冬至も近い12月4日といえば、午後6時を回ればかなり暗い。くわえて雨も降り出した。天城山隧道(ずいどう)(静岡県伊豆市)の入り口から山頂近くの八丁池(はっちょういけ)への道行きは、昼でも厳しい。
天城山の心中現場で横になり、ふたりが最後に仰いだ空を見た。百日紅が空に向かって伸びていた=静岡県伊豆市で |
愛新覚羅社の前で参列者たちを案内する慧生の妹の福永●生さん(左) |
愛新覚羅慧生が三好明子さんに出した手紙 |
大久保家にある遺影のふたり |
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「待ちましょうか」と聞くタクシー運転手に、客は「帰っていい」と言った。車を降り、懐中電灯を手に山に入っていく若い男女を見送った運転手が、「心中でもする気ではないか」と湯ケ島の警察に届けたのも無理からぬ話だ。50年前、1957(昭和32)年のことである。
同じ日、学習院大国文科2年の同級生である男女2人が行方をくらましていた。翌日警視庁に出された捜索願によれば、女は旧満州国皇帝・愛新覚羅溥儀(あいしんかくらふぎ)のめいにあたる慧生(えいせい)(19)、男は大久保武道(たけみち)(20)といった。
静岡県警と警視庁の情報は、すぐに結びついた。警察などによる天城山中の捜索が始まって6日目、ふたりは遺体で見つかった。向峠近くの百日紅(さるすべり)の木の下。慧生は大久保の腕を枕に、2人並んで横たわっていた。大久保の右手には、軍人だった父・弥三郎が青森県八戸市の実家に保管していた軍用拳銃が握られ、慧生と自身の頭を撃ち抜いていた。百日紅の根元の落ち葉の下からは、ふたりの遺髪とつめの入った紙包みが見つかった。
それから半世紀を経て、現場を訪ねた。案内してくれた山田正さん(85)は、当時捜索の本部になった「たつた旅館」を今も天城湯ケ島温泉で営む。
ふたりが登った、天城山隧道から八丁池に通じる道(上り御幸歩道)は、今は途中2カ所が崩落して通れなくなっていた。そのため、水生地(すいしょうじ)からワサビ沢を経て迂回(うかい)する藤ケ沢歩道を通って、現場を目指した。
険しい山道を1時間40分ほど歩いてたどり着いた標高900メートルを超える山林の中は静かで、枝が揺れる音と、野鳥のさえずりしか聞こえない。山道から20メートルほど外れた、なだらかに低くなったくぼ地の底に、百日紅はあった。
茶色でつるつるした幹は、遠巻きに見ると周りの杉やブナなどの木々から浮き上がって見える。天に続く塔のように、あるいは墓標のように。
山田さんは、百日紅の根元を清めると、持参したカーネーションを供え、線香をたいて手を合わせた。
「彼らは疲れ、引き寄せられるように道をはずれて、ここに至ったのでしょう。合意の上だったのか、無理心中だったのか、本当のところは分かりません。でもふたりは、用意していた新しい肌着や革靴をわざわざ山中で替えていましたから、きっと覚悟の上だったのでしょう」と山田さんは語る。
慧生の母、浩(ひろ)は自伝『「流転の王妃」の昭和史』(84年)で「娘には死を予期している様子は微塵(みじん)もなかった」と記す。まな娘を突然失った母として無理心中で殺されたと思わざるを得なかった悲しみは、察するにあまりある。
ひそかに寄り添い続けて
山口県下関市の嵯峨家と縁の深い中山神社には、愛新覚羅溥傑と浩、慧生の遺骨が葬られている愛新覚羅社がある。例大祭のあった5月12日、慧生の没後50年などにちなんだ式年例祭も行われた。社の由来記は、慧生の死をこう伝えている。
「運命の成せる業か天城山にて不慮の事故に遭遇された」
そこには大久保武道の名も、心中の事実も記されていない。慧生と武道の遺骨は、ここ下関と武道の故郷・青森県八戸市に遠く隔てられている。
例祭の前に、慧生の妹で兵庫県西宮市在住の福永●生(こせい)さん(67)に話を聞いた。「母は生前、あの拳銃さえなければ死なずに済んだかもしれないと申しておりました。姉は家では特に悩んでいた様子はありませんでしたが、相談できる人がいれば、助かったのかもしれません」と福永さんは語った。
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慧生が家族に相談できなかったこと。それこそ武道との恋だった。ふたりの死後に出版された遺簡集『われ御身を愛す』によれば、武道が初めて家を訪ねた時、その身なりなどを家人が笑うのを見て慧生は、ふたりの交際は家族の理解を得られるものではないと悟った。だから慧生は武道から手紙が来ると「自分に一方的に熱を上げている田舎者」だと笑ってごまかし、ひそかに心を痛めたのだという。
慧生は、武道の何にひかれたのか。
小学校から高校まで武道と親しかった八戸みなと漁協組合長の熊谷拓治さん(68)は、今でも高校時代の武道の姿を鮮烈に覚えている。
八戸市内を流れる新井田川の橋で、武道はケンカを売られた。
「勘弁してくれ」「やらずに降参するのか」「そうじゃない。組み合えばお前は橋の下だ」。そう言われて激高した相手は、武道につかみかかった次の瞬間、橋の下に落とされていた。
「彼は合気道がめっぽう強かった。でも、決して強さをひけらかしたりしなかった」と語る熊谷さんは、武道が学習院大に進むと聞いて驚いた。
「バンカラを地で行く男だったから、さぞ大学では浮いてたんじゃないか。慧生さんは、そんな彼のまっすぐな人柄が珍しかったのではないか」
こんな熊谷さんの見立てを裏付ける人がいる。慧生の相談相手だった神奈川県鎌倉市の三好明子さん(71)は「彼女には、考えと行動にズレがない大久保さんが新鮮な存在で、魅力的に映ったのだと思う」と振り返る。
社交的だった慧生は男の友達も多く、武道をやきもきさせた。それが原因でふたりは、時にケンカもしながら、距離を縮めていった。『われ御身を愛す』に収められた一遍の詩で、慧生は、その過程をこう描いている。
「互いの心が/はかりかねて/苦しい日々も/随分あった/(中略)/けれど真実と/真心が語られ/秋の木陰に/青空をみたのだ」
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だが愛情が深まれば、武道の悩みも深まった。それは性の悩みだった。
武道の弟で八戸在住の大久保宗朝(むねとも)さん(65)は打ち明ける。「兄は、母以外の女性との間に子どもをつくった父のことをよく思わず、自分は父とは違うと思っていた。でも、慧生さんを好きになればなるほど、自分の中にも流れている父の血への恐れが増したのでしょう」。そうした悩みと、結婚できないかもしれないとの恐れが、武道を死の縁へと追いやったのだろうか。
天城に向かう直前、慧生は、武道が下宿していた新星学寮の主宰者であり、ふたりの相談にも乗っていた穂積五一あてに手紙を投函(とうかん)していた。
手紙の概要は『われ御身を愛す』や当時の新聞記事にも記録されている。
「武道さんが家の事情や人生に悩み、生きる価値がないと思い詰めている。いろいろ話したが正しいのは武道さんで、誰にも思いとどまらせることはできないだろう。彼を一人行かせることはできないので同行するが、これは決して彼に強制されたわけではない」。そんな内容だった。
手紙は慧生の遺族側に渡されるが、焼かれて、穂積の手元に戻ることはなかった。慧生の遺族にとって、ふたりの死はあくまで「無理心中」でなければならなかったのだろう。
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50年を経て、なお両家にわだかまりがあるとすれば、あまりに悲しい。
しかし、一つの救いがあった。八戸の武道の墓には、慧生の戒名も刻まれ、心中現場に残されていたふたりの遺髪とつめがひそかに納められていたのだ。50年前、武道の遺骨が故郷に持ち帰られた際、骨つぼの中から出てきたものだそうだ。
誰の配慮だったかは分からない。でもおかげで、ふたりは、死んでも寄り添い続けることができたのである。
●=女へんに雨、雨のしたに万
文・沢田 歩 写真・松沢竜一