7. 実質安全量(2)
鹿児島大学獣医公衆衛生学教授 岡本嘉六
実質安全量(VSD)という考え方を国民に説明するため、科学者は様々な努力をしてきた。「日常食べるものに危害があってはならない」という素朴な信念に対して、中世から科学の世界では常識の「全てのものは毒である。毒でないものはない。適正な用量が毒と薬を分ける」というパラケルサスの説を繰り返しても容易には受け入れてもらえない。そこで、「リスク認知(Risk perception)」という学問分野が生まれた。これについて、国際化学物質安全性計画(IPCS)の教材「化学物質の安全性に関する科学的一般原則(IPCS Training module No. 4(document 2): General scientific principles of chemical safety)」には、次のように書かれている。「危害を評価してそれらの低減または排除の方策や規則を策定するためのリスク査定、リスク評価およびリスク管理に従事する解析者とは対照的に、大多数の個人は一般的に「リスク認知」と呼ばれる直感的判断に依存している。これらの人々おいては、危害に関する経験は、世界で起きた不運な事故や脅威を主に提供する報道機関からやってくる傾向にある。」
科学者は、電子顕微鏡や分析機器を使って、五感では感知できない事象を捉えることを続けており、複雑な自然界の現象を理解する努力を続けている。そして、科学は様々な利便性を生み出してきたが、それらは自然界のごく一部であり、未解明の部分が圧倒的に多いことを理解している。他方、一般国民は、科学が生み出した利便性を享受する中で「科学は万能である」という神話を抱いている反面、「現代社会における核兵器や環境汚染物質など科学は人類に不幸をもたらした」という反感を抱いている。そうした中に、まれに起きる事故が報道されると、前者よりも後者の気持ちが高まる。利便性と事故は切っても切れない関係にあり、一方だけを選ぶことはできない。
五感では感知できないリスクを説明するために、感知できるリスクと対比することが有効であろうと「リスク認知」の科学者は考えた。それに、制御可能かどうかという要素を加えて、次の図が出来上がった。左下の観察可能で制御可能なリスクは、一般国民が日常的に経験している事象であり、左に行くほどリスクを回避することが容易である。左上は暴露されたことが判りにくいが、比較的制御しやすいリスクである。この二つの面に配置されたリスクが大規模な社会的不安を引き起こすことは少ない。他方、右半分に配置されたリスクは制御が困難であり、とくに、右上の観察が難しいリスクについては大きな社会的混乱を起す可能性がある。
右上に配置されている「DNA技術」は、「遺伝子組み換え作物」を巡って数多くの消費者団体が活動していることから理解はできるが、原子炉事故より上に配置されているのはどうしてだろうか? その理由は放射線障害に関しては多数の研究実績があるが、「DNA技術」が生み出したものについての健康障害に関する研究は歴史が浅く、全容が分かっていないという点で不安を招きやすいからであって、制御の可能性については、当然のことながら原子炉事故の方がより困難である。
図22.リスク査定の四区画に分けた一般のリスク認識のモザイク模様
さて、リスク認知の解析に基づいて、次のステップとして科学者は「リスクの比較(Risk comparison)」を国民に提示し、理解を求めた。10万人に一人の死亡者をもたらすリスクを計算するためには、詳細な疫学調査と用量―反応の数理モデルが必要である。たとえば最上段の「1.4本のタバコ」を例に採ると、喫煙と肺癌が関係していることは誰でも知っているが、1.4本という具体的数値を示すためには、癌患者と健康人の喫煙本数を調査し、実際の癌の発生状況と相関する数理モデルを検討しなければ出てこない。こうした苦労を重ねて出来上がった一覧表なのである。ICPSは次のように述べている。
「表12は、Wilsonが死亡の機会が100万に1人の割合で増えると推定したリスクの一覧であり、多くの場合それらは許容できるリスクと考えられ、非常に低い確率で起きる事項についての事実認識を人々が習得する手助けとして有用であろう。しかし、健康と福祉に対する様々な脅威を確率事象として単純に受け止めない多くの人々がいることも示唆されている。」
表12. 死亡の機会を0.000001増やすリスク
1.4本のタバコ |
癌、心疾患 |
500mlのワイン |
肝硬変 |
炭鉱での1時間滞在 |
黒肺塵症 |
炭鉱での3時間滞在 |
偶発事故 |
ニューヨークやボストンでの2日間滞在 |
大気汚染 |
5分間のカヌー乗船 |
偶発事故 |
自転車で10マイル(16km)走行 |
偶発事故 |
自動車で300マイル(483km)走行 |
偶発事故 |
ジェット機で1000マイル(1600km)飛行 |
偶発事故 |
ジェット機で6000マイル(9654km)飛行 |
宇宙線による癌 |
休暇でニューヨークからデンバーに2ヶ月間居住 |
宇宙線による癌 |
石またはブロック造りの建物に2ヶ月間居住 |
自然放射能による癌 |
良心的病院で1枚の胸部X線写真撮影 |
照射による癌 |
喫煙者と2ヶ月生活 |
癌、心疾患 |
ピーナッツバターをスプーン40杯 |
アフラトキシンBによる肝癌 |
マイアミの飲料水を1年間飲用 |
クロロホルムによる癌 |
12オンス(340ml)のダイエットソーダ30本を飲用 |
サッカリンによる癌 |
戸外の典型的な原子力発電所の周辺で5年間居住 |
照射による癌 |
最近禁止されたプラスチックボトルの24オンス(680ml)の清涼飲料水1000本を飲用 |
アクリロニトリル単量体による癌 |
ポリ塩化ビニール製造施設近辺で20年間居住 |
塩化ビニールによる癌(1976年の基準) |
原子力発電所の20マイル(32km)以内に150年間居住 |
照射による癌 |
木炭で焼いたステーキ100枚の摂取 |
ベンゾピレンによる癌 |
原子炉施設の5マイル(8km)以内に50年間居住した場合の事故のリスク |
照射による癌 |
出典: Wilson(1990) |
リスク認知に関するこうした科学者の地道な努力に対して、「危険か安全か」という二者択一を迫る日本国民は冷淡である。「100%安全でなければ、安全とは言えない!」という駄々っ子に対して、この表は説得性を持たない。科学者とは、なんと非力なのだろうか・・・・・。米国産牛の輸入再禁止問題をめぐる日米局長級会合で来日したJ・B・ペン米農務次官は2006年1月24日、米大使館で記者会見し、米国産牛肉の安全性に関して、「BSE(牛海綿状脳症)のリスクは自動車事故よりはるかに低い。日本の消費者が適切な判断をすると信じている」と述べたが、この科学的立場を説明しただけである。しかし、日本国民の多数とそれを扇動するマスメディアの総スカンに会い、帰国後処分された。<日本で科学を語ると大騒動になる>という国際的印象を広めた出来事であった。
かつては、鉛筆を削るために小学生の筆箱には小刀が入っていたが、現在では凶器となるために小刀を学校に持っていくことは禁止されている。有用に使うか凶器とするかは、使う者の判断であるが、社会的判断力が衰えると「禁止」ということになってしまう。利便性と事故の関係は、これに類似する。刃物を使えなくすると、料理もできない子供たちが育ってしまうのだが・・・。
問題は「リスクを許容する」寛容性に係わることであり、許容することによって「どのような恩恵があるか」という相対評価が可能かどうかである。「100万人に一人のリスクを容認するなんて、とんでもない! 生命は地球より重いことを知らないんですか!」と、一方のみを捕まえて、他方を無視する方々には難題であろう。このことは、科学の問題ではなく、世界観、生命観、「心の問題」である。現在の日本で起きていること、いじめ、虐待、自殺、他殺・・・・ こうした現実の中で「避けても、避けられないもの」とどのように付き合うかは、まさしく「安心立命(あんじんりゅうみょう)」を手に入れる宗教の問題であろう。目を三角にして、行政や食品関連業界を非難する前に、「安全に食べる」ことを心がけたら如何ですか? 安心を得たいならば、有難い仏法に耳を傾けたら如何ですか? 「犬山の寺院」にいくと、「いい加減なお話の部屋」に「安心立命(あんじんりゅうみょう)」の法話が沢山あります。たまには、合掌して、気を静めることが大切です。