Hatena::Diary

吾輩は馬鹿である

2008-08-17

コメント欄延長

経緯

本記事は、捨て駒にされる将棋の駒は「かわいそう」か - 吾輩は馬鹿であるのコメント欄の続きである。

なお、以下に示す文章は、id:CloseToTheWall氏によって記入されたコメントである。容量制限により反映されなかったので、ここに転載しておく。

なお、読みやすさのため、同氏が私の発言を引用した部分は引用形式に変換した。

これに対する返答は、その下に付する。

CloseToTheWall氏のコメント

こちらでまとめて返答致します。

そして、福耳先生のやったことは、「経営学における最適化のモデル」に緊急時の状況を代入すれば「トリアージ」が有力な解として得られる、という例示にすぎません。

トリアージを例に出した段階のみで考えればそうかも知れませんが(そしてそこだけが問題になっているのではない以上、モデル、代入、解という思考実験が福耳先生批判の核心ではないことはご理解ください)、皆が問題にしているのはその反応に対して福耳先生がなんと返したか、というところだということは繰り返し説明していることです。

大切なのは、これは「公式」(機械的な方法論といった方が正確でしょうか)の説明であって、その公式からどのような結論が導かれるかということには何も触れていないということです。

いや、触れていると思いますが。女学生への反応はその証拠です。そこから、彼が何を肯定すべき主張として認識しているかが分かるんです。

資源が無限という状況を想像することの方がよほど難しく感じられます。

いえ、資源が無限なんていうことは要求されていません。「資源の有限性」と「切り捨てられてはいけないもの」との具体的な比較、というのが人が死に至るような状況では決定的に重要だ、ということです。会社を整理するときに解雇、というのは、相応の理由があれば許容されます。失業保険とかあって、すぐ死ぬわけではないですから、会社に絶対に解雇するな、という要請はさすがにできない。将棋とトリアージが事例の価値としてまったく異なる、というのはそう言う意味です。人を切り捨てる状況だとしても、トリアージと会社整理、という状況では、「資源の有限性」の絶対性がかわります。

むしろ、極限状況のなかで「福祉の精神」を少しでも生かそうとした結果出てくる結論が「トリアージ」なのではないでしょうか。

これはそうなのですが、福耳先生の対応がやや問題になるんですよね。以下。

そこに「極限状況」を代入したら「トリアージ」が出てくるよ、というのが福耳先生の話です。当然、「極限状況」でない状況を代入すればもっと穏当な解が得られるでしょう。

福耳先生が批判されていたのは、まさにこの点でした。なぜ「極限状況」を代入しなければならないのか。あなたは、どれを代入しても思考実験としては等価であり、別に違いはないし、「資源の有限性」というルールを教えるためにはむしろ極限状況が望ましいともいえる、と仰るでしょう。

なお、トリアージのように人命救助に優先順位付けを迫られる状況は「極限の非人間的状況」だけで発生されるわけではありません。たとえば、医師が一人しかいない病院で患者二人の容態が急変すればどうなるでしょうか。

しかし、問題は、福耳先生もあなたもそうですが、なぜ「誰かを犠牲にしなければならない」ような状況を選んでしまうのか、という点です。たぶん、上記の病院の事例でなら、程度が軽いものであれば、治療順序に優先順位をつけることというのは日常行われることですが、こと生命がかかわってきた場合話が変わります。そういう話の場合、学生は近くの病院から医者を連れてくる、非番の医者を呼びつける、として「資源の有限性」という前提を越える回答を示すものが出てくるでしょう。おそらく、福耳先生はこうした回答が出たら、「資源の有限性」をより強調するため、他に医者が誰もいない絶海の孤島での事例として再提出するんではないかと思います。しかし、これこそが問題なのです。ここで行われていることは、「誰かを犠牲にしなければならない」ことが「必然」となるように状況を操作することです。緊急時の「トリアージ」は、治療しても助からないだろう患者を優先しないことに特徴があるといいます。これは、平時の医療倫理ではありません。医療は、出来うる限りの治療可能性を志向します。不治の病だからといって治療を放棄するなんてことは倫理的にきわめ$FLdBj$N$"$k9T0Y$G$9!#*1

トリアージ」を例示したとき、経営学の考え方の説明のはずが、「合理的に資源を配分したとき、犠牲が必然となる」という信念の押し付けに変わっている、と言うのがたぶん問題になっている。もちろん、あなたは「いや、「トリアージ」では事実としてそうなるだけだ」とお考えでしょうが、事実をどのように配置するかで、ただの事実の羅列以上の意味を持ってしまう、ということです。そして、信念の押し付け、と見なされたのは、女学生の反応をナイーブだと見なして感情的に非難したからです。合理性の当然の帰結の話をしているのに、感情的反応を返すなんて、という風に反発してしまうことこそが、「ホロコースト」を可能にした「犠牲」を「必然」のものとする論理なんです。

そして、まさに「トリアージ」当事者となった(あなたが誤読による反応だと述べた)医者の方の発言は、そうした感情的な反応は、まさに「トリアージ」において否定されてはならない要素であるということなんです。「トリアージ」はやらなければならないことではあるとしても、その当事者が自殺を選んでしまうほどの感情の負荷を抱えるものであって、それは確かに切り捨てられる人が「かわいそう」だからです。そう感じるナイーブさを失ったとき、犠牲は必然だから仕方がない、という「資源の有限性」から前提された「合目的的な資源配分」という合理性の帰結として遂行されたホロコーストの論理を阻止することができなくなる、ということなんです。

これに関しては、以下の福耳先生の発言を見てください。

やっぱり女子学生のかなりの部分から「かわいそうだ」という反応があった。これ、「トリアージの判断をしなければいけないお医者さんたちもつらいだろうな」というのではないんですよ

ここは福耳先生の発言のスタンスがどこなのか、致命的に語っている部分だと思われますが、どうですか。普通どう考えても、より「かわいそう」なのは当然死の間際で切り捨てられる側でしょう。なのに、福耳先生は、この反応に同意するのでもなく、切り捨てられる側もかわいそうだけど、医者の方も苦悩して居るんだよ、と並列させるのでもなく、ごく自然に切り捨てる側に立ち、切り捨てられる側への同情を否定したんです。なにがやばいって、ここが一番やばい。今読み直してみて、びっくりしました。自分がこれをスルーしていたことについても。

そして、続くこの発言を見てください。

そりゃあ、この大学のOGが、福祉業界に入って数年で燃え尽きてしまうというのは当たり前だよこれじゃ。この人たちの目に映るのは「目の前の最善」だけで、「全体や組織から見た最適」というのはコンセプト自体が頭の中にないのだ。

この部分で、福耳先生は、OG(女性ですよ)が燃え尽きるのは、「合目的的な資源配分」をして、どうしようもない部分は切り捨てるのは仕方がない、という理性的な判断が出来ないから、燃え尽きるのだと考えておられます。「目の前の最善」だけでやっているから、燃え尽きるのだ、と非難しておられますが、考えてみてください。福祉業界でOGたちが燃え尽きないように合目的的な資源配分をして切り捨てられるのは誰ですか。福祉を受けなければならないような人たちですよ。切り捨てられたら死ぬ、という人も多いんじゃないですか。ここで明らかに福耳先生はトリアージ式経営論を、平時の福祉業界に対して適用されるべきだと考えておられる。

しかし、むしろ、OGたちは「人道的」な「かわいそう」という発想を強靱に発揮するからこそ、自分自身を切りつめて燃え尽きるんじゃないですか。それを防ぐには社会的政策として、福祉業界への保障を増やすしかない。しかし、福耳先生は決してそうしたリソースが絶対的に不足しており、リソースの不足が許されないような状況においても、「資源の有限性を前提にした合目的的な配分」にこだわっている。「誰かを切り捨てなければならない」という犠牲を必然とする思考回路に嵌り込んでいる。福耳先生にとっては、なぜか「資源の有限性」は絶対的な信念に変わってしまっている。上記部分はそう読むことしかできないと思いますが。

いえ、少しお考えいただきたいのですが、「医療資源が十分にある状態」はそもそも実現不可能ではないでしょうか。全ての人間がブラック・ジャックであり、なおかつ必要な物資を常時携帯していても、手遅れで助けられない患者は必ず発生します。たとえば無人の山道で落石事故にあった人は、発見が遅れればどうやっても助からないでしょう。また、複数人が落石事故にあってどちらも喫緊の手当を要するとき、発見者が一人であっては片方しか助けられないでしょう。

事実として、そうである、ということと、認識としてそれは仕方がない、として批判的態度をやめてしまうこととは大きな隔たりがある、ということです。福耳先生は事実のみを語ったのではなく、併せて御自分の認識を語られたので、それをみなが批判して居るんです。

以下の記事を参照してみてください。

http://d.hatena.ne.jp/D_Amon/20080817

私の返答

長文コメントありがとうございます。この分量ならば、トラックバックでお願いしたいとも思いますが、今回は結構です。

「資源の有限性」と「切り捨てられてはいけないもの」との具体的な比較、というのが人が死に至るような状況では決定的に重要だ、ということです。

それはその通りです。

そこに「極限状況」を代入したら「トリアージ」が出てくるよ、というのが福耳先生の話です。当然、「極限状況」でない状況を代入すればもっと穏当な解が得られるでしょう。

福耳先生が批判されていたのは、まさにこの点でした。なぜ「極限状況」を代入しなければならないのか。あなたは、どれを代入しても思考実験としては等価であり、別に違いはないし、「資源の有限性」というルールを教えるためにはむしろ極限状況が望ましいともいえる、と仰るでしょう。

ええ、そう申します。一番極端な状況においてこそ、モデル自体の妥当性が一番強く問われることになるからです。そして、極限状況といえども現実に広く存在する状況である以上、目を背けてはいけない重要な事例です。

おそらく、福耳先生はこうした回答が出たら、「資源の有限性」をより強調するため、他に医者が誰もいない絶海の孤島での事例として再提出するんではないかと思います。しかし、これこそが問題なのです。ここで行われていることは、「誰かを犠牲にしなければならない」ことが「必然」となるように状況を操作することです。

たとえば、これが詰将棋の問題に不備があったとき問題を作り替えるとしたら、あなたはこれを非難なさりますまい。「将棋とトリアージが事例の価値としてまったく異なる」とあなたはおっしゃるのですから。しかしあなたがお忘れなのは、将棋は戦争ゲームであって、将棋の駒は兵士の擬人化なのですよ。将棋を考えるということは「人が死ぬ」という状況をモデル化したものを思考実験で、冷たい論理のもとに扱うということなのですよ。将棋は、相手の王様を詰めなければどうしようもないという状況なのですよ。それが許容されるのであれば、思考実験トリアージが要請される状況を想定することのどこに問題があるのですか?

学問の自由は、タブーに敢然と立ち向かうことに価値があります。もっとおぞましい例を挙げるならば、ゲーム理論の本のいくつかには核戦争のモデル化が具体例として載っていますよ。そして、こういう考察は絶対に必要なことです。「囚人のジレンマ」的に、誰も望んでいないのに核戦争が勃発するような状況を事前に回避するために。

事実をどのように配置するかで、ただの事実の羅列以上の意味を持ってしまう、ということです。

一般論としては同意しますが、この場合がその批判にあたる理由がないというのが私が述べていることです。

そして、信念の押し付け、と見なされたのは、女学生の反応をナイーブだと見なして感情的に非難したからです。合理性の当然の帰結の話をしているのに、感情的反応を返すなんて、という風に反発してしまうことこそが、「ホロコースト」を可能にした「犠牲」を「必然」のものとする論理なんです。

現実に、トリアージが必要になる状況は、「犠牲」が「必然」な状況ではないですか。誰かの論理によってそうなったわけではない。状況の制約によって悲劇が不可避的に生じてしまっているんですよ。現実として。そして、その現実を考察することから逃げてどうするんですか?

話は変わりますが、私が一般教養の講義を受けているとき、臨床心理やフェミニズムの講義で性的な単語が乱舞するのはとても嫌なものでしたよ。しかし、私が「性的なことにこだわるのは下品だ」とでも言えばそれは「ナイーブ」と批判されて当然ですよ。その「下品さ」に敢えて切り込むことから得られた成果というものがそもそも説かれているのですから。私の仮想的なこうした「感情的な反応」だって、「否定されてはならない要素」ではありますが、それとこれは別でしょう?

ごく自然に切り捨てる側に立ち、切り捨てられる側への同情を否定したんです。なにがやばいって、ここが一番やばい。

経営学文学ではありません。ここでの例題は「医療資源・人員を配置する立場に立って考えよ」という設定なのだから、ひとまずはその仮定を全うしなければなりません。

たとえば、「リンゴ5個を、子供2人に分けると、いくつずつ配っていくつ余るでしょうか」という問題に対して、「ジャムを作って半分ずつ分ければよい」というのは、実生活上の知恵としてはともかく、算数の問題への答えとしては失格です。中学生以上が「ジャム」なんてことを言えば当然「ナイーブ」ですよ、それは。

福耳先生は、OG(女性ですよ)が燃え尽きるのは、「合目的的な資源配分」をして、どうしようもない部分は切り捨てるのは仕方がない、という理性的な判断が出来ないから、燃え尽きるのだと考えておられます。(略)ここで明らかに福耳先生はトリアージ式経営論を、平時の福祉業界に対して適用されるべきだと考えておられる。(略)「誰かを切り捨てなければならない」という犠牲を必然とする思考回路に嵌り込んでいる。福耳先生にとっては、なぜか「資源の有限性」は絶対的な信念に変わってしまっている。上記部分はそう読むことしかできないと思いますが。

これについてはこちらの回答を繰り返すほかありません。動かしがたい現実がある以上、それに基づかない議論は意味がない。「太陽が西から昇れば」なんて話をしても仕方がないのです。

事実として、そうである、ということと、認識としてそれは仕方がない、として批判的態度をやめてしまうこととは大きな隔たりがある、ということです。

福耳氏が「語らなかった」だけのことから、それだけの意図を読み取るのは無理があると思います。

*1:この部分はコメントがメール送信されてきた時点で文字化けしていたもの。

CloseToTheWallCloseToTheWall 2008/08/18 22:02 お手数おかけしまして申し訳ないです。

文字化けのところですが、わたしも手元に元の文章がないので、
「不治の病だからといって治療を放棄するなんてことは倫理的にきわめて問題のある行為です。」
くらいに受け取ってください。

>福耳氏が「語らなかった」だけのことから、それだけの意図を読み取るのは無理があると思います。

いえ、わたしは「語ったこと」とを根拠にしました。福耳先生は、講義に於いてトリアージを用いたこと及び、それに対する女学生に対する自身の感想を記事にしました。あなたは、彼が講義に於いてトリアージを例示し、リソースの最適配分にかんする演習をさせた、ことだけが問題になっているとお思いかも知れません。

わたしは、経営学においてトリアージを例示する意味、リソースの最適配分において犠牲が出る状況を選択する意味、そこにおいてなされた女学生の感想とそれに対する彼自身の感想から、わたしの主張を形成しています。

あのブログ記事の文章は、客観的に事実を摘示したというに止まるものではありません。事実に対する主張を含んでいます。たとえ新聞報道であっても、事実をどう伝えたかにおいて、記者の倫理的感覚は問われうるのです。福耳先生も同じく、です。

まずこのことを理解してもらわないと、議論がループするだけです。

SokalianSokalian 2008/08/18 23:06 > あのブログ記事の文章は、客観的に事実を摘示したというに止まるものではありません。事実に対する主張を含んでいます。たとえ新聞報道であっても、事実をどう伝えたかにおいて、記者の倫理的感覚は問われうるのです。福耳先生も同じく、です。

もちろんそれはその通りです。ですが、今までなされた指摘は「そういう風に読み取ることもできる」程度のものではなかったでしょうか?逆に「そうでないように読み取ることもできる」わけで、そうであるならば福耳先生に不利な読解をすることにも逆に何らかの意図があると言わざるを得ないのではないでしょうか。

rageyragey 2008/08/18 23:53 医療・福祉におけるリソースは無限であってしかるべき,と言いたいんですね,分かります.
今の首相のお父さんが「人の命は地球より重い」と言いましたもんね.

しかし,医療・福祉を受ける人,或いは国家でさえ,一人の命のために地球一個分の値段を払えるのでしょうか.

 国家の仕事は国民の生命・財産を守る事です.だから昔の首相はそう言いました.しかしそれを真に受けた社会論を展開するのは,「お客様は神様です」と言う宣伝文句を真に受けて王様ゲームもどきをするいまどきのDQNと何の変わる所があるのでしょうか.

CloseToTheWallCloseToTheWall 2008/08/20 00:19 >現実に、トリアージが必要になる状況は、「犠牲」が「必然」な状況ではないですか。誰かの論理によってそうなったわけではない。状況の制約によって悲劇が不可避的に生じてしまっているんですよ。現実として。そして、その現実を考察することから逃げてどうするんですか?

そう言う話をしているのではないことはもう何度も繰り返しました。福耳先生は現実を考察するためにトリアージを例示したのではなく、「最適配分」を説明するためにトリアージを例示したのです。しかし、「トリアージ」は極限状態においてなされるものであるため、人権などについての配慮が停止される場であり、ここで「最適配分」のルールを説明する、ということはそこで説明された「最適配分」からは人権を切り離してはいけない、という現実のルールがすっぽり抜け落ちてしまう、ということです。あなたが将棋の比喩を出したのと同じミスをしているんです。

>「リンゴ5個を、子供2人に分けると、いくつずつ配っていくつ余るでしょうか」という問題に対して、「ジャムを作って半分ずつ分ければよい」というのは、実生活上の知恵としてはともかく、算数の問題への答えとしては失格です。中学生以上が「ジャム」なんてことを言えば当然「ナイーブ」ですよ、それは。

「かわいそう」という感想を、あなたは算数問題への解答として読んだわけですね。しかし、トリアージしなければならないこととかわいそうだと思うことは両立することであって排他的ではありませんし、人権侵害だという指摘も現実においてむろん無視して良い話ではない。これが医者の方から批判を受けた部分であり、あなたが誤解している部分です。あなたは、女学生の授業後の感想を、数学の解答欄に書かれたものと取り違えてませんか。そして、経営学の授業が数学の授業でない以上、あなたの比喩は間違っています。

そもそも、あなたの問題は事態を比喩として理解した結果、肝心な部分を抽出し忘れることです。将棋の比喩や数学テストという比喩によってこぼれ落ちるものそのものが問題になっているということを、あなたはまだ分かっておられない。

あと、フェミニズムなら、性的な話にかんするタブーというのは主要な話題ですよね。正面から取り扱われるべき問題ですが。

>動かしがたい現実がある以上、それに基づかない議論は意味がない。

誰もそんなこと言っていませんが。現実に対する批判を試みない学問はただのシニシズムですよ。

CloseToTheWallCloseToTheWall 2008/08/20 00:20 rageyさん
あなた、今までわたしの書いたコメントを読みましたか? まあいいですが、病院が患者を受け入れ拒否せざるを得ないことと、それを正当化することは違う話ですよね、ということです。トリアージは確かに必要な行為だけれど、それは全体最適化の技術論からいって正当である、と言われても、倫理的には問題だということは確かだ、ということです。その意味で、感情的だったりナイーブであることは非難していいことではなく、必要な感覚だ、ということでしょう。こうしたときに合理性を称揚し、倫理的感覚を軽視してしまうことが、一連の議論で問題になっていることの一つなんですが。
http://childdoc.exblog.jp/7140736/
このことはトリアージに携わった医者の方が批判された通りで、福耳先生は、そのナイーブさを否定するような書き方をしたことに対して、申し開きできないことだった、と謝罪しておられるわけです。まあ、だからわたしの読みのすべてが正しいなどとは言いませんが、あの記事においてはそのような批判を受けるものだったことはまあ、否定できないことでしょうと思うのですが。

あ、あと、倫理的に問題がある、というのはトリアージに携わった医者の方や、受け入れ拒否の病院の責任を問うている訳ではない、ということです。責任を問われるべきは、受け入れ拒否については、この国の政治でしょう。

>医療・福祉におけるリソースは無限であってしかるべき
いえ、最低限は確保されるべき、です。どれぐらいが最低限か、という議論はあってしかるべきですが、そこでこそ経営学とかの出番じゃないですかね。

CloseToTheWallCloseToTheWall 2008/08/20 00:33 何度も繰り返していますが、女学生に対する彼の反応は、合理的な判断に対して、感情的、道徳的見地から疑念が呈されたことへの感情的な嫌悪を示しているとわたしは見ます。ここがわたしがもっとも問題だと思っているところです。あなたはその読みを共有しないかも知れませんが、福耳先生は、合理性、理性的な判断、つまりは学問的正当性に基づく結論の妥当性に対して、道徳的見地からの疑念を排除しようとした、これが問題です。

「合理主義に対抗しようとしたらもっと合理主義を徹するしかないのである」とはポルポト記事においての福耳先生の信念です(そして、正義感やら感情論を敵視しております)が、この言葉を聞いて、あれ、わたしは自分が思っていたよりも正しく福耳先生を理解していたのか、と思いましたよ。問題の記事における合理性へのこだわりは、彼の思想にとって核心なのではないか、と。批判派は彼の思想をハッキリと読みとった上で、真っ正面からぶつかっているのではないかと感じています。

hokusyuさんのコメント欄でのsayokさんの立論を思い出してください。彼は優生学の科学的妥当性が正真のものであれば、ホロコーストは正当化されうる、と言います(彼もまた感情論を軽視しています)。これは彼が悪人であるということを示すのではなく、科学的基準による正しさを、最終的な正しさと勘違いすること(政治を隠蔽する、とhokusyuさんが指摘したのはこのことです)でそういう理路になるのです。彼自身は、論理性に従いきわめて真摯にその結論に辿り着いたことでしょう(これがホロコーストの恐ろしさではないでしょうか)。彼の立場からすれば、その結論は必然となってしまうのです。彼は、バイアスにより判断したのではなく、バイアスを排除しようと価値中立的に思考した結果その結論を下さざるを得なかったのでは?(そして、価値中立的であること=正しい、と思いこむことが問題なのです) では、科学的基準ではなく、そこに経済的合理性を代入すればどうなるか。また、逆に不合理な感情や、倫理的正しさをすべてに優先する基準とすればどうなるか。合理性は不合理さによって相対化すべきですし、不合理さは合理性によって相対化すべきではないでしょうか。

もちろん、そこまでの合理性信仰を福耳先生に読みとることに対する批判は甘受しますが、どうなんでしょうねえ。ポルポト記事での「ある種の思想系」の人たちの思考、というのがそのままわれわれの批判そのものなのではないかと思うのですよ。合理性や「理性そのものが野蛮に転化する」というようなホロコースト批判の考え方を、彼は内心敵視しているのではないかなあ、なんて思うんですよね。ホロコーストは、合理性や科学的妥当性が、徹底されなかったから間違っていたのである、とお考えなのじゃないかな。でも、これこそがhokusyuさんの批判点でしょう。これは分かっておられますよね?

グールドの「人間の測りまちがい」などが重要な意味を持つのはこの点でして、IQという基準が正真に妥当であっても、政治的決定とは切り離さなければならない。ここを直結する思考がsayokさんのホロコースト妥当論に結びつくし、福耳先生が批判された点です。

まあ、だいたいここらへんがわたしの最終的な結論になるんですが。

SokalianSokalian 2008/08/20 22:12 >CloseToTheWall様
> そこで説明された「最適配分」からは人権を切り離してはいけない、という現実のルールがすっぽり抜け落ちてしまう、ということです。

「トリアージ」の場では「延命治療を断念してでも人命救助を最優先せよ」という前提が設けられていますが、「トリアージ」における「最適配分」は、「トリアージ」という問題を考えるにあたって設定された「最適配分」にすぎず、何を考える上でもこれが「最適」にあたるわけではありません。将棋において「王様を取ればよい」というルールが将棋を外れたところで通じないのと同じことです。

> 女学生の授業後の感想を、数学の解答欄に書かれたものと取り違えてませんか。

講義においてはまずは人の話を理解することです。批判やその先の考察というのは、相手の主張を理解しない上には成立しません。それを理解しないで感想だけを書くのは「講義の感想」として不適当です。

> あと、フェミニズムなら、性的な話にかんするタブーというのは主要な話題ですよね。正面から取り扱われるべき問題ですが。

そうでしょう?だからもし、「私がそんな話は下品だ」と言えばそれは「ナイーブ」だということになるでしょう?

> IQという基準が正真に妥当であっても、政治的決定とは切り離さなければならない。ここを直結する思考がsayokさんのホロコースト妥当論に結びつくし、福耳先生が批判された点です。

私はあのやりとりについてsayok氏の論が「ホロコースト妥当論」であると言ってしまうのは少しやり過ぎかと思います。弁護すれば、同氏は「科学的妥当性の次元でホロコーストは当時であろうが現代であろうが棄却できる」と考えて反語的表現をしただけではないかと。同氏がそこから先をろくに考えていなかったのは確かでしょうが。

そして、あなたのおっしゃることが至極当たり前であると考えるからこそ、私は福耳氏を擁護したいわけです。福耳氏は「ある仮定」のもとでは「トリアージ」が「最適」であるとしか言っていない。そして、その「ある仮定」には言及していない。福耳氏は「科学的妥当性」のレベルにしか言及していないのだから当然です。そこに「倫理的妥当性」を持ち込んだのはむしろあなた方ではないかと、私はそう言っているのですよ。

CloseToTheWallCloseToTheWall 2008/08/21 01:58 >「トリアージ」の場では「延命治療を断念してでも人命救助を最優先せよ」という前提が設けられていますが、「トリアージ」における「最適配分」は、「トリアージ」という問題を考えるにあたって設定された「最適配分」にすぎず、何を考える上でもこれが「最適」にあたるわけではありません。

それがきちんと前提されていたか、というのが問題だったはずですが。そしてそのことについてのわたしの解釈はすでに述べました。福耳先生は将来福祉業界につくだろう彼女たちに何を最適配分として理解させようとしたか、あなたの考えを聞かせてください。

>講義においてはまずは人の話を理解することです。批判やその先の考察というのは、相手の主張を理解しない上には成立しません。それを理解しないで感想だけを書くのは「講義の感想」として不適当です。

なぜ「理解しない」で、「感想だけ」書いていることが前提なんですか。理解することと感想としてかわいそうだという話が出ることは排他的ではない、ということは繰り返し指摘したはずです。「リアクションペーパー」であって、数学の解答ではないんですが。「不適当」な「リアクション」、って。人を「見殺し」にしなければならないような極限状態を持ってきておいて、当然予想されるナイーブな反応を罵倒することの方が講師として不適当な態度だと思いますが。

>だからもし、「私がそんな話は下品だ」と言えばそれは「ナイーブ」だということになるでしょう?

確かにナイーブかも知れませんが、あなた(人)がそう感じてしまうこと自体が講義のなかで主題として取り上げられる価値のある問題ですよね? フェミニズムや臨床心理(精神分析とかも?)としては。

同じように、トリアージにおいても、感情を無視して良いわけではないし、百貨店では顕在化しなかった、「人権侵害」の問題も罵倒して良い要素ではないと思いますが。そうした感情のマネジメントは経営学には必要ないんですか? 人間を対象にした学問なのに。

>弁護すれば、同氏は「科学的妥当性の次元でホロコーストは当時であろうが現代であろうが棄却できる」と考えて反語的表現をしただけではないかと。

えー。それこそ無理ありますよ。反語というなら、hokusyuさんのそもそものエントリでの「ホロコースト」こそが反語です。

それに、sayok氏の

>逆にいえば、ホロコーストを批判するには優生学の正当性、そしてホロコーストの目的の倫理的正当性および手段の合目的性をどうにかして反証するしかありえないというのが私の主張です。

この記述を考えるに、彼の論理ではホロコーストが批判できなくなるのは至当でしょう。妥当論、というか容認論ですか。どちらでも良いですが。優生学の妥当性と、目的が倫理的で手段が目的に添っていれば、そして極限状態であれば、ホロコーストが許される、と。そうですね、当時の人もそう思っていたからホロコーストは正しかった、と。今から見て間違っていたなんて判断するのなんてバカにもできるんですよ。では、いま、差別を正当化する遺伝学説が現れ〜、となったときにどうやってホロコースト的政策を批判することが出来るのか、という基準が重要なわけです。

>福耳氏は「科学的妥当性」のレベルにしか言及していないのだから当然です。そこに「倫理的妥当性」を持ち込んだのはむしろあなた方ではないかと、私はそう言っているのですよ。

わたしも、あなたの福耳講義読解の部分以外の主張に関しては妥当だと思っています。

>ただ、「緩慢な死を待つよりは犠牲を払え」と言われたとき、状況によっては少なくとも私は反駁する言葉を持ちません。それこそ「ナイーブ」とわかっていても「その考え方は禁止だ」と言い続けることしかできないでしょう。

この感覚とか、やはり大事だと思います。さて、わたしには福耳先生が「科学的妥当性」によってのみ発言したとは考えません。文章全体からして明らかだと思っていますし、福耳先生に同情的な立場からもやはりhokusyuさんの批判は妥当だと仰る方もおられますし、そこはかなりの部分共有されていると思っています。福耳先生は「倫理的妥当性」を否定することで、自身の倫理的態度を図らずも露呈してしまったから、そこが批判の対象になったのです。倫理的妥当性はわれわれが持ち込んだのではない。少なくとも、わたしはそう考えています。そして、トリアージにおいてはそもそも倫理的妥当性を持ち込まないこと自体が問題です。

批判派と擁護派で議論がすれ違う要因のひとつは、福耳先生がただ単に事実言明をしている、とか現実的にそうするしかない、と考えている人にとって、われわれの批判が現実的方策の否定に読まれてしまうことでしょう。しかし、批判派でトリアージをするな、という人はあんまりいない(Toledさんの記事は記事本体よりもむしろ、福耳先生に対するコメントが論旨です)。現実的方策の否定ではなく、それをやらざるをえない原因たる「資源の有限性」を疑うことがないことへの批判なんです。

一点。あの記事において、福祉業界で燃え尽きる人を自己責任論で詰ったことについては現場の人に殴られても仕方ないような悪質さだったと思っています。

ところで、この記事に当の福耳先生がブクマをつけて不思議なことを書いているんですが、あれ、どういう意味なんでしょうね。まさかポルポト記事に反応した文章に全部ああ言っているんじゃないですよね。まあ、批評意図の解釈も、批評としての妥当性の検討も、してないんで、わたしには関係のない話ですが。

SokalianSokalian 2008/08/21 20:39 >CloseToTheWall様

> 福耳先生は将来福祉業界につくだろう彼女たちに何を最適配分として理解させようとしたか、あなたの考えを聞かせてください。

それについて言及できるだけの材料はありません。はっきり言えることは、福耳氏は「全体最適」という思考の「型」を教えたかったということです。

> 人を「見殺し」にしなければならないような極限状態を持ってきておいて、当然予想されるナイーブな反応を罵倒することの方が講師として不適当な態度だと思いますが。

これについては主観的な見解の相違としか言いようがないので、これ以上のお返事は控えます。

> あなた(人)がそう感じてしまうこと自体が講義のなかで主題として取り上げられる価値のある問題ですよね?

話がずれています。私のそういう(仮想的な)反応が「ナイーブ」として評されることは不当か、ということです。

> 反語というなら、hokusyuさんのそもそものエントリでの「ホロコースト」こそが反語です。

だとするとどうしてここまで福耳氏が激しく批判されたのか説明になっていないと思います。

> いま、差別を正当化する遺伝学説が現れ〜、となったときにどうやってホロコースト的政策を批判することが出来るのか、という基準が重要なわけです。

事実記述と価値判断は別物だ、のひとことで終了です。論じるまでもありません。

> 倫理的妥当性はわれわれが持ち込んだのではない。少なくとも、わたしはそう考えています。

だとすると単なる主観的な読解の問題だということですか?

> 一点。あの記事において、福祉業界で燃え尽きる人を自己責任論で詰ったことについては現場の人に殴られても仕方ないような悪質さだったと思っています。

あれを「自己責任論」と読んでしまうのは、それこそ事実記述と価値判断を混同していると思います。実際、同情的な立場であってもああいう台詞は出てくるでしょう。

CloseToTheWallCloseToTheWall 2008/08/21 23:37 レスし忘れていましたが、

>「ある仮定」のもとでは「トリアージ」が「最適」であるとしか言っていない。そして、その「ある仮定」には言及していない。福耳氏は「科学的妥当性」のレベルにしか言及していないのだから当然です。

これ、わたしからすると、あなたの自爆に見えるんですが。その「ある仮定」を明確にしないからこそ叩かれたのだし、福耳先生は現実のトリアージの有効性を語ったのであって、「科学的妥当性」のレベル以上のものに言及しているはずです。あれ、「トリアージ」の有効性が、「科学的妥当性」に含まれるんですか?

>それについて言及できるだけの材料はありません。はっきり言えることは、福耳氏は「全体最適」という思考の「型」を教えたかったということです。

その「全体最適の型」というのは合理的思考の必然としてハイコストなものを切り捨てることが含まれているので、福祉業界でも合理的思考の必然としてハイコストなものを切り捨てよ、そう考えるべきだと福耳先生は講義したと言うことですね。そうでないと考える理由がありません。「ある仮定」を明確化せず、そのままの文脈で福祉業界を語った以上、当然こう読まれますね。

>話がずれています。私のそういう(仮想的な)反応が「ナイーブ」として評されることは不当か、ということです。

ナイーブと評された上でそれは正当です。ナイーブなことを扱う学問なんですから。わたしはナイーブそれ自体は問題にはしません。ただ、ナイーブな判断を持ち込むことを非難する福耳先生の態度を批判しています。

>だとするとどうしてここまで福耳氏が激しく批判されたのか説明になっていないと思います。

あなたのいう「論法の同形性」論法の危うさ、からです。hokusyuさんの文章をどう読んだんですか? その論法でトリアージを引き合いに出しても良いなら、同じくホロコーストも「全体最適」の良い事例になるよ、ということです。福耳先生の論法のまずさを指摘するためにホロコーストを出したのがhokusyuさんであって、では、ホロコーストとトリアージ、及びトリアージと経営学がいかに異なるかを批判派は折に触れて指摘してきたはずですが。相当の留保や前提が必要になるので、安易に例示して良い話じゃないということ、では、福耳先生はその相当の留保や前提をきちんと説明していたかというのが疑問になり、しかし、福耳先生はトリアージを語る際にはきわめて重要な倫理的態度をむしろ非難してしまった(これは前提や留保への無配慮の何よりの証左です)から大批判、という流れだと思います。(あなたも「ある仮定」が説明されていないと認めた訳ですから、異存ありませんね)

どこかわからないところがありますか。

>事実記述と価値判断は別物だ、のひとことで終了です。論じるまでもありません。

???どういうことですか? sayok氏の立論は事実としてそうなる、というだけだということですか? というか、事実を提示することと価値判断を伴うことは排他的ではないし、むしろ伴うことが多いんですが。事実を提示しているように見せかけて価値判断を提示していることの多さったらないですよね。

>だとすると単なる主観的な読解の問題だということですか?

その読解の根拠は提示しました。

>あれを「自己責任論」と読んでしまうのは、それこそ事実記述と価値判断を混同していると思います。実際、同情的な立場であってもああいう台詞は出てくるでしょう。

これは驚愕です。あれが事実記述ですか。どこまで恣意的に読めばそうなるんでしょう。あそこには、福祉業界で燃え尽きるOGが居る、ということだけしか事実らしきものは記されていません。燃え尽きる原因が全体最適の考えがないからだというのは完全な憶測であり、憶測を根拠に非難しているという擁護しようのないものですよ。しかも、福祉業界の経営的不調というのはかなり知られた話なのに、 OGの労働環境への考察が全くなく、社会全体で負担すべき福祉予算の貧弱さ(資源の有限性)という社会的視点もない、典型的な自己責任論の論理で書かれていますが。自己責任論の論理は、社会的視点の排除と個人への責任転嫁です。また、現場の人間こそがその自責の論理(わたしたちのやり方が悪いからだ)に嵌ってしまいやすいからこそ、自己責任論は悪質なんです。同情的な立場から同じ台詞が出てきたところであの発言は少しも相殺されません。

女叩きでない、と言ったときも驚愕しましたが、あなたの読解は過剰に価値判断を切り捨てすぎではないですか? わたしだけでなく、あの記事が女叩きの典型的なものだったことは、かなりの人が認識していたと思います。擁護派の人も。その点で修正前の方が文意はハッキリしていた、というのが結構一致した見解だったと思います(叩くにしろそうでないにしろ)。

あなたの読解とわたし(やそのほかの人も)の読解がどうにもスリあわないのは、ここが原因でしょうか。まあ、もちろんあなたとわたしの主観的相違ともいえますが、あなたの読解はかなり変ではないかと思うんですが。

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