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2007年12月18日

人を信じられない人のための自分語り

わたしは子供時代の特殊な家庭事情から、大人の顔色を読むことにだけは異常に長けた子供だった。
今現在は他人の気持ちなどよくわからないし、むしろ人よりずっと鈍感だと思う。鈍感が嵩じて相手を怒らせてしまったとしても、困るのは、おおむね相手が職場の人間のときだけなので、それ以外の他人に対しては顔色をうかがう必要はないからである。


だが、幼児にとっては大人の感情や性質は、直接生存に関係してくる。


幼い頃わたしが理解しがたかったのは、同じ年頃の子どもたちの、大人に対する無条件かつ絶対的な信頼感だった。「大人は子供を可愛がるもの」ということを疑ってみもしない。無邪気に大人に甘えかかる彼ら。
この世の中にはさまざまな大人がいて、子供を愛し、保護しようとする大人もいれば、子供を毛嫌いしている大人もいる。子供と同じ目線で遊んでくれるが責任感のない大人、子供にまったく無関心な大人。そして、これは男性に限るのだが、子供に普通の大人たちとはまったく異質の関心を持っている大人もいる。
わたしには印が付いているようにわかるその違いが、普通の子どもたちにはまるでわからないのだった。


小学生の時、近所に、いつも白黒の狆(犬)を散歩させているおじさんがいた。何人かの友達と外で遊んでいたときにたまたま出くわしたのだが、友達はその犬を見ると、歓声をあげて駆け寄ろうとした。
子供が集団で突進してくるのを見た飼い主は慌てた。「おい!ダメダメ、触るな!この犬に触ったらダメだ。高いんだから!」
おじさんは怒鳴りながら、まるで「犬」を追い払うように、邪険に手を左右に振って「向こうへ行け」とジェスチュアした。友達はしゅんとして犬に近づくことを諦めた。
こういう大人はめずらしくもない。犬を連れているからといって、犬好きの優しそうな人だと思ったら大間違いなのだ。犬が好きでも子供が好きとは限らない。
わたしは脳内の「この大人はこういう種類の大人だフォルダ」に、特徴をしっかりと書き込んだ。二度と忘れて近づいてはならない。


ところが1〜2ヶ月後のこと。同じメンバーで遊んでいるときに再びそのおじさんと犬に出くわすと、友達は懲りずに犬を触りに走っていこうとするではないか。
わたしは慌てて彼女らを引き止めた。「ダメ!あの犬に触ったら怒られるよ!!」
「なんで?」
「なんでって、前に触ろうとしたらダメって言われたじゃん。あの人は犬に触られたくないんだよ。あのおじさんの犬だけはダメ。犬をなでたいなら他の家へ行こう」
わたしが小声で諭すと、おじさんはチラッとわたしの方を見た。恐らくはっきり聞こえていたのだろう。
だが、その一瞬の表情がこちらの思惑と違い、ひどく不満そうだったのをわたしは素早く見てとった。(それほどに大人の顔色を読み慣れていたのだ。小学校の三、四年の頃だったのだが)


なぜだ?とわたしは考えた。何が不満なんだ。おじさんが犬に触るなと怒鳴ったことを、わたしは覚えている。だから友達が大事な犬に触らないように先に制止してやったのに、何が悪かったのだ。おじさんのお望み通りだし、友達もおじさんに怒られなくて済んだ。
少し前に怒られたことをまったく覚えていない友達にはあきれたが、もう一度同じことでおじさんに怒鳴られてへこむ友達を見たくはないし、いっしょくたに「頭の悪い子供だ」という目で蔑まれるのもまっぴらだ。
だからやめさせたのに、事前に食い止めたわたしを「可愛くない子供だ」という目で見るのはなぜなのだ。「よく覚えていたね」と満足するのが普通ではないのか。


ちょっと考えて、わたしは見当を付けた。「ああ、自分がケチで意地悪な人だと思われたことが嫌だったんだな」と。
"高い犬に触られたくない"ケチなおじさんなのはほんとうのことなのに。
「でも、ほんとうのことでも大人は怒る。ケチなことがわかってしまったわたしが憎らしいんだ。あの人に聞こえる声で、あんなことを言ってはいけなかったんだ」
わたしはふたたび記憶に刻み込んだ。



ところがそれから何ヶ月か後に道を歩いていると、例のおじさんと犬が、どこかの子どもたち数人に囲まれているではないか。
狆("高い"犬)はなでられたり、子供の手をペロペロなめたりして、四方八方から思いきり触られまくって尻尾を振っていた。おじさんはまるで別人のように、ニコニコと鷹揚にそれを許している。
何だそりゃ、とわたしは思った。


常識的に推測すると、その子どもたちはわたしたちと違って、おじさんの知り合いの子供だったのかもしれないとも思える。顔も知らないどこかの子どもたちには冷たいが、知人の子供には鷹揚になる。そういう種類の大人もいる。
だがなんとなくそうではない気がした。
なぜだかわたしが言った言葉が、おじさんを変えたような気がしてしかたがなかった。まさにあのとき、わたしをちらりと見た、あの何とも言えない目つきを覚えていたから。
わたしの言葉で、たいした知能も認識力もないとあなどっていた「子供」に、自分がどういう大人に見えているかということをはじめて自覚させられて、苦々しい気持ちになったのではないか。これは成長してから思い至ったことだけれど。


その後も友達と遊んでいる途中で、犬とおじさんを見かけることはあったが、わたしは決して近寄らなかった。
わたしは拒否されて他の子供は犬に触ることを許されたのだ。
そしてその差別は、「怒られたことをすぐに忘れ、あけっぴろげに大人に甘える」無邪気さの有無に起因しているような気がした。
その当時にそこまで複雑なことを明確に理解したわけではない。ただ、いちいち大人の顔色を先読みして、「これをされれば嫌なんでしょ。怒られるくらいならあらかじめあなたのカンに障ることはしません」という態度が、大人を苛立たせ、ますます手厳しい仕打ちを食らうことは、この件に限らず、何かにつけて繰り返される体験の中で、わたしはだんだんと学習していた。
大人がどう思うのかなどまるで考えずに好き勝手にふるまう子の方が可愛がられるし、常に許されるのだ。


だがわたしは「大人がどういう反応を示すか」あらかじめ推測してから行動することをどうしてもやめることはできなかった。
「大人が何に対してどういう理由で苛立つか(子供のくせに)察知する」こと自体が、ある種の大人(具体的には当時の担任である女性教師)にとっては気に入らないのだと何となく悟るしかなく、それをもわたしが悟ったことが大人にはわかってしまい、ますます疎ましがられるというネガティブスパイラル。
子供であるわたしが鏡となって、「自分がどういう人間に見えているか」をいちいち自覚させられることなど、確かに腹立たしいことには違いない。



その上わたしは決して「良い子」ぶりたいから怒られないようにしていたわけではなかった。
要するにその頃のわたしは、その担任を含めて、母親以外の大人というものをまるで信頼していなかったので、「怒られて反省して許されて愛される」という予定調和の関係性が、まったく理解できなかったのである。
大人に愛されたい・可愛がられたい・褒められたいからこそ嫌われないように良い子にしている、という子供と、わたしのありかたはまるで違う。
大人を信頼もせず、これ以上可愛がられることを期待もしないが、目の敵にされると生存本能として危機感を覚えるので、怒らせないように常に神経を研ぎ澄ましている。大人を、油断すると食われる猛獣のように思っている。ただそれだけなのだから。
「猛獣」相手ならこの対処は正しいのだが、相手は人間である。「一度拒否されたら完璧に学習して二度と近づかず、同じことは絶対に繰り返さない」というわたしの態度は、関係性を改善する可能性を徹底的に拒否するものだった。


今にして思えば、「いつまでもなつかない警戒心の強い野良猫のような」子供が、彼ら大人にしてみれば、小面憎くてたまらなかっただろうことは想像に難くない。
その担任とは3年間つきあったが、結局最後までわたしは彼女を信頼しなかった。



他人がどう思うのかなど考えずに好き勝手にふるまう人間がときに可愛がられ、許される。彼らがそうふるまえるのは身勝手だからというよりは、人間の愛情や好意に対する絶対的な信頼感があるからだ。
その無条件の信頼感は、一度や二度仲違いしたくらいでは絶対に崩れない。それが相手にも伝わるとき、許され、愛される。
人を信頼しない人間は誰からも信頼されない。信頼は「勝手な期待」とは異なる。ときに相手に期待を裏切られても消えない種類の確かな好意。
それを無造作にひとに与えられ、無条件にひとから受け取れる人種が愛されることを、10才にも満たない歳にしてわたしはおぼろげに学んだ。まあ、それがわかったからといって、そんな風に生きられはしないのだけど。



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投稿者 : ナツ at 2007/12/18 | カテゴリー : 心理
コメント

投稿者 : shuji Author Profile Page at 2007年12月18日 03:03

読みましたけど見方が違うなあと思いましたね。まあでもそうせねばならない動機というのをほんとだったら探るんだと思いますけどこういうコメント欄では難しいだろうと思うし。

議論ということでやれたらいいんだと思いますけどこの場合はなにがテーマなんでしょうね。


投稿者 : at 2007年12月18日 09:33

へんないい方ですけどとても共感できてしまいました。
私も常に大人の顔色を見て、いろんなものを抑圧してきたので。
私は「守られた経験のある人間が羨ましい」と20を過ぎるまでずっとおもってました。


投稿者 : marineko at 2007年12月18日 12:07

なんか山岸凉子の短編みたいな話。
大人の顔色を読む子、ね・・・私はナツさんとは違って、その「怒られても懲りない友達」のほうだったからわかるけど、たぶん、「大人は子供を可愛がるもの」とかイチイチ考えてすらいないんですよ。何も考えてないからまた怒られるようなことをする。
ちょっと別の話になるけど、大人になってから、「小さい頃、親の顔色を伺ってた」という人が案外いることに気づいてしまったわ。例えば「私たちの子供の頃、外食ってちょっとしたイベントだったね」と言うと、「僕は家が裕福じゃないことを知ってたから、メニューを見て安いものを頼んでた」とかね。うっそー、それ小学生低学年の話?なんでそこまで頭が回るの(笑)。私は食べたいもの頼んでた。うちもつましい暮らしだったけど。でも、その人以外にも、「自分もそうしてた」という人がわりといて、「普通わかるやろ、なんでそこでわからへんねん」って言われて、うちの親が子供の前ではお金の話をしなかったからかとも思ったけど、それだけじゃなく、子供特有の無根拠な全能感をまだ維持してたからじゃないかな、と。早くから大人びる子って、「世の中には、思い通りにならないこともある」って当たり前のことを、何かのかたちで早く知ってたんだなぁと思ったわ。いや、私が遅すぎたってこともあるけど。だいたい平均して、いくつぐらいでそんなこと思うようになるんだろう?


投稿者 : ulu at 2007年12月18日 21:11

財布落としたり税務署の調査が入ったりで、年末だってのに色んな意味でお寒い今日この頃でっす。キィー!

>大人の顔色を読むことにだけは異常に長けた子供だった。
「読むことに長けていた」と言うよりも「読もうと必死だった」の方が近いんでない?
で、大人になったら、別に必死に読もうとしなくても生活出来ると気づいちゃったと(笑)

大体、その狆のおっちゃんが何を考えてそういう行動をとったのかは、ナッちゃんの推測じゃん。
推測じゃ、おっちゃんの真意も、その犬が本当に高かったのかどうかもわからんって。
今も昔も変わらず、顔色伺ったところで他人の気持ちを完全に知る事なんて不可能、無理無理。

だからこそ、少しでも知りたいなら直接聞くし、伝えたいことがあるなら直接言葉にしてしまうのが唯一の方法だと思うな。
な〜んていう、自分の考え方は小学5年の頃、10歳の頃から変わらない自覚があるんだけど、
性別とか関係なしにだいたいその年齢位で、自分を取り巻く世界の見方の大部分が構築されるのかもね。


投稿者 : ナツ at 2007年12月18日 23:53

●shujiさん
これは単なる自分語りなのでテーマも何もないんですよ。議論にもなりようがないと思うし。共感するとか自分はこういうところが違うとか、思ったことをそのままコメントしていただければ。


●葵さん
>「守られた経験のある人間が羨ましい」と20を過ぎるまでずっとおもってました。
無条件で守ってくれようとする大人もいる、ということは理解していましたが、他人にはあまり期待しない方が正解だというのがわたしの認識でした。あとは大人を徹底的に観察して、「どんなタイプか」早めに見極めようとしていた。
子供の頃はずっと「人見知りの激しい子だ」「神経質な子だ」といわれ続けていたんですが、そりゃ大人を信用していないんだから当然なんですよね。


●marinekoさん
>「大人は子供を可愛がるもの」とかイチイチ考えてすらいないんですよ。
うん、そうでしょうね。生まれたときから空気のように大人の愛情や保護を信じられる。頭で考えてる訳じゃない。だから怒られても大人の愛情を疑わない。その怒りは一時だけで、やっぱり大人は自分を愛してくれるものだと思えるから、泣いたあとは懲りずに子犬のように甘えられる。大人はそんな子供の無邪気さがかわいくてしょうがないから可愛がる。これがポジティブスパイラル。

>「世の中には、思い通りにならないこともある」
・・・ということは、小学校に上がる前の時点ですでに骨の髄まで思い知っていました。その頃にはもう父母が家裁で離婚調停してて、わたしは別の家に預けられてたので。
幼児にそれを思い知らせるには家庭崩壊がいちばん効果あります。それは世界の崩壊を意味しますから。


●うるちゃん
脱税おじさんおつ!

>その狆のおっちゃんが何を考えてそういう行動をとったのかは、ナッちゃんの推測じゃん。
>推測じゃ、おっちゃんの真意も、その犬が本当に高かったのかどうかもわからんって。
本当に高いかどうかは問題じゃないんだよ。おじさんが「この犬は高いんだから触るな」と、幼い子供を怒鳴りつけて追い払ったのが問題なんだから。「そういう人間だった」ということがわたしにとっては重要な事実なわけ。
どうせ人の気持ちなんて超能力者でもない以上、憶測でしか把握できない。だからこそ言動によって他人に真意を推測されるのは当然じゃん? もっとも、「子供はそんな推測はしない」ということがデフォになってるんだけど。
つまり、「子供にどう思われるか考えも及ばず、平気でああいう言動をする人間性」であるということを、批判的に認識する能力に長けていた、と言った方が正しいか。

>顔色伺ったところで他人の気持ちを完全に知る事なんて不可能、無理無理。
これは同意するけど。大人の顔色がどんなにうまく読めても、子供のわたしが生き易くなったかと言えば、半端なく生きにくかったもん。「子供らしくない子供」ってのは相当憎たらしいよ。大人になったからわかるんだけども。
「他人が何を考えてようがもうどーでもいいや。なるようになるさ」と思えるようになった今現在の方がずっと楽だもんなあ。
まあ、好きな人・信頼を得たい人の気持ちだけは、何とか理解できるようでありたいとは思うけど。


投稿者 : shuji Author Profile Page at 2007年12月19日 19:12

そうですね・・。まあでも自分がこうしたいっていうことがあると思うんですけど。こういうのは性格によるのかなあ。誰かに任せてしまえっていうことはまだあんまりよくわからないんですけどね。


投稿者 : ナツ at 2007年12月20日 00:07

↑すみません。あんまりどころかさっぱりわかりません。レス不可能


投稿者 : AKIRA at 2007年12月20日 16:33

初めまして。時折覗かせて頂いていました。
ナツさんは、私の姉のタイプの人だな、と思いました。
私は、あまり注目されない子が、親(オトナ)の関心を引こうとしゃべりまくるようになる、そっちのタイプだったんですが、姉は、親の顔色を窺って機嫌の善し悪し以上に、今、何をしたらいいのか、どう振る舞えばいいのか、必死で知ろうとするタイプでしたね。
うちの親は、今で言う躾という名の虐待かますような人でしたので。母親の方ですけどね。
でも、先に動くと褒めたんですね、母親は。なので、それにどんどん長けていった。
私の場合は、どんどんしゃべって、愛嬌振りまいて、それがウケた。
よその大人がどう思おうが、関係なかったですね。(あくまでも私は、ですが)生活(生死?(爆))に直接関わるのは、親の機嫌でしたから。周囲の人達も、うちの内情は私の所為で(爆)知ってましたから、姉の子供らしくないところは、仕方ない、可哀想に・・・って想ってたみたいです。私は、よそに預けられてるときに、家の内情を、マシンガンのように話しまくってたんですね。話したらおやつ増えたし、預けられてる家の人達の機嫌がよくなったから。後から考えると、知らないうちに姉のフォローしてたような感じですかね。(苦笑)母親には、えらく怒られましたけど。
学校の先生にも、おしゃべりが好きとか、苦手とかあって、そこは考えましたが。学校の教師相手に、やっぱり、親と同じようにしても、結局それが気に入る教師、気に入らない教師といて、学校でそんな事をしても、あまり利益がないって思ったんで、外ではやらなくなったです。
おしゃべりが褒められた事じゃないってしったのは、小学校高学年くらいでしたか。遅い。(苦笑)
姉は未だに、母親に対してだけは、どこか、機嫌を伺うところが抜けないですね。それ以外は、ナツさんと同じように、長けてない方が楽ってことを知ったみたいです。母親のトラウマも抜けるといいんなあ、と。ナツさんの記事と、コメントを読んで思った次第です。
なんかどっかずれてるように感じたら、ごめんなさい。
初めてなのに長文、失礼いたしました。


投稿者 : shuji Author Profile Page at 2007年12月20日 22:13

> あんまりどころかさっぱりわかりません。レス不可能

え〜。どうしてだろう。まあいいや。まあでもこういうのがあれだと思うんですけど話しっていうのは一方だけではないというのかなあ。


投稿者 : shuji Author Profile Page at 2007年12月20日 23:41

あとは子供が怒られないようにっていうのを察知してるっていうのは僕もそうだと思うんですけど。

ちょっとコメント書くのを待ってもよかったかな?だいたいまあ焦ってしまうというのかそういうのがあるんだと思いますけど。


投稿者 : ナツ at 2007年12月21日 00:09

●AKIRAさん
>ナツさんは、私の姉のタイプの人だな、と思いました。
>私の場合は、どんどんしゃべって、愛嬌振りまいて、それがウケた。
それはわたしの妹のタイプですね。って、二人兄弟姉妹で複雑な環境に育つと、似たような傾向を示すものなんですかねー(笑)
妹はあとから生まれたし、ずっと母親の元から手放されなかったしで、わたしほどねじくれず一見明るく社交的に育ちましたが、大人になってからパニック障害などが出てきたりして、やっぱり深層心理には抑圧したものがあるんだなあ、と思わずにはいられません。明るい子は明るい子なりに、空気調整の役割を引き受けてますから大変です。

>周囲の人達も、うちの内情は私の所為で(爆)知ってましたから、姉の子供らしくないところは、仕方ない、可哀想に
周囲に理解がある場合は非常に助かりますね。わたしの場合は、当時の担任が「母子家庭だから子供まで子供らしくない。だから欠損家庭の子はダメなんだ」と考えるような差別者だったので大変でした。(これは大人になってから母に聞かされたんですが)
わたしの他にも母子家庭の子がいたんですが、そういう子を選んで手厳しく当たるという教師の風上にも置けないタイプ。子供だから差別意識がわからないと思ってたのか、まったく自覚がなかったのか知りませんが。


●shujiさん
そうですね。対話というのは一方的なものではないので、「自分が何を『こうしたい』のか、『こういうのは性格による』の『こういうの』とは何なのか、誰が誰に何をまかせてしまえというのか、記事中のどこを読んでそう思ったのか」、それを具体的に書いてもらわないと対話になりません。わたしにはshujiさんが何を言いたいのかさっぱり理解できないので、対話できないのです。
脊髄反射せず、頭の中で言いたいことを相手に伝わるような文章にしてから書き込むようにするといいと思いますよ。



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