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吾輩は馬鹿である

2008-08-15

ご冗談でしょう、Apemanさん

別記事のコメント欄id:Apeman氏にお寄せ頂いたご意見に対し、返信が長くなるので一記事としてお返事する。

一問一答

つーか、そもそもが「講義」それ自体だけではなく学生の反応をブログで晒して「ナイーブ」と切り捨てたことまで含めて問題にされたんですが、元エントリがどのように改変されたかまで含めてきちんと事情をフォローしてるんですか?

はい、その通りです。私は本ブログをそれを前提として書いております。

「話の前提」を問い直すのは立派な学問的営為でしょうが。私は「もちろん、学部の授業なんて各ディシプリンの「仮言的命題」をまずは飲み込んだうえで受けるべきだ、という考え方はあるかもしれません」としたうえで、「しかし教師の側、ないし研究者の側はどうなんでしょう?」と問うたのですよ。

http://homepage.mac.com/biogon_21/iblog/B1604743443/C497052863/E20080524113420/index.html

もちろんそれは「立派な学問的営為」ですし、あなたの問いは建設的なものと存じます。しかしそれを福耳氏批判として行うのは「木に依りて魚を求む」の喩え通りではないでしょうか。小学生相手と史学科の学生相手で日本通史の講義内容が違うことをあなたもお責めにはならないでしょう?

福耳先生は救急医療について講義していたのではなく経営学について講義していたのであって、それゆえトリアージを持ち出すのは不適切だった、という批判があったことはご存知ですね?

存じておりますが、意味のない批判だと思います。既に書いたような気もしますが、「経営学の講義では狭義の経営学についてしか語ってはいけない」という発想は反知性主義的以外の何ものでもありません。

思考実験だから現実には許されないであろう非倫理的な想定をすることが可能だ、という意味で「倫理は問われない」というなら分かりますが、思考実験がある倫理的な問題を浮かび上がらせるなら当然それについて考えることが要求されるはずだし、ある思考実験を「それがなにを問うていないか」という観点から検討することも立派な学問的営為でしょう。

私はそのことを否定したつもりはありません。しかし、思考実験とは何かを理解しない上ではこれらの疑問は無意味です。「この思考実験は何を問うていないのですか」と聞かれたとき、相手が「思考実験」の意味を理解していないのであれば、「まずは『思考実験』の意味を理解してください、その上でなお疑問があればそのときにどうぞ」としか答えようがないのではないですか?

福耳先生はある前提を学生に与えたうえで思考実験させたのではなく、「こういう時はこうするんだ(それが正しいんだ)」と教えたんですけど。救急医療について考えさせるためではなく、経営学を教えるために。

福耳氏の当該記事のどこをどう読めばその読解に至るのか正直申し上げて理解不能です。

講義の主題は「トリアージ」じゃありません。政治的なデマゴーグが「現在は緊急時である」という(あるいは「リソースは限られている」という)認識を煽ってきた歴史をふまえることを経営学の研究者に要求するのが「無い物ねだり」だとはまったく思いません。

そうですね。しかし、その回の講義の主題は「政治的なデマゴーグ」の歴史ではありませんでした。講義で知っていることを全て語れと要求することは無茶というものなので、特定の何かが語られなかったことを批判の対象とするのは無理筋というものではないでしょうか。

問題にされたのはその「前提」を問おうとしない姿勢ですよ。

福耳氏が前提を問おうとしていないと判断できる根拠はどこにもないと思います。

トリアージで経営を語ること(経営における資源配分のモデルとしてトリアージを用いること)は、あたかも制約が「自然法則」であって問うてもしかたないかのような前提を学生に注入する手段になっているわけです。

それは、福耳氏がそのような意図を持っていたと仮定しなければ無理な読解だと思いますが、その意図はどこから判断されたのでしょうか?

参照記事について

引用元:no title

正直、この記事は何か悪い冗談にしか思えません。Apemanさんとも思えない不備が目立ちすぎるのです。

まず、この記事の冒頭にキャロルのパラドックスが持ち出されていますが、これを批判の論拠にするのは端的に申し上げて暴挙だと思います。この問題は論理学の専門家以外には何の興味もないものであることは明白であって、逆にこの問題を解決しない限り先に進めないというのは過度の厳密主義であることは言うまでもないでしょう*1。なお、キャロルのパラドックスについてはたとえばこれなどが参考になりますが、数理論理学について学ばれたことがなければ難解かもしれないとあらかじめお断りしておきます。

以上から、キャロルのパラドックスは論拠としては「禁じ手」であると言えますし、そもそも

(A)−−より多くの人を救うには、医療資源を適切に配分しなければならない

(B)−−医療資源の適切な配分のためには、目の前の患者pを放置しなければならない

(Z)−−私は(あるいは、あなたは)目の前の患者pを放置しなければならない

(A)と(B)を真と認めるなら(Z)を真と認めねばならない、という思考はもう一つの「仮言的命題」を前提しているわけです。

という記述は、キャロルのパラドックスの正しい適用例になっていません。

経営学が大いに依拠しているところの「市場原理」というのは、個人が「全体や組織から見た最適」なんてものを正しく表象し得ないこと、また表象する必要もないことを前提としているんじゃありませんでしたっけ? 百貨店がビジネスモデルを変えるとすればそれは別に市場全体から見た最適を目指すからじゃないですよね?

経営学が市場原理に依拠しているかどうかは浅学非才故存じませんが*2、ミクロの現象とマクロの現象を混同して話をするのは、現象記述的な学問をご存じない方の余りにも典型的な誤解と言わざるを得ません。例えば、熱湯と水を混ぜれば平衡状態としてぬるま湯ができあがるのは自明ですが、これは個々の水分子が熱平衡を指向するからではなく、「均質なサイコロを何度も振り続ければ全ての目が殆ど同じ回数ずつ出る」のと殆ど同質な*3、純粋に確率的な問題なのです。

*1:その程度の厳密さを要求し出せば、例えば自然法則は帰納的にしか導けない、など、いくらでも難問を提出して、あらゆる論説をストップさせることができます。

*2:もっとも、経済学は我々門外漢から過度にナイーブに誤解されているという話を聞いたことがあるのを蛇足ながら付け加えておきます。経営学者の濱口桂一郎氏は、同氏のブログのなかでそのようなナイーブな経済学の適用を主張する人を「初等経済学教科書嫁派」と揶揄して繰り返し批判されています。

*3:余計な一言ながら、エルゴード仮説が云々と言い出して揚げ足を取らぬように望む。

ApemanApeman 2008/08/17 11:20 >しかしそれを福耳氏批判として行うのは「木に依りて魚を求む」の喩え通りではないでしょうか。

この譬え、「木」は学生であると私のブログのコメント欄でおっしゃったが、だったらまるで的外れでしょ。私は学生には何も求めてないんだから(求める立場にないし)。

>経営学が市場原理に依拠しているかどうかは浅学非才故存じませんが*2、ミクロの現象とマクロの現象を混同して話をするのは

いや福耳先生が混同してんじゃないの? って話なんですが。

SokalianSokalian 2008/08/17 17:27 > この譬え、「木」は学生であると私のブログのコメント欄でおっしゃったが、

そのまま引用します。
>>
違います。「木に依りて魚を求む」の「木」は福耳氏ではなく、「学部生相手の講義」です。
<<

> いや福耳先生が混同してんじゃないの? って話なんですが。

学部生じゃあるまいし、福耳氏がミクロとマクロを混同すると考えるあなたの方がよほど福耳氏に失礼です。

ApemanApeman 2008/08/19 18:04 >違います。「木に依りて魚を求む」の「木」は福耳氏ではなく、「学部生相手の講義」です。

だとしたら結局われわれが言ってることをまるで分かってない、と自認したようなもの。なんべん言ったら「講義それ自体だけでなく、それについての学生の反応について書いたブログのエントリまで含めて批判の対象になっていた」ことを理解できるんですか?

SokalianSokalian 2008/08/20 00:40 > なんべん言ったら「講義それ自体だけでなく、それについての学生の反応について書いたブログのエントリまで含めて批判の対象になっていた」ことを理解できるんですか?

ようやく少しずつおっしゃりたいことが理解できた気はします。要するに、福耳氏が講義中に限定した枠の中で話をしていたにしても、講義を離れた場においてもその枠内だけから学生を批判することには問題がある、なぜなら講義中にいったん無批判に受容していた「前提」への問いが度外視されているからで、そうして微妙な問題の前提を度外視することは一歩間違えばホロコーストにつながりかねない、だいたいそうおっしゃりたいのですね?

まったく理解できないわけではありませんが、しかしその読みは現実に即してない気がします。
もしその学生が、福耳氏の述べたことを一つの主張として理解した上で「かわいそう」と言ったとして、その疑問を圧殺したのであれば福耳氏の姿勢は批判されて然るべきかもしれません。しかし、福耳氏の記述を見る限り、その学生の態度は「主張の存在を理解すること自体を拒否」したものであると言え、そして福耳氏の記述を敢えて疑ってかかる理由はないからです。

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