2.        化学物質の用量・反応関係(1

鹿児島大学獣医公衆衛生学教授 岡本嘉六

 

「安全性(Safety)」についての考え方は、科学者とその他の人々で全く異なる。多くの国民は「安全なもの」と「危険なもの」があると信じている。他方、科学の世界では次のパラケルサスの説が広く受け入れられている。

 

全てのものは毒である。毒でないものはない。適正な用量が毒と薬を分ける。

All substances are poisons; there is none which is not a poison. The right dose differentiates a poison and a remedy.

パラケルサス(Paracelsus1493-1541

 

すなわち、多くの国民は「白か黒か」という二者択一を求めるのに対して、科学者は「全てのものは灰色であり、その濃さが違うだけである」と説明することになる。これでは議論が噛み合うことはなく、平行線を辿るだけである。先ず、多くの国民にこの食い違いを認識してもらい、科学者は何故そのように考えるのかを理解してもらうための努力をしなければならない。

化学物質が体内に入った場合、その濃度によって生体反応が異なることを、人類史の過程で経験し、中世においてパラケルサスが上記の説を唱えたのである。その後、高濃度では死亡する化学物質であっても、少量では薬効があり、それ以下の濃度では全く影響が認められないという生体反応の濃度依存性が動物実験によって証明されてきた。その例として、戦後食料難の頃の話をしよう。

左は「黄変米事件」として知られることであり、「タイ国黄変米」、「イスランジア黄変米」、「トキシカリウム黄変米」など、ペニシリウム属のカビが産生する各種の毒素が次々と明らかにされた。左は、その翌年のことであり、麦角(バッカク)菌が生着した小麦が検疫所で見つかったのである。麦角中毒は、麦を常食とする欧州で古くから頻発していたが、18世紀のフランスで8000名が中毒死した事例がとくに大規模であった。

主な中毒症状は、壊疽、痙攣、灼熱感と特徴とし、体が燃えるような感覚に見舞われる

ことから、「聖アンソニーの火」として恐れられてきた。1597年に麦角菌(Claviceps purpurea)によることが解明された。 麦角菌が生着した小麦の種子が0.5%以上混入すると、嘔吐、下痢、知覚異常、妊婦の流産などの急性中毒が現れる。それより少量の慢性中毒では、抹消血管の循環障害により四肢の壊疽と痙攣発作を起す。

その後の研究で、中毒の原因物質として麦角菌が産生する麦角アルカロイド(エルゴタミン、エルゴトキシンなど)が同定されたが、麦角アルカロイドは筋肉を収縮させる作用のあることも判明した。この作用をプラスに活用する試みが行われ、1808年には妊婦の陣痛促進剤、子宮止血剤として使われるようになった。すなわち、「聖アンソニーの火」は医薬品として人類の健康と福祉に貢献することになったのである。「適正な用量が毒と薬を分ける」一例として紹介したが、大半の医薬品はこのような歴史を持っている。

麦角菌汚染した小麦は検疫段階で廃棄処分されたが、黄変米の方はどういう取扱いを受けたのか? 食料不足に喘ぐ都会から貴金属を持って農村に食料を買出しに行くことが行われていたが、「米の配給制度」の下では違法行為であり、大半は帰りの汽車の中で摘発・没収された。なぜ貴金属かというと、ものすごいインフレが進行しており、貨幣価値が低かったからである。買出しに行かない人々も、配給米では胃を満たすことができず、闇市で食料を買い込んでいた。これも違法であり、横浜の裁判官が「法の番人である判事が闇市に係わってはならない」と家族に言い渡し、育ち盛りの子供に自分の食事を分け与えたがために餓死したエピソードが残されている。

 

黄変米事件で問題となったマイコトキシ

種類

発生年

毒素

毒性

原因菌

トキシカリウム黄変米

1940

シトレオビリジン

肝臓障害・中枢神経障害

P. ctreo-viride

イスランジア黄変米

1948

ルテオスカイン

肝臓障害・肝硬変・肝癌

P. islandicum

イスランジトキシン

肝臓障害

シクロクロロチン

肝臓障害

タイ国黄変米

1951

シトリニン

腎臓障害

P. citrinum

 

こうした戦後食料難の中で、黄変米の取扱いは次のようなものであった。タイ国黄変米については、変質米粒の混入割合が1%以下であれば配給米とし、110%であれば加工食品に回し、それ以上は廃棄するとした。イスランジア黄変米については、変質米粒の混入割合が痕跡程度であれば配給米とし、1%以下であれば加工食品に回し、それ以上は廃棄するとした。その後、変質米粒の混入割合が0.3%未満は無制限に配給するが、0.31%は月に5日、11.5%は月に3日、3.5%未満は月に1日と基準が改定された。

現在の飽食の時代では考えられないことであるが、「国民が許容する安全性の水準は、供給量に左右される」ことを理解していただきたい。餓死するよりか、多少の危害があっても生き永らえる方がマシである。ところで、黄変米を食べて育ったのが団塊の世代であるが、肝臓障害が他の世代よりも多発しているだろうか? そのような事実はなく、少しで

も多くの食料を確保し、配給米による健康障害の発生を防止するために設定したその当時の国の基準は、結果として正しかったことが証明されている。今日、少しでも危害が含まれる食品は許されないという「ゼロ・リスク」思考が広まっているが、戦後食料難時代にそうした考え方をしていたら、多くの餓死者が出たことであろう。

(つづく)