自民党の歴史
掲載日: 2006年 09月 08日
自民党の歴史(12)野中広務の時代
(2006.06.05)
小渕・森内閣時代は「野中広務」の時代でした。この時代に自民党の連立政権は定着しましたが、一方で自民党への批判も強まっていくことになります。この時代の自民党を見ていきましょう。
1ページ目 【自自連立、自公連立政権の発足】
2ページ目 【小渕倒れ、不人気森政権と「加藤の乱」】
3ページ目 【キングメーカー・野中の敗北と小泉の総裁選勝利】
【自自連立、自公連立政権の発足】
しかし、1998年秋の臨時国会、通称「金融国会」といわれたこの国会では、衆参で過半数を割る自民党が民主党の案を丸のみする形に。……このようなままでは小渕政権の安定はままならない。
このようなことをすでに見越して、小渕政権の「影の総理」と呼ばれた野中広務官房長官と亀井静香を中心として、まずは小沢一郎率いる自由党との連立協議が進んでいきました。
野中はすでに、かつては「悪魔」とさえ呼んだ小沢に「ひれ伏してでも」協力をお願いしたい、などと公言し小沢にアプローチしていました。一方で民主党との共闘をあきらめていた小沢との利害も一致。
こうして1999年1月、自民党と自由党は閣僚削減、公務員削減などに合意し連立政権を発足させます。「悪魔」と手を組んだ野中はこう言っていました。「ぶれることで政治生命が傷付いても、日本が21世紀に栄えれば政治家として満足だ」(『野中広務 素顔と軌跡』)
93年には国会の質疑で「政教分離を言いながら、まったく政教一致だ」(『朝日新聞』)と公明党を手厳しく批判していた野中。しかし99年には「公明党は政教分離した政党として脱皮しつつある」(『朝日新聞』)といい、公明党へラブコールを送ります。
それが試されたのが4月の「地域振興券」発行でした。公明党の案によって商品券的な金券を配るという究極の「バラマキ政策」。これを自民党が呑むことによって、公明党との関係は決定的なものとなりました。
しかし、公明党との連立はすんなりいきませんでした。「YKK」のうちの2人、加藤紘一と山崎拓が連立に反対し、99年の総裁選に小渕の対抗馬として出馬するのです。
しかし、野中の圧倒的な手腕によって小渕派だけでなく森派・江藤亀井派・旧河本派・河野グループが小渕を支持。結果、99年9月の総裁選は小渕300票、加藤113票、山崎51票という結果。
この圧勝を受けて、小渕政権は公明党との連立政権協議を本格化、10月に「自自公連立政権」が発足。野中は官房長官のポストを同じ小渕派の青木幹雄に引き継ぎますが、その後も「影の総理」として隠然たる力を保持し続けていきます。
京都府議時代、革新府政のもと自民党は万年野党化し、思うような政策がとれなかった苦い経験。国政入りしてからも93年〜94年に野党に転落した自民党内での経験。このようなことから、自民党の安定化に人一倍努力するようになったのでしょうか。
または、「経世会(小渕派)を支えるのは自分しかいない」という自負があったのでしょうか。
経世会の主だった人物のうち、小沢や羽田は自民党を去り、橋本は退陣し、梶山は98年の総裁選で小渕の敵にまわる。もはや小渕派を支えるのは自分しかいない。このような使命感が、小渕派を中心とする自民党の安定を是が非でも、というものにつながったのかもしれません。
とにかく、98年から2000年までは野中の時代でした。反旗を掲げた加藤や山崎は反主流派となり、野中の敵はもはやどこにもいないように見えました。それどころか、加藤派の古賀誠を自身の後継者として育成、野中の権力は絶頂に達していました。
しかし、「YKK」のもう1つのK、すなわち小泉純一郎はこの間の政局には関わらず、沈黙を守り続けていました。小泉が自身の温存策をとったところが、後の政局に大きな影響を与えることになるとは、このときだれも予想しなかったところです。
もう1つ、参院勢力の拡大も見逃せないところです。参院選の敗北によって法案の成否を握ることになった自民党の参院議員は、むしろそのことによって発言権を増していきました。官房長官となった青木、参院の天皇と呼ばれた村上正邦は、第2派閥の領袖であり幹事長でもあった森喜朗ともならぶ自民幹部としての発言権を持つようになります。
村上はのちにKSD事件によって失脚しますが、その後は青木が党内での力を伸ばしはじめます。青木が後に野中を脅かすまでの存在になるとは、これも誰もが予想し得なかったところでしょう。
小渕・森内閣時代は「野中広務」の時代でした。この時代に自民党の連立政権は定着しましたが、一方で自民党への批判も強まっていくことになります。この時代の自民党を見ていきましょう。
1ページ目 【自自連立、自公連立政権の発足】
2ページ目 【小渕倒れ、不人気森政権と「加藤の乱」】
3ページ目 【キングメーカー・野中の敗北と小泉の総裁選勝利】
【自自連立、自公連立政権の発足】
「悪魔」小沢・自由党との連立
98年に発足した自民党経世会の小渕恵三政権が最初に取り組まなければならない課題は、なんといっても橋本政権退陣のきっかけとなった金融不安の解消でした。しかし、1998年秋の臨時国会、通称「金融国会」といわれたこの国会では、衆参で過半数を割る自民党が民主党の案を丸のみする形に。……このようなままでは小渕政権の安定はままならない。
このようなことをすでに見越して、小渕政権の「影の総理」と呼ばれた野中広務官房長官と亀井静香を中心として、まずは小沢一郎率いる自由党との連立協議が進んでいきました。
野中はすでに、かつては「悪魔」とさえ呼んだ小沢に「ひれ伏してでも」協力をお願いしたい、などと公言し小沢にアプローチしていました。一方で民主党との共闘をあきらめていた小沢との利害も一致。
こうして1999年1月、自民党と自由党は閣僚削減、公務員削減などに合意し連立政権を発足させます。「悪魔」と手を組んだ野中はこう言っていました。「ぶれることで政治生命が傷付いても、日本が21世紀に栄えれば政治家として満足だ」(『野中広務 素顔と軌跡』)
公明党との連立
そして野中は、連立の可能性を模索して公明党とも接近していきます。93年には国会の質疑で「政教分離を言いながら、まったく政教一致だ」(『朝日新聞』)と公明党を手厳しく批判していた野中。しかし99年には「公明党は政教分離した政党として脱皮しつつある」(『朝日新聞』)といい、公明党へラブコールを送ります。
それが試されたのが4月の「地域振興券」発行でした。公明党の案によって商品券的な金券を配るという究極の「バラマキ政策」。これを自民党が呑むことによって、公明党との関係は決定的なものとなりました。
しかし、公明党との連立はすんなりいきませんでした。「YKK」のうちの2人、加藤紘一と山崎拓が連立に反対し、99年の総裁選に小渕の対抗馬として出馬するのです。
しかし、野中の圧倒的な手腕によって小渕派だけでなく森派・江藤亀井派・旧河本派・河野グループが小渕を支持。結果、99年9月の総裁選は小渕300票、加藤113票、山崎51票という結果。
この圧勝を受けて、小渕政権は公明党との連立政権協議を本格化、10月に「自自公連立政権」が発足。野中は官房長官のポストを同じ小渕派の青木幹雄に引き継ぎますが、その後も「影の総理」として隠然たる力を保持し続けていきます。
野中時代と新しい勢力の胎動
なぜ、野中はこれほどまでに自自公連立にこだわったのでしょう。先にも述べた通り、もともと野中は自由党にも公明党にもいい感情をもっていなかったはずです。京都府議時代、革新府政のもと自民党は万年野党化し、思うような政策がとれなかった苦い経験。国政入りしてからも93年〜94年に野党に転落した自民党内での経験。このようなことから、自民党の安定化に人一倍努力するようになったのでしょうか。
または、「経世会(小渕派)を支えるのは自分しかいない」という自負があったのでしょうか。
経世会の主だった人物のうち、小沢や羽田は自民党を去り、橋本は退陣し、梶山は98年の総裁選で小渕の敵にまわる。もはや小渕派を支えるのは自分しかいない。このような使命感が、小渕派を中心とする自民党の安定を是が非でも、というものにつながったのかもしれません。
とにかく、98年から2000年までは野中の時代でした。反旗を掲げた加藤や山崎は反主流派となり、野中の敵はもはやどこにもいないように見えました。それどころか、加藤派の古賀誠を自身の後継者として育成、野中の権力は絶頂に達していました。
しかし、「YKK」のもう1つのK、すなわち小泉純一郎はこの間の政局には関わらず、沈黙を守り続けていました。小泉が自身の温存策をとったところが、後の政局に大きな影響を与えることになるとは、このときだれも予想しなかったところです。
もう1つ、参院勢力の拡大も見逃せないところです。参院選の敗北によって法案の成否を握ることになった自民党の参院議員は、むしろそのことによって発言権を増していきました。官房長官となった青木、参院の天皇と呼ばれた村上正邦は、第2派閥の領袖であり幹事長でもあった森喜朗ともならぶ自民幹部としての発言権を持つようになります。
村上はのちにKSD事件によって失脚しますが、その後は青木が党内での力を伸ばしはじめます。青木が後に野中を脅かすまでの存在になるとは、これも誰もが予想し得なかったところでしょう。
野中は小渕政権安定のために、次々と連立工作を実現させていった |
関連用語: 通信傍受法 / 都市再生特別措置法 / ダイオキシン類対策特別措置法 / 小沢一郎 / 基本的人権 /