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医学的によいことは、患者にとってよいこと?

尾藤誠司・東京医療センター臨床研修科医長

2008年9月29日

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 「医師は患者にわかりやすい説明を丁寧に行い、その上で患者の自由意思を尊重した医療を行わなければならない」。この大義には全面的に賛成します。

 ただ、賛成しながらも、医師たちの急激な姿勢の変化に対して私は懸念も感じています。医師の姿勢は、この大義に同意している、というより、降伏しつつあるように見えるからです。

 かつて(今も少なからずありますが)、医師は患者の話に耳を傾けず、患者の権利に無頓着で傲慢(ごうまん)な存在でした。そのような医師が、自らの行動を変えつつあります。問題は、どのように変えつつあるのか、ということです。

 ■患者の権利と医師の義務

 「現在のあなたの病気と状態は○○です。あなたに対しては、現代の医療がとり得る治療法としてはAとBがあります。もちろん治療しないという選択肢もあります。Aの治療の場合は、5年間の生存の割合は□□と高いですが、△△という重篤な副作用がXX%の確率で起こります」

 「一方、治療BではAよりも安全性は高いですが、治療効果はOOOです。無治療は最も安全ですが、治療効果は期待できません。あなたが一番よいと思う治療を選ぶ権利があなたにあります」

 このような説明は、「患者にわかりやすい説明を丁寧に行い、その上で患者の自由意思を尊重した医療を行わなければならない」という大義に基本的に忠実です。

 少なくとも、「患者は医師の判断に従っていればいいんだ。ちゃんと一番いいことをしてあげるから」という古典的な傲慢さを持つ態度に比べれば、患者の意見を意識し、権利を尊重しているという視点においては大きな改善と思える変化でしょう。

 ただ、前者のような説明を聞くとき、私は医師としての責任感の喪失を感じてしまいます。患者の権利を尊重することと、専門職が持つ義務感や責任感を放棄することが混同して認識されている気がするのです。

 人の命のように重要なものについて責任を持つというのは極めて重いことです。後者のような古典的立場よりも、前者のように説明的な立場に自らの意識を転向する方が、むしろ医師としてはずっと楽です。それと裏腹に、意識するしないにかかわらず、専門職の責任感をそいでいくことにもなります。このような変化は望ましくない、と私は思っています。

 一人ひとりの患者の問題に対する一つひとつの医療行為を決断するときには、実に複雑な要素を加味したうえで、いま決めないといけないのか、もう少し待てるのか……なども含めて専門的な評価がどうしても必要になります。

 医学的な効果や限界についての的確な評価を行い、医療がもたらす患者の健康利益への影響をふまえて、専門家としてある方針を推奨するのがプロフェッショナルの役割であるはずです。

 ■患者の声に耳を澄まして

 では、今までの古典的な医師の態度のどこが根本的な問題だったのでしょうか? 私は以下のように考えます。

 幸い、社会保険制度、国民皆保険制度の下で医療サービスを行っているわが国の医師の多くは、基本的に患者に対してよいことをしたいと感じながら仕事をしています。医師が、患者にとってよいことをしたいという基本理念ではなく、顧客との契約の中で、顧客に満足を与えつつも自分の利益を追求したいという理念にシフトすれば、社会保険としての医療サービスは破綻(はたん)するでしょう。

 医師は、医学校でも、そして医療現場でも、患者さんの健康や病気からの回復を第一の目的として仕事を行うことを常に教えられ、事実、ほとんどの医師はそのような意識で仕事をしていました。世の中に医師がお願いすることがあるとすれば、その一番は、医師が持つこの責任感が折られることの無いよう支えていただきたいということです。

 しかしながら、医師はしばしばこの「我々は、患者のために毎日粉骨している」という感覚に勘違いをすることがあります。端的にいうと、「私はあなたのためによいことをしようとしている」ことと、「私はあなたのためによいことをしている」ことの区別がつかなくなる、ということです。

 医師の視点から見た「医学的に見てよいこと」は、たとえば、病気が治癒すること、腫瘍(しゅよう)がなくなること、余命が延びること、検査の数値がよくなること……などであり、医師はこれらを目指してまさに粉骨します。ただ、医学的見地から見てよいことは、必ずしも医療の主人公である患者本人が最も望むものであるとは限りません。

 まれに起こる有害事象はもちろん、入院することへの不安、愛する人とのつながり、また、日々の生活における楽しみの抑制など、患者の中では、医療者が想像しえない、もしくは、病気の治癒や延命に比較すればとるに足らぬものと医療者が考えている様々なことをふまえ、自分にとってよい選択を生み出します。

 医師は、医学的によいことの価値以外に自らの目や耳を閉ざしていないか、患者の生活や価値観に対して感受性を持っているかについて、もっと自省的になる必要があるでしょう。

 ■患者の主体性がカギ

 患者は、現在の患者―医療者関係の中では、まだ確実に弱者の立場であるハンディはあると思いますが、自分が医療の主人公であることを医師に教える教師となってください。そして、「この先生は自分の事情を全くわかってくれない」と悲観する前に、医師に対して自分への支援を求め、健康の専門家としての自覚を促し、推奨を求めてみてください。

 目指す景色さえ共有することが出来れば、そして、お互いの役割と責任についてお互いが納得し合うことができれば、私たちの国の医師の多くは、あなたにとっての利益に寄り添う努力を惜しまないはずです。

    ◇

 尾藤 誠司(びとう せいじ)1990年、岐阜大学医学部卒。国立長崎中央病院などを経て、95〜97年、米UCLA公衆衛生大学院・一般内科に学び(科学修士取得)、97年から東京医療センター総合内科に勤務。04〜07年に国立病院機構本部の臨床研究推進室長を務めた。現在、東京医療センターの教育研修部臨床研修科医長、同センター臨床研究センター臨床疫学研究室長。

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 病気になったり、けがをしたりした時、誰もが安心して納得のいく医療を受けたいと願います。多くの医師や看護師、様々な職種の人たちが、患者の命と健康を守るために懸命に働いています。でも、医師たちが次々と病院を去り、救急や産科、小児科などの医療がたちゆかなる地域も相次いでいます。日本の医療はどうなっていくのでしょうか。
 このコーナーでは、「あたたかい医療」を実現するためにはどうしたらいいのか、医療者と患者側の人たちがリレー形式のエッセーに思いをつづります。原則として毎週月曜に新しいエッセーを掲載します。最初のテーマは「コミュニケーション」。医療者と患者側が心を通わせる道を、体験を通して考えます。ご意見、ご感想をお待ちしています。
 いただいたご意見やご感想、体験談は、10月末に東京で開催予定のコミュニケーションをテーマにしたシンポジウムで紹介させていただく場合があります。
 朝日新聞朝刊生活面「患者を生きる」欄でも、「信頼」をテーマにした連載を掲載しています。

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