陸上の華、いや五輪の華・マラソン。期待された北京五輪の日本勢は残念ながら上位に食い込めなかったが、このマラソンと岡山のつながりは深い。
マラソンは第1回アテネ五輪(1896年)から正式種目だったが、日本にはまだマラソンという言葉さえなかった1901(明治34)年、大阪毎日新聞社主催の長距離健脚競走大会が大阪で開かれ、岡山県鏡野町の村瀬百蔵が8時間で50マイル(80・46キロ)走るレースに対し56マイル(94・8キロ)を完走。選び抜かれた25人を抑えて優勝した。車夫で鍛えた26歳の元気盛りだった。(毎日新聞から)
8年後の1909(同42)年、同社が初めて「マラソン大競走」という名前で大会を開催。神戸―大阪間(32キロ)で、予選を通過した19人で争い、西粟倉村の金子長之助が2時間10分54秒で制覇した。飛脚をしていた26歳の在郷軍人だった。
3年後に迫ったストックホルム五輪の予選には母親の反対で出場しなかった。日本が初参加したこの五輪のマラソン代表、金栗四三(熊本県出身)が「マラソンの父」といわれているが、金子は「元祖マラソンの父」であろう。岡山県万能地図によれば、生家の記念碑は「マラソンの父の碑」となっている。
マラソンの遺伝子は83年後、女子に開花した。股(こ)関節脱臼、交通事故を乗り越えた努力の人、有森裕子(岡山市出身)。遅咲きながらバルセロナ五輪(92年)から2大会連続メダルは記憶に新しい。山口衛里(兵庫県出身)ら天満屋勢が有森の後に続いた。男子の登場が待たれる。=敬称略。
(読者室・佐藤豊行)