を持ち出すことは結構ありまして。ただ一方では、(fuku33さんがそうだという話ではなく)持ち出した例によって話者が意図してなかった帰結が(論理上でも)導かれてしまうこともあり、そうすると、聞き手の理解を促すどころか、むしろ(話者は意図してなかった)余計な理解を与えてしまうことも多分あるんだろうな、と。もちろん「余計な理解」が、修正しなければいけないレベルの余計さを持つか、放置しておいてもいいレベルなのかということについては、観点によって判断がずれることだと思います(し、今回もそこで意見の差が出てる部分もあるのかな、と思います)が。
というわけで、話を戻しますと、「自分が何かを話す際に考えておいた方がいいかもしれないこと」のヒントが、この議論では出されているような気がして、いろいろ口を挟んでいたところでした。もちろん、「どちらに同意する/しない」というような意思表明も可能ですし、自分の立場もあるのですが、それをしまくって(若干表明した部分もありますが)議論が拡大してよく分からなくなるよりも、「こういう話なんですか?」「こういう話なんじゃない?」と議論をしている当事者に教えてもらう立場を取った方がいいのかと思い、今のようなスタンスを取っています。

上で引用したSokalianさんの文章も、(この議論から外れて、もう少し自分自身の論や話し方に引き付けることで)また新たなことが考えられそうです。
上記したように、自分の利益を中心に考えている非常に自分勝手な立場を俺は取っており(そして、それにSokalianさんやApemanさんも付き合わせてしまって)大変申し訳ないのですが、いろいろとご教示いただき、どうもありがとうございます。またよろしくお願いします。

WallersteinWallerstein 2008/08/16 14:56 「なにかとすぐ他人に「あたまがわるい」とか「調べろ」とか言ってきたくせに、
ブコメで「専門外のことに関して無知な私でもみんないいよね?」と得々と語る人が、議論に参加する資格はないと思う。」
とはだれのことですかな?「なにかとすぐに」というほど「調べろ」とか「あたまがわるい」とか使った記憶なくて、Soklianさんに二回使った位ですが。で「資格はない」かどうかはSokalianさんが決めることであり、Sokalianさんが決定されれば私は撤退しますが。

SokalianSokalian 2008/08/16 15:37 >Wallerstein様
ご忠告ありがとうございます。挙げてくださった記事、コメント欄は実は読んでいなかったのですが、私も感銘を受けました。
そして、福耳氏の「感情を排してあっけらかんと災害について論じたがる」という感覚に非常に共感を覚えました。
ご忠告の内容については至極ごもっともと感じるのですが、実は個人的事情によりそれをしたくないのです。多少長くなりますが、関係ないことではないのでお話しします。

実は私も阪神大震災で軽傷を負った身分です。そして、私の住んでいた地域は被害が小さかったとはいえ、それでも治療は後回しにされたし、平時なら与えられるような十分な処置や投薬もしてもらえなかった。「トリアージ」ではないにせよ、「トリアージ」的な扱いを受けたわけです。
そして、それは当時余りにも当然、というより葛藤だの何だのと考える余地のないことでした。
あの時、医師や看護師その他の方々は内心忸怩たるものもあったかもしれません、あるいはそんなことを感じる余裕すらなかったかもしれませんが、ともかく重傷者を優先的・集中的に治療したのでした。そして、その冷静な対応こそが被害を最小化したのだと思えました。

そして、それ故に、私は福耳氏の内面を外から評価することにどうしても抵抗があるのです。
といいますか、その状況を知らない人間が福耳氏は葛藤があるからよい、ないから駄目と評価することに心理的にどうしても抵抗があります。
無論、そういう言い方を禁止する権利は私にはありません。第三者が客観的にそのことを判断することは可能かつ必要なことでしょう。
ですが、私は「トリアージ」については半端な形の当事者です。私より深刻な状況におかれた人はいくらでもいたし、逆の人もいた。そして、福耳氏がどういう状況にいたか、私には知る余地がないのです。

そういうことから、私はこの件で福耳氏の内面に関して何も言うことはできません。当事者がこのことでものを言うとしたら、少なくとも文字の上では福耳氏のように感情を排して冷酷な物言いに徹しないかぎり公平な物言いをすることは難しいし、そのことを批判できるほど私が偉いとは思えません。

なお、Wallerstein様が本ブログにコメント下さることには私は異存がありません。

>通りすがり様
議論の内容と関係のないコメントはできる限りお控え下さい。

>tikani_nemuru_M様
いや、あなたが私の比喩を理解していないと感じたから訊いたのです。言うまでもなく「駒」は「思考実験上の架空の人間」であって、架空の人間を泣かせても倫理的問題にはならないでしょう。
ところで、あなたは私のような者が捨てidや匿名ダイアリーで記事を書いていることに感情的な反発を覚えていらっしゃるようで、そのお怒りは全く理解できないわけではありませんが、ご自身が匿名でブログをやっていらっしゃるのに、その矛先がご自身に向いてしまうことはないのでしょうか?

>K416様
> 持ち出した例によって話者が意図してなかった帰結が(論理上でも)導かれてしまうこともあり、そうすると、聞き手の理解を促すどころか、むしろ(話者は意図してなかった)余計な理解を与えてしまうことも多分あるんだろうな、と。

確かにその観点はありませんでした。余裕があればその点についても少々考えてみようかと思います。
いつも冷静なご指摘をどうもありがとうございます。

WallersteinWallerstein 2008/08/16 15:45 丁寧なコメントありがとうございます。「その状況を知らない人間が福耳氏は葛藤があるからよい、ないから駄目と評価することに心理的にどうしても抵抗があります」という点、よく分かりましたし、私もまた考える材料をいただきました重ねてお礼申し上げます。また「通りすがり」氏の挑発に乗ってしまって御ブログを汚したことをお詫びします。

CloseToTheWallCloseToTheWall 2008/08/16 20:12 長文コメントに応答ありがとうございます。わたしも何かいろいろ書いていたんですが、なんとなくすれ違っている部分がわかった気がします。あなたは、福耳先生は、あの記事では極限状況を例示して極限状況でしか通じない「資源の有限性がその合目的的な最適配分〜」という方法論をまずはじめに教えようとしただけで、それが平時に通用する理論として教えていたわけではない、と理解しているわけですね。平時に通用するための方法論に洗練する次のステップがあるだろう、そして人権や労働法とかを根拠にした「資源の有限性」への問いかけはその時になされるだろうということでしょうか。

そう読む気持ちは理解できます、福耳先生はたぶんそう認識しているとは思います。

しかし、問題なのはなぜ経営学で、極限状況でしか通じない方法論をまず教えなければならないのか、という点です。「資源の有限性」論は、「資源が本当に有限か」を検討した上でなければ成立しないはずです。有限か?という問いを排除した「有限性」論は弱者の排除を正当化する論理になる、ということは分かっておられると思うので繰り返しません。その意味で、「資源の有限性」とその前提への問いは不可分でしょう。

「トリアージ」の事例は、「資源の有限性」がつねに絶対ではなく、本当に有限な場合というのはあるのか、という思考へ導くときのために使うべきではないかと思います。

福耳先生は、この段階の授業では、まず「資源の有限性」を所与のものとして「リソースの配分」効率を考えさせることを意図していた、と言います。だったら、「トリアージ」は逆にきわめて不適切で、普通は「資源の有限性」にさほど反発が生まれないような日常的な事例において説明した、その次のステップとしてトリアージを例示し、「資源の有限性」を問い直す視点を涵養する、というのが筋だろうとわたしは思います。

そう言う順序であれば、たぶん「トリアージ」の持ち出し方についても批判されなかっただろうと思います。「トリアージ」というのは、資源が足りない、ということがもっとも痛切に悔いられる状況であるわけです。それを「資源の有限性」を問うてはいけない前提として学生に学ばせるための事例として用いるのは、ちょっとひどいのではないかと。

「資源の有限性」がきわめて悲惨な帰結をもたらす事例で、「かわいそう」や「人権侵害じゃないか」という問いを非難してまで、「有限性」を理解させようとする押し付け方に、批判派は問題を感じたんだとわたしは思います。そのやり方は、「有限性」を信念として植え付け、「有限性への問い」を力ずくで封じる姿に見えました。わたしはそう見えたからこそ、福耳先生のこの記事では、経営学から「資源の有限性への問い」を排除する論理に見えたわけです。多分ここらあたりが賛否の分かれ目じゃないか、と思いますがいかがですか?

あなたは、ただルールをルールとして学ぼうとしない学生を非難しただけ、と認識してるのかも知れませんが、将棋を例にしているのではないのですから、人が死んでしまうような事例を出しておきながら、それを批判するのを「思考実験を終えた後の検討としてなすべきことである」というのはやや高圧的すぎると思いますよ。軍隊でないんですから、福祉系の学校の学生に、福祉の精神をまず殺せ、というスタートは反発を食らって仕方がないとは思いませんか。学生の反応とそれに対する先生の反応に問題の一端があるのですから、あなた自身の認識であの講義の仕方に問題はない、というのはあまり反論として有効でないのでは? 

福耳先生自身は、まず、「有限性」から始まる方法論を教えようとするあまり、焦って思い通りにならない女学生を非難しただけで、「有限性への問い」の視点を消し去ったわけではないと思っているのだろうと思います(多分あなたの読みもそうでは?)が、ブログでの書きぶりは軽率だったのではないかと思います。

SokalianSokalian 2008/08/16 23:36 >Apeman様
返事を忘れておりました。申し訳ありません。

>「そんな重傷者をもう助けないなんてレッテルを貼るなんて、人権侵害じゃないですか?」と書いてきたお嬢さんもいた。そりゃあ、この大学のOGが、福祉業界に入って数年で燃え尽きてしまうというのは当たり前だよこれじゃ。

少し想像すれば明らかとは思いますが、医療資源(人、時間を含む)より患者の数が増えれば「極限状況」(トリアージ的選択を迫られる状況)は発生します。実際、それに類する話は医療関係者から多く語られています。それに対する覚悟が机上の議論においてすらできていないとすれば「燃え尽き」を心配するのは当然でしょう。

>Wallerstein様
ご丁寧にどうもありがとうございます。「通りすがり」氏の件はどうぞお気になさらず。

>CloseToTheWall様
> 極限状況を例示して極限状況でしか通じない「資源の有限性がその合目的的な最適配分〜」という方法論をまずはじめに教えようとしただけで、それが平時に通用する理論として教えていたわけではない、と理解しているわけですね。

違います。
乱暴な話ですが、公式のようなものがあるとお考え下さい。この公式は「資源(時間も資源と考えます)の量」と「目的」(例えば、救うべき人を最大化すること)を代入すれば、その「目的」を「資源の量」の制約内で達成するための手法が出てくる、と。
そこに「極限状況」を代入したら「トリアージ」が出てくるよ、というのが福耳先生の話です。当然、「極限状況」でない状況を代入すればもっと穏当な解が得られるでしょう。
大切なのは、これは「公式」(機械的な方法論といった方が正確でしょうか)の説明であって、その公式からどのような結論が導かれるかということには何も触れていないということです。

> 平時に通用するための方法論に洗練する次のステップがあるだろう、そして人権や労働法とかを根拠にした「資源の有限性」への問いかけはその時になされるだろうということでしょうか。

> 平時に通用するための方法論に洗練する次のステップがあるだろう、そして人権や労働法とかを根拠にした「資源の有限性」への問いかけはその時になされるだろうということでしょうか。

ここはその通りと思います。「公式」を説明すれば、当然そこから導かれる解釈について語られるはずです。

> 問題なのはなぜ経営学で、極限状況でしか通じない方法論をまず教えなければならないのか、という点です。「資源の有限性」論は、「資源が本当に有限か」を検討した上でなければ成立しないはずです。

むしろ私には、資源が無限という状況を想像することの方がよほど難しく感じられます。

> 「トリアージ」というのは、資源が足りない、ということがもっとも痛切に悔いられる状況であるわけです。

極端な状況を考えるほど、「資源の有限性」の持つ冷徹な意味合いが拡大されるということです。

> 「かわいそう」や「人権侵害じゃないか」という問いを非難してまで、「有限性」を理解させようとする押し付け方に、批判派は問題を感じたんだとわたしは思います。そのやり方は、「有限性」を信念として植え付け、「有限性への問い」を力ずくで封じる姿に見えました。

気持ちはわかりますが、これは「ありがちな誤解」に過ぎず、誤解はどこまでいっても誤解です。誤解を擁護して正しい解釈を非難するのはどう考えても弁護できません。

> 福祉系の学校の学生に、福祉の精神をまず殺せ、というスタートは反発を食らって仕方がないとは思いませんか。

福祉の精神を殺すことにはなりません。誰がどうしたところで、全員を助けられない状況には代わりがありません。むしろ、極限状況のなかで「福祉の精神」を少しでも生かそうとした結果出てくる結論が「トリアージ」なのではないでしょうか。

> あなた自身の認識であの講義の仕方に問題はない、というのはあまり反論として有効でないのでは?

一定の予備知識のある人間が見れば自然な解釈というものを書いたつもりです。

> ブログでの書きぶりは軽率だったのではないかと思います。

どのように誤解が生じるかを予測できなかったことについてそういえなくもありませんが、予備知識がない人たちが予想外の方向からの誤解をするというのは、たとえばApemanさんがされているような歴史修正主義批判の場を見ていればおわかり頂けることと思います。
私から見て、あなたやApemanさんが今回されていることは、歴史修正主義批判者に対して外野から「誤解されるような難しいことを語る方が悪い」「誤解に基づけばお前らの議論は反日思想だ」と言っているように見えるのですよ。残念ながら。

ApemanApeman 2008/08/17 11:21 >「資源の有限性」がきわめて悲惨な帰結をもたらす事例で、「かわいそう」や「人権侵害じゃないか」という問いを非難してまで、「有限性」を理解させようとする押し付け方に、批判派は問題を感じたんだとわたしは思います。

この点はちゃんと hokusyuさんが明示的に書いてますよ。
http://d.hatena.ne.jp/hokusyu/20080523/p1#c
>しないと思うんですけどね。「うわあお嬢様ばかりだな。トラウマが足りん!トリアージ論でトラウマ注入!」ってことでしょう。

http://homepage.mac.com/biogon_21/iblog/B1604743443/C497052863/E20080526124451/index.html
>そもそも、「1.全員が生き残るbest戦略がないときにどうにかして戦略を選んでbetterな結果を残したい」という問いを最初にたてることが、ある種のトラウマ授与による教育という趣味の悪さを露呈しているのではないでしょうか。実は2や3というのは、あったとしてもその問いが持つ呪縛性によって誘導されて出てくるものな気がします。

もちろんこのような判断は、講義それ自体ではなく(だって誰も聞いてませんからね)ブログでの記述全体から導かれたものです。

ApemanApeman 2008/08/17 11:26 >少し想像すれば明らかとは思いますが、医療資源(人、時間を含む)より患者の数が増えれば「極限状況」(トリアージ的選択を迫られる状況)は発生します。実際、それに類する話は医療関係者から多く語られています。それに対する覚悟が机上の議論においてすらできていないとすれば「燃え尽き」を心配するのは当然でしょう。

ほら、あなたも緊急時と平時を無造作に接続してる! 福耳先生に肩入れするはずです。よくわかりました。
トリアージを必要とするような事態の場合、「医療リソースを増やす」という選択肢は閉ざされています。しかし福祉関係者の「燃え尽き」が起きるような場合はそうではない。福耳先生の講義におけるトリアージはまさに、この決定的な違いを隠蔽する機能を果たしたのです。

SokalianSokalian 2008/08/17 17:48 >この点はちゃんと hokusyuさんが明示的に書いてますよ。

いや、hokusyu氏の読解には同意できません。なぜなら、
>>
そもそも、「1.全員が生き残るbest戦略がないときにどうにかして戦略を選んで betterな結果を残したい」という問いを最初にたてることが、ある種のトラウマ授与による教育という趣味の悪さを露呈しているのではないでしょうか。実は2や3というのは、あったとしてもその問いが持つ呪縛性によって誘導されて出てくるものな気がします。
<<
現実にそのような状況がある以上、そのようなことを言っても何の役にも立ちません。「趣味が悪い」というのであれば現実自体が「趣味が悪い」のです。

ただし、挙げてくださった記事のコメント欄自体は有用に思えました。私の立場はsor_a氏と同様といってよく、
>>
そもそも、彼がどんな講義をしたにしろあの学生さんの感想は2点の大きな問題があり、その点から嘆くに値するものだと思います。
1.問題が1という制限下でのものなのに、それを無視していること。
2.主張(論拠+結論)の形式になっていないこと。
<<
ということです。そしてそれに対してあなたは
>>
講義でフォローしなかっただけならともかく、それをブログで愚痴るとなると学生以外の人間も読むわけです。そこで「かわいそう」が含意し得るものについて無自覚であれば研究者として?ということになるだけでしょう。
<<
と応答されていますが、これについてはそれこそ
>>
万人が納得の出来る判断基準を、というところで基準が設けられているわけである。倫理的、医学的観点からの基準である。
http://d.hatena.ne.jp/steam_heart/20080523/1211570874
<<
ということです。「万人が納得の出来る判断基準」が存在するならばそれを採用するというのは実学においてあまりにも自明な立場(というより、そこから先には触れないのが実学)なので、福耳氏はそれに「無自覚」であったわけではないのです。
なお、あなたはsteam_heart氏の書いた記事の内容を福耳氏が無自覚であったと断じておられますが、そうでないと考えられることは既に述べました。

> ほら、あなたも緊急時と平時を無造作に接続してる!

それについては、あなたが間接的に挙げてくださったこちらをご覧ください。
>>
トリアージは特別なものではない

* 二人のけが人がいた場合でも優先順位が必要←原始的で基本的なトリアージ
* 救出・搬送・病院での治療、すべてに順番がつけられている
http://ops.umin.ac.jp/ops/tech/ops16toriage/yosida.html
<<
という現実の制約上どうしようもないことです。

> しかし福祉関係者の「燃え尽き」が起きるような場合はそうではない。

いえ、少しお考えいただきたいのですが、「医療資源が十分にある状態」はそもそも実現不可能ではないでしょうか。全ての人間がブラック・ジャックであり、なおかつ必要な物資を常時携帯していても、手遅れで助けられない患者は必ず発生します。たとえば無人の山道で落石事故にあった人は、発見が遅れればどうやっても助からないでしょう。また、複数人が落石事故にあってどちらも喫緊の手当を要するとき、発見者が一人であっては片方しか助けられないでしょう。

tikani_nemuru_Mtikani_nemuru_M 2008/08/19 15:57 >いや、あなたが私の比喩を理解していないと感じたから訊いたのです。言うまでもなく「駒」は「思考実験上の架空の人間」であって、架空の人間を泣かせても倫理的問題にはならないでしょう。

僕がいいたかったのは、チミの比喩がそもそも不適当ということだにゃ。比喩のできの悪さとは、つまりは不適切ということ。さらにいえば、不適切な比喩を出してくるというのは問題を理解していないということなんだにゃー。「倫理的問題にならない」ものを比喩として出すこと自体が間違いだにゃ。
比喩が適切であるのなら、比喩を出してくるのは悪いことではにゃーんだよ。


>ところで、あなたは私のような者が捨てidや匿名ダイアリーで記事を書いていることに感情的な反発を覚えていらっしゃるようで、そのお怒りは全く理解できないわけではありませんが、ご自身が匿名でブログをやっていらっしゃるのに、その矛先がご自身に向いてしまうことはないのでしょうか?

やふ掲示板から10年以上このハンドルをつかっとってにゃ。多分このハンドルのほうが本名より知られているんでにゃーかな。また、オフ会もちょこちょこしていて、このハンドルでにゃーにゃーいっている人物がリアルで何をしているかを知っている者も多いにゃ。それに、やふ掲示板はうっかりすると「落ち」てしまうのが不満でブログをやりはじめたということもあり、よほどのことがなければ自分の言説を消すつもりはにゃーよ。
つまり、「地下に眠るM」は固定のペンネームとお考えくださいにゃ。

チミは自分の言説を抹消するつもりなんだろ?
言い捨て宣言で他者をDISる輩についてはごく単純に侮蔑しているけど何か?

SokalianSokalian 2008/08/20 00:31 > 「倫理的問題にならない」ものを比喩として出すこと自体が間違いだにゃ。

将棋が「倫理的問題にならない」理由、トリアージの思考実験が「倫理的問題になる」理由、その境界の恣意性を問うているのです。

> つまり、「地下に眠るM」は固定のペンネームとお考えくださいにゃ。

了解しました。

> チミは自分の言説を抹消するつもりなんだろ?

そのつもりでしたが、消すことによるメリットがないことに気づいたのでやめました。もっとも、あなたのおっしゃるような理由からではありません。

> 言い捨て宣言で他者をDISる輩についてはごく単純に侮蔑しているけど何か?

そういうご趣味は私には理解できませんが、あなたがそういう価値観をお持ちであることは了解しました。

tikani_nemuru_Mtikani_nemuru_M 2008/08/20 12:04 ほう?
将棋が倫理的問題にならない理由と、トリアージの思考実験が倫理的問題になる理由の境界が恣意的なのかにゃ?
問題をまるで理解してにゃーことを宣伝してタノシイ?

ゲスト