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金九の知られざる姿とは(上)

 詩人の高銀(コ・ウン)は、白凡・金九(キム・グ)=1876‐1949=の『白凡逸志』を、「わたしは1年に1度、3年に1度泣くためにこの本を読む」と推薦した。『白凡逸志』には29年と42年に脱稿した金九の親筆本上下巻や、47年に出版された国史原本など、いくつかの種類がある。最近、歴史問題研究所のぺ・ギョンシク研究員が『正しく解釈し書き下ろした白凡逸志』(ノモブックス)という本を出版した。この本には、韓国国民、特に左派寄りの人々が神聖な英雄のように祭り上げている金九の知られざる姿が盛り込まれている。

◆「逆賊の子孫」か「王の末裔」か

 「わが先祖は安東金氏で、金自点(キム・ジャジョム)の傍系の子孫だ」。『白凡逸志』冒頭の一文だ。金自点は朝鮮王朝時代の人物で、孝宗の北伐計画を清に密告し、反逆罪で処刑された代表的な「奸臣」だ。金九は自分の出自を逆賊の子孫だと明らかにした上、『逸志』で「常民になった恨みが骨身に染みたわたし」とも表現した。

 ところが、国史原本に登場する金九の出自は異なっている。「わたしは安東金氏、敬順王の子孫だ」という、全く異なる文章がある。ペ研究員は「金九が解放後に敬順王陵を2度訪問し、“わが始祖、敬順王陵”と書いたことから見て、金九自身がそう考えていたようだ」と解釈した。しかし、敬順王は慶州金氏だ。

◆殺害した日本人は陸軍中尉か民間人か

 金九が一生の功績として誇らしげに記述しているのが鴟河浦事件だ。1896年2月、黄海道安岳郡鴟河浦で日本人一人を殺害し、「国母(明成皇后)の恨みを晴らすため倭奴を殺した」と書いた。

 金九はこれを誇りに感じていたのか、『逸志』に「快男児らしい行動」「国家の大きな恥を洗い流すために行ったこと」「この身を犠牲にして万人を教訓した」と書いている。また、「(殺害した)倭奴の名前は土田譲亮といい、職業は陸軍中尉だ」と説明している。しかし著者は、「これまでに確認可能などの資料にも、陸軍中尉という記録はない。日本公使館の報告書や朝鮮の官吏の報告書、独立新聞の事件報道は、一様に土田を“商人”と記している」と語った。それだけでなく、金九も土田が陸軍中尉ではないことを知っていた、と主張する。

 ペ研究員は、金九が殺害した日本人は陸軍中尉だという部分について、「意図的に記述された可能性が高い」という。自分が殺した日本人が明成皇后の殺害と関係のない民間人だとすれば、「復讐」という名分が成立し得ない、という解釈だ。

 また、「鴟河浦事件について、一人でやった英雄的な出来事と記述しているが、この部分も事実とは異なるようだ」と語った。金九は尋問調書で「ほかの3人と一緒に鴟河浦に来て、土田を殺害するときは彼らの助けを借りた」と供述している。

申晶善(シン・ジョンソン)記者

朝鮮日報/朝鮮日報日本語版

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