09)本阿弥光悦は大変な金持ちだったけれども、大邸宅に住むと維持に人手が
かかってうるさいとして、藁葺きの粗末な家に小物一人抱えて暮らして
いた。光悦は茶人として有名だったが、いい茶器があると「やれ落すな、
やれ壊すな」といちいち気にして厄介だと、いいものは皆人にやり、自分
はただの茶碗で茶をたてていた。一事が万事、生活を極度に単純にして、
そこに生じる自由を楽しんだ。
10)良寛は文字通り無一物の草庵暮らしをした人だが、貧乏の極の生活をしな
がらその心のなんと柔らかく、自由で、自然と交わっていたことか。
11)「老子」の第33章は「足ルヲ知る者ハ富ナリ」の出てくる章だが、ここは
僕の訳を出してみる。
他人や社会を良く知る者は、知者だが、
自分自身を正しく知る者は、賢者だ。
他人に打ち勝つ者は、力があるというだけだが、
自分自身に勝つことのできる者は真の強者だ。
足るを知って満足する者が、富める者であって、
努力して何が何でも為しとげようとするのは、ただの野心家だ。
12)この世の事物には我々の力の内にあるものと、力の内にないものがある。
力の内にあるものとは、自分の考え、行動、意欲、拒否など、要するに
我々の内から出るものだ。力の内にないものは何かといえば、自分の体、
所有物、評判,社会での地位など、要するに我々の内から出るのでない
ものの全てだ、とエピクテートスは言った。自分の力のうちにあるもの
は、その性質上我々の自由になる。人に妨害されたり、邪魔されたりする
ことはない。だが我々の力のうちにないものは、当てにならない、自由に
ならない、人に妨害される、他者の勢力下にある。
13)これはどういうことかと言えば、実に厳しい考え方だが、自分の自由に
なることだけを自分のものと思え、ということだ。自由にならぬもの、
君のうちにないものは、自由にならなくて当然と思えというのだ。君の
力の支配下にないものとして、エピクテートスは妻、子供、友人を挙げて
いる。
14)エピクテートスは「自分は結局、名誉ある地位につくこともなく、どこ
でも大した者でなく終わることだろう」と歎く人に対し、そんな下らぬ
考えで自分を苦しめるな、と言う。
15)人の価値を決めるのは、社会的地位とか、権力、財力、体力とか勢望とか、
人気とか、有名とか、そんな外にある価値ではない。エピクテートが見る
のは、自分の力にあることにおいて、いかに立派に生きているかという
一事なのだ。イヤな上司に悪罵されても、それは君を一つもおとしめず、
傷つけず、ただそれを行う人間の品性を貶めているだけなのだ。
16)エピクテートスは奴隷だったそうです。ご主人から鞭打たれるのも、自分
の力の内にないものであるから、と達観して打たれたとか。
17)「欲なければ一切足り 欲ありて万事窮す」
という良寛の詩を思い出したが、東西にかかわらず賢者の考えは同じだ。