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吾輩は馬鹿である

2008-08-31

beijaflor氏との対話の続き

記事「論法の同型性」論法の危うさ――コメント欄延長 - 吾輩は馬鹿であるおよび期間終了――コメント欄延長 - 吾輩は馬鹿であるのコメント欄でbeijaflor氏との対話を続けてきたが、容量の問題と整理の都合上、こちらでまとめて応答させていただく。

私の返答

個別の合理性には対応した不可分の前提が必要、ということはお互いに同意したということでよろしいですね。

おっしゃるとおりです。

主張したいのは「経営学の大事な概念として合理性がある、この合理性を使ってトリアージの手法を説明できる」ですよね。

おっしゃるとおりです。

トリアージは、経営学でいう『合理性』を持っている」の「経営学でいう」という但し書きは必要なものですか?

私はfuku33さんの主張を正しく理解すると必要になる、と思っていますが、Sokalianさん自身はどうお考えでしょう?

答えにくい質問だと思います。読み手によっては「この『合理性』は経済学上の『合理性』だ」と正しく理解できるという意味では「必要ない」とも言えますし、実際問題として誤解する人がこれだけ多くいるという意味では、結果論として「必要だった」とも言えますし。

たしかにfuku33さんの主張が「「トリアージ」は経営学的思考によって「も」説明がつく」であれば反論する点はなくなりますが、私はfuku33さんが「経営学的思考の有効な例としてトリアージを取り上げた」と思っていますので、反論する箇所はあります。

私はその両者に違いがあるように思えませんが…?

理論の正しさを検証するためには、現実に適用可能なことを帰納的に確かめていくしかありません。

帰納とは・・・「一般的にいって帰納は、あくまでも確率・確度といった蓋然性の導出に留まる。」wikipedia

wikipedia「証明」・・・http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A8%BC%E6%98%8E

私は学者ではないので「そうなのか!」と一瞬信じそうになりましたが、さすがにちょっと間違いですよね。

いえ、あなたのおっしゃることも正しいのですが、私の言うことも正しいと思います。

この話は科学哲学の入門書あたりには必ず書かれていることですが、たとえば「明日太陽が昇る」ということは絶対証明できません。限りなく高い蓋然性を持って「正しい」と言えますが、それ以上のことは言えません。経験科学とはもともとそういうものです。

ただし、科学理論の正しさが「蓋然性」の段階でしか証明できないにせよ、誰しも「進化論は正しい」という言い方を使いますし、同時にそういう言い方をする人が「進化論を上書きする画期的新理論が出現する可能性」を否定しないというのは普通にあることです。

私は「正しさ」という言葉をその意味で使ったつもりです。

トリアージは「正しさについて一定の合意が得られている例」ではありません。

wikipediaのトリアージから議論の項目を参照してください(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%83%BC%E3%82%B8)。

もちろん、反論はあり得ます。ただ、反論はあっても世界の各地で災害時に用いられているということは、「一定の合意が得られている」と言ってよいのではないですか?たとえば、相対性理論にだって反論がないわけではないそうですが(トンデモさんとは別に)、紛れもなく相対性理論は「一定の合意が得られている」理論ですよ。

私は「論理的つながり」の話をしていますので、以上の主張は無視してもよろし

いですね?

では、あの授業でfuku33さんが「ホロコースト」を例としてあげる事も問題ない。

「それは非人道的だ」と生徒が批判したら、「ナイーブ」だ。と判断するわけですね。

あらためて、以上の質問にお答えいただけますか?

誤解されないように補記すれば「「トリアージ」の例示の置き換えとして「ホロコースト」を例として」です。

「論理的つながり」だけに限って話をするのであれば、「ナイーブ」と判断することが妥当か否かにはお答えできません。なぜなら、「講義」という場という前提が既に「著しく誤解を招くような説明は不適切である」という前提を含意しているからです。しかも、「著しく誤解を招く」の定義がまた難しいですし。

beijaflorbeijaflor 2008/09/03 08:16
コメントを分けます。

> 「トリアージは、経営学でいう『合理性』を持っている」の「経営学でいう」という但し書きは必要なものですか?
> 私はfuku33さんの主張を正しく理解すると必要になる、と思っていますが、Sokalianさん自身はどうお考えでしょう?

>答えにくい質問だと思います。読み手によっては「この『合理性』は経済学上の『合理性』だ」と正しく理解できるという意味では「必要ない」とも言えますし、実際問題として誤解する人がこれだけ多くいるという意味では、結果論として「必要だった」とも言えますし。

経営学上の?
応用科学で使われる普遍的概念としての、ではなく?

beijaflorbeijaflor 2008/09/03 08:17 >私はその両者に違いがあるように思えませんが…?

「りんごは赤い」と「赤いのはりんご」の違いです。


>> 私は学者ではないので「そうなのか!」と一瞬信じそうになりましたが、さすがにちょっと間違いですよね。
>いえ、あなたのおっしゃることも正しいのですが、私の言うことも正しいと思います。

Sokalianさんはご自身が「確かめていくしかありません。」とおっしゃったのを覚えていないのでしょうか?
「しかない」は「unless」、それ以外の方法はない、という事ですよね。
私の提示した「証明方法にはいくつも方法がある」という主張とはどうがんばっても相容れないと思いますけど。

上に続くパラグラフに関して、Sokalianさんの言う正しさを否定するつもりはないですが応用科学の正しさを論じているときに、科学の「反証可能性」の話を持ち出して「科学哲学」レベルの正しさを主張されても困ります。


>もちろん、反論はあり得ます。ただ、反論はあっても世界の各地で災害時に用いられているということは、「一定の合意が得られている」と言ってよいのではないですか?

私は「実際に用いられていること」が「一定の合意が得られている」とする理由になるとは思いません。
それに「論に対する反論」と「手法に対する反論」は同じようには比べられないと思います。


>たとえば、相対性理論にだって反論がないわけではないそうですが(トンデモさんとは別に)、紛れもなく相対性理論は「一定の合意が得られている」理論ですよ。

私は学者ではないので知りませんでした。相対性理論にもキチンとした形の反論が系統だって存在しているんですね。「反証可能性」の面から不思議なことではないと思います。ただ反論がある、というだけではSokalianさんの意見を補足するには弱いと思います(反論だけならどんな形でも可能ですし)。すみませんが、それは具体的にどのようなものなのでしょう?
また、それはトリアージに対する反論(というか問題点の指摘、反対しているわけではないし)のように、相対性理論自体の合理性や適切性に対する根本的な疑義なのでしょうか?


>「論理的つながり」だけに限って話をするのであれば、「ナイーブ」と判断することが妥当か否かにはお答えできません。なぜなら、「講義」という場という前提が既に「著しく誤解を招くような説明は不適切である」という前提を含意しているからです。しかも、「著しく誤解を招く」の定義がまた難しいですし。

お答えいただけないということなので質問を変えます。
「ホロコースト」ではなく「トリアージ」であれば、「「論理的つながり」だけに限って話をしても、「ナイーブ」と判断することが妥当」という主張に変わりはありませんか?

SokalianSokalian 2008/09/04 00:48 > 経営学上の?
> 応用科学で使われる普遍的概念としての、ではなく?

えーと、経営学上で「合理的」であれば、もっと広い枠組みでも「合理的」だというつもりでした。

> 「りんごは赤い」と「赤いのはりんご」の違いです。

すみません、そのように読めるとお考えの理由がわかりません。

> 私の提示した「証明方法にはいくつも方法がある」という主張とはどうがんばっても相容れないと思いますけど。

すみません、これも、何が「証明方法にはいくつも方法がある」という風に読めるのかわかりません。

> 私は「実際に用いられていること」が「一定の合意が得られている」とする理由になるとは思いません。

だとすればそれは「一定の合意」という言葉の定義の違いかと思います。私は「圧倒的多数が、程度の差はあれ認めている」程度の意味で使っていました。

> また、それはトリアージに対する反論(というか問題点の指摘、反対しているわけではないし)のように、相対性理論自体の合理性や適切性に対する根本的な疑義なのでしょうか?

私にとっても専門外なので余り正確なことは述べられませんが、何をもって「根本的な疑義」というかに依存すると思います。少なくとも、「相対論は近似理論に過ぎない」という意味の反論なら、提唱当時から常に出続けていると思います。つまり、近似的な正しさは誰もが認めていても、厳密に正しい最終形かどうかについては議論があり得る(ただし、専門家にとっても意味のある議論かかなり微妙な線上で)ということのようです。
余り信用しないでください。私も概説レベルの知識しかありませんので。

>「ホロコースト」ではなく「トリアージ」であれば、「「論理的つながり」だけに限って話をしても、「ナイーブ」と判断することが妥当」という主張に変わりはありませんか?

これも同様で、「ナイーブ」という判断は「論理的つながり」だけからは出てこないと思います。ただ、これは「ホロコースト」の場合よりははるかに容易に「ナイーブ」との判断を肯定できると私は思います。

beijaflorbeijaflor 2008/09/04 23:36 >> 経営学上の?
>> 応用科学で使われる普遍的概念としての、ではなく?
>えーと、経営学上で「合理的」であれば、もっと広い枠組みでも「合理的」だというつもりでした。

「その筋で言う「合理性」は日常用語の「合理性」よりもずっと意味が狭くて厳密なのです。」じゃなかったんですか?

fuku33さんが説明したかったのは

・日常用語の「合理性」よりもずっと意味が狭くて厳密な、その筋で言う「合理性」
・広い枠組みでも「合理的」な「合理性」

以上のどちらだとお考えですか?
Sokalianさんは1番目だと認識していると思っていました。
それとも、上記の2つ以外ですか?

beijaflorbeijaflor 2008/09/04 23:36 >> 「りんごは赤い」と「赤いのはりんご」の違いです。
>すみません、そのように読めるとお考えの理由がわかりません。

トリアージ−>りんご、経営学的思考−>赤い、と単純に単語を置き換えただけです。

「「りんご」は赤いによって「も」説明がつく」
「赤いの有効な例としてりんごを取り上げた」


>> 私の提示した「証明方法にはいくつも方法がある」という主張とはどうがんばっても相容れないと思いますけど。
>すみません、これも、何が「証明方法にはいくつも方法がある」という風に読めるのかわかりません。

あぁ、確かに私の主張はそれじゃないですね。
「今回のケースでは蓋然性以上の事を証明するのに帰納式は有効ではなく、それ以外にも証明方法はある」です。
で、wikipediaの「証明」の項目を見れば、いくつもの証明方法が書いてありますよ、と。

どちらにしろ、私の主張は「証明方法にはいくつも方法がある」なので、Sokalianさんのいう「どちらも正しい」は、今話している議論のレイヤーでは間違いです。


>> 私は「実際に用いられていること」が「一定の合意が得られている」とする理由になるとは思いません。
>だとすればそれは「一定の合意」という言葉の定義の違いかと思います。私は「圧倒的多数が、程度の差はあれ認めている」程度の意味で使っていました。

私の「一定の合意」の定義も同じですよ?
なぜ、「実際に用いられていること」=「圧倒的多数が、程度の差はあれ認めている」になるのかが分かりません。


>> また、それはトリアージに対する反論(というか問題点の指摘、反対しているわけではないし)のように、相対性理論自体の合理性や適切性に対する根本的な疑義なのでしょうか?
>私にとっても専門外なので余り正確なことは述べられませんが、何をもって「根本的な疑義」というかに依存すると思います。少なくとも、「相対論は近似理論に過ぎない」という意味の反論なら、提唱当時から常に出続けていると思います。つまり、近似的な正しさは誰もが認めていても、厳密に正しい最終形かどうかについては議論があり得る(ただし、専門家にとっても意味のある議論かかなり微妙な線上で)ということのようです。
>余り信用しないでください。私も概説レベルの知識しかありませんので。

「ただし、専門家にとっても意味のある議論かかなり微妙な線上で」の疑義は「根本的な疑義」になりえるんですか?
これって「トリアージ」に置き換えたら、大きくみつもっても「ガイドラインには改善の余地がある」レベルの疑義だと思いますけど。


>>「ホロコースト」ではなく「トリアージ」であれば、「「論理的つながり」だけに限って話をしても、「ナイーブ」と判断することが妥当」という主張に変わりはありませんか?
>これも同様で、「ナイーブ」という判断は「論理的つながり」だけからは出てこないと思います。

「論理的つながり」の説明をしている事を理解せずに、別の視点からの意見を述べたから「ナイーブ」と言ったとSokalianさんは主張していたと思っていましたが。。。
「だけからは出てこない」のなら、何をもってfuku33さんは学生を「ナイーブ」と表現したとお考えですか?


>ただ、これは「ホロコースト」の場合よりははるかに容易に「ナイーブ」との判断を肯定できると私は思います。

なぜですか?
というか、どういった論法で?

SokalianSokalian 2008/09/05 02:16 >>えーと、経営学上で「合理的」であれば、もっと広い枠組みでも「合理的」だというつもりでした。
> 「その筋で言う「合理性」は日常用語の「合理性」よりもずっと意味が狭くて厳密なのです。」じゃなかったんですか?

もちろんその通りですよ。たとえば、物理学的に正しいことはほぼ全て数学的にも正しいはずで、その意味で経営学的に合理的なことは応用数学の枠組みでも合理的です。そういう意味なので、これも『日常用語の「合理性」よりもずっと意味が狭くて厳密な、その筋で言う「合理性」』であることには変わりがありません。

> トリアージ−>りんご、経営学的思考−>赤い、と単純に単語を置き換えただけです。
> 「「りんご」は赤いによって「も」説明がつく」
> 「赤いの有効な例としてりんごを取り上げた」


だとすると、後者は「赤いのはりんご」ではないはずです。なぜなら、「赤いのはりんご」というのは「赤いものはりんごに限る」ということですが、「赤いの有効な例として」はたとえば「トマトが赤い」ことを排除していません。

> どちらにしろ、私の主張は「証明方法にはいくつも方法がある」なので、Sokalianさんのいう「どちらも正しい」は、今話している議論のレイヤーでは間違いです。

いや、他の方法はないと思います。少なくとも、Wikipediaに挙げられた範囲では。
なぜなら、「トリアージ」は机上の空論ではなく現実上の施策なので、机上で議論する際に抜け落ちがなかったこと、あるいは論理的に妥当なことは倫理的にも妥当であるかどうかということなど、実例の検証を通して帰納的に類推するしかないことがいくつも含まれているからです。

> なぜ、「実際に用いられていること」=「圧倒的多数が、程度の差はあれ認めている」になるのかが分かりません。

「実際に用いられている」というよりは「実際に『広く』用いられている」、ですね。そして、実際上の施策としてあるものを認めないということは他にもっと有効な代替案があることを含意するでしょうし、また、災害のあとトリアージが行われたことについて報道されても、その後大きな議論が起こるということは寡聞にして存じません。

> 「ただし、専門家にとっても意味のある議論かかなり微妙な線上で」の疑義は「根本的な疑義」になりえるんですか?
> これって「トリアージ」に置き換えたら、大きくみつもっても「ガイドラインには改善の余地がある」レベルの疑義だと思いますけど。

トリアージに対してそれ以上の疑義が出る余地はない(少なくとも、具体的に有効な疑義が出ていない)と私は理解していましたが、いかがでしょうか?

> 「論理的つながり」の説明をしている事を理解せずに、別の視点からの意見を述べたから「ナイーブ」と言ったとSokalianさんは主張していたと思っていましたが。。。

それはその通りです。しかし、「論理的つながり」として、「理解していない学生はナイーブである」というのは価値判断抜きには出てこないのではないでしょうか。

> 「だけからは出てこない」のなら、何をもってfuku33さんは学生を「ナイーブ」と表現したとお考えですか?

当然理解できて然るべきこと、そして理解できると求められ期待されていることに対し、理解すること自体を拒否するような思考停止的な反応が返ってきたこと、だと思います。
>>ただ、これは「ホロコースト」の場合よりははるかに容易に「ナイーブ」との判断を肯定できると私は思います。
> なぜですか?
> というか、どういった論法で?

上記のように、「論法」では無理だと思います。何かがナイーブであるかどうかの判断には当然価値判断を含みますから。

gruza03gruza03 2008/09/05 02:19 私(gruza03=保守系左派)は、この「トリアージ論争」が「論争」に値するものであったのかどうか。論争ではなく「喧騒」にすぎなかったのかのではないかと疑念を持っています。HALTANさんへ向かったものは「論争」or「喧騒」?すら確認できていません。
当初から議論の呈をなしていなかったものを一生懸命理論だて正当性をアピールしているに過ぎません。
「絶対的正義(善)」を振りかざす行為が正当化される社会環境が醸成されるプロセス解明と対処。それに対する嫌悪感といったらよいのかを共有しているがゆえに、このように皆さんたちと語り合えることは貴重なことですから、あまり品の無い言葉が飛び交うのは寂しいことだと思うのです。
Sokalianさんに対して質疑がありますが、本来それはSokalianさんに質疑する前に、自分たちの間で、整理されていなければならないことを放棄し、ぶつけているに過ぎません。ですからAに対する質疑応答が、B・C側から異論提起されるのです。
これらにSokalianさんがいちいち答える義務はありませんし、A・B・C等それぞれへの質疑応答によって混乱が生じ齟齬が生じてもなんら過失があるとは考えられないからです。
大山十五世名人の言葉で「私は将棋指しだからすべてを将棋に当てはめて考える」があります。
それぞれ大なり小なり自らが置かれている社会・環境・経験に当てはめて認識(確認)作業を行っていますから、それぞれの置かれている社会等を考慮しつつ差異を埋めていかなければならないと思います。

SokalianSokalian 2008/09/06 07:46 私はbeijaflor氏の態度に不満を感じることはありませんが、おっしゃることには総論として同意したくなる面もあります。とくにこの箇所です。

> 私(gruza03=保守系左派)は、この「トリアージ論争」が「論争」に値するものであったのかどうか。論争ではなく「喧騒」にすぎなかったのかのではないかと疑念を持っています。HALTANさんへ向かったものは「論争」or「喧騒」?すら確認できていません。
当初から議論の呈をなしていなかったものを一生懸命理論だて正当性をアピールしているに過ぎません。
> 「絶対的正義(善)」を振りかざす行為が正当化される社会環境が醸成されるプロセス解明と対処。それに対する嫌悪感といったらよいのかを共有しているがゆえに、このように皆さんたちと語り合えることは貴重なことですから、あまり品の無い言葉が飛び交うのは寂しいことだと思うのです。

正直、HALTAN氏の言動に不適切な点がなかったとは思いませんが、あれだけ言いたい放題言われれば腹が立つのは当たり前で、腹を立てた上での言動を本筋から離れたところであげつらわれればますます頭に来るのも当然だと思います。
そんな不毛な戦いの末、仮にHALTAN氏を屈服させても、誰も何も得るものはありません。
最近私に対して向けられる矛先もそうで、私自身の言動の些細な点をあげつらうもので、要するに私を挑発するだけ挑発して怒らせてから、それを鬼の首を取ったように言い立てるものです。私を貶めたところで、福耳氏への批判の不当性が和らぐことはないのに。

ただし、反論の質がどんどんひどいものになっていくことから確信できることがあるとすれば、私を罵倒する人間は、福耳氏を批判する根拠を、結局は自分自身の思いこみ以外に持ち合わせていなかったということです。
結局彼らは、主張の根幹である「福耳氏は経営学にトリアージを導入しようとした」「福耳氏はミソジニー」という読解を、主観以外の点から実証することができないのです。少なくとも私にはこれらの読解が邪推の極みにしか見えないわけですが、彼らは結局そういう人間を「あたまがわるい」ということしかできないのです。

> それぞれ大なり小なり自らが置かれている社会・環境・経験に当てはめて認識(確認)作業を行っていますから、それぞれの置かれている社会等を考慮しつつ差異を埋めていかなければならないと思います。

そうだと思うのですよね。そして、福耳氏が書いた文章は、ある程度経営学の文脈を共有している人に向けて書かれたものですから、当然その文脈で読まれるべきものでしかないわけで。

beijaflorbeijaflor 2008/09/10 23:49 >もちろんその通りですよ。たとえば、物理学的に正しいことはほぼ全て数学的にも正しいはずで、その意味で経営学的に合理的なことは応用数学の枠組みでも合理的です。そういう意味なので、これも『日常用語の「合理性」よりもずっと意味が狭くて厳密な、その筋で言う「合理性」』であることには変わりがありません。

1.経営学の合理性
2.応用数学の合理性
3.一般的な合理性

1、2と3を分かつものがあるのは分かりましたが、1と2は一緒ですか?違う?
違うのだとしたら経営学の合理性と他分野の応用数学の合理性の差異を決定するのは何なんですか?


>> トリアージ−>りんご、経営学的思考−>赤い、と単純に単語を置き換えただけです。
>> 「「りんご」は赤いによって「も」説明がつく」
>> 「赤いの有効な例としてりんごを取り上げた」
>だとすると、後者は「赤いのはりんご」ではないはずです。なぜなら、「赤いのはりんご」というのは「赤いものはりんごに限る」ということですが、「赤いの有効な例として」はたとえば「トマトが赤い」ことを排除していません。

では、「りんごには赤いのもある」と「赤いのは、たとえばりんご」でよいでしょうか?
違いを指摘しているだけなので。
この2つの文章の意味が違うことには同意されますか?


>いや、他の方法はないと思います。少なくとも、Wikipediaに挙げられた範囲では。
>なぜなら、「トリアージ」は机上の空論ではなく現実上の施策なので、机上で議論する際に抜け落ちがなかったこと、あるいは論理的に妥当なことは倫理的にも妥当であるかどうかということなど、実例の検証を通して帰納的に類推するしかないことがいくつも含まれているからです。

レイヤーが違います。fuku33さんが説明しようとしていたのは経営学でしょう?
トリアージの有効性に関しては帰納的に確かめる事(というか事後検証)が必要なのはわかりますが、Sokalianさんは経営学の概念の検証の話のときに「帰納的に確かめるしかない」と主張したのです。だから、「まさか間違いですよね?」と確認したわけです。


>> なぜ、「実際に用いられていること」=「圧倒的多数が、程度の差はあれ認めている」になるのかが分かりません。
>「実際に用いられている」というよりは「実際に『広く』用いられている」、ですね。そして、実際上の施策としてあるものを認めないということは他にもっと有効な代替案があることを含意するでしょうし、また、災害のあとトリアージが行われたことについて報道されても、その後大きな議論が起こるということは寡聞にして存じません。

『広く』が付いても、「実際に『広く』用いられている」=「圧倒的多数が、程度の差はあれ認めている」となるとは思えません。
また、

>実際上の施策としてあるものを認めないということは他にもっと有効な代替案があることを含意するでしょうし、

こちらにも全面的には同意できません。
「中絶」や「軍事介入」などを「絶対認めない」という人は一定数いると思いますが、彼らが有効な代替案を持っているわけではありません。


>> これって「トリアージ」に置き換えたら、大きくみつもっても「ガイドラインには改善の余地がある」レベルの疑義だと思いますけど。
>トリアージに対してそれ以上の疑義が出る余地はない(少なくとも、具体的に有効な疑義が出ていない)と私は理解していましたが、いかがでしょうか?

「しかし「助かりそうにない患者」と「助かりそうな患者」を判別できるとは誤魔化しであるという批判も存在する。そのような診断、判定は往々にして、自己成就予言的なものではないかというものである。」
「また、トリアージは野戦病院でいかに早く軽傷者を前線に再投入するかという発想であり、平時の救急医療にはなじまないという批判も存在する。」

wikipediaから、以上の2つでは足りませんか?
「疑義が有るか無いか」の話をしているので、主張自体の妥当性は論じておりません。


>> 「論理的つながり」の説明をしている事を理解せずに、別の視点からの意見を述べたから「ナイーブ」と言ったとSokalianさんは主張していたと思っていましたが。。。
>それはその通りです。しかし、「論理的つながり」として、「理解していない学生はナイーブである」というのは価値判断抜きには出てこないのではないでしょうか。
>> 「だけからは出てこない」のなら、何をもってfuku33さんは学生を「ナイーブ」と表現したとお考えですか?
>当然理解できて然るべきこと、そして理解できると求められ期待されていることに対し、理解すること自体を拒否するような思考停止的な反応が返ってきたこと、だと思います。
>>>ただ、これは「ホロコースト」の場合よりははるかに容易に「ナイーブ」との判断を肯定できると私は思います。
>> なぜですか?
>> というか、どういった論法で?
>上記のように、「論法」では無理だと思います。何かがナイーブであるかどうかの判断には当然価値判断を含みますから。

どうどう巡りになっていますが、、、

1.トリアージを一般論の例にするのは倫理的に問題があるという意見がある。
2.もしそうだとしても、今回の例は「論理的つながり」の話をしているので、倫理的な問題は関係ない。
3.論理の枠組みの話をしているのに、倫理的な話をして感情的な意見を言うのはナイーブだ。

こういう風に言ってらっしゃるんですよね?で、

4.倫理的な問題が関係ないなら、トリアージだろうがホロコーストだろうが合理的という意味では一緒ではないか?

以上のように私がたずねた質問への回答が以下です。

5.ホロコーストは例に出すには倫理的な問題がある。

それを受けて、

6.先にトリアージは倫理的な問題は“関係ない”、といっているのに、ホロコーストでは倫理的に却下するのは何故?

とお尋ねしているのです。

以上を踏まえた上で、1〜3、5で私の認識が間違っているのであればご指摘ください。
4、6の私の質問の意味が伝わっていなかったのであれば、大変失礼しました。以上の意味なので、それに対してお答えください。

beijaflorbeijaflor 2008/09/10 23:49 以下は私の態度表明ですので、私の理解に間違いが無ければ返信不要です。

>私はbeijaflor氏の態度に不満を感じることはありませんが、おっしゃることには総論として同意したくなる面もあります。とくにこの箇所です。

私にはgruza03さんの意見がよく理解できないのですが、「HALTANさんとその周辺にあったのは論争以前の物であって、それをどうこう言う意義なんてない」って言うことでしょうか。なら同意ですけど、もし「fuku33さんを発端とする」であれば、ちょっと無茶かなぁ。
あった、なかった、という話であれば議論はありましたし、「私はどれにも論争という程の価値を感じない」だけであれば、理由が無ければただの意見表明でしかありません。
ちなみに、HALTANさんとその周辺とのやり取りは私も見ていたのですが、特に内容も無く、興味をそそられるような物でもなかったので、正直どうでもいいです。あの議論を前提にSokalianさんとやり取りしているつもりもありません。

私が興味があるのは、Sokalianさんが「トリアージ批判」とした対象とその理由、「粗雑な理論」という指摘とその対象、Sokalianさんの対応が“私には”一貫性が無いようにしか見えない理由、です。

なのでgruza03さんの意見が私宛のものだとしたら大変的外れなものですし、違うのであればSokalianさんの私の名前を引き合いに出して「同意したくなる」という態度はどうかと思いますよ。

>最近私に対して向けられる矛先もそうで、私自身の言動の些細な点をあげつらうもので、要するに私を挑発するだけ挑発して怒らせてから、それを鬼の首を取ったように言い立てるものです。私を貶めたところで、福耳氏への批判の不当性が和らぐことはないのに。

ましてや以上のように結論付ける文章の枕で私の名前を出されるのは、私がそういう事をしていると誤解される元になりかねませんので、大変残念です。

SokalianSokalian 2008/09/11 00:54 まず、私がgruza03氏に同意した部分については、
「もしあなたがbeijaflor氏に対して『議論の呈をなしていなかったものを一生懸命理論だて正当性をアピールしている』という評価をお持ちならそこには同意しないが、それ以外の点に関しては一般論として同意する」
というつもりの意味でした。本エントリがbeijaflor氏の名前を冠しているために誤解を与えないための断り書きだったのですが、却って誤解を招いてしまったようです。申し訳ありませんでした。

>経営学の合理性と他分野の応用数学の合理性の差異を決定するのは何なんですか?

応用数学の方が一般論に近いため、経営学に比べて許容範囲が広い、ということです。これは、たとえば「文法的に正しい文章」と「論理的に正しい文章」の違いを思い浮かべてみればおわかりになるかと。

>> トリアージ−>りんご、経営学的思考−>赤い、と単純に単語を置き換えただけです。
>では、「りんごには赤いのもある」と「赤いのは、たとえばりんご」でよいでしょうか?

「りんごには赤いのもある」と「赤いのは、たとえばりんご」の2つが違うことには同意します。

> レイヤーが違います。fuku33さんが説明しようとしていたのは経営学でしょう?
> トリアージの有効性に関しては帰納的に確かめる事(というか事後検証)が必要なのはわかりますが、Sokalianさんは経営学の概念の検証の話のときに「帰納的に確かめるしかない」と主張したのです。だから、「まさか間違いですよね?」と確認したわけです。

いや、経営学も純論理的なものではないので帰納的に確かめるしかないとは思いますが、ただし一つ断っておきますと、福耳氏は経営学のある概念(「最適性」)を「証明」しようとした訳ではないはずです。なぜなら、「最適性」とは単なる「言葉の定義」であって「主張」ではないから、そもそも「証明」ができる性質のものではないからです。

>『広く』が付いても、「実際に『広く』用いられている」=「圧倒的多数が、程度の差はあれ認めている」となるとは思えません。

では、それは認識の相違点ですね。

>「中絶」や「軍事介入」などを「絶対認めない」という人は一定数いると思いますが、彼らが有効な代替案を持っているわけではありません。

となれば、その「絶対認めない」は、倫理的な問題としての「絶対認めない」であって、政治判断としての「絶対認めない」ではないはずです。政治判断としては、「何かをしなければならない」という制約が付いているので、代替案なく「認めない」ということがそもそもルール違反だからです。
そして、災害時に「トリアージを認めない」と主張して重傷者を見殺しにするのはそれこそ大多数の人が「絶対に認めない」ところでしょう。災害時に「代替案はないが、絶対に認めない」という意思表示はそれ自体が反倫理的なのです。

>wikipediaから、以上の2つでは足りませんか?
>「疑義が有るか無いか」の話をしているので、主張自体の妥当性は論じておりません。

以上のことから、これらが有効な「疑義」とは思えません。実用上の問題における「疑義」というからには、他に代替案が出てしかるべきだからです。ちなみに、「判別できるとは誤魔化し」という点については、最近のトリアージ導入事例での事後検証では「そのような問題はなかった」とされているようですし、また判別のための技術の向上も今後期待できると思います。

>1.トリアージを一般論の例にするのは倫理的に問題があるという意見がある。
>2.もしそうだとしても、今回の例は「論理的つながり」の話をしているので、倫理的な問題は関係ない。
>3.論理の枠組みの話をしているのに、倫理的な話をして感情的な意見を言うのはナイーブだ。
>4.倫理的な問題が関係ないなら、トリアージだろうがホロコーストだろうが合理的という意味では一緒ではないか?
>5.ホロコーストは例に出すには倫理的な問題がある。
>6.先にトリアージは倫理的な問題は“関係ない”、といっているのに、ホロコーストでは倫理的に却下するのは何故?
>とお尋ねしているのです。

5.のようにお答えしたのは、4.の時点で「教育の場で」という限定が付いたからです。その時点で「倫理的な問題は関係ない」という前提が取れてしまうからです。
あと、3.については少し反論があって、「倫理的な話をして」ということではないと私は思っています。「かわいそう」という感想は「トリアージには倫理的な問題がある」という指摘になっていないし、「かわいそうであることは倫理的に問題があるということだ」などとは言えないと思います。

beijaflorbeijaflor 2008/09/11 23:59 >本エントリがbeijaflor氏の名前を冠しているために誤解を与えないための断り書きだったのですが、却って誤解を招いてしまったようです。申し訳ありませんでした。

あぁ、了解しました。そうであれば私の誤読ですね。失礼しました。


>>経営学の合理性と他分野の応用数学の合理性の差異を決定するのは何なんですか?
>応用数学の方が一般論に近いため、経営学に比べて許容範囲が広い、ということです。これは、たとえば「文法的に正しい文章」と「論理的に正しい文章」の違いを思い浮かべてみればおわかりになるかと。

これは1.と2.の差異ですよね?
例に挙げた文章における「文法的」と「論理的」は、合理性の場合は具体的に何に該当するのですか?

また、私がお尋ねしているのは、経営学の合理性と“他分野の応用数学”の合理性の差異、です。
そちらもご提示いただけませんか?


>「りんごには赤いのもある」と「赤いのは、たとえばりんご」の2つが違うことには同意します。

ということですので、

====
>>たしかにfuku33さんの主張が「「トリアージ」は経営学的思考によって「も」説明がつく」であれば反論する点はなくなりますが、私はfuku33さんが「経営学的思考の有効な例としてトリアージを取り上げた」と思っていますので、反論する箇所はあります。

>私はその両者に違いがあるように思えませんが…?

>> 「りんごは赤い」と「赤いのはりんご」の違いです。

>すみません、そのように読めるとお考えの理由がわかりません。
====

私のあげた2つの違いはご理解いただけましたね?
その上で、fuku33さんの主張は「「トリアージ」は経営学的思考によって「も」説明がつく」だ、とおっしゃる。


>いや、経営学も純論理的なものではないので帰納的に確かめるしかないとは思いますが、ただし一つ断っておきますと、福耳氏は経営学のある概念(「最適性」)を「証明」しようとした訳ではないはずです。なぜなら、「最適性」とは単なる「言葉の定義」であって「主張」ではないから、そもそも「証明」ができる性質のものではないからです。

ん?よく分かりませんが。
純論理的でない学問の理論はすべて帰納的に確かめるしかない。と主張しておられます?
私が引用したwikipediaの証明の項や帰納の項は、純論理的な学問でしか通用しない、と?

私は「fuku33さんが「経営学のある概念(「最適性」)を「証明」」しようとしている」とは言っていません。
「経営学のある概念を説明するために例としてトリアージあげた」と言っているんです。

しかし、Sokalianさんの言った、「「トリアージ」は経営学的思考によって「も」説明がつく」という発言を素直に受け取ると「経営学における最適性という概念を使ってトリアージを説明して見せた」としか理解できません。そして、あの文脈(経営学の説明をしている場面)ではSokalianさんの受け取り方はおかしくないですか?と言っているんです。

もし「純論理的でない学問の理論はすべて帰納的に確かめるしかない」のであればSokalianさんの受け取り方はおかしくないですけれど、私はそれをにわかには信じられないんです。

>>『広く』が付いても、「実際に『広く』用いられている」=「圧倒的多数が、程度の差はあれ認めている」となるとは思えません。
>
>では、それは認識の相違点ですね。
>
>>「中絶」や「軍事介入」などを「絶対認めない」という人は一定数いると思いますが、彼らが有効な代替案を持っているわけではありません。
>
>となれば、その「絶対認めない」は、倫理的な問題としての「絶対認めない」であって、政治判断としての「絶対認めない」ではないはずです。政治判断としては、「何かをしなければならない」という制約が付いているので、代替案なく「認めない」ということがそもそもルール違反だからです。
>そして、災害時に「トリアージを認めない」と主張して重傷者を見殺しにするのはそれこそ大多数の人が「絶対に認めない」ところでしょう。災害時に「代替案はないが、絶対に認めない」という意思表示はそれ自体が反倫理的なのです。
>
>>wikipediaから、以上の2つでは足りませんか?
>>「疑義が有るか無いか」の話をしているので、主張自体の妥当性は論じておりません。
>
>以上のことから、これらが有効な「疑義」とは思えません。実用上の問題における「疑義」というからには、他に代替案が出てしかるべきだからです。ちなみに、「判別できるとは誤魔化し」という点については、最近のトリアージ導入事例での事後検証では「そのような問題はなかった」とされているようですし、また判別のための技術の向上も今後期待できると思います。

私は「(倫理的に)圧倒的多数が、程度の差はあれ認めている」かどうかの話をしていました。
「実際に『広く』用いられている」=「(政治的に)圧倒的多数が、程度の差はあれ認めている」という事に異論はありません。
という事はトリアージは「(政治的に)正しさについて一定の合意が得られている例」だからfuku33さんが授業で取り上げるのは自然だ、という主張なんですね。

で、上で私が繰り広げていたのはトリアージは「(倫理的に)正しさについて一定の合意が得られている例」ではない、という事です。
そして、たとえ「政治的」に正しくとも「倫理的」に正しくないかもしれない物を、経営学の例示としてとりあげるのは問題ではないでしょうか?
倫理的に正しくないかもしれない事に気づいていないとしたら、教育者としてはかなりうかつですし、知っていてやっているとしたらそれは大問題だと思います。


>5.のようにお答えしたのは、4.の時点で「教育の場で」という限定が付いたからです。その時点で「倫理的な問題は関係ない」という前提が取れてしまうからです。

えっと、fuku33さんが話していたのは大学の講義中ではありませんでしたっけ?
それを前提にして話をしているんですから「「教育の場で」という限定が付いた」のは一番最初からで4.からじゃないです。

もし「トリアージが倫理的に問題あれば」「大学の講義でトリアージを取り上げたfuku33さんは問題である」という事には同意されるんですね?


>あと、3.については少し反論があって、「倫理的な話をして」ということではないと私は思っています。「かわいそう」という感想は「トリアージには倫理的な問題がある」という指摘になっていないし、「かわいそうであることは倫理的に問題があるということだ」などとは言えないと思います。

たしかに「かわいそう」だけでは問題点の指摘にはなっていないですね。それには同意です。
しかし、fuku33さんは同時に「そんな重傷者をもう助けないなんてレッテルを貼るなんて、人権侵害じゃないですか?」というコメントも提示している。
これは立派な「倫理的な問題点の提示」だと思いますけど、いかがでしょうか?

gruza03gruza03 2008/09/12 06:43 >「政治的」に正しくとも「倫理的」に正しくないかもしれない物を、経営学の例示としてとりあげるのは問題ではないでしょうか?

倫理的に正しくないかもしれない事に気づいていないとしたら、教育者としてはかなりうかつですし、知っていてやっているとしたらそれは大問題だと思います。

トリアージが倫理的に問題あれば」「大学の講義でトリアージを取り上げたfuku33さんは問題である」という事には同意されるんですね?

beijaflorさんへ

「今回のトリアージ騒動が起きたときから疑問なのですが、たかが「大学の講義」でこれだけ騒いでいますが、「トリアージ予算」発言は現実の長野県民220万に対する行為(政治的決定)なのですが、田中前知事や民主党左リベ(五十嵐教授等)のグループに対してはなにも発言はおきないんですね。「政治的」に正しくとも「倫理的」に正しくないかもしれない用語を、予算承認の例示としてとりあげるのは問題ではないのでしょうね?

「なんとなくクリスタル」的または意図的に使用するのは、政治家としてはかなりうかつですし、知っていてやっているとしてもそれを大問題だと思わないんですよね。

SokalianSokalian 2008/09/13 02:01 >beijaflor様
>例に挙げた文章における「文法的」と「論理的」は、合理性の場合は具体的に何に該当するのですか?

つまり、それぞれ「応用数学」と「経営学」です。経営学的に正しいものは数学的にも正しいでしょうが、逆は必ずしも真ならず、という包含関係を言っているのです。

>また、私がお尋ねしているのは、経営学の合理性と“他分野の応用数学”の合理性の差異、です。

他分野「としての」応用数学について私はお答えしたつもりです。他分野「における」応用数学という意味でしょうか?だとすれば、そもそも「対象が違う」という答えになります。

>その上で、fuku33さんの主張は「「トリアージ」は経営学的思考によって「も」説明がつく」だ、とおっしゃる。

そうです。「経営学的思考によって説明が付くものはトリアージである」とは誰も言っていないことにご注意下さい。

>純論理的でない学問の理論はすべて帰納的に確かめるしかない。と主張しておられます?

少なくとも大ざっぱにはそうです(もしかしたら私が見落としている例外があるかもしれません)。

>私が引用したwikipediaの証明の項や帰納の項は、純論理的な学問でしか通用しない、と?

いや、その議論は一般的に正しいのです。だからこそ、純論理的でない学問の正統性はそのように多かれ少なかれ「蓋然的」なものでしかないものの上に成り立っていることはご承知いただきたいということです。

>という事はトリアージは「(政治的に)正しさについて一定の合意が得られている例」だからfuku33さんが授業で取り上げるのは自然だ、という主張なんですね。

そうですね。といいますか、経営学(に限らず実学)の問題意識では、倫理的な観点も政治的な観点も二義的なもので、一般的に「同意が得られている」とされるものは、それ以上の問題は他分野にゆだね、ひとまず認めることにするのが普通のやり方です。

>えっと、fuku33さんが話していたのは大学の講義中ではありませんでしたっけ?
>それを前提にして話をしているんですから「「教育の場で」という限定が付いた」のは一番最初からで4.からじゃないです。

だとしたら、ホロコーストを例に出すのはよろしくないですね。ホロコーストは「ほぼ間違いなく正しい」と思われるトリアージと違い、「絶対に正しくないと断言できる」という例だからです。

>しかし、fuku33さんは同時に「そんな重傷者をもう助けないなんてレッテルを貼るなんて、人権侵害じゃないですか?」というコメントも提示している。
>これは立派な「倫理的な問題点の提示」だと思いますけど、いかがでしょうか?

私はそうは思いません。なぜなら、そこで当然予測される反問として、「『そんな重傷者』は助かる見込みも極めて薄いと判断されるのに、『そんな重傷者』の治療を優先した結果、助かる負傷者も助からなくなってしまってもよいのか?」というものがあるわけで(だからこそトリアージなどというものが出てくるのですから)、それにきちんと答えなければ「話を聞いていなかった」と断言されても仕方がないはずです。

beijaflorbeijaflor 2008/09/17 09:20 >「今回のトリアージ騒動が起きたときから疑問なのですが、たかが「大学の講義」でこれだけ騒いでいますが、「トリアージ予算」発言は現実の長野県民220万に対する行為(政治的決定)なのですが、田中前知事や民主党左リベ(五十嵐教授等)のグループに対してはなにも発言はおきないんですね。「政治的」に正しくとも「倫理的」に正しくないかもしれない用語を、予算承認の例示としてとりあげるのは問題ではないのでしょうね?
>「なんとなくクリスタル」的または意図的に使用するのは、政治家としてはかなりうかつですし、知っていてやっているとしてもそれを大問題だと思わないんですよね。

どちらの文章も主語が無いのでgruza03さんが何を言いたいのかよく分かりません。
引用に私の名前が冠してあるという事は、私に対して「なぜ田中前知事のトリアージ発言を容認するのか?」と問うておられる?
そうだとしたら、なぜ私が容認すると思われたのかまったく分からないのですが。。。

ちなみにgoogleにて「トリアージ予算」で検索してみた所、検索結果の2件目に当時(?)の議員が件の発言への批判をしている議事録がありました。
私は田中前知事の県政を批評するだけの材料は持ち合わせていませんが、この方の感じた件の発言への違和感はまっとうなものだと思います。

念のために申し上げておくと、私はトリアージだろうがホロコーストだろうが「言及すること」その物を批判するつもりはありません。
取り上げ方が適切であったかどうか、によって問題だったかそうでなかったかが変わると思っています。

beijaflorbeijaflor 2008/09/17 09:21 >つまり、それぞれ「応用数学」と「経営学」です。経営学的に正しいものは数学的にも正しいでしょうが、逆は必ずしも真ならず、という包含関係を言っているのです。

文法的に正しい(だけの)文章に意味は有りません。しかし論理的に正しい文章には文意があります。
同じように、応用数学の理論は前提とする価値観はありませんが、経営学の理論にはのぞむのぞまざるとに関わらず価値観が内包されませんか?

文章の2つを分かつのは「意味が通るか通らないか」だと思うんですけど、学問の場合は?
数学の理論自体には価値観の前提は無くとも、経営学の場合には「組織を健全に効率的に運営する」という価値観が内包されると思うのですが、違うんですかね。

少なくともfuku33さんのあのエントリーを見る限りでは、彼はそういう価値観を持っていて、それを教えようとしている方なんじゃないでしょうか?

>他分野「としての」応用数学について私はお答えしたつもりです。他分野「における」応用数学という意味でしょうか?だとすれば、そもそも「対象が違う」という答えになります。

こちらはその通りで内容についても了解しました。

beijaflorbeijaflor 2008/09/17 09:22 >>その上で、fuku33さんの主張は「「トリアージ」は経営学的思考によって「も」説明がつく」だ、とおっしゃる。
>そうです。

別コメントで。


>「経営学的思考によって説明が付くものはトリアージである」とは誰も言っていないことにご注意下さい。

確かにそんなこと誰も言ってませんね。


>>純論理的でない学問の理論はすべて帰納的に確かめるしかない。と主張しておられます?
>少なくとも大ざっぱにはそうです(もしかしたら私が見落としている例外があるかもしれません)。
>>私が引用したwikipediaの証明の項や帰納の項は、純論理的な学問でしか通用しない、と?
>いや、その議論は一般的に正しいのです。だからこそ、純論理的でない学問の正統性はそのように多かれ少なかれ「蓋然的」なものでしかないものの上に成り立っていることはご承知いただきたいということです。

「純倫理的でない学問の“或る”理論はすべて帰納的に確かめるしかないが、それ以外の証明方法も存在するし、帰納式の証明方法が蓋然性以上のものを証明しないことも正しい。」これが矛盾しないと?
ちなみに「反証可能性などの科学哲学レベルの話はしていません」と明確にお伝えしたことは覚えていらっしゃいますよね?

で、私が問題にしているのは「学問の正統性」では無いです。学問の正統性のレイヤーであれば「最終的にすべての理論の証明は帰納式になるよね」というのは理解できます。
でもそれはfuku33さんが学生に理論を説明するレイヤーでも「帰納式で証明するしかない」ものなのですか?


>>という事はトリアージは「(政治的に)正しさについて一定の合意が得られている例」だからfuku33さんが授業で取り上げるのは自然だ、という主張なんですね。
>そうですね。といいますか、経営学(に限らず実学)の問題意識では、倫理的な観点も政治的な観点も二義的なもので、一般的に「同意が得られている」とされるものは、それ以上の問題は他分野にゆだね、ひとまず認めることにするのが普通のやり方です。

「一般的に「同意が得られている」とされるものは、それ以上の問題は他分野にゆだね、ひとまず認めることにするのが普通のやり方です。」というのには同意しますが、それには「倫理的な同意」も含まれるべき、と私は考えます。Sokalianさんは違うということですか?


>だとしたら、ホロコーストを例に出すのはよろしくないですね。ホロコーストは「ほぼ間違いなく正しい」と思われるトリアージと違い、「絶対に正しくないと断言できる」という例だからです。

「ほぼ間違いなく正しい」と思われるトリアージ
ホロコーストは「絶対に正しくないと断言できる」

この2つの判断も政治的な価値観ですか?


>だとしたら、ホロコーストを例に出すのはよろしくないですね。ホロコーストは「ほぼ間違いなく正しい」と思われるトリアージと違い、「絶対に正しくないと断言できる」という例だからです。

「教育の場で」「トリアージが倫理的に問題があるとしたら」「講義でトリアージを例に挙げたfuku33さんは問題である」。
という仮定の質問に同意されるのですか?と最初からずっとお尋ねしているのですが、なぜお答えいただけないのでしょう?
ホロコースト云々が出てくるのはその後です。

もし、私の尋ね方で分かりにくい箇所があるのならご指摘ください。お詫びします。
ですので、私の質問にお答えいただけませんか?

中央のカッコ内に対してSokalianさんが同意していない事自体は理解していますので、以上の文章を認められたからといって即、「ほらfuku33さんはだめじゃないか!」などと言い立てるつもりはありませんよ?


>私はそうは思いません。なぜなら、そこで当然予測される反問として、「『そんな重傷者』は助かる見込みも極めて薄いと判断されるのに、『そんな重傷者』の治療を優先した結果、助かる負傷者も助からなくなってしまってもよいのか?」というものがあるわけで(だからこそトリアージなどというものが出てくるのですから)、それにきちんと答えなければ「話を聞いていなかった」と断言されても仕方がないはずです。

Sokalianさんの発言の趣旨は、「講義をきちんと聞いた上で無ければ「倫理的な問題点の提示」とは言えない」と言う事と理解しました。
この私の理解が正しければ「講義をきちんと聞いた上で有れば「倫理的な問題点の提示」とは言える」と言う事になります。

件の生徒が「反問に答えられず話を聞いていなかった」と、なぜご判断されたのですか?
fuku33さんのエントリーを読む限りではその様な説明はありませんが。

beijaflorbeijaflor 2008/09/17 09:22 >>その上で、fuku33さんの主張は「「トリアージ」は経営学的思考によって「も」説明がつく」だ、とおっしゃる。
>そうです。

=======
また、別の回に、資源の有限性がその合目的的な最適配分を促し、戦略性やリーダーシップや組織内の規範意識も意思決定も価値判断もそこから始まる、ということをわかりやすく説明したくって、四川の震災のニュースを挙げてトリアージの概念を説明した。絶対的に医療資源が不足しているところでは、「もう助かりそうにない患者」と「患者自身が処置したら大丈夫な患者」はカテゴライズして分けて、その間の「治療しなければ助からないが治療すれば助かるかも」というところに有限の医療資源を配分する、というシステムがあるんだよ、ということを説明したら、やっぱり女子学生のかなりの部分から「かわいそうだ」という反応があった。
=======

以上の文章の箇所ですよね。

=======
(また、別の回に、)資源の有限性がその合目的的な最適配分を促し、戦略性やリーダーシップや組織内の規範意識も意思決定も価値判断もそこから始まる、ということを(わかりやすく)説明したくって、(四川の震災のニュースを挙げて)トリアージの概念を説明した。絶対的に医療資源が不足しているところでは、「もう助かりそうにない患者」と「患者自身が処置したら大丈夫な患者」はカテゴライズして分けて、その間の「治療しなければ助からないが治療すれば助かるかも」というところに有限の医療資源を配分する、というシステムがあるんだよ、ということを説明(したら、やっぱり女子学生のかなりの部分から「かわいそうだ」という反応があった。)
=======

不要と思われるかっこの箇所を削除します。

=======
資源の有限性がその合目的的な最適配分を促し、戦略性やリーダーシップや組織内の規範意識も意思決定も価値判断もそこから始まる、ということを説明したくって、トリアージの概念を説明した。(絶対的に医療資源が不足しているところでは、「もう助かりそうにない患者」と「患者自身が処置したら大丈夫な患者」はカテゴライズして分けて、その間の「治療しなければ助からないが治療すれば助かるかも」というところに有限の医療資源を配分する、というシステムがあるんだよ、ということを説明)
=======

後半はトリアージそのものの説明なので割愛

=======
(資源の有限性がその合目的的な最適配分を促し、戦略性やリーダーシップや組織内の規範意識も意思決定も価値判断もそこから始まる)、ということを説明したくって、(トリアージの概念)を説明した。
=======

前半をまとめてAに、後半をBに

=======
A、ということを説明したくって、Bを説明した。
=======

以上が私なりの要約です。


Sokalianさん:「AはBによって「も」説明がつく」
Beijaflor:「Aの有効な例としてBを取り上げた」

以上がSokalianさんと私のそれぞれの主張です。そして、この2つが違うことはSokalianさんは同意されました。


fuku33さんの文章を素直に受け取ると「Aの説明のためにBを説明した」のではないでしょうか?
これは本当に「Bによって「も」説明がつくA」という文脈なのですか?

SokalianSokalian 2008/09/17 23:45 >「純倫理的でない学問の“或る”理論はすべて帰納的に確かめるしかないが、それ以外の証明方法も存在するし、帰納式の証明方法が蓋然性以上のものを証明しないことも正しい。」これが矛盾しないと?

「それ以外の証明方法も存在する」と私は言っていないと思います。あと、「純倫理的」ではなく「純論理的」ですね。

>でもそれはfuku33さんが学生に理論を説明するレイヤーでも「帰納式で証明するしかない」ものなのですか?

「証明」の言葉の定義によります。理論の前提の仮定を天下り的に認めて、机上の理論としてその無矛盾性を示すという意味の「証明」はもちろん可能でしょう。しかし、それを現実に適用して問題がないかという意味の「証明」は、究極的には帰納に頼るしかないと言えると思います。

> 「一般的に「同意が得られている」とされるものは、それ以上の問題は他分野にゆだね、ひとまず認めることにするのが普通のやり方です。」というのには同意しますが、それには「倫理的な同意」も含まれるべき、と私は考えます。Sokalianさんは違うということですか?

違いません。ただし、「同意」というのは「どこから見ても異論の余地がない」というものではない、と言っているだけです。
たとえば、法律や政治の世界では、知的能力に関して男女を不平等に扱ってはいけないでしょうが、「男女の知的能力は平等である」ということは生物学的に「証明」されたわけではありません。ですけれど、そこは認めないと話が進まないでしょう、ということです。

>「ほぼ間違いなく正しい」と思われるトリアージ
>ホロコーストは「絶対に正しくないと断言できる」
>この2つの判断も政治的な価値観ですか?

「政治的」という言葉をどういう意味でお使いかがよくわからないのでコメントしにくいのですが、少なくとも「倫理的」な判断も含むし、「論理的」な判断だけではあり得ないし、「政治的」な判断はその両者に触れるものだとは言えると思います。

>「教育の場で」「トリアージが倫理的に問題があるとしたら」「講義でトリアージを例に挙げたfuku33さんは問題である」。
>という仮定の質問に同意されるのですか?と最初からずっとお尋ねしているのですが、なぜお答えいただけないのでしょう?

すみません、その質問の趣旨を理解できておりませんでした。
そういうご趣旨ならば、大筋同意です。ただし、「問題がある」の度合いにもよるし、「問題があるかもしれないという了解が得られていれば」という仮定が加わると「問題はない」とも言えるでしょうし、一概にはお答えしにくいところでもあります。

>この私の理解が正しければ「講義をきちんと聞いた上で有れば「倫理的な問題点の提示」とは言える」と言う事になります。

そう思います。

>件の生徒が「反問に答えられず話を聞いていなかった」と、なぜご判断されたのですか?

大学生に求める基準として、「問題点を提示」する場合に、なぜ「問題と感じたのか」という根拠と、「当然予想される反論」と「それに対する再反論」ぐらいのことは一通り書けなければ「問題点を提示」したことにならないし、話を理解したことにもならない、というのは厳しすぎるでしょうか?私はそうは思いません。

>Beijaflor:「Aの有効な例としてBを取り上げた」
>Sokalianさん:「AはBによって「も」説明がつく」

いえ、その要約はおかしいと思います。なぜなら、あなたの要約に従えば
A:「資源の有限性」という制約のなかで「最適配分」を考えること(およびその効果)
B:トリアージ
なのですから、私の
>「トリアージ」は経営学的思考によって「も」説明がつく
は、逆に「BはAによって『も』説明がつく」になるはずです。

SokalianSokalian 2008/09/18 00:15 お返事が抜けていました。順序が前後してすみません。

>数学の理論自体には価値観の前提は無くとも、経営学の場合には「組織を健全に効率的に運営する」という価値観が内包されると思うのですが、違うんですかね。

そこはおっしゃるとおりです。しかし、問題は「何をもって『健全』『効率的』と呼ぶか」という価値観までは、少なくとも福耳氏の話には内包されていませんよね?実際、公益法人の運営と営利企業の運営では「健全」「効率的」の方向性が相反していても不思議はありません。

特に「トリアージ」というのは「犠牲者を最小にするためにはなりふり構わず」というやり方なので、たとえば金銭面での「効率的」な考え方とは相反します(金銭面「だけ」を考えるなら全員見殺しが得策に決まっています)。

ですので、一部に見られた「福耳氏の『トリアージ経営学』は福祉を切り捨てる考え方だ」というような批判は、福耳氏の話をまるで理解できていない批判であると断言できます。

gruza03gruza03 2008/09/18 20:43 Beijaflorさんへ
しまうま等と勘違いしていたようで、大変申し訳ございませんでした。
お詫び申し上げます。
Sokalian さんへ
精力的なご活動ご苦労様です。くれぐれも体調等にはご留意ください。

beijaflorbeijaflor 2008/09/30 02:21 しばらくネットにつなげる環境にいなかったので返事が遅くなりました。
まず最初にお詫びから

>Beijaflor:「Aの有効な例としてBを取り上げた」
>Sokalianさん:「AはBによって「も」説明がつく」

以上の箇所は私の書き間違いです。正しくは以下の通り。

・Sokalianさん:「BはAによって「も」説明がつく」

また、最後の段も以下のように読み替えてください。

・これは本当に「Aによって「も」説明がつくB」という文脈なのですか?


以上、混乱させてしまって申し訳ありません。

beijaflorbeijaflor 2008/09/30 02:21 >「それ以外の証明方法も存在する」と私は言っていないと思います。

私のwikipediaの「証明」の項を上げた帰納式以外の証明方法もあるという指摘に対して、「いや、その議論も一般には正しいのです。」とおっしゃっています。
これは私の「正しい」の受け取り方が間違っているのでしょうか?

>「証明」の言葉の定義によります。理論の前提の仮定を天下り的に認めて、机上の理論としてその無矛盾性を示すという意味の「証明」はもちろん可能でしょう。

天下り的に認めて?それ以外に「理論の前提を仮定」できないんですか?
前提を仮定しないと理論の証明や検証なんてできないですよね。その上で、その前提が本当に正しいのかも再検討しながら、理論を深めていくのが学問だと思っていましたが、違うのですか?

>しかし、それを現実に適用して問題がないかという意味の「証明」は、究極的には帰納に頼るしかないと言えると思います。

帰納式に証明するには現実にまず適用されていないといけないですよね。現実に適用して問題がないかの検証のために現実に適用する?
現実に適用するのが先では、その理論が間違いだったときに大問題じゃないですか。それって「学問として」いいんですか?

で、結局の所「純倫理的でない学問の“或る”理論はすべて帰納的に確かめるしかなく、それ以外の証明方法は存在しない」という主張なんですか?
生徒に理論を説明する際にも実際に適用された例をあげて、それの正当性を検証することしか説明方法はない、と。



>> 「一般的に「同意が得られている」とされるものは、それ以上の問題は他分野にゆだね、ひとまず認めることにするのが普通のやり方です。」というのには同意しますが、それには「倫理的な同意」も含まれるべき、と私は考えます。Sokalianさんは違うということですか?
>違いません。ただし、「同意」というのは「どこから見ても異論の余地がない」というものではない、と言っているだけです。

「どこから見ても異論の余地がない」という話ではありません。「倫理的に見て異論の余地がある」と言っているのです。
論理的に認められていると、倫理的に認められているの2点は「一般的に同意が得られている」とする場合に必要な最低条件だと思います。

>たとえば、法律や政治の世界では、知的能力に関して男女を不平等に扱ってはいけないでしょうが、「男女の知的能力は平等である」ということは生物学的に「証明」されたわけではありません。ですけれど、そこは認めないと話が進まないでしょう、ということです。

「知的能力に関して男女を不平等に扱ってはいけないでしょうが、「男女の知的能力は平等である」ということは生物学的に「証明」されたわけではありません。」
ではなく
「「男女の知的能力は不平等である」ということが生物学的に「証明」されたわけでは無い“から”知的能力に関して男女を不平等に扱ってはいけない」
です。
ですから、「知的能力に関して男女を不平等に扱ってはいけない」を先に認める必要はありませんし、一般的に同意が得られているから不平等に扱ってはいけない訳でもありません。

>「政治的」という言葉をどういう意味でお使いかがよくわからないのでコメントしにくいのですが、少なくとも「倫理的」な判断も含むし、「論理的」な判断だけではあり得ないし、「政治的」な判断はその両者に触れるものだとは言えると思います。

もしかして「政治的」に認められたものは、「論理的」「倫理的」にも認められている、という主張ですか?
「政治的」はSokalianさんが「政治判断としての「絶対認めない」ではないはずです。」とおっしゃった「政治判断」と同じ意味のつもりです。
私がSokalinaさんの「政治判断」の意味を誤解している可能性はありますが。



>そういうご趣旨ならば、大筋同意です。ただし、「問題がある」の度合いにもよるし、「問題があるかもしれないという了解が得られていれば」という仮定が加わると「問題はない」とも言えるでしょうし、一概にはお答えしにくいところでもあります。

はい。
では、「実際に人が死んでおり、人の命を場合によっては見捨てることもあり、実施した人間がPTSDになる場合もあり、専門家からは一般論の例に出すな」と言われる「トリアージ」をもってして「倫理的に問題が無い」とする理由を教えてください。

beijaflorbeijaflor 2008/09/30 02:22 >大学生に求める基準として、「問題点を提示」する場合に、なぜ「問題と感じたのか」という根拠と、「当然予想される反論」と「それに対する再反論」ぐらいのことは一通り書けなければ「問題点を提示」したことにならないし、話を理解したことにもならない、というのは厳しすぎるでしょうか?私はそうは思いません。

えっと、いつの間にかハードルが上がってますが、、、
「聞いていなかったから反論ではない」には同意しますが、「理解していなかったから反論ではない」には同意しません。
そもそも、授業の場でする反論は、理解を深めるためのものでしょう?

それに大学レベルの、しかも実学の理論って「理解できた、できない」の二分法で分けられるものなんですか?
どのレベルから「理解できた」事になるんでしょう。それって誰が決めるんですか?講師?
基本的に生徒は講師よりも理解度は低いわけで、講師と同じレベルで理解できていないと反論ではない、と言われたら反論しようが無いですよ。

beijaflorbeijaflor 2008/09/30 02:22 >そこはおっしゃるとおりです。

では、「経営学の合理性」といった場合には「(組織を健全に効率的に運営する)という価値観」が内包されるんですよね?
括弧の中はとりあえずです。本来ならもっと専門的で厳密なのでしょうが、何らかの価値観というような意味です。

>しかし、問題は「何をもって『健全』『効率的』と呼ぶか」という価値観までは、少なくとも福耳氏の話には内包されていませんよね?

そういう風に講義、説明はしていないという意味であれば同意です。

>実際、公益法人の運営と営利企業の運営では「健全」「効率的」の方向性が相反していても不思議はありません。
>特に「トリアージ」というのは「犠牲者を最小にするためにはなりふり構わず」というやり方なので、たとえば金銭面での「効率的」な考え方とは相反します(金銭面「だけ」を考えるなら全員見殺しが得策に決まっています)。

以上に関しては「金銭面「だけ」を考えるなら全員見殺しが得策に決まっています」以外には同意です。というか、一切否定したつもりは無いです。

>ですので、一部に見られた「福耳氏の『トリアージ経営学』は福祉を切り捨てる考え方だ」というような批判は、福耳氏の話をまるで理解できていない批判であると断言できます。

fuku33さんがそういう風に言っているかは留保しますけど、「トリアージ経営学」を字面どうりに受け止めたら、倫理的に大問題だと思いますよ。

別の場所で私が発言した「トリアージを出来る限り経営(というか近代的倫理に適合した形)に近づけようという努力は認められても、経営をトリアージに近づけるような行為は非難されて当然ですよねー。」に対して、Sokalianさんは同意されましたよね?

ゲスト


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