h20.1.1〜

このHPの掲示板等に書き込まれた示唆に富んだ意見を紹介します。組合的思想に賛
同される方は、以下の意見をどう思いますか。

 

その前に……

2ちゃんで拾った日教組(左翼)先生の実態!! 
いやはや凄まじい。こんな教師がいたことを記録として残しておきましょう!!
ここをクリック!!






●古い資料を整理していたら、下の表が出てきました。某学区都立高校の入学難易度の推移をまとめたものです。手書きで読みづらいですが、ご容赦下さい。(旺文社編、高校受験案内をもとにしています)




左端の84年が学校群最後の年です。85年からグループ合同選抜が始まり、ほぼ単独選抜になったことで、学校間格差が一気に広がりました。中でも注目すべきは、F校とG校の急落ぶりです。実はこのF校とG校は、ともに組合活動のさかんな「拠点校」で、自由な校風、自主性尊重の教育を実施していたのです。G校の方がより盛んだったといいますから、組合活動がさかんな学校ほど凋落していくという傾向が、この表からももわかると思います。その後、F校G校はいわゆる「教育困難校」となって廃校となり、現在では全く新しい学校としてスタートしています。










●組合に存在意義などあるわけがない。
子どもの授業よりも,卒業式で君が代・日の丸を掲げさせないための会議を優先。
子どもには、国家の非道を無意識に植え付ける洗脳教育。
仕事をしていないくても権利だけにはやたら敏感で、夏休みのプール指導(遊泳だってね、バカじゃなかろうか?)では児童が水泳検定をしてほしいと言っていても「指導に来たのではない。遊泳を監察しているのだから検定はしない。」だってさ。
組合の資金源となる教科書検定(特定の会社を選ぶ事により資金が得られる仕組み)になるとやたら張り切る。では指導計画通りにやっているかというと、全然やってないない。情報公開を迫られたらどうする気だろうか?
夏休みになると必ず配られる○○推薦映画。あれだってただの資金源だ。だからつまらん映画を必死で宣伝。逆に市や県でやっている行事には、どんなに有意義な事でも、反対反対。
5時には「権利」と称してぴったりと帰宅。遅い人は8時9時まで仕事をしていてもそれは平気。さすがに最近保護者から○○先生の帰宅は早すぎないかとクレームが来たそうだ。これも組合。というか全教斗。
言っておくがこれが組合の実体。すくなくてもうちはそうだ。これでも組合に存在意義があるとでも?
そうそう。さらに付け加えておこう。組合全盛だったン10年前。組合員は非組の教員を精神的に追いつめるため、自宅に見張り番をつけて、常時監察。ほした洗濯の数までチェックしていた。嘘みたいな本当の話。そうそう校長と教頭が朝早くきてその日の打ち合わせをするのだが、その内容を知るために校長室に盗聴器を仕掛けた学校がある。これも事実。こんなことはザラにあった。非組は組合員による不合理な「総括」の犠牲になった人は実に多い。
嘘だと思うか?







●議論ばかりで、教育そっちのけの組合がどんなに現場の教員や生徒を毒してきたか・・・、徹底的に闘ってほしいね。もはや、誰も支持していないよ、それがわからないのかね。

こんな馬鹿な教員組合に毒された学校に、相変わらずおびただしい税金が浪費されていると思うと腹が立つね、本当に、心の底から。
 
この数十年間、組合管理の学校で何が行われてきたか、みんな知っているよ。
校長を恫喝し利用し放題に利用し、孤立させたり、祭り上げたり、そして学校を支配してきた。ヒラが絶対者として学校に君臨するんだ。
気持ちよかっただろうし、実にやりがいがあったことだろう。
何でこんな奴らに教員は黙って従っているのだろう。
 
予算を支配して好き勝手に金を浪費し、持ち時間を最小限に減らし、そのために教頭に授業を強い、折にふれ日直を拒否し、年休は常に完全消化を目指し、さらに研修名目や自宅採点でサボりまくっている。もう組織犯罪だね。
 
感謝されただろう、教員から。さらに女性教員は月2回の生理休暇の行使さえ保障した。驚いたよ50代の教員さえ未だにキチンととっているのだから。
 
働かぬことこそが権力との戦いだと思っている。
たった一人の在日の子の人権を云々しながら、何十人もの生徒の人権、学ぶ権利は平然と踏みにじって何にも感じない。
 
日の丸・君が代、反対だって?
チョット待って、日の丸・君が代への反対を学校行事と錯覚してるんじゃないの。組合員に命賭けて反対する気持ちなんか全くないよ、初めから。それでいて必死の校長をせせら笑っている、もう、茶番もいいとこ。
 
まず、50代の55年体制ぼけ教員の適性検査を実施すべき、革マルや中核に属する教員がなぜ排除出来ないんだろう。校長らに報告させればすぐリストが挙がるはずなのに。
この辺にメスを入れなければ、都立高校はもう10年再建できないね。
 
サボりまっくて働かなかった退職教員は絶対に嘱託なんかに採用してはダメ、そんなことを許すからなめられ続けてしまうんだ。
それと、無能な管理職は、早くやめて貰うこと、気の毒だけど仕方がないと思う、世の中変化しているんだから。
 
(追伸)  
感情が先走っていて、論旨不明瞭、
組合悪しだけでは説得力がないので、今後、さらに投書させてください。
あなたの共感者はいっぱいいますよ、都立高校がかわいいから、
よい高校(住民に責任を果たせる高校という意味)になって貰いたいからです。
頑張ってください、私も頑張ります。







●新採間もない教員ですが、初めはびっくりしました。
私も都立高校出身でしたが、こんな状況のもとで高校生活をおくっていたことが残念でなりません。
でも現場ではまだひよっこの私なんかは周囲の先生方の力を必要としています。
お互い協力し合って、お互いの仕事を尊重し合ってやっていきたい。
組合のいうことは世間一般では絶対通用しないことだと思います。
でも組合の意識が当たり前となっているこの現場で一般の常識が堂々とはいりこみにくくなっているような気がします。
もうダメなんですよね・・・
義務を果たさず権利を主張してゆく・・・みたいなことが常識として根付いているので、どうやってうまくやっていったらいいのかよく分からないんです。
仕事きっちりやっていても平気で遅刻する・・・生徒からさっぱり信用されていないとか・・・事務的な仕事はちょっといい加減でも生徒には慕われている先生もいます。
いい先生って一体なんだろう?
そういうのばかり、みてきてしまうと何が正しくて何が間違っているのかわからなくなってくるんです。
人事考課にしても、私は賛成ですがそんなこと死んでもおくびにだせません。
荒廃しているというより、何故教師というのはこういう価値観が当たり前だとして今までくることになったのでしょうか?
これでは社会の孤島です。
仕事も半人前な私にはただ今は息をひそめてなりゆきを見守るだけです。
ここにいると自分がダメになっていくような気がします。
人間としていい生き方ができなくなる不安におそわれます。
だったらやめろってことになるのでしょうね・・・それもできない私はこれから教師としての道をどう模索してゆけばいいのか・・・






以下は平成12〜13年頃にまとめたもので、現在の状況とは大きく相違することをご了解の上でお読みください。

@都立高校凋落の発端

昭和四十年代、受験競争を緩和するという名目のもと、悪平等思想による学校群制度が実施され、教育長自らが都立高校では受験指導をしないと宣言する。
同時期、美濃部革新知事が誕生。社会党、共産党系の組織が力を持ち、教員組合の運動が活発化する。
それまで「高校紛争」によって都立高校にはリベラル(反体制的)なムードが席捲しており、教員組合がそれをさらに拡大していった。
しかも、美濃部革新都政の頃には、都教委と組合が癒着していたという。
都立高校の凋落はここから始まる。つまり、都立高校の凋落は美濃部革新都政の負の遺産なのである。


A教員組合の思想

(  )高等学校教職員組合。(以下、「組合」と表記)は大別して旧社会党系と共産党系にわかれるが、その思想はかつての日教組と大差はない。日教組の「教師の倫理要綱」に「我々は科学的真理(マルクス主義)に従って行動する」とあるように、組合思想の根本には旧ソ連を理想とするマルクス主義(階級闘争イデオロギー)がある。しかも、そのマルクス主義とは国際共産党組織(コミンテルン)から出されたテーゼ(指令)に沿っており、資本主義に対立する概念としての社会主義思想ではなく、「資本主義社会を打倒して社会主義国家を樹立するための革命理念」という側面が強くあらわれていた。つまり革命思想である。コミンテルンのテーゼには、「旧ソ連を日本の脅威から守るために、日本国内において騒乱を起こさせ、日本を弱体化させ、あわよくば社会主義国家にする」という意図があり、そうであるがゆえに、こうした思想が敷衍された社会(学校)は荒廃していくのである。都立高校はその典型であった。

(補記)コミンテルンという言葉に驚かれる方がいると思いますが、このように考えてください。
 戦後のいわゆる進歩的文化人はコミンテルンのテーゼを信奉し、これに従った言説を主張しました。設立当時の日教組がマルクス主義を行動理念にし、こうした進歩的文化人の影響を強く受けていたのはいうまでもありません。これまでの組合の活動方針を概観すると、かつての日教組と酷似しており、そうであるがゆえにコミンテルンの影響下にあると考えられるのです。コミンテルンはすでに存在しませんが、もとの組織がなくなってからもその思想が無意識のうちに受け継がれていくのはよくあることです。現代の日本が、すでにないGHQの影響から脱却していないとの同じです。以前にコミンテルンのテーゼを読みましたが、〜打倒せよ、〜闘争等、少し前までの日教組の運動方針とよく似たものを感じましたね。


(以下は勝又さんの言葉です)
アメリカもソビエト(当時)も、「日本は敵である」という認識では一致していましたから、徹底的に殴り倒し、再起不能にしようと画策したわけです。その計画に「利用された日本人」がいて、踊らされた日本人が後に続き、結局、今日のような状態になってしまったと、そう感じられてなりません。




B教員組合はどんなことをしてきたのか。

上記の革命思想によって、様々な「常識に反した実践」が行われた。それを思いつく限り列挙してみよう。
(注・あくまで過去に行われたことについて書いているので、現状とはそぐわない部分も多々あります。また、現在の都立高校はこうした雰囲気から急速に脱却しつつあります)

国旗国歌反対運動
「国旗国歌は侵略の象徴」などというのは詭弁にすぎない。要は、日本人から愛国心を剥奪して、日本を弱体化させようというのが真の狙いである。しかし、それを全面に出すと批判されるため、様々な屁理屈をつけてその本質を糊塗し、革命にとって最も邪魔になる愛国心や帰属意識を消し去ろうとしたのである。こうした運動によって、日本人から「国家」や「公」の意識が抜け落ち、自分さえよければいいという「ミーイズム」に陥ったのは、その見事な成果である。
(もちろん誰も革命なんて意識していないが、組合の思想にはこういう「毒」があることを意識しなければならない。また、当然これらは学習指導要領に違反している)

●受験指導の放棄(進路指導の撤廃)
社会主義を理想とする者には「競争」はタブーである。従って、競争に類することは何でも反対することになる。しかも、学生が勤勉であることは国力の増大につながるので、受験指導の撤廃は実に好都合なことだったわけである。受験地獄、つめこみ教育、偏差値教育などといった言葉はこうした本質を隠すために多用されたのである。
(さすがに現在ではこんなことを考える教員は少なくなり、各校では進学率アップに向けての取り組みがなされている)

●校則の自由化、自主性尊重の教育(生活指導の撤廃)
公教育は基本的に「その社会の文化や伝統、道徳観を伝達する」という役割がある。しかし、革命にとって旧来の文化や伝統は邪魔になるため、その断絶をはかるために校則撤廃が案出されたのである。(←これは私見)かつてスターリンが社会主義思想を吹き込むために大規模な移住政策を行ったのはそのためであり、カルト宗教の多くが信者を出家をさせて社会から隔離するのもこれと酷似している。「校則の自由化」とはこうした悪意(毒)を内包しながらも「自由、自主、自律」「自主性尊重」といった美辞麗句でくるんだために生徒には好評で、教員側も「指導をしなくていいから楽」という理由で歓迎され、またたくまに都立全体に広がっていった。その結果、風紀が乱れ、保護者や地域の信頼を失い(一部の進学校をのぞいて)多くの学校が凋落していったのは周知の通りである。混乱と弱体化を狙った革命思想は、まさにその「毒」を発揮したのである。
(「価値観の強制はいけない」という戦後教育の根本理念も、こうした革命思想から派生したものである。
ただ、付け加えておくと、自由な高校を全否定するつもりはなく、多様な学校の中にそういう高校があってもいいと思っている。要は、大半の都立高校を一律にこのようにしてしまったことが問題だと考えている)
(校則撤廃や管理教育批判が高校生文化の退廃をもたらしたことはここを参照)

●主任制反対
社会主義と階級闘争イデオロギーを理想とすれば、教員は皆対等でなければならず、教員間に上下関係があり、指示・服従という関係があるのは許されないことになる。そこで、組合は「主任制」を徹底的に攻撃し、その形骸化に努めてきた。現在でも「主任」という名称は使われず「連絡係」と呼び、事務連絡のみを行っている。しかし、学年、分掌、教科に責任者がいないという状態では、組織的かつ計画的な指導は行われず、各教員がばらばらな指導を行うだけでは、学校全体の教育力を高めることはできない。都立が生活指導、進路指導の両面において私立に敗北したのは、当然のなりゆきである。
(このように行政側の指示に従わないのは地方公務員法三十二条違反である)

職員会議の最高議決機関化
階級闘争理念に従えば、「上意下達」は徹底的に忌避され、「民主主義」という美名のもとに教員の決定こそが最も大切だということになる。したがって、職員会議は最高議決機関となるが、そこで決められるのは「教員にとって都合がいいが、生徒や学校のためにならないこと」が多く、「生徒や学校のためになるが教員の負担になること」は否決される傾向となる。その結果「教員が勤務するには都合がいいが、生徒のためにはならない学校」となり、都民の信頼を失っていったのである。
(これは、職員会議を補助機関と定めた学校教育法に違反する行為である。いつもは憲法を守れと言いながら、自分達の都合によって平然と違法行為を行うのだから何をかいわんやである。また、職員会議を最高議決機関化するのは、特定の思想や勢力によって公教育を牛耳る狙いがあることも忘れてはならない)

●輪番昇級制
社会主義思想を信奉すれば必然的に昇級に序列があることは許されず、能力や仕事ぶりに関わらず、輪番で昇級させることになる。しかし、真面目に仕事をしようが手を抜こうが昇級には影響しないので、当然、勤労意欲は減退していく。いわば、真面目に働く者がバカをみるシステムであるがゆえに、余計な仕事はしない、嫌な仕事からは逃げるという状態が恒常化していった。まさに社会主義の弊害「低次元の平等化」に陥ったのである。

●管理職、都教委との闘争
階級闘争イデオロギーによって「権力と闘うことこそ善」という妄想を抱き、「教員」=民衆(善)vs「管理職・教委」=権力(悪)という単純な二元対立構造を設定して、管理職や教委の指示にことごとく反対してきた。その結果、協調、融和、自助努力といった概念は忌避され、対立、闘争、憎悪、不信、不満といった悪感情ばかりが職場を支配するようになった。それが教育にいい影響を与えるはずはない。管理職はいつも反対ばかりされるので、事を荒立てないことで精一杯となり、リーダーシップを発揮することもできなくなった。
(管理職や教委をことさら悪し様に言うのは、仮想敵を設定して組合員の結束を固めるための方便である)

生徒の扇動
階級闘争イデオロギーは「教員vs管理職・教委」という対立構造を設定するが、これだけでは、生徒と教師間に権力関係があるという自己矛盾を内包しているため、生徒と教員を同等とし「教員・生徒vs管理職・教委」という関係を設定する。「教師と生徒は対等」「生徒が主役」という発想はここから生じたものである。こうした詭弁によって生徒におもねり、生徒の味方になるように見せかけながら、国旗国歌反対運動等に生徒を抱きこみ、「教員・生徒vs管理職・教委」という構図を利用して、「生徒も教員も国旗国歌に反対しているのに強制するのは民主主義に反する」と主張するのである。要は、自らの階級闘争に生徒たちを利用しているだけである。現に、管理職や教委からの指示に反抗しながらも、生徒へは服従を要求しているわけだから、その欺瞞性は明かである。

職場の支配
 組合加入率は現在7割、かつては9割近くを誇っていた。世間には全く通用しない思想が職場を席捲することによって、普通の教員が常識的な意見を表明できなくなり、特定の思想が大手を振って学校を支配してきたのである。
(組合の考えは、社民党や共産党と同じである。両党の支持率は社民党2%共産党2%、合わせて4%にすぎない。そういうマイナーな思想を信奉する団体が現在でも7割の組織率を誇っているのだから、その異常性は明らかである)



畢竟、教員組合は30年以上にわたって正常な学校運営を妨害してきたのです!





C組合思想によって教員はどんな考えを持つようになったのか。

●「悪いのはみんな管理職や教委だ」「管理職は敵だ」
 みんな権力が悪い。私たちは何も悪くない……教員がこう思いこむことによって、自己反省ができなくなり、教員個人や職場の問題点を洗い直す作業もしなくなった。こんな学校がよくなるはずはない。(もちろん、管理職や教委にも問題点は多いのだが……)

●「組合はわれわれの権利を守っている」
たしかに待遇面での成果は否定しない。しかし、組合主導によって都立高校が凋落したという前提に立てば、多くの者が困難な学校で厳しい勤務を強いられ、「壊れていく」教員が増加しているという現状は、組合によって教員の最も大切な「普通の教育を行う権利」を侵害されているといえないか。

「教員は反体制であるべきだ」「権力との闘いこそ大切」
反体制であるのは自由だが、権力に庇護されながらこんなことを言うのは、卑劣かつ姑息そのもの。反体制を気取るなら公務員をやめるべき。

「上意下達はよくない」
組織は原則として「上意下達」が当たり前。とくに公務員だから行政の執行者となるのは当然のこと。管理職や教委からの上意下達には反対し、組合内部の上意下達には唯々諾々と従い、生徒へは上意下達を要求するのだから、ダブスタもいいところである。(もちろん、上意下達よりも「ボトムアップ」の方がいいことは承知しているが、組合主導の学校では、その「ボトム」が偏っているからどうにもならない)

「管理はよくない」
自分が管理されたくないための詭弁。現代の教育崩壊の多くが「学校が生徒を管理できなくなったこと」から派生しているのは多くの者が承知している。こんなことを言えば世間から信用を失っていくだけ。

「強制はよくない」
これも自分が強制されたくないための詭弁。日常の教育活動を見れば、学校が「強制」から成り立っているのは当たり前のこと。この論理を補強するために「自由にのびのびさせるのがいい」というのだが、「自由」な高校の多くが凋落していったのは、その誤りを見事に証明している。

「権利は要求すべきだ」
これは間違っていないが、自分たちが生活の保証された公務員であることを常に意識していないと、義務をないがしろにして権利だけを要求する、いわば「奪えるものは何でも奪ってしまえ」といった卑しい発想に陥ってしまう。

●「組合のないところはひどいことになっている」
私はかつて組合のない私立にいたが、公立の職場よりはるかにまともだった。私の職場には組合のない私立や企業から来た同僚がいるが、ともに現在よりもよかったといっている。たしかに組合がなくて息のつまるような職場もあるかもしれないが、そうではないところも多々ある。この言説は、組合の存在意義を、公立しか経験のない教員に説くための方便である。

「組合が職場の自由を守っている」
この「自由」とは組合教師が好き勝手振舞える「自由」のこと。偏狭な思想が職場を席捲すればするほど、普通の教員が常識的な意見を表明できなくなる。現に、多くの教員は、職場を牛耳る組合から白眼視されたくない、職場で孤立したくないという理由からやむをえず組合の意向に従っているのでは。また、現在主任制も機能していないため、仕事において管理されないという「自由」はあるが、そのために学校が凋落していき、結果として困難な指導を強いられているとすれば、それは真の意味の「自由」ではなく、悪しき結果をもたらす「放縦(わがまま)」である。

「平和、人権、民主主義こそ素晴らしいものだ」
これらは階級闘争イデオロギーという「毒」を隠蔽するための詭弁。本当の意味は以下の通り。
平和→この言葉を叫んでいれば平和になるという空念仏。
人権→少数の人権を守るためなら多数の人権をないがしろにしてもいいという権利。
民主主義→少数が全体を支配するファシズムのこと。あるいは社会(共産)主義の隠喩。

「日の丸君が代はよくないものだ」
愚かの極み。日本の弱体化、愛国心剥奪運動に加担しているだけ。詳しくはここを参照。


→詭弁、自己正当化、事実誤認、自分勝手、夜郎自大、利己心、叛意……こういう考えに支配的された組織がよくなるはずないよ。(涙)



D都立高校の凋落は都民にどんな影響を与えたのか。
都民は都立を敬遠して、進学指導や生活指導の徹底した私立に通わせるようになり、受験競争が低年齢化した。その結果、小学校段階で優秀な生徒が私立に流れ、公立中学が荒廃し、さらに私立志向を高めるという悪循環に陥った。
都民は現在「都立高校を存続させるために税金を払い、子供を都立に行かせないために塾や私学に金を払う」という不当な状況を強いられている。また、都立に入れても浪人率が高いので、予備校や塾に通わせねばならず(家計を逼迫させられ)、しかもうす甘い左翼思想の洗礼を受け、進路が保証されないというオマケまでついている。
この結果、金銭的に余裕がないと、私立に行けない、望むような生活指導、進路指導が受けられないという事態となり、民主社会において最も大切な「教育の機会均等」が崩れつつある。さらに、この状態は社会構造の二極化をまねき、下位層に不満と諦観をもたらし、それが社会荒廃へと進む危険性をもたらしている。













●私は都立高校に勤める教員です。
 先日、本校でも卒業式が終わりました。しかし、この卒業式に向けては様々な議論・問題があったのは言うまでもありません。儀式の形態として学年会ででてきたのは壇上を使わずに「対面式」という案です。それなりの理由を述べて提案され、学年のほとんどの先生が賛成・・・(でも、これって組合の指示にあるんですよね)。儀式の意味や在り方、礼儀等の話をし、何回かの学年会でこの案をつぶし、従来の形態に・・・しかし、壇上の使用までには、こぎつけませんでした。生徒や保護者を理由にして意見してくるが、その裏には組合の指示があり、それをしらばっくれて・・・いけしゃあしゃあと良くやってくれるよ!!・・・って感じとともに、絶対潰さなければと思いました。正論でぶつかっていくと、返す言葉が無くなり、黙ってしまう・・・なんなのでしょうか???混乱させるな!!

 先日、組合の人と話した時の話です。卒業式の「対面式」の指示を知らなかったそうです。職場会でも出ていないとか・・・ 
 実は、本部委員会で話があり、指示何号かも出ており、一部の教員の中で相談が行われていた様です。
また、中学校訪問に関しましても、管理職が無くしたと、新たに移動してきた先生は思っていますが、実は管理職が学校訪問をお願いするのを、教員が職員会議の中で潰し、無くしたのが本当です。それを管理職がなくしたという風に伝えているのです。
 これは、どう考えても「情報管理」や「情報操作」が意識的に行われているとしか考えられません。
一部の教員達によって、学校も組合も、そして教員一人一人が動かされていいのでしょうか。嫌らしい洗脳に気付き、利用されている教員から、正常な教員に戻って欲しいものです。
 それにしても、卑怯きわまりない・・・嫌らしい・・・としか私には言えません。
 組合も必要だと思うし、しっかりと仕事をしている教員も沢山います。一部の教員の思想で、学校や生徒が被害を受けるのは我慢できません。







●ホームページを読んで感激しました。実は昨年の3月に私は組合を辞めました。
前々から<こんなのおかしい>と思うところがいっぱいあり、組合をやめました。
最初は、不安でいっぱいでしたが(まわりと上手くやっていけるか)、今はスッキリしました。職員会議では批判する人たちがいますが、おかしいことはおかしいと言うようにしました。
 私は<開かれた学校>について賛成しています。やはり外部の視点(目)をいれること。この退廃しきった学校の横っ腹に穴を空けることが必要だと考えています。先ずは、世間知らずの教員たちに新鮮な空気を送り、風通しをよくすることだと思います。高体連で私立の先生方とおつきあいする機会が多かったせいもあり、人事考課、管理運営規程、学校運営連絡協議会などは当たり前のことだと考えています。本音はまだまだ甘いと思っていますが。
ところで、ウチの学校にも、いろいろ面白い話があります。授業参観です。職員会議などで授業公開や保護者の授業参観について、ものすごく反対している人が、自分の子どもの授業参観に喜んでいっている。こいつ、自己矛盾に気が付かないのかと思います。まだまだありますので、そのうち、また書きます。
私はいま、卒業式で国旗国歌を実施するための計画を練っています。保護者、職員団体、3学年などにどのように対応をたてていけばよいのか検討中です。
何か良きアドバイスがあれば教えてください。最後は職務命令しかないと考えていますが。
教員にまだまだものすごい人がいます。みんなの力を会わせればいつか……






●国旗国歌に反対している連中は、国旗国歌を否定することによって、日本人から愛国心を奪い取ろうとしているのです。革命に愛国心はもっとも邪魔ですからね。 革命とはもちろん共産主義革命です。
反日の丸君が代を担ってるのが共産党であり、日教組(全教)であり、国立市であることかもそれは明らかでしょ。
まぁ、ザコのサヨク教師はそうとも知らないで躍らされてるんだけどね。





●「2003.10.23 都教委通達」なるものがあって、そこには「国旗を舞台壇上正面に都旗とともに掲げること」「国歌を国旗に向って起立して斉唱すること」「証書授与は壇上で行うこと」「それに従わない者は処分すること」等が書かれているそうです。で、それに対して(当然ながら)組合側は反発して「予防訴訟」なるものを始めているとか。そのビラを見る機会があったので、一部を紹介します。

「2003.10.23 都教委通達。これに対して公立学校の教職員が三つの会を作ってたちあがっています。このたたかいは思想信条の自由や、子どもたちの未来、日本の未来を守るたたかいです。東京の教育は全国に大きな影響を与えます。三つの会を支え、思想信条の自由や、教育の自主・自立・自由を守る大きな輪が必要です。このたたかいを勝たせるために私たちは全力で支援します」
→反戦・平和が大好きなのに「たたかい」という言葉多いですね〜(笑)、というのは置いといて、
「通達は思想信条の自由の著しい侵害。そもそも君が代で起立する義務はないはず、今ここで強制を許さぬ意思表示をしなくては、子どもを戦場に送ることも反対できないことになってしまう・・・。教師としての責任を裁判に託しました」
 →ひのきみに反対できないと戦争に反対できないのですか、はぁ・・・(と溜息)
でもまぁ、ひのきみに反対するのも個人の自由ですから、ここでとやかく言うつもりはありませんが、問題にしたいのはこの賛同者の人達なのです。
「東京日の丸君が代強制反対裁判をすすめる会共同代表」として次の名がありました。
俵義文(例のつくる会反対運動の中心人物)、尾山宏(予防訴訟弁護団長)槙枝元文(元日教組委員長) 暉峻淑子(埼玉大教授)斎藤貴男(ジャーナリスト)太田尭、小森陽一(東大教授)などの名がありました。実はこのうち3名(他にもいると思うが)は北朝鮮シンパとして知っていました。

 槙枝元文・日教組元委員長は北朝鮮を「この国には泥棒がいない。泥棒とは富の片寄ったところに発生する。この国には泥棒の必要がないのである。泥棒も殺人犯もいないから警察官もいない。交通整理や怪我(けが)人のために社会安全員が街角や交差点に立っているだけ」(『チュチェの国 朝鮮を訪ねて』)と讃美し、北朝鮮礼賛は大韓航空機爆破や拉致などの国家犯罪が発覚した後も続き、平成三年には北朝鮮から「親善勲章第一級」をもらっている。その後も昨年の金正日総書記誕生六十年の祝賀メッセージで、金日成元主席について「わたしは訪朝して以降、『世界のなかで尊敬する人はだれですか』と聞かれると、真っ先にキムイルソン主席の名前をあげることにしています」と強調。
日本の自衛隊は否定するくせに、北朝鮮の軍隊については、「強い軍隊を率いることは国の自主性を堅持するうえで欠かせないこと」「人民のなかにはいって現地指導されている姿などをもっと積極的に共和国は報道すべきではないでしょうか。キムジョンイル総書記のすばらしさをアピールしたほうがよいと思います」と進言している(『キムイルソン主義研究』百号)という。。http://www.tamanegiya.com/nitikyouso.html

尾山宏氏はこんなことを言っています。
「たとえば昨今、朝鮮民主主義人民共和国(以下、北朝鮮という)の拉致問題が政府目民党やマスコミによって頻繁に取り上げられており、この問題の解決がわが国の最重要で最も喫緊な課題であるかのような観を呈している。私も、拉致は重大な人権侵害だと考えている。しかし他方で戦前の日本は、朝鮮や中国の罪のないきわめて多くの人々を強制連行し苛酷な強制労働を行なわせたことは、まぎれもない事実である。このことに口をつぐんで、自らの被害のみを声高に主張するのは、明らかにアンフェアーである」http://www.jdla.jp/houmin/2004_04/04.html#jihyou1

暉峻淑子氏などは、北朝鮮から帰国した5人を帰さないことに対して「逆拉致」だと批判しています。

北朝鮮に強烈なシンパシーを感じる者たちが、「思想信条の自由」を守るためにひのきみに反対って・・・そりゃ、どうみてもギャグですよ。ヤクザが街の治安を守ろうなどと言ったら、その裏に別の意図が隠されていると勘ぐるのが普通です。同様に北朝鮮を賛美していた者たちが結束して「思想信条の自由を守ろう」などと言ってるわけですから、少しは勘ぐってみるべきでは。まぁ、学校の先生たちはみんな真面目で「ひのきみ=悪」という刷りこみがなされているので、何を言っても無駄かもしれませんが、やっぱりこれは変ですよ。組合のみなさんには、ぜひ、この「おかしさ」を理解してほしいですね。








●日教組の罪を勝田吉太郎・京大名誉教授は次のように喝破しています。日教組は教員を労働者と規定し「自らを労働者然とふるまうことによって児童生徒の眼前で教師という職業に伴う権威と威信を自己否定したのである」(宰相論)講談社
 それだけではありません。「校長や教頭を、規則・権力の犬とみなしてありとあらゆる悪罵を浴びせ、そうすることで教育の現場における一切の権威を打倒し、否定」し、全国の小中学校の校長が日教組傘下の暴力教師たちによっていじめ抜かれました。「そういう校長や教頭に対する乱暴狼藉や暴力的な主任制反対の運動は、長年にわたって生徒たちの目前で公然となされてきた。日教組は身をもって暴力教室を実演して見せたのである」





●私が卒業した高校は、東京都内でも有数な左翼学校(私立)であります。1997年に”高校生平和の集い”なる集会において「従軍慰安婦の演劇」を開催したり、中国共産党の反日プロパガンダで有名な”三光作戦”に従軍した?元兵士なる人物から戦争体験を聞くなどあまりにも偏向・自虐した教育方針をとっています。早速、朝日新聞がデカデカと記事にして「高校生が真剣に平和について論じ合っている」と賛美する内容が掲載してありました。
 私のような意見を持っている人間は学校内で弾圧されます。例えば、学校内で配られる作文集には私の書いた意見は載せてもらえず、左翼的な主張を持った学生の意見だけ掲載したりします。
 私が卒業した高校は、創立して100年以上もの歴史があります。明治時代に思想家の、昭和天皇の教育係もした(  )氏によって創立されました。卒業生もビックな人物ばかりで、吉田茂や横山大観など著名人を多く輩出している歴史があります。伝統と格式を重んじた立派な学校だったのですが、1970年代から教師の世代交代で左翼系の教師が入ってきた頃からおかしくなり始めました。生徒に反権力闘争をけしかけたり、反戦運動が巻き起こるなどしたそうです。他にも訳の分からない自由化を推し進め、制服を廃止しました。その結果、生徒が好き勝手な服装にて登校し、規律がまったくない堕落した状況を作り出し、学力のレベルも低下してイジメや校内暴力などが蔓延した状況が続き、現在に至っています。教師に対しては平気で暴言を吐き、暴力を振う。教師内はパンの食いかけやカップラーメンの容器(スープ入り!!)が机や廊下に捨てられていたり、弱いものイジメも横行するなど腐敗堕落しきった雰囲気です。
 この事は、中学校の時にもありました。実は私は中学時代に酷いイジメを受けた経験があります。転校して間もない頃、当時の私はとっても大人しい気の弱い性格でした。私の他にも同じような生徒も不良グループから嫌がらせを受けていました。私の場合は、転校生だった事もあり集中的なイジメのターゲットになりました。毎日・毎日辛いことばかりが続き、親しい友人もおらず孤独な状態でありましたが、我慢の限界に達して教師に相談する事にしました。翌日、私と父親、教頭と学年主任、担任とで相談しました。ところが、話の冒頭に学年主任の教師が「お前にも原因があるんだよ。イジメ生徒も、ホントは良い奴なんだ。深く考えるなよ」と始めから私が悪いように言われました。その教師が話している雰囲気を察するに、自分たちとは関わり合いになりたくない厄介な問題には触れたくない。”臭いものには蓋をしろ”みたいな感じでした。
 その後も、教師は問題解決の為に努力する姿勢が見られず、イジメは断続的にありました。その後、上記の問題を保健室の先生に相談したところ意外な事実がわかりました。「その先生方はみんな”教職員組合”の人間で、仲間内でかばい合っているのよ。職員室内でもイジメや仲間外れがあって、私のような組合に入っていない者には冷たい態度で接するの。例えば、何か左翼的な運動の署名を頼まれた時に断ったら、”何であんたは署名しないんだ。教師なのに無責任だ”と言われたわ。他にも生徒の親御さんからお菓子の差し入れがあった時も、組合の先生達だけで食べるのよ」と裏事情を聞かされました。
 教師の間でイジメがあるのなら、生徒間のイジメや非行などなくならないと、子供心に感じました。教師のこの有り様ですから、学校内は荒れ放題です。教師の前で平気でツバを吐き、悪態をつく。授業中はおしゃべり当り前で、勉強が進まない。トイレにタバコが転がっている等々が日常茶飯事でした。
 このように学校内の秩序が乱れているのに教師たちは何をしているかと言えば、例えば授業にまったく関係ない政治的な話をし「自衛隊は人殺しの集団です。軍隊は危険で危ない集団」とか「平和憲法を護って、世界平和を祈りましょうね」と偏向的な内容の事ばかり言ってました。私はこの時、思いました「この教師たちが言っている平和論は胡散臭いと・・・・」
 世界平和とか戦争反対と言いながら、学校内の平和や秩序も維持できない無能な教師たちが学校を運営しているのだと感じました。その頃から、朝日新聞や社民党・共産党はじめとした左翼系人々に主張が非常に胡散臭く、また非現実的な空想的平和論だと思いました。
 私が不良生徒に殴られている時、すぐ横に教職員組合の教師がいたのですが、私の事を無視してました。後日、その教師が私に「あの時さ、怖かったから注意出来なかったの」と言われました。何故、あの不良生徒がいる前で注意出来なかったのかと、心の底から怒りが込み上げてきました。私はそれ以降、不条理な嫌がらせには断固とした態度で臨み、時には自衛に為に暴力を使うのも致し方ないと、心に誓いました。
 1997年に我が高校にて開催された「高校生平和の集い」は、日本共産党系の下部組織「民主青年同盟」なる団体がつるんでいます。この集会は誰がどう見ても政治的なイデオロギー優先であり、また思想的に偏向・自虐史観が中心になっています。このような集会に東京都の税金が使われているなどとんでもない事だと思います。私は卒業生として非常に恥かしく、また何として昔の伝統と格式を取り戻し、正常な状態にしたいと考えてます。










  
●はじめまして、僕は17歳の都立高校に通う男子生徒です。先日卒業式が行われたのですが、その前日に僕のクラスの担任の女教師が「重要な話だ」と言って、卒業式の国歌、国旗について話し始めたのです。曰く、生徒側としては国旗掲揚には反対で、新法案の為に校門の前だけに飾るということでした。
 しかしながら、その反対理由というと、あまりに支離滅裂なものでした。
 第一に、国に法律で国歌斉唱を強制される筋合いはないというもの
 第二に、私は学徒動員で死んでいった人々を送り出した歌で卒業生を送りたくない と、あまりに変なものであった為、質問をしてみました。
 まず第一に、現代の高校生は日の丸を見て、学徒動員などと連想する者は存在しないこと。もし、先生のような若者であるならばワールドカップの時に顔に日の丸なんか描かないであろうこと。
 それ以前に高校生で学徒動員という事自体知らない生徒も多い事など、以上の事から学徒動員の為に反対というのは、生徒の意向を完全に無視した、先生一人の思想の押し付けではないか
 第二に、国に国歌を強制されていなければ国歌を斉唱するのだろうか。それは第二の理由の口実の付けたしに過ぎないのではないか
結局適切な回答は得られることはありませんでした。
 普段から、全く根拠も挙げずに、「日本悪」「国家悪」関連の言葉を連呼し、暗に生徒を洗脳のような状態にし、挙句の果てには生徒の名を使って卒業式まで自分たちの思い通りにしようとする先生方の考えが理解できません。
(普段は良い先生であるのに、こと、この話題になると豹変するのです)






●現役高校生の立場から言わせてもらうと、私ははっきり言って君が代を歌いたいです。教師が勝手に「全ての生徒が君が代に反対してるはずだ」なんて思わないでください。生徒のために反対してるなんて言われると腹が立ちます。
教師の勝手なエゴで反対してるだけです。誰のための卒業式、入学式ですか?君が代を全く流さなければ、私のように歌いたい生徒はどうなるのですか?日の丸を見つめながら君が代を歌うのはそんなに悪いことですか?
自分たちのアイデンティティーを押しつけないでください。






●私は平成元年に都立○高校を卒業し、現在は民間企業のサラリーマンをしております。
 高校時代から組合系左翼教師の傍若無人な振る舞いには目に余るものを感じておりました。敢えて実名を挙げてしまいますが、授業時間の大半を「生物」とは全く関係ない左翼イデオロギーの話に費やす生物l教師の△、ただでさえ偏向している教科書をさらに偏向して授業をし、そればかりか定期試験の問題で自らの偏向した歴史観を強制する問題を作成する日本史の□などはその最たるものでした。
 また、生徒会幹部、新聞部などもそうした左翼系教師に洗脳された連中の巣窟と化し、彼らの傀儡と成り果てておりました。
 そもそもこの高校に入って感じたことは、自分の出身小学校・中学校(いずれも都内の公立)では当然のように入学式・卒業式・運動会などの行事において慣れ親しんできた国旗掲揚・国歌斉唱が全く行われない不自然さです。3年間の在学中、入学式・卒業式において、国旗掲揚・国歌斉唱が実現することは一度としてなく、非常に苦々しく思いながら卒業していったのを思い出します。

私自身在学中から左翼系組合教師には嫌悪感を持っていますが、母校に対する愛着・誇りは人一倍もっているつもりです。ご承知の通り、○高校は戦前のナンバースクールにつらなる伝統を持つ名門であり、学校群以前は東大合格者100人を超え、全国でも3本の指に入っていました。私の在学中も辛うじて東大合格者数ではコンスタントに30名台をキープしていましたが、最近では全くランキング圏外で見る影もなくなり、OBとしてこの惨状を非常に危惧しております。これも「自由、自主性」などに名を借りた、組合教師による長年の「放任、怠慢」の結果といえるのではないでしょうか?
 組合教師は、学校間格差は「けしからん」と言うのでしょうが、むしろ名門といわれる伝統ある高校が復活することで、都立高全体のイメージアップ=底上げにつながると思うのですが、いかがでしょうか?  また、私学からしか東大などの一流大学に進学できなくなれば、それこそ組合教師の嫌うところの新たな「階級社会」につながるのではないでしょうか?
 





●私は都内の大手塾で教室長をしている者です。
9月より新たにネット関連の子会社に出向しております。週の4日をこっち、3日を担当教室の分担で仕事をしています。
明日は3週間ぶりに休みですので、こうして書き込みが出来ます。
まあ、仕事の忙しさはおといて、具体的に私が何をしているかといいますと現在私達が運営している会社が作ったHPに会員として参加して頂いている私立校にアドバイザーとして定期的にお伺いして、広報や教務について求められた要望に応えるという仕事をしています。まあ、会員費で高額なお金を頂いておりまして、本来のサービスはこのアドバイザリーなのです。
さて、当然定員割れを起こしている現在の都内の私立校からの要望は「どうしたら生徒を集められるか」です。
ですから学校の特徴を良く理解してからでないと意見は言えないんですね。実は何校か校長先生と直接お話をするようになると、なかなか前途は厳しいなあ〜という例が圧倒的多いのが実感です。
で、結論を急ぎますが結局なにが問題になるかというと「組合」なんですね。結局組合の強い学校がどれもこれも生徒が集まらないようになっている。校長が改革を行おうとしても従わない教師が多い。結局何十年前のシステムを変えないので、時代や生徒のニーズに応えられなくなっている。ところが、教師達にはその自覚が全くないし、仕事が忙しくなるのは当然嫌ですから、組合の理屈でもって反抗し、労務問題をからめてくるのです。組織というものはどんなに指導者の意識が高くても、全員が同じベクトルを向いていないと力は発揮できないものなのですね。
ところが教師達の中には生徒が集まらないのを「少子化」のせいにして、「こんな社会状況の中で生徒をもっと集めろなどと、非常識なことをいう校長がいる」といったことを言うものまでいる始末なのです。

 ところが逆に少子化の逆境の中でどんどん応募者を増やしている学校もある。で、これらの学校の共通した特徴は「強烈なリーダーシップを発揮できる校長」がやってきて根底から変えていったんですね。じゃあ、具体的にどうしたかといいますと、人を入れ替えるというのが共通した第一歩だったのです。しかも10年前から準備をしていたものが今花開いたということなんです。

 某若手女優(都の西北の学校に在学中)が通っていた学校では10年前にたまたま理事長が見た「数年来で廃止されるであろう都内の私立中」という教育庁の文書に自分の学校の名を見つけたことから改革が始まったのですね。でその学校では何をやったのかというと教員の大部分を入れ替えたのです。しかも代わりの教員として全く経験のない大卒の新人をバンバン採用した。で、その新人を直ぐに教壇に立たせるようなことはしない。全員1年間民間企業に研修に出し(全員がサービス業でしかも男性教員は例外なく「営業職」)、みっちり民間企業の論理を叩き込むのだそうです。ですから先生たちが例外なく若い。で、その先生たち全員が皆「営業」ができるのです。(ちなみ以前お会いした20代の女性教師の方は話し方がホテルのフロントレディのようでしたので、そのことをいうと「研修は○○ホテルでした」というお答えでした)
また英検をやめ、なんと全員に「TOEIC」を受験させるのだそうで、高校生のうちに550点が必修なのだそうです。先ほど英検の廃止が発表されましたが、先見の明というか時代を読む目は確かですね。それでもう既に高校1年生で600点を超えるスコアを出した生徒が複数いるのです。
 他にもやはり女子校ですが、新校長になって組合の先生を次々と解雇した学校もありました。とにかく全体の1/3を解雇して裁判まで起こされても決して怯まずに改革を行った結果、今では1000名を超える受験生を集める人気校になった学校もあります。その先生が残した名言があります。解雇通告に怒った教師がなぜこのように解雇を強行するのか、と言われたところ、
「この学校が潰れるか、先生たちに変わってもらうか道は二つしかありません。ところが貴方は変わろうとしない。私は学校を潰すことはできません。」

 このように改革を行った学校の共通点は「変化」なのです。
ただしこれらの改革に成功した学校で流れた『血』の量がどれくらいなのか、それを考えるととてつもないことを行っているのだなあ〜、と実感もできますが。

 現代の進化論の前提である「進化とは環境に適応した変化である」という言葉を私は何度も思い起こしました。
 それで現在何の因果かこのような経営コンサルタントというか教務アドバイザーといった仕事をさせられていて思うのは、学校の先生たちが如何に世間の変化に気づいていないのか、ということなんですね。
 社会の変化によって環境はどんどん変化していますが、その社会の変化に全く気がつかずそれまでの手法を変えようとしない。人間というものは、特に年を取ると変えることをあまり好まないようですね。

 現在、学校改革に取り組んでいらっしゃるある学校の校長先生が余りにも改革が急なため、
「いつまでこんなこと続けるんですか」という不平をぶつけられた際に
「いつまでではない。これをずっと続けていくんだ」と応えたそうです。それで、
「そんなんで良い学校になると思っているんですか」という問いには「教師にとって居心地の良い学校は例外なく『生徒にとっては居心地の悪い学校』になっている。貴方達は良く『生徒の為に』などというが、それが生徒の為になっていないのは明らかでしょう。募集数は減っている。退学者も増加している。中学から高校へは成績の優秀なものから順番に外部へ出ている。今までのやり方は『生徒の為』ではなく、『自分達の為』としか言えない結果しか残っていないのでは」
と応えたそうです。

 現在の私の担当している学校ですが半数はこのような「組合思想」によって改革が上手くいっていない訳です。守旧派の抵抗というものはものすごいものがあるそうで、特に私立は人事異動が殆どないですから、組合の思想がどっぷりと染み付いている学校の改革は並大抵の覚悟じゃ出来ないのが実情なのですね。

 例えば授業前や放課後の補講、夏期・冬期休暇中の講習会も労務問題を出してきて応じようとしないのです。ですから校長先生がご自身で一人だけでも夏期講習会を行おうとしている学校まであります。その悲壮感たるや筆舌に尽くし難いものがあります。
 じゃあ、なぜそこまで私立校の校長先生が危機感を持つかというと石原都政になって都立高校の改革が急激に進んでいるというのがあるようです。

 先ほど都の教育庁はかねがね噂になっていた進学に重点を置く「重点都立高」を4校発表しましたが、そこに「国立高校」の名前がありませんでした。調べたところやはりキイワードは「国立」であるようです。
どうも組合の抵抗が根強いために都の思っている改革が出来そうにないという判断らしいですね。
 なんでもこの4校では「夏期講習会」「冬期講習会」や勉強合宿やカリキュラムの先取りの為の独自の授業時間割を認める(というか進学用のカリキュラムを黙認する)方向でいるらしいのですが、当然これには労務問題がからんできます。そのため、激しい抵抗が予想される「国立」は初めから対象外としたようです。
 なにせ、今回指定された1校ではご父兄から「協賛金」という形でお金を集めて塾・予備校の講師を招いて定期講習会や土曜補習を行うことを計画中とか…。これなんか、「都立高の教師じゃだめ」と言われているに等しいですよね。「都立高の教師が一人もいない=塾・予備校の講師が“教師”となっている都立高」なんてものが実現しそうで、組合の先生たちが大騒ぎするのは必至ですよね(もちろんそんなことは無いとは思いますが…)

 話を戻しますが、改革に苦労されている私立校の校長先生に私はこう言っています。
 「先生、大丈夫ですよ。例えば都立高校は巨大な組織ですから直ぐには変われません。しかし、私立は規模が小さいですから変わろうと思えば直ぐに変われます。何よりも先生、都立高の先生たちが先生のような危機感を持っていると思いますか。身分も保証され、失業の心配も殆どないのに、組合活動に注力していてもきちんと給料が支払われるような環境にいる人が変われる訳がないでしょう」





● もう十五年くらい前の、ある広島県の公立高校では、ある日教組所属の教員が、授業中「社会党賛美」を吹聴し、うんざりした思い出があります。勿論、国旗掲揚、国歌斉唱はどんな行事においてもなし。そのくせ(偏向教育者の言を借りれば)、校歌斉唱は「強制」させられておりました。校歌は「強制」するくせに、いざ国歌斉唱となったら、「強制はいかん」と反対する。一体どういう論理でもって「公立高校」の校歌斉唱には異を唱えず、国歌斉唱を「強制」の名の下反対するのか理解しかねる。
 「授業」が学校における日常行事と考えるなら、その論理でいくと必修科目はすべて「強制」になってしまうではないか、と思うのは私だけでしょうか。人権教育の時間にしても、これは必修だったから、同様の論理で、私は高校のとき「人権教育」を受けることを「強制」されていた。つまり、人権教育の強制的履修によって私の人権が蹂躙、無視、阻害、ないがしろ、コケ、圧殺、抑圧・・・されていたわけであり、全くもってけしからんことであります。
  国旗掲揚、国歌斉唱を学校行事に取り入れることを「強制」と叫ぶ日教組を中心とした教員たちが、彼らの論理整合性を保つために、授業をまともに聞いていない生徒に注意する論拠は「他人の迷惑になる」(=他人の人権を犯している)という一点のみであり、ここから、「誰にも迷惑かけてないからいいだろ!」の言い訳のもと、「授業不参加」「授業中の(いびきをかかない)居眠り」「遅刻」・・・が正当化され、それらが拡大解釈されて、いじめを注意した第三者に対して「うるせー、テメーに迷惑かけてるわけじゃねえだろ」みたいな反応、援助交際も需給の論理で正当化・・・・その他あらゆる忌々しき現象が正当化されていくのだと思います。
 現在のようなモラルの著しく低下した状況を作り出したのは、間違いなく、偏った「人権、平和」教育であり、誇りを持つのに必要な自尊心を「自虐的歴史教育」で粉砕している歴史教育に原因があると思います。
 最近やっと偏向的な教育に反対する良識的な発言が大きな声で言えるようになってきましたが、まだまだ不充分です。偏向派の戦術は「弱者」や「マイノリティ」を盾にするという悪辣極まりないものもあり、そういった圧力団体を背景にもった一部日教組に対抗していくのは「生命の危険」を感じるくらい困難なことである、というのを良識派の教員から聞いたことが思い出されます。






●自国に誇りを持てない自国を守った先人達にも尊敬を表せない、そして自国の歴史も知らず国家、国旗にも敬意を示せない哀れな日本人・・・。その一方、外国語だけ覚えて(国際人)になったつもりのほんとに哀れな日本人達。世界の人々が哄笑してます。いつになったら己の過ちに気づくのか。メディアが賞賛し畏怖する中国、韓国に領土を侵略、占領され(中華人民共和国日本自治区)となり財産は没収され愛する人達が犯されるまで平和ボケしたあなた達の目は醒めぬのですか?いったいいつまで自虐の殻に閉じこもり臆病猿のようにブルブル震えているつもりです?多くのアジアが期待し羨望する日本国の姿は中韓朝に過去のできごとを(外交カード)に使われ国家が国民を反日洗脳しているにもかかわらず、許されるはずもない謝罪と反省を念仏のように繰り返し、いいなりになるなさけない日本の姿ではなく国を守る気概、主体性国家としての誇りを持ち超大国アメリカにさえ堂々とモノを言うことができる真の意味で自立した日本の姿だと思います。中韓がでっちあげ主張するなんの証拠もない南京大虐殺や従軍慰安婦を事実として認識してるなら、すでに末期症状で私の言うことはなにもありませんが・・・。なぜ自分達の正義を信じられないのでしょう。あなた達の祖父の活躍でアジアの民は差別主義で黄色人種を下等な家畜くらいにしか思ってなかった欧米人から独立出来ました。その意気に感じ入りいまでも日本を尊敬している国はたくさんあります。タイ、ミャンマートルコ・・・。台湾なども日本の植民地支配を自国が近代化しインフラが整備された極めて重要で貴重な時期であったと公言し教科書に堂々と記載してあります。私は残念なことに日本人ではありませんが、日本に長期間滞在する親日家として貴国が真に自信を取り戻し自立してくれることを心から願ってやみません。





●「主任命課返上」って,知ってる?
年度初めの職員会議で,校長が主任の名前を呼び上げた後,呼ばれた先生方が立ち上がり,「主任制に反対し,命課(任命)を返上します」って,叫ぶ。 これが毎年のセレモニー。

ある学校では,名前を呼ばれること自体嫌だってことで, 主任命課が始まったら,先生方が職員室を出て行ったそうな。
すると,校長はその続きを校内放送で読み上げましたとさ。

これ,全部,本当の話。



「主任制反対闘争」に反対します! その1 

 主任制反対闘争とは、「学年や分掌、教科の主任なんていらないからハンタ〜イ」という闘争である。うちの職場では「主任」という言葉を日常的に使っているので、そんな闘争などとっくに形骸化していると思っていたら、今年度の活動方針案や多くのビラに相変わらず「主任制に断固反対しよう」などと書かれているので驚いてしまった。多くの○立高校ではまだこんなばかげた闘争をやってるんだ・・・。はっきりいって呆れたね。国旗国歌反対や人事考課反対というのは賛成できないが、その気持ちはわからないでもない。でも「主任制反対闘争」には賛成できないどろこか怒りすら覚えるよ。だって、学年や分掌に「まとめ役」がいなくて機能するはずないだろう。それがわかってるから(主任ではなく)「窓口」とか「連絡係」を置いているんじゃないか。実際には必要な役職を、いらないなんて叫んでどうするの。結局、今の主任制反対闘争なんて「主任を置かない」ことではなく、ただ「主任と呼ばない」だけのことなんだよね。それで何が闘争だよ。
 活動方針案には主任制反対の理由として、主任制は「校長ー教頭ー主任」というタテの指揮命令系統を作り上げ、自由で自律的な職場を上意下達で動く職場に作り替え、教職員の管理統制をはかろうとするものであるからとしている。しかし、よく考えてほしい。仮にも秩序だった組織ならば「タテの命令系統」があるのは当然だろう。主任がいれば「自由で自律的な職場」ではなくなるような書きぶりだが、本当にそうなのか。私は現在、某分掌の主任をやらされているが、重い責任と煩瑣な業務と面倒事を背負わせておいて、「あんたの主任という地位が自由で自律的な職場の雰囲気を奪っている」と批判するわけだね。冗談だろ。ふざけるな、って言いたいね。じゃあ、聞くけれど、私の主任という仕事はいらないってこと? 私が今の立場を降りて、誰も主任を引き継がなくても分掌はうまく機能するというわけ? だったら、どの学校でも窓口(主任)を撤廃してみなよ。それで学校が機能するんだったら納得するけれど、絶対にそうはいかないだろ。当然そんなことわかってんだろ。だったら、「主任はいらない」なんてつまんないこと言ってんじゃないよ。
 上意下達は嫌だ、管理統制は嫌だ・・・・。そんなこと他の社会で言ったら即刻リストラものだよ。公務員である以上、というよりどんな組織であっても、(原則的に)上意下達、管理統制は当たり前。現に、組合教師だって組合の「上意下達、管理統制」には唯々諾々と従っているじゃないか。組合の言うことは聞いて、給料をもらっている側の言うことには従わないと言うのは、どう考えても変じゃないのか。
 要はカダガタ言われたくないだけ、好き勝手にやりたいだけ。それを容認するのが主任制反対の論理だろうね。
 主任がないということは、個々がてんでんぱらばらで組織的に機能していないということだ。○立高校の風紀指導が徹底しない、進学指導がおろそかだ、教科指導がいい加減といつたマイナス面の大きな要因は、主任が有効に機能していないことが大きい。
 ○立高校を再生するには主任制をきちんと機能させるのが急務だと思うよ。




「主任制反対闘争」に反対します! その2 

 各主任には主任手当として毎月3200円が支給されている。(安いねぇ・・・)組合ではこの主任手当に関して「主任はいらないので、主手当もいらない」として、組合本部に拠出するよう要請している。その文書によれば、現在9割の主任が拠出に応じているというから、主任手当の拠出はすべての学校で恒常的に行われているようだ。
 しかし、それが妥当なことであるとは到底思えない。
 主任はいらないと本気で思っている組合員が主任手当を拒否したい気持ちは理解できるが、それをなぜ組合本部に上納しなければならないのか。文書を読む限り、主任手当拠出の理論的根拠は何もない。慣例だから、みんながそうしているからというのが、多くの主任の本音ではないのか。本当に主任手当などいらないと思うのなら学校でプールしておき、生徒会費や行事費等に使えばいいのではないのか。何をするにも予算が足りない折なので、その方がはるかに学校や生徒にとって有益だと思うのだが、いかがだろうか。
 とはいえ、組合に入っている主任はまだいい。組合の組織率は7割なので、9割の主任が手当を上納しているということは、2割の主任が組合員でもないのに主任手当を拠出させられている(巻き上げられている)ことになる。○立高校の中であえて組合に入らない教師は、組合イデオロギーに反対している者が多い。ということは、主任制に賛成しながらも主任手当を巻き上げられていることになる。もちろん喜んで拠出しているはずはないので、おそらくは組織率が高いゆえに組合の意思に反することで、同僚の反感を買ったり中傷されたりすることを避けているのではないか。いわば無言の圧力によって(強制的に)主任手当を巻き上げられているというのが実態であろう。
 残り1割の主任手当を拠出しない者が、その金を自分のものとして使えるかといえばそんなことはない。主任手当を1年分(約4万円)ためておいて、それを納会などでおごることになっている学校が多いというのだ。上記にように主任とは「重い責任と煩瑣な業務と面倒事を背負わられる立場」である。他の教員よりも明らかに仕事量が多いわけだから、主任手当を支給されるのは当然である。毎月3200円なんて安すぎるぐらいだ。その労働の対価として当然受け取るべき手当を、主任よりも仕事量の少ない他の教員におごらねばならないというのは、どう考えても筋が通らない。主任が苦労して得た金を、他の教員が当然のごとく飲み食いに使っている状態は明らかに異常である。
 主任制反対の論理は「タテの指揮命令系統をなくして自由で自律的な職場を作る」ことにあるという。だが、それは表向きの理由にすぎない。その根底となっているのは「誰もが身分的にも賃金においても平等でなければならない」という共産主義イデオロギーである。彼ら組合教師は自らの信奉する共産主義を職場において実現するために身分差の元凶となる主任を徹底的に否定し、賃金格差をなくすために主任手当を拠出させているのである。
 共産主義が結果として「低次元での平等化」に陥り、人間を腐敗させてきたのは歴史が証明している。主任手当の問題も共産主義の病理として考えると真相が見えてくる。
 主任は明らかに他の教員よりも仕事量が多いし大変な思いをしているのだから、「お疲れさま」という気持ちで主任手当を認めるのが人間としての本来的な思いやりであり優しさである。ところが、共産主義イデオロギーに支配されてしまうと、平等であることに固執するあまり、当然の対価として支払われた主任手当すらイデオロギーに反するものとして攻撃し、拠出させる(巻き上げる)ことに何の痛痒も感じなくなる。これは「人間としての本来的な思いやりや優しさ」の欠落した恐るべき状態である。
 主任手当を他の教員におごるという慣例に至っては言語道断である。主任が苦労して得た金を平然と飲み食いに使うという感覚には優しさや思いやりのかけらもなく、賃金を多く取る者に対する潜在的な憎悪すら感じられる。まさに、上にいる者を引きずり落とそうとする=低次元での平等化をめざそうとする、共産主義の病理が現れているといえよう。
 すなわち、「主任手当拠出」とは共産主義イデオロギーによる人間性を無視した病的な運動なのである。
 多くの共産主義国家において非人道的な殺戮が行われたのは、上記のようにイデオロギーを優先した結果ではないかとすら思っている。
 





●うちの子供(小学生)と話していたら突然こんなことを言い出した。
「私立中学ってずるいよね」
「何で?」
「だって受験には学校で習った内容が出ないんだよ。あれじゃ(経済的理由で)塾に行けない子は私立に行けないってことじゃん」
「・・・・」
以下、会話が続くが、うちの子供が憤っているのは、「経済的に恵まれないといい大学にいけない」ということである。偏差値の高い大学に行くことがいいことかどうかという議論はさておき、小学生までこんな認識をもっているとは驚きだった。
 すでに「教育崩壊の元凶を名指す」という論文に書いてあるが、「経済状態のいい者でないといい大学に入れない」という現状を作り出した最も大きな要因は公立高校の凋落にある。東京では、「いい大学に行こうと思ったら私立高校へ」というのが常識であり、その私立に入るために塾へいくという「受験の低年齢化現象」を生み出している。
 なぜ、都立高校がダメになったのか。その理由は二つある。一つは「受験競争を緩和する」ための学校群制度であり、もう一つは三十年ほど前、組合が中心となって「自由で自主性を重んじる教育を実施する」ために、受験指導と生活指導を積極的に放棄したことにある。(信じられないでしょうが、これは事実です。当時のま立は今以上に組合に支配されていたのです)以後、見る間に都立高校は凋落していき、その間に「都立が放棄した生活指導と受験指導」を私立が全面に打ち出すことによって、都立との逆転現象を起こしたのである。
 「学校群制度」と「自由で自主性を重んじる教育」の共通項はともに、管理や競争を排して平等を是とする思想であり、(しつこいように言うが)これは共産主義(左翼)イデオロギーそのものでである。
 こうしたイデオロギーは単に都立高校を凋落させただけではなく、都立と私立との格差を歴然と生じさせ、家庭の経済状況によって将来がある程度決定されてしまうという、「教育の機会均等」という民主主義の根幹を揺さぶるゆゆしき事態を生み出している。小学生からこういう事態に気づいているのならば、経済状態の恵まれない者は「努力してもどうせいい大学なんて行けないだろう・・・」というように人生の早いうちに諦めを抱くであろうし、その諦観が向上心や勤勉さを奪い、享楽主義に陥らせるであろう。貧富による階層化が進めば、文化やモラルは劣化し、身分的に下位に位置づけられた者たちの不満から、秩序は崩壊していく。この十年、子供たちの学習意欲がどんどん低下しているが、単に「ゆとり」を推進しただけではなく、こうした階層分化による諦観という側面も大きいかもしれない。
 また、都民の側にすれば、都立高校を存続させるために都民税を払い、その都立に行かせないために塾や私立学校に金を払っているのだから、これほど馬鹿げた話はない。
 すなわち、共産主義(左翼)イデオロギーは都立高校を凋落させるのみならず、都民を階層分化させ、下位層の心を荒廃させ、上位層には多大な教育費の負担を強い、文化と秩序を劣化させ、東京という巨大都市の内部をじわじわと蝕んでいるのではないか。しかも、こうしたイデオロギーを未だに組合が信奉し、都立高校内部において敷衍しようとしているのであるから、都立高校の抱える病理は深いといわねばならない。
 ともあれ、早急に取り組まねばならないのは名門校の復活である。経済状態に恵まれなくても、皆に機会が与えられていると意識が、子供たちに向上心や勤勉さといった前向きな姿勢を与えると思うのだが、いががだろうか。


(怒りの補記)
 上に記したように当時の都立高校では「自由で自主性を重んじた教育を実施するために生活指導と受験指導を放棄する」などという信じられないことが行われました。多くの教師が異常なイデオロギーに支配され、常識的な判断を失ってしまったのです。こういうとんでもないことが行われた背景には、組合左翼教師が職場を牛耳っていたということもありますが、それ以外の教師も「生活指導と受験指導を放棄した方が楽になる」という怠け心と「都立だから、生徒がいいから大丈夫」という甘えによって組合の方針に異を唱えなかったのです。当時の都立は優秀な生徒が集まっていましたのでさしたる問題も起こらず、教師たちは生活指導も受験指導もすることなく、ひたすら安逸をむさぼってきました。ところが、当然のごとく都立は凋落をはじめ、多くの教師たちはどんどん「いい学校」へと逃げていきました。そうして、本当に都立がどうしようもなくなったときに教師になったのが、私以降の世代です。若手の多くは「底辺校」へ配属され、辛酸をなめるような教師生活がつづきました。今でも多くの教師が大変な学校で苦闘の日々を送っていますが、それらの大半は「異常なイデオロギーを敷衍したツケ」を払わされているということなのです。しかも、当時の組合左翼教師や、その下で安逸をむさぼっていた教師たちは、けっしてツケを払おうとはせず、関係のない私たちが苦闘しながらそのツケを払わされているのです。これが許せますか。私が組合やそのイデオロギーを徹底して憎悪するのは、理論的に誤りがあるからというより、私に塗炭の苦しみを与えた対象そのものだからというのが本音かもしれません。







● 「組合教師」は学校で生徒に向かって何をしているか。
警察官や、自衛官の子供が、彼らにどのような仕打ちにあっているか、洗脳という言葉が適当でないとありましたが、教室で、彼らは子供たちが自分と違う意見を持つことを決して赦すことはありません。洗脳プログラムというものをご存知でしょうか。

@自己批判 自分自身を振り返らせ、反省させる(自分に非があるものと思いこませる)。そうしながら、特定の思想を植えつける
@´啓発教育
Aディベート(ブレーンストーミング) 話し合い、意見の交換をさせ、植えつけた思想が自分で導き出したもののように錯覚させる。@の時点で先入観が入っているので、(特に子供たち、学生たちの場合、教師におもねることもするので)結果は見えています。子供たちの導きだした答えが違っていても彼らの考えが変わることはありませんし、再び@とAの過程を繰り返して生徒たちの考えを変えてゆくだけのことです。
Bロールプレイ 多くはAで完成しますが、より強化するために役割分担で演技をさせ、追体験させます。似たものに、疑似体験(シミュレーション)があります。

他、ゲームや、価値観のランキングによる教育方法があります。ランキングは使われている報告資料を見たことはありませんが、他はすべて、私のHPで公開させていただいている資料にその実行報告があります。
洗脳の定義とは肉体的な苦痛を与えた上での教育なので、正確にいえばこれはマインドコントロールのプログラムなのですが、カルト宗教などでもよく使われている手です。
このようなプログラムを使用してまで、組合教師は、誰のこともゆるすことをしていません。そしてこのマインドコントロールの効果がなかったものに対しては、容赦なく排斥を行うのです。
「社会的弱者」でさえ、彼らにとっては道具です。なぜなら、その社会的弱者が彼らと違う意見を持ち、反抗したときに、彼らは、切り捨てるばかりか、執拗ないやがらせをしたりするのです。
あと、彼らの「敵」である校長先生に対する吊るし上げも、現代社会では考えられないほどに残酷です。公の場のつるしあげばかりでなく、いやがらせ、尾行、悪質なストーキング行為をされた結果心身症となり、亡くなられた校長先生のあることをその家族から聞いています。
双方の意見を受け止め、などと、一番考えていないのは彼らです。






●今日、同僚からこんな話を聞きました。
「ぼく、最初の学校で、つるし上げっていうの見たんですよ。一人の教師を取り囲んで、罵声を浴びせて糾弾するんです。すごいですよ。同じ同僚によくそんなことができるなって。あれ、恐怖政治ですよね。誰だって、吊るし上げなんかされたくないから、みんな強い方についちゃうんですね。それを見て組合が嫌になったわけなんですけど……」
 これ10年前の話だそうです。うへ〜、







●清水幾太郎氏が次のように述べております。
「職業の軽蔑や無視については、日教組も、アメリカ占領軍、「旧制高校オンチ」、満腹の学生とあまり変わらない。日教組の槇枝委員長(当時)によれば「教育は誰かが誰かのために役立つ人間をつくるのだという考え方に立っているのが中教審路線であり、・・・・・誰かが誰かのために役立つ人間をつくるなどという、特定の人、特定の階級のための教育であってはならない」(『世界』昭和48年8月号)。日教組は、その全組織を挙げて、誰の役にも立たない人間をつくろうとしているのか。日本民族を無職浮浪の民たらしめんとしているのか。
もともと、職業には二つの意味がある。一つは、誰かの役に立つ活動を行い、それによって報酬を得て、それで生存に必要な物資を買うという生物的意味であり、もう一つは、自分の活動が誰かの役に立っているという自信や満足という社会的意味、要するに、生き甲斐である。人間は前者によって、生きることが可能となり、後者によって、生きることの意義を知る。」






●本日、国立市の三つの中学校で卒業式が行われました。ごく普通に国旗を掲揚(掲示?)し、国歌を斉唱したそうです。左翼市民団体による妨害もなく、どこも式は無事に終了したとのこと。
 国歌はほとんどの生徒が起立、斉唱したそうです。保護者もほとんどの人がやはり起立、斉唱したそうです。これまで、いかに「ごく一部の人」がさも「全体」のような顔をしてやりたい放題やっていたのかがこれで証明された、ということでしょう。






●「従軍慰安婦に国家補償をしなくてもいいという考えは合理的だが冷たい(だからよくない)」と言う考えを実に奇妙に感じていました。論理よりも感情を優先するなどという無茶苦茶なことをどうして平然と言えるのか不思議でならなかったのです。でも、「彼ら」特有の単純な二元対立構造で考えると、なんとなく理解できました。

「旧日本軍によって虐げられたけた従軍慰安婦(可哀想な存在)=善」 VS 「従軍慰安婦をもてあそんだ旧日本軍=悪」

という図式を無意識に設定しており、「合理的な考え」を認めてしまえば、「従軍慰安婦=可哀想な存在」という前提が崩れてしまい、この図式が成立しなくなってしまいます。そこで、「冷たい」という感情を持ち出すことによって、この図式を守ろうとしたものと考えられます。
 この単純な二元対立構造はマルクス主義による「労働者(善)VS資本家(悪)」という階級闘争イデオロギーそのものですね。「彼ら」にはこの物差し(考え)こそ絶対的に正しいと信仰しており、現実の諸相をこの物差しによって捉えようとしているのでしょう。ちょっと図示してみます。

虐げられる側(善)  虐げる側(悪) 

労働者        資本家      → 労働運動
従軍慰安婦    旧日本軍   → 従軍得慰安婦問題
アジア諸国    旧日本軍   → 歴史認識問題
生徒        教師     → 管理教育批判
教師        管理職 教委 → 組合運動
女性        男性、    → フェミニズム、ジェンダーフリー
女性        家制度    → 夫婦別性
自然 動物    大企業 人間 → 環境問題

ソ連の崩壊によって思想的基盤を失った者たちが、自らの信奉する「物差し」の誤謬を認めることができずに、社会の諸相にその「物差し」を当てはめて活動の根拠としているのでしょう。ただ、現実の諸相はこれほど単純ではないだけに「彼ら」の発想や行動からは様々な問題が発生するのです。






●今の文部省の政策は、驚くほどかつての日教組・社会党・共産党・公明党が主張してきた施策と似通っている。
 かつては、文部省がこれらの勢力への防波堤となっていた。
 ところが、受験”戦争”批判が起きた。
 世論に押されて「反省」した文部省が、率先してこれら勢力の政策を押し進めた。
 すると、受験の圧力が低下した。 けれど、子供たちは荒れ始めた。
 悪いのは、国として施策を進めた文部省と、圧力をかけ続けたマスコミと国会かもしれない。
でも、一番悪いのは、こんなくだらない政策を長年主張し続けてきた、日教組と、その御用学者たちなのは間違いない。





●「日本がみんな悪かった」式の歴史観を持つ人々は、マルクス主義的な階級闘争イデオロギーに深く傾倒しているがゆえに、コミンテルンの「日本への敵意や憎悪」を受け継ぎ、この国を悪しざまにののしることに喜びを見出しているのです。まさに、奇矯でいびつな心性だというしかありません。
  仏教では「縁」を重んじ「他者との縁によって生かされていることを認識して感謝の心を持つことが大切である」と教えますが、この「他者への感謝の念」こそが博愛や慈悲、友愛、協調といった善性につながってくるのだと思います。他者に生かされながらも「感謝の念」を持たず、ひたすら権利、権利と騒ぎたてて自らの利益のみを追い求めようとする者は「畜生道」に堕ちるしかないのです。







●組合など百害あって一理なし。俺はT県で無理矢理加入させらたが、出身県に戻ってからやめることができた。あいつら、言うことは立派だが仕事はしない、休みまくるで、他人に迷惑をかけることしか能のない連中ばっかりだ。
 あれが左翼的生き方なんだろうけど、まじめに教育に携わろうと思っている俺には、ただの給料泥棒にしか思えない。
 悪いことは言わん。入らされてもいつかはやめろ。





●組合は、北朝鮮と同じで、思想統制や脅迫等の恐怖感を植え付けて組織を維持しています。
 情けないのは、それら組合ハラスメントと堂々とたたかえる教員が少ないのです。これだから教員は馬鹿にされるのです。
日の君反対闘争は、時代錯誤の荒唐無稽な運動で面白いので これからも止めずに続けてくれ。馬鹿丸出し運動だぞ。
今は、保護者に内心アホ扱いされてますが、そのうちに、子どもにまで馬鹿にされる時代が来ます。 それまでには組合を脱退する事を勧めます。





●今、日教組が駄目な事は、公然の事実です。 しかし、駄目教員の後ろ盾としての役割にはなってます。
だから組合活動の盛んな地域は、駄目教員の天国です。仕事サボリ放題 大歓迎です。






●日教組編『発展するチョソンと教育』1973年より抜粋

奥山えみ子(日本教職員組合婦人部長)
「『チョソンという国はキム・イルソン一家だ』と私は率直に思った。キム・イルソン主席を父として、すべての人民が一軒の家族のように、ぴったりと呼吸を合わせ、輝かしい未来に向かって。チョンリマのようにかけつづけている。」

久保田欣一(鹿児島県高等学校教職員組合執行委員長)
「この国の人々が、明るい未来の建設に身も心も捧げ、そしてそのために真剣に世界の平和を願い、日本の民主勢力の発展に期待する心をひしひしと感じ取る。日教組の任務と責任は大きい。5年、10年と経てこの国がチョンリマの発展をとげることを確信し、滞在中に寄せられたさまざまの心づかいに深く感謝して帰途についた。」

藤田行雄(三重県教職員組合組織部長)
「各界の指導者が30歳〜40歳が中心で若さのあふれた国だけに、10年後の共和国は南半分の統一も含めてすばらしい社会主義国として発展するであろうと確信した。」

本間直行(岩手県高等学校教職員組合常任執行委員)
「チョソンのすばらしい教育に直接ふれ、今のうちに日本の教育の行くべき道を正さねば…とも強く感じるのである。ほんとうによい学習の機会を与えていただき感謝にたえない。」








●都立○高校って知っていますでしょうか?都立校史上で最初に廃校になった都立高校です。
元々は校舎が古かったため、移転するという事だったのですが、移転先には都立初の国際高校である都立○高校が造られてしまい、あえなく廃校となりました。 元々校舎があった場所には、敷地面積が狭いため、立て替えが不可能だということで移転するという話だったのにも関わらず、なぜか現在では都立初の単位制高校である都立○高校が建っています。
噂によると、元々ここの教員は日教組が多く問題になっていたとのことです。そこでこれらの教員を廃校によって解体することが、一つの狙いだったそうです。 まぁ、○高校の末期はどうしようもない高校に落ちぶれていたから、全体の雰囲気としては、廃校もやむなしといった、ところだったんでしょうが・・・・。一応、私の母校だったので残念でした。
この件について、本当のところはどの様な経緯だったのでしょうか。もし知っている方がいらっしゃいましたら、お教え下さい。
よろしく御願い致します。

●日教組というより(  )組合の狂った連中が○高校をつぶしたようです。当時の校長から直接聞きました。組合の執行部の統制からはずれた連中が、自分たち本意のぬるま湯につかりすぎたようです。
この当時のある数学科教諭は、次の学校でも数を束ねる政治家として暗躍し、統廃合へと追い込んでしまったそうです。
教委からは経営改善が見込まれない学校として見限られてしまったそうです。






●現在の学校が抱えている問題の多くは朝日新聞がさんざん今まで主張し、新聞の持つ最大の武器である世論の操作により「子供の人権を認めろ」「詰め込み教育反対」「等しく平等な教育」「受験戦争を亡くせ」「個性の尊重だ」といった考えを大衆が支持し(今は疑問を持つ人の方が多いとおもいますがね)、文部官僚や教育評論家や現場の教師がそれを実現した結果が学級崩壊ではないかと思うのです。










●はじめまして。私の勤務する都立○高校は○日が卒業式なので、あいも変わらず、国旗を舞台上のどこに置くかというところで攻防戦が行われています。
  さて、本校は分会長が、自己申告書不提出、国歌が流れれば真っ先に着席してしまう、ストライキは徹底的にやろうと主張する、いわゆる模範的な組合員です。本部委員の方は、管理職と対決しなければ組合では無いと固く信じている人で、以前の学校ではお目にかかったことのないタイプです。
 ○学区を見る限りでは、最も組合教師が多いのは○高校ではないかと思われます。校内委員の選挙も、1票を争う黄色対青の対決構図があるようで、本部委員会で発言しまくるようなレベルの方がズラリ揃っていて、層の厚さ(?)を感じさせます。他に目立つのは○高校で、こちらは一転して困難校・・・。過激な日の丸反対闘争で一躍有名になりました。ストを立派に(?)やりぬいたために、生徒は大喜びで集団脱走し、何十人もタバコで指導するハメになったとか。
 同じ困難校でも、○高校は組織率も低く、企画調整会議は非組一色となっているようです。こういう状況になってから、学校が急速に良くなっていったことが報じられました。
 どんな職場であっても、大物組合員が牛耳っていると、それに踊らされる人がでてきて、メチャクチャにされてしまうと思います。そうやって洗脳されてしまった人に、反組合色の強い方が何か言っても、かえって頑なにさせてしまうことが多いようです。(中略)
 うちの学校や、近隣を見ても、最近の組合の脱退ブーム(?)は、加速がついて、もはや止まらないといった雰囲気が伺えます。日教組の滅亡は意外と早いのではないか、という予想を持っています。とりあえず、職員会議や職場会で言いたい放題言って、少しでも多くの人が目を覚ますように持っていきたいと思っています。それでは……。







●尾崎行雄『民主政治読本』より

「民主主義は個人の自由権利を尊重する。しかし、いかに個人の自由権利を尊重すればとて、他人の自由権利をおかしてまで、個人の自由権利を主張していいはずはない。真に自分の自由権利の尊さを自覚した人なら、他人の自由権利の尊さを思うべきだ。もし、自分の自由権利を主張するために、他人の自由権利は踏みにじってもかまわぬというようなことが許されるなら、民主主義社会の自由は全体として失われる。社会が全体として自由を失えば、その社会の一員である個人の自由もまた、失われるのは理の当然である。
 近頃、民主主義をはきちがえて、自分の、または少数団体の欲望を満たすために、他の多数の迷惑を顧みず、わがまま勝手を振る舞う心得違いのものがだいぶ増えたようだ。こうゆう不心得ものに、正邪善悪の物差しを教え込むことが、民主教育教育の一大使命である」

これを「ひのきみ」問題にあてはるとこうなります。
「いかに個人の自由権利を尊重すればとて、他人の自由権利をおかしてまで、個人の自由権利を主張していいはずはない」
→いくら、ひのきみが嫌いだからといって、それを望む他人の権利を侵してまで、ひのきみ反対をしてはいけない。

「自分の自由権利を主張するために、他人の自由権利は踏みにじってもかまわぬというようなことが許されるなら、民主主義社会の自由は全体として失われる」
→ひのきみ反対を主張するために、ひのきみを望む多数の権利を踏みにじってもかまわぬということが許されるなら、民主主義社会の自由は全体として失われる。

「近頃、民主主義をはきちがえて、自分の、または少数団体の欲望を満たすために、他の多数の迷惑を顧みず、わがまま勝手を振る舞う心得違いのものがだいぶ増えたようだ」
→近頃、民主主義をはきちがえて、自分の、または少数団体の欲望(ひのきみ反対)を満たすために、他の多数(ひのきみを望む者)の迷惑を顧みず、わがまま勝手(ひのきみ反対)を振る舞う心得違いのものがだいぶ増えたようだ。

「こうゆう不心得ものに、正邪善悪の物差しを教え込むことが、民主教育教育の一大使命である」
→こうゆう不心得もの(日教組)に、正邪善悪の物差し(常識)を教え込むことが、民主教育教育の一大使命である。
 うははは……なんか笑ってしまいました。

 ひのきみ反対運動こそ少数の意見を多数に押し付けようとするもっとも民主主義からほど遠いもの。「歌いたいものは歌い、歌いたくないものは歌わなくてもいい」という「真の民主主義」を行うには、拒否する自由を認めた上で実施するしかないのです。











●今回の里帰りで一番ショックだったのは幼稚園時代からの友人達と話をして、わが母校の小学校の凋落ぶりを聞いたことでした。私達が通ってた20数年前のわが母校は、勉強こそ今イチでも、道徳の面ではかなりきっちり教育されていたのに、今やそれすらも木っ端微塵に打ち砕かれるような教育がなされていると聞いて、子どもを母校に通わせている友人達は憤懣やるかたない様子でした。 例えば、子どもにプリントを与えて廊下でたばこを吸ったり授業中に平気で携帯で話をする人(こういう奴等は先生と呼ばれる資格などないと確信していますので敢えてこう呼びます。)、「分数なんて社会に出たら使わないから覚えなくていいよ。」などとクラスで公言してはばからない人、給食当番を廃止して嫌いなものは食べなくてもいい、好きなものは早い者勝ちなどと指導している人などの話を色々聞きましたが、(ちなみにこれは保護者からだけでなく、教師の友人からも聞いた話も含まれます。彼女は私の母校勤務ではなく、郡内の別の小学校勤務ですが。)その中でも私も許せないと思った事柄をいくつかまた後日紹介して、友人達の溜飲を下げたいと思っています。
 こういった話を聞くと最近ピンとくるのは「ははん、これは組合の強い学校やな。」ということで、案の定我が母校ではすでに日の丸掲揚も君が代斉唱もなし、運動会の徒競走もなしです。娘ももうすぐ4歳、私の地元で小学校体験入学をさせて彼女の友達と元気に学校に通う姿を見るのを楽しみにしていたのですが、母校がこんな状態ではそんなことはできそうもないと暗い気持ちにさせられた里帰りでした。











●戦争で死んだ人を「ムダ死にである」と主張する人は、そもそも死者の行為を云々し、あまつさえ死者の想いを忖度(or曲解)することこそが不遜の極みであるとの認識が足りないようです。思いを吐くときに検証されるべきはその当否のみならず、自らの人品も看られているのだという当たり前のことに気づくべきなのです。
 「ムダ死にである」と主張する人の顔を見てください。誇らし気です。何ゆえにそんなに得々とした表情を作り得るのかは不思議なところですが・・・それは彼が守っているもの故なのでしょう。「ムダ死にである」と主張する人々が墨守するものはわれわれのそれと明らかに異なります。
 彼が守るは己れ独りの名誉のみであり、そのためならば過去に対する畏敬も未来に対する責任もありません。それは「ムダ死にである」との主張が覆された際の、彼の採る行動が、必ずと言って良いほど、激昂に至ることからも明らかです。
 「世代を守らねばならぬ」「われわれはわれわれの祖父の世代を不当な侮辱から守らねばならぬ」と考える者が、その主張を覆されたときに感じるのは深い悲しみです。なにゆえ同じ父祖を抱く者であるにも関わらず、アナタはそこまで祖を貶めるのか?との情けなさが湧くのです。
 片や激昂し、片や深い悲しみに陥る・・・その差異は守るべき対象の違いに由来するのでしょう。
 
私は「先人が木を植え、後人はその木陰で憩う」との箴言が好きです。ここに登場する先人と後人はたまたま同時代に生まれ落ちることはありませんが、この両者の間に会話はしっかりと成立しています。先人は後人がここで憩うであろうことを期待し、自己の生が時を超えることをその木に託す。後人は先人に感謝するわけです。「ありがたい」と。
 「ムダ死にである」と主張する人は、木に託した先人の想いを打ち砕く人々です。「人の生なんて所詮はちっぽけなもんだ。でも、俺の行為が後に続く人々のためになるのならば、それはそれで価値ある一生だったというべきなんだろうな」との想いが一本の木に託され、その想いがわかるからこそ後生の者は感謝を抱くと共に感慨に耽るのです。「俺は後生の者に何を残せるだろうか」と。
 「ムダ死にである」と主張する人は、先人の植えた木を呵責無く切り倒し平生としている者達です。先の大戦に関して申すならば、彼等が後に続く者たちに「かくあれかし」と託したものを一顧だにしない人々です。
 許すことができません。








●イデオロギー先生が1割いるというのはかなり危険な数字なんです。私も以前に試算したことがあります。
各都立高校に4人のイデオロギー先生がいるとします。都立は約200校ありますので、約800人ですね。で、各先生は一年に200人くらいの生徒を教えますので、一人が定年までに教える生徒数は200×40で8000人。800人のイデオロギー先生が教える総計はなんと8000×800で640万人!!! たったの800人で都民の半分に影響を与えるわけです。そのうち1割の生徒がその思想を信用したとしたら約60万人の「同士」を育成することができます。実は以前の都知事選のとき、共産党の三上候補(自分が金八先生のモデルだと公言した厚顔無恥な御仁です)の得票数がちょうど60万なんですね。(笑)まぁ、これは半ば冗談としても、相当数の生徒に影響を及ぼすことは間違いありません。教育がじわじわときいてくる「兵器」であるというのは納得ですね。
 ただ、幸いなことに、このイデオロギー先生はだいたい団塊世代に属しており、彼らが退職したら職場は激変するのではないかと密かに期待しているわけです。

●1割の過激な日教組先生と、9割の常識先生がいるとして、「1割の日教組先生が各学年に均等分布していると仮定した時、小学校入学から高校卒業までに、いったい何割の子供が洗脳(影響)されるのか」を考えてみます。
 小学校課程は低・中・高と2年区切りでクラス編成をします。中学と高校では毎年ですから、小学校入学から高校卒業まで都合9回、担任が替わるわけです。必要な計算式は「生存率」の方法同様、影響を受けない可能性を持つ生徒の割合算定で行います(乗数計算)。
 小学校課程ですが、生存率90%の3乗が6年卒業時の「生き残り」ですから、0.9×0.9×0.9で72.9%となります。中学でも3回替わりますから0.729となりますが、初期値が1でなく0,729なので、結果は53.1%まで落ちます。高校まで行くとなりますと、更に0.729を掛けますから、生き残る子供は38.74%まで減少するわけです。つまり100人中61人が、何等かの影響を受けるわけです。
 逆に、最終段階の数値を0.9にしようとすると、教師側の不良率は0,011になるわけで、100人中1人、1000人中11人までが許容範囲となるわけです。ですから、過激な先生1割(10%)と言う数字は、極めて危険な数値であると言えるでしょう。





●成人式の混乱は日教組教育の結果なのかという問題に関して、ネット内でもかなり討議されているようです。そういう論議をざっと見ても、大部分の人は日教組に象徴される戦後教育に問題があると考えているようです。成人式の状態を見て「管理が強くなったせい」だから「自由にのびのびさせればいい」「ゆとりを持たせればいい」と思う人はまずいないでしょう。朝日や日教組的な教育論の出番は、もはや全くないのです。
 前にも書きましたが、私も成人式の混乱は日教組的な教育論の結果であると強く感じます。たとえば、「義務」を教えず「権利」ばかりを教えれば、やはりああいう結果になるでしょうね。
 例えば……人に親切にしてもらえば、ありがたいと思って感謝し、その人のために何かをしなくちゃいけないという感覚を持ちます。こういう義務感の発露というのは、人間として自然な感情だと思います。ところが、権利の意識ばかりを教えると、義務感が育たず、同時に義務感を発露させる「感謝や恩義」も感じなくなり、「されて当たり前」「奪えるものは何でも奪え」的な感覚に陥ってしまいます。
 成人式で騒ぐ若者はこの典型ですね。行政に庇護され、教育を受けさせてもらい、安全で快適な暮らしを享受しながら、その恩義をまったく感じることができず、その恩恵を授けてくれた存在に対して無礼きわまる態度をとっているわけですから、もう最低の人間だといえるでしょうね。
 こうした戦後教育によって、エゴをむき出しにする愚劣な人間の群れが大量出現し、それが成人式に表れたというわけです。
 ただ、多くの国民がこのことに目覚めつつあるのが救いですね。







●1942年2月15日、パーシバル将軍に率いられたイギリスが正式に日本軍に降伏し、アジアの国による新たな植民地化が始まりました。日本軍の占領によってマラヤは社会的、経済的な被害を受けましたが、政治的に言えばマラヤ人々にとって覚醒ともいえるものでした。  
マラヤ人はイギリスは無敵の存在と考えてましたが、そうではないことが分かったのです。言い換えれば、日本の成功が西洋列強からの独立の精神を呼び覚ましたということもできます。 (略)  日本の占領が多くの人々に経済的苦しみを与えたことも事実ですが、彼らの登場と成功によってアジア人に自らの自覚が生まれました。アジア人たちは西洋人に対する自信を取り戻し、偶像化することも少なくなりました。  日本の力が増し、日本の影響力が強まることで、マラヤ人の独立に向けた闘争は早められましたのです  
 日本による軍政が経済的社会的な苦難を伴ったことは確かですが、その軍政がある意味ではマラヤ人に劇的な政治変化をもたらしました。日本がたった70日という短い期間でイギリスを打ち負かしたことを見たマラヤの民族主義者たちにイギリス植民地主義は無敵でないことを植え付けました。  日本は負けましたが、日本の占領はマラヤ独立闘争を続ける火種を植え付けたのです。(国立マラッカ独立宣言記念館)




●多摩教組というのは国立市に関わりのある者として、本当に彼らには腹が立ちます。
 東京都の日教組が分裂したとき、大きく分けて、穏健派が共産党系の「都教組」、左派が旧社会党系の「東京教組」(日教組の東京支部のようなもの)になりました。(この辺りは全国の組織とねじれています。全国的に日教組は現実路線をとっていますので。)多摩教組というのは、この旧社会党系の東京教組の下部団体ということになっています。「生活者ネットワーク」という極左集団とも提携しています。
 ただ多摩教組は、戦後から市民運動が盛んで、多数の赤い教師が巣くっていた国立市に勤務する、または勤務していた教師が中心になってできた団体ですので、あまりにも常識がなく過激すぎるので東京教組でも持て余しているのが現実です。正式に下部団体としては認定していないのに、勝手に「東京教組=多摩教組」を名乗っているという噂を聞いたこともあります。
 国立二小で処分された都教組の教師でさえ、多摩教組と手を組むのは嫌がっています。
 彼らの特徴は、とにかく指導力がない(子どもの人権とか言いながらさぼることばかり考えている団体ですから)ということ。無能な教師の集団と言っても過言ではありません。市内では2小・5小・6小に比較的多く、彼ら(彼女ら)に子どもを担任された親は泣いています。
 その無能ぶりを隠す一種の免罪符として、「国旗・国歌反対」「反日・反資本主義」運動に熱心なことは、増田「せんせい」と同じですね。
 彼らは平気で嘘をつくし、子どもを洗脳して盾にします。この集会も、まともな親が行っても、左翼の活動家(全共闘崩れ)に牛耳られていて何も意見を言える雰囲気ではないでしょう。以前国立市で行われた集会も、活動家と、一橋大学の左翼学者と学生、左翼市民団体が牛耳っていましたし。もし何も知らずにこの集会に出られる方がいらっしゃるなら、彼らの言葉を全て疑って下さい。事実を多少言い換えているなんてレベルではなく、全くの嘘を真面目な顔をして言いますから。増田「せんせい」の件からも、彼ら「反日市民」の実態はわかると思います。
 まったく、「日の丸・君が代に反対することは自由だけど、教育公務員としての勤務中に、その立場を利用して行うことは許されない」「校長に意見を言うのは自由だが、教師が煽動してやらせることは許されない。立場をわきまえない礼儀知らずな態度も許されない」という常識・良識がかけらもないんですね。何が「不当処分」でしょうか。許せません。 




 
●九九九さんのHPのメール紹介コーナーがここのところ面白すぎます。みなさんにもぜひ読んでいただきたいので、また転載させていただきます。次回からは了解を取りますので、今回までの分は許してね!(^^


連合赤軍「あさま山荘」事件  文藝春秋刊(文庫版)著者 佐々淳行氏

第四章「戦略」銃後の守りP181 10行目 〜 P183 11行目
(実際は縦書き・改行は原文のまま)

 何故留守宅が心配だったかというと、いまと違って、あの頃はマスコミや世論がどちらかというと学生の反体制運動に同情的で、警察、とくに機動隊は権力悪の権化みたいな扱いを受けていた時代だったからだ。
 あの頃は警察官の家族であるというだけで小学校などで日教組の教師から不当な差別をうけるという、今日の若い人たちには想像もできないようなイデオロギー優先の時代だった。
 私が警視庁の警備第一課長で、東大安田講堂事件だの全共闘の街頭ゲバ闘争の警備などに寧日ない、いわゆる第二次反安保闘争はなやかなりし頃、ある日次男の敏行が区立の中丸小学校から泣きべそをかきながら帰ってきた。
 きけば担任のSという女教師に授業中に「このクラスの子でお父さんが警察官と自衛官の子供は立ちなさい」と言われ、次男がほかの警察官や自衛官の子供たちと顔を見合せながら立つと、S教師は「この子たちのお父さんは悪い人たちです。あんたたちは立っていなさい」といわれゆえなく立たされたというのである。
 世田谷の三宿に陸上自衛隊駐屯地があるところから、警察官と自衛官の子供は結構何人かいたようだ。親の職業で子供を差別して悪いこともしていないのに立たせるとは何事かと激怒した私は、早速校長先生に抗議した。校長は「日教組には私も困らされています。ですが相手が悪い。また子供さんにはね返っても行けないから」と言を左右にして一向に煮え切らない。
 「では教育委員会に公立小学校における親の職業による差別として正式に提訴しますから」と告げると、これはいけないと思ったのか、校長はS教師を家庭訪問の形でさし向けてきた。
 S教師は「ベトナム戦争はけしからん、自民党政権は軍国主義復活を目指している。機動隊は学生に暴力をふるう権力の暴力組織だ」などと日教組の教条主義的な公式論をまくしたてる。
 一通り言わせておいてから「私が言っているのはベトナム戦争や全共闘のことではない。貴女は親の職業で罪のない子供を立たせるという体罰を加えたようだが、小学校教師としてそれでいいのかと尋ねているんです。反省しないなら私は教育委員会に提訴するつもりです」という。
 S教師はヒステリーを起こして「やるならやって御覧なさい。日教組の組織をあげて闘いますよ」と叫ぶ。
 「どうぞ。私も貴女を免職させるまで徹底的にやりますよ。ではお引き取り下さい」と突っ放す。
 すると免職という言葉にイデオロギーが負けたのか、突然S教師はフロアに土下座して「どうぞお許し下さい。教師をやめさせられたら暮していけませんので」と哀願しはじめた。
 私は呆れ果てて一応鉾をおさめたが、「あさま山荘事件」の時代はこんなひどい話がまかり通っていた時代で、警察官の家族たちを取り巻く社会環境は、お世辞にも友好的と言えるものではなかった






九九九さんのHPにあまりに見事な応援メールが掲載されていましたので、ぜひ多くの方にも読んでいただきたいと思い、こちらにも転載します。(了解は取っていませんが、九九九さん、許してね!)

私も小学校から中学校にかけて強烈な左翼偏向教育を受けました。
 しかしながら、高校が公立としては珍しい『右翼学校(笑)?』であったため、思想的な被害は比較的軽微であったように感じます。(その学校には元海軍主計将校であるとか、横須賀海軍工廠付き技術官?といったような先生が多く、物理学の先生が物理の授業時間に『大東亜戦争』の正当性などといったようなことを唾を飛ばしで話しておられました。また悪いことをすると必ず履いている靴で往復ビンタを頂戴いたしました(笑)。それでも暴力教師などという親もおりませんでしたし、私も感謝こそすれ、恨みなどまったくありません。今となっては懐かしいお話です。)
 その後色々な経緯から私自身、欧州で生活する機会を得、東洋人に対する人種差別や偏見の中での生活を経験し、帰国後は立派な右翼となってしまいました(大笑)。
 その後ある会社に就職をし会社員となりましたが、全共闘世代の組合幹部とはよく衝突しておりました。
 現在、私の会社では主に海外に色々な商品を販売させていただいておりますが、海外の方々とのお付き合いをさせていただく上で参考になればとの思いからお便りを差し上げました。
 まず、私の会社で今の公教育を受けた大学生あるいは高校生を採用できるのか?という問題から考えてみたいと思います。
 1.今の公教育をまじめに受けた子(つまり先生の教えをよく実践できる子)
   @ 強制を嫌うため会社の規律(ルール)を守ってもらえる保証がない。
   A 人間はみな平等という考え方が基本思想にあるため、社長の私の方針を忠実に実行してもらえる保証がない。
   B 個性豊かな子が多いため、お客様に会社としての一定のクオリティーを保ったサービスが保証できない。
   C 国歌や国旗を悪と考えているため、お客様の所属する国歌や国旗に対するマナー(礼儀)が守れず不愉快な思いを与えてしまう恐れがある。
   D 経営環境の激変する国際社会にあって、私の会社では社員みんなの意見よりも瞬時の私の判断が優先される。したがって、学級民主主義を最良とする思想の人間を採用するということはあえて倒産の危機を招くことにもつながってくる。
   E 日本国民としての『原罪意識』が根本にあるため、原因を確認することもなく謝罪する習性が身についており、会社に莫大な損害を与える恐れがある。
 2.今の公教育についていけなかった子
   @ 社会人としての身だしなみや言葉遣いができず、会社の信用を著しく低下させる可能性がある。
   A 上意下達に反発するため、会社の命令系統が一本化できない。
   B 自己の権利の主張のみを身につけ、義務というものの認識がないため社員(従業員)としての義務を遂行してもらえない。
   C 年長のものや、目上の人間に対する接し方の訓練ができていないため、会社の秩序が崩壊する恐れがある。
 以上の内容から、私の会社では今の公教育を受けた子供たちを新卒で採用するつもりはありません。
 もちろん、こんな子ばかりではないと思いますし、『もっと、しっかりと会社で社員教育を徹底すればよいではないか』とお叱りを頂戴するかもしれませんが、そんな余裕のある会社が日本にどのくらいあるでしょうか?また、会社は学校ではありません。いくら学校や先生のせいにしても損をするのは子供たちです。
 現在はご存知のような経済状況から『大学生』の就職状況も『高校生』の就職状況も大変厳しい状況が続いております。時代は従来の長い年月をかけて人を育てる。という極めて『日本的』な採用状況から、従業員を物として捉え即戦力を『調達』するといった米国型の採用状況が『グローバルスタンダード』として定着しつつあります。
 よいとか悪いとかいうような判断は別として、これが今の社会の現実です。
 自らの生活は保証されたまま、体制批判を繰り返し、気に入らなければ最高裁で強制力が確認された『学習指導要領』まで無視をして(札幌教組でしたっけ?)法治国家という国家の何たるかも理解できず、自らに都合のよい部分だけを抜き出してつまみ食いする日教組や全教の先生方!
 いくら社会の混沌と崩壊がなければ『共産主義革命』が達成されないからといって『日教組』や『全教』の先生方は、子供たちを社会のアウトローにして後の責任もとらず、自らはまともな授業もせず高給を国民の血税から吸い上げている『権力者』であるという認識を持っていただきたいと思います。





●違う職場の友人と飲んでいて、さぼりまくって迷惑な同僚の話が出るとき、「で、そいつ組合員?」「あたりまえじゃん」 これが組合員の一般的イメージです。もちろん中には立派な方も、ごく少数ですがいますけど。
 東京都の主な組合の中では、都教組が共産党系ですが、まだまともな団体です。ただし、西部にある国立市には最低の人間が固まっています。
 東京教組(多摩地区では多摩教組)というのは組合が分裂したときに左派でつくった社民党系の団体で、最悪の部類に属します。考えているのはいかに楽をするか、それをいかに正当化するかということのみ。指導力ゼロの方が多いようです。
 ア○ムというのは東京の西外れの方に巣くっている極悪団体。多摩教組と提携しています。自分に指導力がなく、授業中に教室で生徒が数名暴れている状態を前にして、「真の民主主義はカオスの中から生まれる」という迷言をはいた方はここの組合員です。
 保護者の方、もし担任が「日の丸・君が代は悪の象徴」「人事考課は民主主義に反する」などと言っていたり、しょっちゅう年次休暇をとったり、サービス精神がゼロだったりしたら、その教師は組合員である可能性があります。さらに、指導力が低く、意欲がなく、向上心もない可能生が高いです。すぐに学校長に相談を。
 昔は立派な組合員の教師も結構いたんですけどね。そういう方はどんどん定年でやめていって、残ったのはいかに楽をするか、という人がほとんどです。





●昨年までは、日教組等のHPで掲示板がありましたが、当時、良心的な市民との論争に負けて、今開設しているHPの掲示板はありません。瓦解するのも、もうすぐです。
これが一般の方の見方です。私もまさにその通りだと思います。
 組合の言う自主性尊重の教育は何をもたらしてきたのですか。生徒と教師の双方における怠惰と放縦ではなかったですか。管理も強制もなく、みんな平等の民主的(本当は社会主義的)職場で、本当に都民の望むような教育が行えましたか。「いい教育を与えるには私立へ」という流れを作った責任は都立自身にあるのじゃないですか。現に組合員の多くは自分の子供を私立学校に通わせてるじゃないですか。本音と建前を使い分ける姑息さはもうみんな承知してますよ。
 権力に庇護されながら何が反体制ですか。甘ったれるのもいい加減にしてほしいですね。
 守ろうとしているのは自分たちのせこい権利だけで、学校や都立全体の教育をよくしようなんて意志はさらさら感じられない。都民の信託を受けて子供たちを教育しているというのに、その責任も誇りも使命感もない……。そんな気持ちで教師をやってて何が楽しいのですか。
 ここまで書いたらお怒りでしょうね。私や私の意見をいくら批判してもいいですよ。でも、もう世論はあなたたちに絶対味方をしません。それだけは断言しておきます。





●学級崩壊の原因は80%が「教師の力量」によるものです。これは単に向山洋一の主張にとどまらず、アメリカでも学級崩壊問題もあり、実際に教師を再教育させているところもあると聞くくらいですから真実でしょう。これは簡単に言ってしまえば「授業がつまんない」のが原因のほとんどであるということです。で、それを起こしやすい教師というのは、実は「日教組・全教」系の教師よりは、共産主義は好きではないが、彼らの主張を何の疑いもなく信じ込んでいる教師の方(むしろ多数派)に多くなるのです。ところが、日教組や全教は原因を「政府が『偏差値教育』を止めないからだ」ととんちんかんな論理を並べているのです。これでは彼らに学級崩壊の解決はできません。






●昨年、東南アジアを旅行し、バングラデシュのセント・マーティン島という小さな島(ビルマの横に位置します)に宿泊したときのことでした。本当に人懐っこい住人らに囲まれて食事をご馳走してもらい、その後村を紹介してもらい、村長と会話する機会が会った。かなりお年をめした人であった。英語で会話だったので正確な会話を表現できないが彼等はこのように日本を語った。
 「日本は良い国だ。我々は日本が好きだ。戦争中にイギリスから我々を解放してくれた。イギリス人は我々を動物のように扱い、こき使ったが、日本人は優しかった。暴力などなにもしなかった。島民は日本の軍人と協力して、平和に過ごしていたんだ」
 私は本当に驚いた。彼等が戦争時の日本を肯定してたからだ。 ある場所で心無いものがひどいこともしたのは事実であろうが、このように50年以上過ぎた今でも好意を持ってくれるほど、うまく共存していたのはも事実であろう。彼等島民を日本に連れていって生きた証人として発言してもらい、戦時中の日本を絶対悪のように扱うマスコミの糾弾したいものだ。彼等が発言できる間に日本の誤った歴史認識を変え、日本、アジア、そして地球全体を誇れる国民になれるだろうか。
 アジアを旅行し、本当によかったと思う。











●私はアメリカ以外の外国に住んだことはありませんが、こちらで会った数多くの人達(日本人、アメリカ人その他ほかの国々から来た人達)を
観察して一つの結論に達しました。それは「社会的にも成功を収め、人間としても魅力的な人は健全な愛国心をもちつつ他国の文化に対しても柔軟な姿勢で取り組める人が大多数である」ということです。これは以前私も例の掲示板でも書き込んだことですが、やはり海外生活の経験のある方から賛意をいただきました。また、ジョン・オグブという教育学者も「学校で成績優秀なマイノリティー生徒とそうでない生徒を比較すれば、前者は明らかに自分自身のアイデンティティーと学内でのアイデンティティー(つまり、白人文化への迎合)を状況に応じて巧みに使い分けているのに対し、後者はこの二つのアイデンティティーを二者択一的に捕らえている。」と主張していますので、私のこの結論はかなり的を得ていると思います。 もっと極端に言えば自国に対する愛国心やプライドのない人で、「あ、この人すてき*」と感じた人など皆無です。もっとも、そういう人は圧倒的に日本大嫌いの日本人ですが。
 そして、これは敢えて偏見も含めての暴言に近いのですが、日本を嫌悪する日本人は英語も下手な人が多いです。自分ではネイティブなみの発音でスラングまじりでいかにもうまくしゃべってるつもりでも(こういう人達はいわゆる文法的な英語を話すことを忌避し、スラングをたくさん使うことで「生きた英語」をしゃべっていると悦に入っている人が多い)、そんな英語は日常生活では通用しても仕事や学術面では使い物にならず、失笑をかっていることに気がつかず見苦しいものがあります。こういう人達はたいてい日本語という自分の言語も軽視していますから、外国語を習っても上達しないのは至極当然のことではありますが。(言語学の世界ではこれは常識なのですが、外国語の習得には第一言語の習熟度が大きな影響を及ぼします。つまり、第一言語能力とそれ以降習得する言語能力は比例関係にあるということです。)
 ですから、表面的な国際化(ホームステイや早期英会話教育)は反日嫌日教育と併行するのであれば虚無以外の何物でもありません。私たちが育てるべきものは「国際人」ではなく「国際的な日本人」であるべきだと思います。






●現在「貧富の差が学力差、階層化につながり、それをゆとり教育が加速して社会秩序を荒廃させていく」という最悪のシナリオが進行しています。 これに類することが、今日何となく買ってしまった「ワンワールド人類家畜化計画」(雷韻出版)という(かなりいかがわしい)本に書かれていましたので紹介します。全体的には「フリーメーソンの陰謀がどうの・・・」といったヨタ話系の本なのですが、以下の記述には思わず釘付けになりました。

p166
 合衆国に新たに用意された制度は「結果本位制度」(OBE)と称される。このOBEは「正しい読み書きを覚える必要などない。学校教育において秀でる必要などない。大事なことは子供同士がどうかかわるかだ」とこの国の子供達に教えようとしている。
 だが、つまるところOBEは、秀でることを非とし、凡庸を是とする制度ではないか。これの意図するところは、子供達を凡庸レベルの横並び集団につくりかえることでしかない。
 では、なぜそうするか。答えはずばり、国民の大多数が最低レベルの教育しか受けていない国家なら、社会主義独裁体制へと難なく操れるらからだ。
 OBEは今後、合衆国の子供たちを「両親を敬うことも祖国を愛することもしない人間」に仕立て上げることだろう。このままでは子供たちが、国民としての自分も愛国心も疎んじるようになってしまうのだ。謀略者にとって祖国への愛は不愉快で、破壊すべきものなのだ。だから、OBEは、伝統的な家庭生活を時代遅れのものとするマルクス主義の理念を子供達に注ぎ込みつづけている。
 青少年の非行の驚異的な増加はOBEに責任がある。現在、OBE方式で教育を受けている世代、そしてこれからの世代は遠くない将来、新たな「フランス革命」の暴徒となって不変の(OBE)の目的のために利用されるだろう。

 この「OBE」を「ゆとり教育」「戦後(日教組)教育」などといった言葉に置き換えると、見事に現代の日本にあてはまると思いませんか。新指導要領の、学習内容3割減、総合学習、評議員制度の導入、高校全入、選択枠の拡大、受験の緩和といった、(明らかに失敗するであろう)方針には、どうしても何者かの「悪意」を感じてしまいます。







●国旗国歌に強く反対する人は以下のように考える場合が多いようです。

1、日の丸君が代はその成立過程や歴史からして「悪しきもの」であり、それを教育現場に強制するのは「悪しきこと」である。また、その「悪しき点」を子供たちに教えず、一方的におしつけるのは行政側(権力)による「洗脳」である。
2、よって、「悪しきこと(国旗国歌の強制)」に反対するのは正しいことであり、その行為はいかに学習指導要領に反しても、学校は治外法権であってはならず、憲法にいう「思想信条の自由」によって保証されるべきである。
3、以上の理由から、国立二小の教師の行動は正当なものであり、それに反対するこの掲示板やその賛同者の考えは間違っている。

1について、
 国旗国歌の捉え方はあくまで個人の認識に従うべきものだと考えます。それらを「悪しきもの」であると考える人の思想信条は100%認めますが、肝心なのは、どの世論調査においても国民の7割以上が国旗国歌の実施を容認していることです。これは国旗国歌の成立過程や歴史を知らないということではありません。大多数の国民がそれらを承知した上で、それらを「消化」し、国旗国歌として遇していくことに異を唱えていないのです。
 君が代強制の違憲性を争点とした京都「君が代」訴訟では、原告側を敗訴とし、「国旗国歌は国民1人1人の良心の帰趨の問題」であり、大多数が認めるならばそれに従うべきだという判断を下しました。つまり、国旗国歌に多様な考えがあることを認めた上で、大勢の認識に従うべきだいうのです。この点からも、多くの国民が容認している国旗国歌は「悪しきもの」にはなりませんし、国民の信託を受けて行われる公教育において国旗国歌を実施することも、多くの国民が望んでいる以上「悪しきこと」ではなく「洗脳」には相当しないのです。逆に「洗脳」を「偏った考えを注入すること」だとすれば、現在において絶対的少数である国旗国歌反対論こそが「偏った考え」であり、生徒に対してそれを教えることこそ「洗脳」であるということになるのです。

2について
 思想信条に反する場合には学習指導要領に従わなくてよいというのなら、マルクス主義教育、皇国主義教育、宗教(カルト)教育等いかなる思想教育も可能となります。それを防ぎ、公教育の中立性を保持するために、学習指導要領には法的拘束力を持たしているのだと思います。(個人的には、ちょっとしゃくなんだけどね・・・)
98年の鯰江中裁判ってご存じですか。この学校の先生が、卒業式に「壇上の日の丸に抗議します」等とマイクで発言し、更に教頭の制止にもかかわらず、「卒業式に日の丸はいりません」と言って式典の進行を妨害したことで訓告処分を受けましたが、それを不服として処分取り消しを求めていた裁判です。詳しくは下のURLをご覧になっていただきたいのですが、簡単に言えば「控訴棄却」ですね。
「卒業式等における国旗掲揚が、控訴人の思想、良心の自由を侵害するか」についての判決は以下の通り。

「卒業式等の式典の場に日の丸が掲揚されたからといって、その式典そのものが、日の丸に対する一定の観念ないし思想に賛同の意を表するために開催されることにはならないし、出席者がそのような観念なり思想に賛同の意を表することになるものでもない。したがって、国家や地方公共団体が、教師に対し、その職務行為の一環として、日の丸の掲揚された式典の場に出席し、その式典の事務運営をする義務を課したとしても、国旗に対し敬礼させるなど、国旗に対する一定の観念を告白させるに等しい行為を強制する場合は格別として、そのことだけで、ただちに当該教師の思想及び良心の自由を侵害する強制行為があったとすることはできないものというべきである」ということです。
さらにこんなことも言ってます。
「本件文書戒告は、控訴人のマイクでの発言及びブレート着用という、卒業式、入学式を妨害する行為に対し課されたものであり、思想及び良心の自由も、適法に課された職務上の義務に違反する行為をする自由までも保障するものではない。また、控訴人は、卒業式等において、反対意見を表明することは、表現の自由として許されるかのように主張するが、表現の自由も内在的制約に服すものであり、控訴人の右言動は、被控訴人Bらの適法な職務を妨害するのみならず、生徒らの平穏に卒業式等を受ける利益を侵害するものであって、表現の自由として保障されるものではない」
まあ、そういうわけです。
 ともあれ、国旗国歌にいろんな捉え方があるのはわかりますが、いつまでもこうした議論はしたくないものです。国の歴史に明暗があるのは当然です。その明暗すべてを認識し、引き継いだ上で、自らを生み育ててくれた祖先や国に感謝する心こそ大切なのだと思います。

http://www3.psn.ne.jp/~jhc-cebc/s-data/education/law/hanrei/namazu-kou.htm







●岐阜の公立学校の教員です.国立第二小の問題は,「正論」などを通じて知りました.
この問題と同じようなことがかつて岐阜県でもありました.岐阜県の東部,中山道の宿場町の中津川市での教育化正常化運動というものがありました.これは,ご多分にももれず,日教組系の組合教師が「生活綴り方」というまあ教育的成果があった教育を進めて,学習指導要領もほっとらかして農作業だの作文(話言葉で方言そのままで)だの時間が多くて授業らしいものはやっていない状況があったのです.当時の地区の県議が全県下で実施されていた業者テスト(今は自粛されていますが)の平均点が県平均よりかなり低いということを県議会で追及し,その原因をこの教育であると弾じました.保護者の中に転勤族もおり,小学校の時間割を調査したところ前述の状況が暴露されました.それからの県教委の動きは素早いです.管理職総出で,全県下で違法すれすれで組合つぶし(教員の組合脱退)をやってのけました.もし,これがなかったら岐阜県も国立市や広島県のようになっていたでしょう.
 国立第2小ことでもなんでもそうですが,簡単なことです.教師を含めて公務員はあくまでも国民の代表者の集合体である国会が制定した法律に基づき職務を執行する義務があります.それでお給料をもらっているわけです.自分の思想を教えるのなく,定められたことをまず指導することが公立学校の教員の最低限な義務です.
 私はいつも思うのですが,処分撤回を訴える教員というのは,自分で明らかに法令違反を犯しているのに法令を楯にして自分の身を守るのでしょうか.教員の身分は法律で守られているのですからその法律を犯しておいてその法律で自分の身を守るなんて自分勝手だと思います.自分の思想を教えたければ,私学へいけばいいんですよ.
 




●今日なんとなく考えていたのは、国旗国歌問題のことです。実は、真剣に反対運動に取り組んでいる方と話す機会があって、いろんな話を聞きました。その方の気持ちは理解できるのですが、いくら国旗国歌強制の不当性を力説されても、やはり公教育の教師が反対運動を行うのはおかしいと思うのです。
 いかに個人として反対しようとも、国民の7割が賛成している状況において、
・少数の反対がいるからという理由で取りやめるのは、国旗国歌を望む7割の人の思想信条に反することであり、あきらかに「少数によるファシズム」となります。これは当然、民主主義に反することです。
・かといって、多数が賛成しているからという理由で全員に強制するのは、少数の思想信条の自由を侵害することになり、多数が少数を圧殺するという、これも民主主義における悪しき面(ファシズム)に陥ってしまいます。
 では、どうすればいいのか。この矛盾を解決するには、折衷案をとるしかありません。つまり、
・反対している少数に拒否する自由を認めた上で実施する。
これしかないですね。つまり、現行のままでいいということになります。(なんだぁ、って思ったでしょ)
 



●良く、国旗掲揚、国歌斉唱はこれは嫌だと思う人間に対する強制だという言葉を耳にします。しかし、国旗掲揚国歌斉唱をしないということは、それを望む人間に対しての強制でもあります。そこの所を反対派はどのように考えるのでしょうか?
 実際の所、国際的にはどういう場であれセレモニーの最初には、必ず国旗掲揚国歌斉唱があります。普通そういうときには、外国人は国旗に対して敬意を示さず(でも式典の邪魔になるような移動等の行為はしません)国家を歌うこともありません。(アメリカなどでアイスホッケーなどの試合の際にも国旗掲揚・国歌斉唱を行うが、カナダ人やその他の外国人は起立はするがぼけっとあるいはその試合のため興奮していた。)つまり、掲揚しようと歌の旋律を流そうとその後の判断は各人の自由となっているわけです。
 また、「これは教育の場ではない。」という方もおられるでしょうが、さにあらず。様々な宗教や移民が暮らしているアメリカでは、やはり国旗や国家に反対する勢力はいます。しかし、やはり国旗は掲げられ国歌は斉唱されるのです。国家に対する敬意は表さなくても良い、国歌を歌わなくても良い自由は保障されているのです。
 私はアメリカの例しか知りませんが、それが普通の国家というものです。傍系地盤で見かけたのですが、よくよく国旗や国家について知らないのにもかかわらず、ナチスのハーケンクロイツと同一視する事で反対したり、象徴天皇制を根本から無視したりと、この手の反対論は感情論が多すぎます。都合のいいところで国際社会の常識を持ち出したり引っ込めたりする姿は滑稽ですらあります。
 今後教育の中に、正確なグローバルスタンダード(アメリカンスタンダードではない)と正しい歴史教育を行うことはこれらの事例から明らかであり、急務ではないかと小生は考える次第であります。




●先日別の掲示板で「学校での国旗の掲揚、国歌の斉唱はそれ反対する人の内面の自由を奪うから問題だ」と主張されるかたと議論したのですが、私が「では私のように我が子も保護者である私も共に国旗の掲揚・国歌の斉唱を実施して欲しいという意見の人がいた場合はどうすれば良いのですか?」と訊ねても明確な答えを頂くことはできませんでした。むしろその方は「教師といえども憲法で保障された『思想・信条の自由』があるのだからそれを拒否するのは当然である」といった主張を返されてきました。
 「公務員は全体の奉仕者であり、一部の奉仕者ではない」という憲法の記述はあえていうまでもなく『自分も含めた一部』の奉仕者ではない、ということなのですから行政の一員であり公務員である公立学校の教師の教師が『職務』でこれを拒否するすることは出来ないと考えます。ですからこれを拒否した教師が処分を受けるのは当たり前。私達のような民間企業のものであったら懲戒免職ものです。そういった常識さえ持ち合わせていない人間が将来社会を構成する子供達を教え導く役割を担わされているという事実に背筋が寒くなる思いがします。
 また反対派はこのような主張をすると「国旗は侵略戦争の象徴」「国歌は個人崇拝」といったその成立過程やその時の社会的・文化的背景を全く無視した(というよりほとんどの方が知らないか全く間違ったことを事実として教育されてきたというのが実情なのではないかと推察しております)乱暴極まりない理屈で対抗しようとします。また「日の丸」とナチス・ドイツの「ハーケンクロイツ」と同一視した全く見当違いも甚だしい論を持ってくる方が本当に多いような気がします。単純に太平洋戦争で連合国と敵対していた国だから、同じ(実情はかなり違った形態であったのは明らかですが)ファシズムの国だからという理屈だけで両者を同一のものとする乱暴な理屈には何の説得力も無いと断じざるを得ないと思います。
 私自身はこのような事実を何も知らない(というかあえて学校では教えていないのではないかと推察すておりますが)何も知ろうともしない人々によって国旗・国歌が粗末に扱われているという実情に怒りさえも覚えています。
 かなり原初的な内容の投稿になりましたが、最後に一つ私の根本的な立場を明確にする必要があると思います。私は日本の国旗は日の丸・国歌は君が代しかないと思います。それはこれまでの人生経験や体験裏付けされたもので、誰かの思想をそのまま鵜呑みにしたことによる認識ではありません。
 ですが同様に日の丸は国旗とは認められない、君が代は国歌としてふさわしくないという方の思想の自由は自分の名誉をかけてでも保証します。しかし、だからと言って公共の場(主に公立学校)の式典・行事での国旗の掲揚・国歌の斉唱を学校職員が排除することに強く反対します。また、多角的に検証され、児童・生徒が偏見無く自国のことを考えることの出きる教育(特に社会科とりわけて歴史)を自分の子供だけではなく全ての子供が受けられることを各関係方面には求めるものであります。ですから特に近代史において日本及び日本軍が殊更に残虐なものであるという一方的な史観にたって行なわれる教育には強く反対します。ですが極端に戦争を美化したり、旧軍の行為のすべてが肯定されるような教育にも同様に強く反対します。






●「日の丸」「君が代」のことをあれこれいうのははっきりいって日本のことが大嫌いな日本人だけです。マスコミや各種出版物の記述は始めから疑ってかかった方が良いと思います。なぜなら、実際に海外にでると日本の国旗を問題にする方など皆無に近いからです。私自身各種マスコミで身につけた数々のネガティブな「外国人からみた日本人観」がいかに捏造されたものかというのに気づくには時間はかかりませんでした。現にもっとも反日的といわれる韓国でも、若い世代は日本に対する感情はおいといても、「日の丸」「君が代」そのものに対する嫌悪感はほとんどないというのが実情です。(これは私が米国駐在中に知り合った韓国人留学生達から実際に聞いた話です。ちなみに彼らは誰一人として「君が代」は聞いたことがなく、これが「日本では問題になっているんだ」というと「なぜ?」聞き返されました) ですから、半世紀前の戦争の事実を持ち出してきても、もはやそれ自体に何の説得力もなくなっているのです。(少なくとも私のような「日の丸・君が代受容派」には)なぜかというと、「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」という次元のものであり、過去に日本が行ったことを引き合いに出して日の丸・君が代に反対してもそれ自体が「全くの的外れ」の意見だからです。







●森首相の「教育改革国民会議」や石原都知事の「心の東京革命」に対抗して、日教組は「子どもが生き生きする学校再生プラン」というのを発表しました。小さな冊子にして全国の組合員に配布したのですが、メディアではいっさい取り上げられていないようなので、ここで紹介します。

(前書き)
森首相の「教育改革国民会議」では子どもたちの問題行動だけを取り上げ、「上から」抑えこもうという復古的な改革論が主流になっています。私たちは子どもの声に耳を傾け、保護者・地域・学校が力をあわせて教育改革を進めたいと思います。

(アピール文)
 子どもは自分から学び、自分のことは自分で決める権利を持っています。
 子どもはみんなそれぞれ固有自分らしさを持ち、自分たちで学校生活を作りたいと願っています。
私たちはこのことを誠実に受けとめ、子どもが生き生きと学び、遊び、成長していく場として学校を受けとめ、子どもの声に耳を傾け、子どもと手を携えて歩んで行きたい。

     わくわく心をはずませて登校し、
     いきいき目を輝かせて学び
     にこにこ笑顔で明日への希望を胸に下校する

 子ども一人ひとりがそんな充実した一日が過ごせるように、心を開き、立場を超えて力を合わせていきたい。大人としての責任と義務を果たしたい。そのために、広く各界の知恵と力を合わせたい。
(引用終わり)

 やはり……というか、いつまでたっても「権利」ばかりで「義務」や「モラル」を教える気持ちはまったくないようです。それに「いきいき」「わくわく」「にこにこ」といった麗しい言葉を羅列する感覚には辟易しますね。このアピールを読んでも、素晴らしいとはまったく思えず、逆に「気味悪さ」を感じてしまうのは私だけ?
「子どもの声に耳を傾け、子どもと手を携えて歩んで行きたい」
 こんなの、子供にすりより、子供に阿ろうとする偽善的な姿勢にしか思えません。
 さて、このアピール文を読んで特筆すべきは、@「ゆとり教育」に言及していないこと、A「自由にのびのび」といった言葉がないことです。
@について、
 日教組はずっと「受験競争反対」、「受験のストレスによって問題行動が多発している」と叫んできました。それを受けて文部省は「ゆとり教育」を提言したわけですが、学力低下を招く、国家の将来が危ういといった批判に、日教組も反論できなくなったのではないかと思います。「どうする学力低下」という本で寺脇氏は「教育改革は国民の声を受けて行われる」と述べていますが、文部省側からすれば、日教組の言うことを聞いて「ゆとり教育」を提言したのに、その日教組が手を引き、批判を一手に引き受けることになってしまい、本音の部分では「そりゃないぜ」という感じなのかもしれません。
Aについて、
 アピール文にある「いきいき」「わくわく」「にこにこ」とは望ましい状態であり、これまでの「自由にのびのび(させる)」という方法論とは別のものになっています。戦後50年にわたって言い続けてきた「自由にのびのび」をあえてここに書かなかったのは、「管理しないで自由にのびのびさせればいい教育ができる」という方法論の誤りにやっと気づいたからではないかと思われます。これは画期的なことですね。
 で、日教組はこのアピール文のような理想的な学校をつくるためにどうするかというと……
@30人学級にする。
A冷暖房を完備したりして学校を快適なスペースにする。
Bパソコン設備等を充実させる。
C学校の施設を地域に開放する。
 のだそうです。別にこれらを否定はしませんが、この四つが実現できたら理想の教育ができるなんていうのは、あまりにも甘い憶測だと思います。
 これからわかるのは、「日教組は現代の教育荒廃を解決する方策を何一つ提言できない」ということであり、現代の教育荒廃を救うのは、それが「日教組教育を敷衍したがため」であるがゆえに「日教組が主張ししてきたことの反対を実行するしかない」というのが私の結論です。
 具体的には……
@国旗国歌を尊重する態度を養い、公的意識やアイデンティティを与える。
A生徒や学校、教師に適度な競争を導入する。
B学校を学びの場として、学力向上をはかる。
C結果平等より機会の平等を与える。
D教員の評価を厳正に行う。
E適度な管理を容認して秩序の安定をはかり、義務やモラルを教える。
 などが思い浮かびますが、考えてみればB以外はどれも現在押し進められようとしていることです。時代は反日教組的な方向へ急激に移行しつつあるようです。
 残るはBの「ゆとり教育」の阻止だけですね。
 









●先日私の勤務する補習校(アメリカ)の前校長から手紙をいただきました。この先生は帰国なさってからとある困難校の校長に就任し、(この学校はやはりというか日の丸の掲揚を頑なに拒否していたらしいのですが、この先生の在任中に日の丸掲揚を実現させたという実績の持ち主です。)定年退職後は私立校で一教師として活躍なさっている、私の尊敬する先生の一人です。そのお手紙の中で次の文がとても印象的だったので紹介したいと思います。

海外で生活をすると、日本のことを真面目に考えるようになると思います。愛国心が芽生えナショナリズム的になるようです・・・
去年の夏、インドネシアの独立記念式典に参列し、日本のことをいろいろと考える機会を得ました。戦後の日本の教育は、本当に正しかったのか?日教組運動の功罪、大東亜戦争、東京裁判、従軍慰安婦、日本国憲法の問題、豊かな国の貧しい心の持ち主になり下がった日本の国、自分の教えた子供達は40代になり、その子供達が今学校に通ってるわけですが、彼らに歴史的事実をきっちり教えたか、本当に命の大切さを、人間としての生き方を教えてきたか等を真面目に考えますと背筋がぞっとします。
例えば、南京で30万人の中国人を日本兵は虐殺した。また、100人斬りの競争をした。朝鮮半島における日本兵の理不尽な行為についても一方的な資料によって教えてきたように思います。日教組主導のマルクス史観による教育を推進していくのが民主的な教師であり正義を愛する教師だと思っていた若い時は、日教組運動にのめり込んでいました。そんな自分が権力の手先であると軽蔑をしていた教育委員会の要職につき挙げ句の果てには校長になったのですから、全く世の中というより自分自身が不思議であります。








●帰省中に北海道の高校受験についての受験雑誌を見つけたので早速購入しずっと読んでいました。
 私の大学はそれこそ「名前が書ければ合格」するような学校でしたが(私もちゃんと名前に「よみがな」を書いたから合格したと今でも信じています)、出来の良い後輩達の努力により、各学部とも軒並み難易度がアップし、今や道内私立総合大学ではbQの地位も占めるようになりました。誠に卒業生としては後輩に感謝!という感じで鼻高々だったのです。しかし、前出の雑誌をみると我が出身高校の方は学区全6校の内、なんと最下位! しかもその上の学校とのポイント差が10pもあるという信じられない凋落ぶりでした。私の入学した頃には少なくとも学区の真中には位置していましたが、今や20年前には遥かに下位に位置していた2校に抜かれ新設校にも抜かれ、学区で最下位でした。
 私が通っていた頃は非常に校則も厳しく、特徴的な学校行事も多く(20キロマラソンや雪山クロスカントリーなどの激しい学校行事、当時は死ぬほど嫌だったけれど今思えばどれも楽しいものでした。また男子の体育は跳馬と鉄棒の回転が必須で出来ない生徒はできるまでやらされ、できなければマジで「留年」でした)地域の評価もまずまずだったと思います。ですが友人(在地元36年)の話だと10年ほど前から校則が緩くなり、制服も生徒の提案によるものを採用したあたりから数々の伝統行事も中止となっていったそうです。なんでも「生徒による主体性を重んじる校風」という言葉を使うようになってからどんどんレベルが下がっていったそうです。
 何よりも前出の雑誌の母校の紹介記事を読んでぶっ飛びました。「当校は自由な校風で生徒の主体性を重んじ」という部分を見たときはもう怒りでそのページを破かんばかりでした。我が母校とはもっとも遠いと思っていた『自由な校風』『生徒の自主性』を今は外部に唱っているなんて・・・。あくまでも推測ですが、私達の頃は勉強が大嫌いなくせに権利ばかりを主張する青臭いくそガキ(私はまさにこれに当てはまります)や小娘達に半ば強制的に様々な苦難を経験させることこそ、我が母校の使命であったのではないかと思うのです。ですが、もともと勉強に対する自発的な思いなど始めからない15歳の若者にうわべだけの(というよりありもしない幻想であるはずの「自由」を認め、その意味も分かっていないのに「主体性」を重んじたために、一つの学校が『崩壊』してしまったのです。私が通った「決して成績が良いわけではないが、それだけではない何かを学べた」学校が「成績もよくない何も学べない」学校になってしまったという事実は、もの凄い喪失感を私に与えていきました。
(なぜ、そうなったのか理由は簡単。その高校が組合支配学校になったからです。by管理人)







●マレーシア独立の父にラジャーノンティック氏がいます。ノンティック氏は自分たちの歴史・伝統を正しく語り継がない日本人に対して、一編の詩をメッセージとして残しています。

かつて 日本人は 清らかで美しかった
かつて 日本人は 親切で心豊かだった
アジアの国の誰にでも、自分のことのように、一生懸命つくしてくれた

これを読んで胸がつまりました。こんな日本があったのだという誇りとともに今の日本が恥ずかしくなります。偏狭なナショナリズムではなく、失われた「精神の高潔さ」を取り戻したいと本当に思います。





●広島県は全県で94%の高教組組織率を誇るそうで。県東部では98〜99%だとか。これについて日教組の組合員の方が、「これだけの高い組織率は一人ひとりの自由意思で組合に入っているのではないという事実を逆に証明している。仲間に入らない者は排除される力が働いている」と言っておりましたが、そのような力が「広島の教職員組合の運動、教育内容」にも働いているのでしょう。







●以前マレーシアのタンスリー・ガザリー・シャフェー元外務大臣が来日した際、こんなことを言っておりました。
 《以前、広島を訪れた時、小学校の先生が原爆慰霊碑の前で 子供達に「日本は昔悪いことをした。これはその記念碑だ」と教えているのを見ました。それで広島市長に「原爆慰霊碑と原爆資料館は日本人が見るべきではありません。ワシントンに持っていき、アメリカ人に見せて、アメリカ人に反省させるべきではないでしょうか。原爆資料館がここにあるのは不適切だと思います」と言ったところ、広島市長たちは真っ青になってしまったが、やがて彼らも私の意見に賛同してくれました。それにしても日本人はなぜアメリカに対して異様なほどおびえているのか。敗戦国心理から早く脱却するべきではないだろうか。》







●現代日本の過ちを60年前のイギリスが犯していた

「世界の大国のなかで、インテリが自分の国籍を恥じるのはイギリスくらいのものであろう。左翼方面ではいつも、イギリス人であることは何かちょっと恥ずかしいことのように感じられ、イギリス的な憤習は競馬からスエット・プディングに至るまで、ことごとく冷笑するのが義務のように感じられている。イギリス人のほとんどのインテリが、慈善箱から金を盗むことよりも国歌の演奏中起立していることの方を恥と思っていることは、奇怪であるが、疑いを入れない事実である。開戦までの危機の間中、多くの左翼は国民の士気を削り取り、時にはへなへなの平和主義、時には熱烈な親ソという具合ではあったが、とにかく反英という点では一貫した考え方を広めようとした。それがどれだけ効果があったかは疑わしいが、とにかくある程度の効果があったことだけは確かである。イギリス国民が数年間事実士気沮喪に苦しみ、そのためファシスト諸国がイギリス人は『堕落』している、戦争に突入しても大丈夫だと判断したのだとすれば、左翼からの知的サボタージュにも一半の責任はある」(ジョージ・オーウェル『ライオンと一角獣』平凡社ライブラリー)








●「トカゲの尻尾」にされた生徒達

 先日ひょんなことからお知り合いになった方のお子さんがあの国立二小に通ってらっしゃることを知り、例の「校長土下座事件」のお話をして下さいました。それによると、国立二小の教師が校長に国旗掲揚反対の理由として繰り返していた「御父母もみな日の丸の掲揚に反対している』という事実はなく、「全くもって不愉快だ」と怒ってらっしゃいました。「どういう理屈で『全員』などといえるのか厚かましいのもほどがある」と御父母は皆怒っているのが事実であるそうです。
 それで産経新聞の報道や、都議会が調査に乗り出したことに危機感を持ちはじめたのか、先日保護者会が行なわれ、教師は「教師が生徒を煽ったという事実はない」と強弁し、「あくまでも生徒達が自主的に行なった行動です」という主張で押し切ったそうです。子供を「人質」にとられているために御父母がサイレントマジョリティ化していることを言いことに言いたい放題で、納得の行く説明は一切なし。生徒が職員会議の内容を全て知っていた事実にいたっては説明さえもしなかったそうです。全く反省の色も感じられなかったそうです。聞きようによっては自分達はマスコミ報道の被害者だと言いたいかのようだったそうです。
 しかし、教師というか人間としてこの教師達は腐りきってますね。自分達で生徒を偏向教育の上「紅衛兵」化し、自分達のイデオロギー闘争の道具として散々利用して、立場が悪くなると「生徒が自主的にしたことだ」と主張して保身に走る。「紅衛兵」にされ、自分の立場を守るために「トカゲの尻尾」にされた生徒達が本当に可哀想で涙が出ます。
 国立市には首都圏でも大変珍しい「小学校だけの私立」=生徒の全員が中学受験をするという国立学園小学校が成り立っているのも、また東大合格者が多く「多摩の雄」と言われる桐朋中学校に優秀な生徒が集まっているのも、全て公立の小中学校がひどく、まともな親なら私立に進ませようと判断するかだとも、その方から聞きました。私は国立市の状況は殆ど何も知らないのですが、話を聞いてみると本当に背筋が寒くなってきますね。





●「北教組学力テスト訴訟、教員らの控訴棄却−札幌高裁」 (7,20の北海道新聞より)

 
一九六一年と六六年に文部省が小中学校で実施した「全国学力調査」(学力テスト=学テ)をめぐり、学テ実施の職務命令を拒否して減給や戒告の懲戒処分を受けた北教組加盟の教員ら三十一人が、道教委を相手取り懲戒処分の取り消しを求めた「北教組学力テスト訴訟」の控訴審判決が十九日、札幌高裁であった。武田和博裁判長は、「懲戒処分はいずれも適法で、取り消すべき理由がない」として、請求を棄却した一審判決を支持し、教員らの控訴を棄却した。教員側は一審段階では、「学テは学問の自由を定めた憲法や、教育への不当な支配を禁じた教育基本法に違反する」として、学テそのものの違法性を争ったが、控訴審では争点を懲戒処分の適否に絞った。
 判決理由で武田裁判長は、懲戒処分の前提となる学テ実施の妥当性について「教育の理念に反する不当なものとは認められない。文部省が実施したことは合理的な権限の行使で、不当な支配とはいえない」と判断。その上で個々の懲戒処分について「懲戒権の乱用には当たらない」とした。
 学テをめぐっては、「北教組訴訟」のような行政訴訟や、テスト実施を阻止して公務執行妨害罪などに問われた教員の刑事裁判で、その適法性が全国各地で争われた。

 しかし、これは40年前!の話ですよ。こんな裁判を延々とやっていたということだけでも驚きです。(ていうか、その暗〜い情念には敬服しますね)学力テストが「学問の自由を定めた憲法や、教育への不当な支配を禁じた教育基本法に違反する」という根拠なんてさっぱりわかりません。裁判長の「教育の理念に反する不当なものとは認められない」いう言葉の方がはるかに納得できます。テストをしないで勉強なんてできますか。
 まあ、これだけなら一部の偏執的な教師の裁判ということで笑って済ませられるのですが、学力のテスト反対闘争はこの時期、日教組系の組織が全国的に行ったために、それ以降、各段階の学校における学力レベルが全く測れなくなってしまったんですね。昭和52年の改訂で学習内容を2〜3割減らした時も、その影響を知るために「文部省は学力をはかりたかったのに、学力テスト反対闘争のためにできなかった」と聞いています。以後、現在に至るまでも統一学力テストを行っておらず、生徒の学力がどうなったかもわからないまま、文部省はさらに3割減をするという暴挙に出ているわけです。この「ゆとり教育」の愚かさはさておき、昭和52年の改訂によって学力低下が始まったということは民間のデータで証明されており、もしも文部省が公式のデータによってそれを知っていたならば、さすがに今回の削減はなかったと思います。つまり、亡国の政策というべき「ゆとり教育」を押し進めた一つの要因が、この日教組による学力テスト反対闘争であるのは間違いありません。しかも、それが法的にもナンセンスな闘争であったことがはっきりしたわけですから、何をかいわんやです。こういう一部の人たち(日教組系組合教師)の愚かな行動が国の将来を誤らせているのですから、ほんとに腹が立ちます。






●アメリカ在住の方のご意見です。

(1)私はアメリカで教員をしている者です。 長尾先生や九九九先生のHPでも紹介していただいた通り、 国旗に敬意を表するのが常識であり、日常的に行われている国の 住民としては、日本の教育界で取り沙汰されている国旗国歌反対運動 というのはたいへん奇妙な感じがしますし、また賛同できかねます。 国旗国歌に反対している方々は、お子様ランチや運動会の万国旗の中の日の丸を 見ても不快な思いをして、抗議するのでしょうかね・・・ なぜそこまで自国の旗を嫌悪するのか、わかりません。 (反対派は必ずといっていいほど過去の戦争を取り沙汰しますが、 戦争の歴史のない国って世界中にないと思うんですけどね。 それでもどうしても戦争を絶対悪と思い、日の丸反対を唱えるのなら 他の国の国旗掲揚にも抗議すればいいのにと思います。星条旗なんて、 考えてみればモロ侵略の象徴ですよね。) それと、足立十六中の事件!  私にも二重国籍の娘がおりますので、 また、毎年多くの教え子を日本に帰国させているので、 とても他人事とは思えないほどこの教員に怒りを覚えました。 私の娘はまだ3才ですが、日本が大好きです。 将来本人が望めば日本の学校へ入れることも考えています。 あんな授業をもし娘が受けさせられたら、私だってあのお母様と 同じことをするでしょう。歴史には善と悪の部分があり、その悪の部分ばかり 教えられたのでは健全な人間は育成できないと思うのですが。 いろいろと長々書きましたが、これからもどうぞよろしくお願いします。



(2)「日本ではちゃんと自分のやった悪事を謝罪できるひとこそが素晴らしい人として尊敬を受けられる。従って、日本も謝罪をして世界中から尊敬されるべきだしそうすれば尊敬を受けるはずだ」  
 私も今年で在米12年目の日本語教師ですが、こういう言葉のナンセンスさに気が付くのに長い時間はかかりませんでした。
 こちらの大学でESLコースを取ってたとき、韓国人の学生がたくさんいましたが、先輩の日本人から「韓国人には『初めまして』の挨拶がわりに戦争責任を追求したり、謝罪を求めたり人が結構いる」というのを聞いていましたが、実際自分自身何人かの韓国人に囲まれて「先の戦争での韓国に対する日本の侵略をどう思うか」と問い詰められた時には度肝を抜かれました。
 当時私は戦前の日本軍=絶対悪の公式を刷り込まれてはいましたが、どう考えても戦争の当事者でない私が同じく戦争の当事者でない韓国人の学生に謝罪する必要まではないと思ったので、その旨きっぱりと言ったところ、私にはその後何も言わなくなりましたが、あっさり謝罪したりノーコメントでとおしたりした日本人には尊敬どころか馬鹿にしたような態度をとっていました。
(より執拗に謝罪を求めたり、クラスのディスカッションとかで関係のない時に戦争の話を持ち出して日本人を非難したり)
しかるに、中国人や韓国人で日本を非難する人は先の戦争をダシにして反日感情を植え付け、日本人にも罪悪感を持たせることによって自分達に有利な方向に持っていこうとしているのでは、と感じ始めました。
(私の友人・知人の中国人および韓国人の名誉のために断っておきますが、こんな人達ばかりではありませんので、全ての中国人・韓国人=反日感情の持ち主とは私は思っていません。)
 また、これは私の補習校の子が言ってたことですが、(私は小二の担任をしております。)、彼女の現地校のクラスに中国人のクラスメートがいて、その子は私の生徒とけんかをすると「おまえの国は私の国に悪いことをした。だからおまえは私に謝れ。」とよく言ういうそうです。もちろんここまで極端な例は極めて稀ですが(そう信じたいです)、なにか歪んだものを感じます。ちなみに、私の生徒はアメリカ生まれですが親御さんがきちんと教育をしているため、日本人としてのプライドも持ち合わせた子なので、毅然と反論できる子ですが、仮にこの子が謝ったりしたら、この中国人のクラスメートはこの子を尊敬すると思いますか? 私にはどうしてもそうは思えません。
却っていじめの的になるとしか思えないのですが。
 こういうわけですので、謝罪派(便宜上そう呼ばせていただきます)のみなさんが何とおっしゃろうと、私は私の教え子に「謝罪しろ」と教育するつもりはありません。日の丸君が代に敬意を表するのも日本人として当然だとも教えております。


(3) 私も日本にいるときは戦後教育を受けた一人として例に洩れず愛国心の薄い、日本人としての誇りもアイデンティティーも持ち合わせていない若者だったように思います。そして、大学四年の時にホームステイをしたことがきっかけでアメリカに魅了され、留学を決意し、卒業後は三年間資金稼ぎをするために仕事に明け暮れました。そして現在に至るわけですが、その間にいろいろな国の人と接する機会に恵まれ、少しずつ自分と祖国を客観的に外から見ることができるようになってきたと思います。
 それまで自分が軽視してきた日本古来の文化・伝統・価値観などがいかに素晴らしいものであるかということ(別にこれらが世界一で他の国のものが劣っているとは思いませんが)、自分の国に誇りを持てない、愛せないということがいかに見苦しく恥ずべきことであるかということ(亡命などにより国を追われた人々でさえ自分を追い込んだ政府は憎んでも国自体には愛着がある人が多いです)などを痛感しました。また、自分は日本で平和で経済的にも恵まれた生活をしていたわけですが、そういう国に生まれたことは世界的に見て大変な幸運であり、今まで自分が当たり前のように享受してきたものは実は自分の両親・祖父母を含む先達の日本人が現代社会の礎を築いてきてくれた賜物であり、それらに感謝することなく、時には批判さえしていた自分を猛省せざるを得なくなりました。
 結局、アメリカは若かったころの自分が描いていたような「夢の国」ではありませんでしたが、アメリカに来たおかげでどこの国にも(歴史にも現代社会にも)光と影があることがわかりましたし、祖国に対する評価が健全なものとなったわけですから、それだけでもアメリカに来た意義は大いにあったし、これからもアメリカは私の第二の祖国です。今後も日米両国のために自分ができることをしていきたいと思います。


(4)千葉県高校教員組合のHP、私も読みました。もうほとんどギャグとして解釈しております。・・・この人達、アメリカの学校へ視察に来たことあるんでしょうかね???
 よっぽどEメールでも書いてやろうかと思いましたが、どうせまともに読んでもらえるわけがないので、時間の無駄になるのでやめました。けれどもこの掲示板ではっきりさせておきましょう。アメリカではどこの学校でも国旗掲揚は当たり前です。エホバの証人の信者のように宗教上の理由がないかぎり、国旗に敬礼するのは日本人が知り合いにあったらあいさつするのと同じぐらい日常的になされているので、強制する必要などないのです。 (強制はしませんが、国旗に敬意を示せないような輩にはそれなりに社会の厳しい批判の目が待っています。日本で挨拶もろくにできない輩が白眼視されるのと同じでしょう。)こういう歪曲を平然と行うから、日教組という組織はどうしても信頼できないんですよね。


●先日、東京都と国立市に監査請求しました。国立ニ小の組合活動の実態には唖然と言うか大変なものです。4年ぐらい前に、国立市のヤミ専従が発覚して、国立に長年の悪しき労使慣行が是正されて職務免除の規定が作られたのですが30年間ほっておいたというからおかしな話です。
 昨年は市役所の地下組合事務所の光熱水費、確か5年分。150万円を超える額を組合はやっぱり私の監査請求で慌てて払った事もありました。それなのにのうのうと事務所を占有してたり、手続きの不備な組合活動をしていたとは、市民を舐めているとしか思えない。
知れば知るほど色んな事が見えてきて、結局、労働条件を守るためのものならいざ知らず、教育とは違った組合活動に熱心なのでは、国立の将来も厳しいなと思いました。
 そんな訳で「文教都市くにたちの学校教育改革」というホームページ作ってみました。先生も保護者の人もそれ以外の人も遊びに来てください。それと昔の校長先生に色々聞いたらやっぱり国立おかしいな、と実感しました。
http://homepage1.nifty.com/poli/


●8月6日は広島に原爆が投下された日という事もあって、広島では様々な行事が催されることと思われます。殆どが純粋に原爆で亡くなった方の慰霊を目的とした行事だと思われますが、中には安保や沖縄の在日米軍基地、憲法問題、「日の丸・君が代」問題、果ては侵略戦争云々と、原爆を利用して奇妙なことをする行事まであります。まあ代表や呼びかけ人の肩書きを見れば大体内容は予想できるのですが・・・・。
 原爆と言えば、被爆し白血病のため12歳で亡くなった佐々木禎子さんと千羽鶴の物語が有名(?)ですが、禎子さんの兄、雅弘さんの「平和運動は、当初の純粋な被爆者の気持ちとはかけ離れてしまった。原爆、戦争の恐ろしさを伝えることは大切だが、特定のイデオロギーに固まった人のために、禎子のことは語りたくない」 という言葉は印象的です。
 広島に限りませんが、平和運動と同じく平和教育も、「特定のイデオロギーに固まった人のため」の道具と成り果ててしまっているように思えます。(8,5)


●香港に駐在していたときのこと。アジア系航空会社のキャビンアテンダント(以下CA)数名と知り合いになりました。お互い気が知れてくると色々な愚痴が出てくるのですが、「他のアジア系の同僚は自分の非が明らかでも絶対謝らないし、ひどいときは責任をこちらに押し付けてくる」というような内容でした。「なんで抗議しないの?」と私が聞くと、「しているのだけれど、余り強く言えないので、大体無視されてしまう」らしいのです。「何で余り強く言えないの?」と聞くと、「日本人はアジアでひどいことしたから。別に私個人が悪いと思っているわけではないが、その手の話を持ち出されて切り返されるのが怖くて・・・」
 アイヤー、ここにも偏向歴史教育の犠牲者達がいたか、と思いましたので、「日露戦争で白人国家を破った日本人に、アメリカの黒人は敬礼していた」とか「インドは親日的」「台湾も親日的」・・・「中国と朝鮮半島を除くアジア地域は、別に日本だけを特別に"悪"としているわけではない。むしろ評価している。」などなど、知っていることをどんどん話して、最後に「日本人として誇りを持とう。」と言っておきました。数ヶ月後、そのCAたちに会ったとき、状況は良くなった、同僚らは別に歴史問題など持ださなかった、とのことです。
 偏向歴史教育(自虐的歴史観の植付け)を行っている教師には、「国際人」などという言葉を使わないでいただきたい。日本人の意識を縛るような偏向歴史教育は、DOMESTICな「口だけ国際人」教師のオハコのようですが、「現実」に直面した日本人は、簡単に「正常な思考」に戻りますよ。無駄で有害な抵抗はやめてもらいたいものです。(8,3)


●「日本はかつて東南アジアで皇民化教育を行い、日の丸に敬礼をさせ、君が代を歌わせた。だから日の丸君が代には罪がある」
これはよく組合の先生方が使う論理ですが、仮に皇民化教育に非があったとしても、それを行ったのは日本人であり「日の丸君が代」というモノではありません。「日の丸君が代」というモノに罪があるというのは「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」的な幼稚なアニミズムですね。極悪犯罪人がいても、悪いのは本人であって名前に罪がないのと同じです。




●今の小学校や家庭は、子どもを道徳や体罰による躾で「抑圧する」ことを、「人権」「自由」「ゆとり」の美辞麗句のもと、それらの思想より一段低いものとみなしているようです。「道徳や躾も大切だが、人権思想、平等思想、自由な発想の方がより大切だ」との信念のもと、子供を「抑圧」しない、「もっとゆとりを持たせよう」などと言っている訳です。
 「子供を二度と戦場に送らないために」とかいう言葉で思想教育を行う様は、ぞっとします。子供にとって非常に安易な状態が現出されております。子供は学校や家庭で、「易きに流れることはいいことだ」と教えられているようなものです。そうした子供は「抑圧をバネにして飛躍する」機会を奪われていると思います。
 現在の「自由、平等、人権」思想は、子供を甘やかしているだけで、「抑圧感」を昇華して、己の道を見出す機会を一生涯奪う可能性のある、非常に危険な思想であり、これら思想を元に行う教育こそ、「人間の健全な精神的発育」を阻害する元凶であると考えます。(7,28)


●誰かが書いていましたが英国の国歌では「神よ女王を守りたまえ」と書いてあります。日本の象徴である天皇のいやさかを歌うことは取りも直さず日本国幸せを祈ることになります。それをいかにも天皇と人民は対立した存在だと言う考えがあるから、共産党は国会の開会式にも出てこないし、天皇陛下に対する敬意も払わない、在位10年に学校に国旗を掲揚することも反対するのです。つまり、天皇制そのものに反対なんです。それを直接言うと票が減るものだから、当面はいかにも天皇制を認めるようなことを言って、配下にある日教組や、全教には反国歌、反天皇の教育をさせているのです。
 私の勤務している某都立高校も組合支配の最たるもので、卒業式での国歌斉唱の際、組合教員はわざと起立と言うのを忘れたことになっています。ある年などは、テープレコーダーが突然故障したことになっています。彼らは姑息 なんです。
 今回の国立の問題も、教師をやっている者なら誰もが分かりますが、教師の扇動があったことは当たり前です。 この掲示板で彼らの見方をしている人間はこの事実を知らない人間か、知ってて発言している左翼の教育破壊分子です。 国立の教師を処分出来なければ、都立高校で勝手に早退している違法教師や、主任手当を無理やり拠出されている違法行為を取り締まることは出来ません。


●こちらで書き込みをしてらっしゃる保守派の人たちは皆、自分の持論に対しいくばくかの不安を持ち、絶えず「自分の考えはひょっとしたら間違ってるのでは?」と自問しています。その為にこそ、反対思想を持つあなたがたの「論理的に明快な反論」がのどから手が出る程欲しいんです。しかしながら、私は今までいわゆる左派の方々が「論理的明快」に反論したような文章をただの一度も見たことはありません。あるのは、「右翼」「軍国主義者」「国粋主義者」「ファシスト」など、現在「悪魔的・否定的」意味合いをもつ言葉をちりばめただけの意味のないものばかりです。言葉本来の意味ではなく、その言葉の持つ悪いイメージだけを利用して反論したつもりになっているだけであるのが殆どです。しかも笑止なことに、その言葉の本来の意味すら知らない人が殆どです。
 「ファシズム」「全体主義・国家社会主義」を、その言葉の由来と思想まで説明できますか?ヒトラーのナチズム(国家社会主義労働者党)や、226事件の将校の心酔した昭和維新の思想の根底は、マルクス・レーニン主義と非常に相似し、現代資本主義・民主主義とは完全に相対するものであることはご存じですか? そこまで理解された上での議論となることを切に期待したいと思います。
 冷静かつ論理的で健全な議論を戦わせるという教育を戦後教育は全く放棄してきたのでしょうね。その為、新興宗教の幹部のような教師ばかりが跋扈するようになってしまった・・・狂信的に「あるもの」を信ずる人々と、そのような議論をするのは殆ど不可能に近いでしょう。半ば絶望的な気分さえわいてきます。(7,24)


●長年の教職生活の経験から、述べたいことがあります。
 学校というところは、要するに「読み書きそろばん」を教えるところだ。すなわち、教科を学ばせる場であって、教科書で教え試験で成績を出すところである。それ以外のことは、例えば、やれ「人権教育」だの、やれ「平和教育」だのは、たとえ学校として、それらに全く取り組まなかったとしても、少しも差し支えない。それどころか、そんなことをなまじ児童生徒に施せば、ひとりひとりが伸びてゆくことを妨げることにさえなる。こういう思いが、ここ数年頭を離れません。若い時には、あれほど取り組むのにときめいた「人権教育」や「平和教育」が、今はなぜ、私には、ずいぶんと稚拙な「教育」と映るのか、われながら不思義なのですが。
 学外からの「偏向教育はやめてください」との声は、「教科書をちゃんと使う教育をしてください」との要求の現れだと思うのです。
                                                                      (7,22)

●公教育(特に義務教育段階)では、先生を選ぶことはできません。このことは、塾の先生や予備校の先生とは全く異なります。
 塾や予備校の先生の場合、教え方が下手であったり、その他おかしいと思ったら、「やめる」という選択が出来ます。つまり、生徒(及び父母)に選択権があるのです。ところが、学校の場合、まず、「担任の先生を変えてください。」ということは通常、できませんね。
 そう、学校の先生に対しては、通常、サービスを受ける側の生徒(及び父母)に選択権がないのです。通常の民間企業ではありえないことです。おかしな商品を販売したら売れなくてすぐに在庫の山になりますからね。 このことの意味を一部の先生方はよくお考えいただきたいと思うのです。(7,22)


●日の丸・君が代反対派の少なくとも一部は「法制化されていないこと」を反対の根拠にしておりました。それが「法制化」された今、その根拠はなくなりました。今度は「強制はいかん」と言い始めたのですが、法律とは少なくとも、国民共通のルールとして国家権力が「強制性」を担保しているからこそ成り立つもので、それを否定してしまっては、すべての法律が「一部の反対者がいる」という理由のもと効力を失って、無秩序状態に陥ってしまうことは自明の理であります。世論調査でも過半数以上が日の丸=国旗、君が代=国歌として認めている現状も考慮に入れれば、「強制性」を反対の根拠とすることはできません。
「過去日本がアジアで"悪いこと"をした時に使用されていた旗・歌」には反対という意見があります。これは以下の2点において論破される可能性を持っています。
(1)当時の世界情勢を背景とした日本の動きを、現在の価値観をもって「悪い」とえるのかどうか疑わしい。歴史認識論争では意見が分かれている現状がある。「悪い」という一方的な決めつけを論拠にすることはできない。
(2)例え先の戦争で日本が悪いことをしたのだという結論に達したからといって、そのころ用いられた国旗・国歌を変更しなくてはならないという論拠にはならない。他国の国旗・国歌も、それぞれの国の過去の「悪行」にもかかわらず存続している。
 更に反対派の究極的な矛盾行動は「日の丸・君が代に代わる案を示して、住民投票などの国民意思の確認作業を公に提案していない」ことにあります。反対なら代案を示して、民主的な方法で国民の意思確認をする、ことが筋ではないでしょうか。
 要するに、上記のような国民投票や、公開討論などをしてしまうと「負ける」ことがわかっているのでやりたがらない、ことは状況証拠的に明らかであります。彼らの戦術としては、「これから大人になる」人を「反日の丸・君が代」にしたてあげ、新聞などの世論調査を注意深く観察しながら、「勝てる」と思ったときに公の場に出てくる、という方法しか、残されておらず、それまでは頑張って子供に偏向教育を施す、あるいは自分達がコントロールできる範囲内(学校などの限られた場所)で「反日の丸・君が代」を喧伝していく、ことぐらいしかできないのです。(7,22)


●彼ら(国旗国歌反対派)と我々(賛成派)との間では「民主主義」の定義が違っています。我々は即「代議制民主主義」を指しますが、彼らは「一人の カリスマの指導の下での絶対帰依による『民主主義』」すなわちルソー主義的な個人独裁を表し、自分たちの意見のみが絶対的に正しく、それに異なったり、反するものは「民主主義」の名の下に抹殺されねばならない、と言うのが彼らの考え方です。ですから桜井よし子や井沢元彦の講演妨害という言論弾圧がまかり通るのです。





●日教組第88回定期大会議案をまとめた日教組新聞には、国旗国歌問題に関する取り組みについて以下のように書かれていました。
「日の丸君が代法制化にともなって国旗国歌の取り扱いにについては、平和・人権と民主主義の視点、そして日教組の組織教化・拡大の立場から十分な話し合いを基本として、地域や学校現場での対立と混乱を増幅しないように取り組む」とのこと。
 誰かが書いていたように日教組は国旗国歌反対闘争を取りやめたようです。その理由が「日教組の組織強化・拡大の立場から」というのだから呆れてしまいます。過激な反対闘争をして学校や世間を騒がせると、日教組の評判が悪くなり、加入率が低下するからだというのです。だったら今までの闘争はなんだったのかと言いたくなります。こういうのを右顧左眄、曲学阿世の徒というのでしょうね。(7,15)


●「日教組教育」が暴走する子を生んだ理由

1,前提として かつて飼い犬が飼い主をかみ殺す事故がありましたね。なぜこのような事故が起きたかと言いますと、犬というのは野生のときの「群れ」の名残で「序列」を本能的に意識するのだそうです。そのため飼い主が溺愛してしまうと、犬は飼い主を自分の部下と認識し、何らかの拍子に主人たる自分に反抗したと思いこんでかみ殺してしまうのだそうです。散歩に出かけると飼い犬に振り回される飼い主がいますが、あれもそのケースなのです。もう一つ前提として、「日教組」単独の問題かというとそうではなくて、教育界における問題の象徴にすぎないと言うことです。つまり「日教組」の他にその思想的支柱たる朝日新聞や岩波書店とそのとりまきの文化人、並びにこれらを支持・支援している日本社会党左派をワンセットにして考えておかねばなりません。そしてこれらは戦後50年の歴史があります。その間にこれらのワンセットが世代を横断して一貫して受け継ぎ、培ってきた価値観が日本中にしみこんだ、その内容が原因となって問題を引き起こしているのです。「日教組」の勢力が低下したから、日教組のせいにするのは発想が古いなどと言うのはあまりにも歴史的センスがゼロである証明でしかなく、50年間の彼らの「成果」として見なければいけないのです。
 この2つを前提に本論に入りましょう。

2.最も大きな原因は「消された父性」。さて、戦後「男女平等」の名の下に「父性・父権」が男尊女卑の象徴として完全否定されてしまいました。ところがこれが大問題となってしまうのです。
 (財)集団力学研究所所長、三隅二不二のリーダーシップの発想によると、リーダーは集団の目標達成や課題解決を志向する「目標達成機能」と、集団を維持し、強化しようとする自己保存の「集団維持機能」の両方を持っていないと組織は向上されないのだそうです。 前者は企業においては「計画を綿密に建て、仕事量や所定の時間を厳しく守らせ、指示命令を徹底させる」ことで、「厳しさ」から「父性」に該当します。後者は「部下を信頼し、仕事の評価をきちんとして、公平に意見を求めたり、何でも相談に応じる」ことで「優しさ」のイメージから「母性」に該当します。
 このどちらかが欠けてもいけないのです。「父性」だけだと、部下はいやいややるだけだし、逆に「母性」だけだと自己主張ばかりが目立ち、収拾つかなくなります。
 そしてこの「リーダーシップの理論」は「家族関係」にもあてはまるのです。先述の「犬の話」がまさにそうなのです。つまり、子供もさんざん甘やかして育てることによって犬同様に自分が主人なのだと錯覚してしまい、第二次反抗期の中途半端な時期に突然「父性」を発揮すると「主人に刃向かった」と勘違いして家庭内暴力の引き金となってしまうのです。先日東京港区で起こった事件(母親が家庭内暴力を繰り返していた中二の娘を殺して自らも飛び降り自殺した)がまさしくその典型例です。
 で、「ちょっと待てよ、これ学校と関係ないじゃん」と思うでしょうが、あにはからんや、この原因を作り出したのが、最初に挙げたように「父性」を全面否定し続けた「日教組教育」、「朝日新聞の主張」だったのです。この教育を初めて受けたのが戦後第一世代であり、このころは全てのマスコミが共産主義に強い憧憬を持っていましたので、世間的・家庭的にはまだ「父性」が色濃く残っていましたが、彼らが結婚してその「実践」として「甘やかし」が始まります。この世代になると、ちょうど僕のちょっと上の世代なんですが、このころから学校では校内暴力の嵐が吹き荒れました。引き金を学校側が引いたと言うことになります。そして「管理教育が悪い、造反有理だ!」と書き立てて煽ったのが「朝日新聞」だったのです。
さらにこの子ども達も結婚し、生まれた子供もそれ以上の「甘やかし」で育てられます。この世代に至ると社会も思いっきり甘えさせてくれるため、わがままのしほうだいとなります。
 この間、日教組を中心とした学校教育は「父性」を徹底的に否定し続け、ゆがんだ「母性」ばかりを大量生産し、世間中に蔓延していったのです。そしてもう一つ、こ の教育に毒された人たちがどんどん文部省に入っていって、教育を破壊していったのも見逃してはなりません。
 さらに「教育基本法」にもあるので難しいところなんですが、「体罰禁止」として、教師の「武力」を完全に放棄させられてしまったことも近年の暴走の原因にあります。一方の生徒の方は「造反有理」として「少年法」をも悪用して野放し、これでは教師が殺されるのは当たり前です。やはり、「武力による威嚇」は教育にとっては必要だったのです。むろん「伝家の宝刀」をやたら抜くのは逆効果です。教師はほとんど行使しない方がいいでしょう。それを効果たらしめるのが「家庭教育」での「武力」、つまり「父性」なのです。つまり、学校も家庭も先述の「リーダーシップ」の考え方を実践することが解決策の一つであるのです。
 このように家庭でも学校でも「母性」のみによる単なる「甘やかし」養育・教育の結果、西欧の「自由」の思想と単なる「自分勝手」をはき違えるのは当然のことで、その「自分勝手」が通用しなくなったときに「己の欲求」を通そうとして、爆発・暴走するのです。
 ところで、朝日文化人はよく「学校が悪い・社会が悪い」などと言いますが、そもそもその原因を作り出したのは彼ら自身の言論や運動なのです。これを「マッチポンプ言論」といいます。
 ですから「日教組教育」が暴走する子を生んだというのは余りにも正しい指摘なのです。 なお、我々はこのことを「過ち」といいますが、彼らにとってはこれは「成果」なのです。
 小田晋によると、1970年代に新左翼が「犯罪者・非行少年・精神障害者・ホームレスなどの反社会的エネルギーこそが体制内化した労働者農民に変わって革命の原動力となる」(『神戸小学生殺害事件の心理分析』)と主張していたとのことで、何のことはない、彼らはその考えに基づいてわざわざ「非行少年」を大量生産しようとしていただけのことなのです。そしてその期待に応えたのが5月の佐賀バスジャックの少年だったわけです。(7,13)


●私の住む県は高教組組織率94%を誇っています。そこで今年の3月の卒業でのお話を一つ。
私の住んでいる県もご多分に漏れず、日の丸・君が代問題(組合の教師とある種の団体が騒いでいるだけですが)で盛り上がっておりますが、高校の卒業式のあった日の夕方、ニュースで数校の卒業式の模様を放送しておりました。そのうち某校での卒業式で、卒業生が答辞で、「(日の丸・君が代を強制されたことで)私たちの心は踏みにじられました」と言っておりました。その話を教師をしている知人に言ったところ、
知人:「あれは教師が書いたものを生徒が読んでいるんだよ」
私 :「・・・・」
県教組にとっては「法的根拠がない」ことが問題なのではなく、日の丸・君が代(そして天皇の存在)が問題なのでしょう。法的根拠があろうとなかろうと、強制力があろうとなかろうと。(7,10)


●私は組合率90%を誇る○県の非組教師です。私がブチキレて組合をやめたわけはひとえに国旗・国歌に対する対応のいい加減さにあります。以前○県教組は「法的根拠がない」を理由に国旗・国歌に反対してました。ところが法的根拠ができてしまった・・・そしたら今度は「強制力がない」を理由にしたのです。 私には子どもがダダをこねてるようにしか見えません。そもそも「国」って何ですか?私たちが関与できないはるか隔たったところにあるものじゃないんですよね。選挙で選ばれた代表が国勢を話し合い、国の方針を決定していくわけでしょ。だったら、国旗・国歌を認める世論のほうが、認めない世論より多かった訳じゃないですか。なのに「僕たちはイヤ!」なんて言っても始まらないですよ。合意によって決まったルールなのに、「気に入らなきゃ従わなくていい。それも自由」なんてアホらしいこと生徒に言えますか?(7,9)


●「京都君が代訴訟」というのをご存じですか。93年、京都地裁では君が代強制を違憲だとする原告の訴えを棄却・却下しました。判決では「君が代の内容の問題は内心のシンボルの適否の問題といえる。それはもともと国民一人一人の感性と良心による慣習の帰趨に委ねられるべき性質のものである」としています。つまり「国民全体の中で君が代を国歌として処遇する慣習が体勢を占めるのなら、それに従うべき」であり、「国民の大半が学校教育における国旗国歌の実施を認めるならば、それは当然のことである」というのです。これによって、国旗国歌の強制が思想信条の自由に抵触しないことが法的に明らかにされたと 解釈できます。原告は高裁に上告したらしいのですが、その後の経緯は知りません。どなたかご存じの方がいらっしゃれば教えて頂きたいのですが、ともあれこの地裁判決に従う限り、強制反対の論拠はないように思います。(7,9)



● 「(国の)押付け反対・強制反対」を唱える教師も結局は彼らの属する組合上層部(更にその上の特定政党)からの指示を押付けているにすぎません。では児童、生徒にどちらの「押付け」を与えるべきか?選択の答は明白です。「国の押付け」=学習指導要領に従った教育を与えるべきです。これは、例え組合が主張する教育内容の方が優れていてもです。民主主義の社会では「結果よければすべてよし」は成立しません。その手続きが民主的であるか否かこそが重要だと思います。学習指導要領の決定過程に日本国民は直接、間接的にかかわることができます。しかし特定組合の運動方針決定は組合員以外の者にはかかわる手段がありません。すなわち、「(国の)押付け反対・強制反対」派には安全装置がないのです。 国や地方自治体の情報公開が不充分であるという指摘があります。その指摘を否定はしませんが組合ないしはその上の政党の情報公開と比べたら雲泥の差があります。


●日本の国旗・国歌は「日の丸・君が代」しかありえません。本来で有れば、国旗・国歌法の制定など必要なかったと思います。今更、他の旗や歌などを示されても、感覚的に納得行かないでしょう。さて私が憤りを感じているのは、いわゆる偏向教師達に「遵法精神」が全く欠如していると言う事です。 日本は議会制民主主義の国であり、その議会を持って決定された事には従わなくてはならないはずです。 特に教師と言う立場に有る者は、公務員なのだから自分の主義主張はさておき、一度決められた事は不服が有ってもそれを子供達に教えなくてはならないはずなのに...。  自分たちに都合の良いことは「護れ、護れ」と、バカの一つ覚えのように押しつけるくせに都合の悪い、また「自分たちが正当に反論出来ない」事だけには、「強制反対、押しつけ反対」と始末が悪いこと甚だしいです。教師がそんなことをやっていれば、教えを受けている子供達に「なんだ、法律なんて守らなくても良いのか」と言う意識が出てきて当然であり「立派な無法者」を育てる教育です。また自分がどんな間抜けな思想にかぶれていようと、それを子供に押しつけるとは許し難い犯罪です。 てゆーか、今時共産主義なんて信じるな(笑)


●日の丸・君が代否定派はよく「強行採決」と「強制」という言葉を使ってイチャモンをつけるが、国旗国歌法以外のソレに対しては特になにも言わないので矛盾していると思う。例えば、法律だとか条約だとかの細かいルールも、いちいち私達にお伺いをたてて決めたりしないことが普通だが、それらに対しては強行採決と言わないのはおかしい。結局、強行かそうじゃないかはどうでも良くて、ただ日の丸・君が代が嫌いなだけに見える。また、強制だから悪いと言うが、世の中は強制なしでは成り立たないなんてことは小学生でも理解できることだし、現に否定派の方たちもその「強制」をごく普通に受け入れて生活しているはずです。なのに学校で君が代を歌わせることだけを「強制だ」といって問題視するのはどう考えても変です。否定派の方はそれほど強制がだめだというなら赤信号で止まることも、欲しい物を手にするとき代金を払うこともされてないんでしょうね。「金を払うことを強制されるのはボクの内心の自由に反するので拒否するっ」とかなんとか言って。