月に叢雲、花に風
「小谷城の浅井長政様が、ご結婚されるそうな」
近江・浅井領である今浜の地は、朝からその話題で持ちきりだった。
相手は桶狭間で今川勢を少数で打ち破ったという織田信長の妹。
また父の長い話が始まるのか、と佐吉は大根を洗いながら小さく溜息を吐いた。
「名門を少数で破ったという話では勿論、浅井も負けてはいない。
信長が、桶狭間で今川義元を討ち取ってから三月後、家督を相続したばかりの若君は、
南近江の名門・六角氏を野良田で打ち破ったのだ!」
父・正継はいつも同じ話をする。
佐吉はもう耳にたこが出来そうなほど、城主の武勇を聞かされている。
誰に聞かれても、すぐそらんじる事だってできる。
その武勇を打ち立てた城主が、この度、織田家の姫君と結婚するのだという。
この政略結婚によって織田と浅井の間に同盟が生まれた。
尾張と美濃を制した信長は浅井と同盟を結ぶ事によって、上洛へと一歩近付く事になる。
「これで浅井家の将来も、江北の将来も安泰かな」
ははは、と上機嫌に笑う正継は、この今浜・石田村の地侍である。
そして浅井の傘下である京極氏の元に仕えている。
普段は鍬を持って畑を耕し、米を育て、戦の時にはそれを刀に持ち替える。
「しかし父上、織田と越前の朝倉は不仲だ。
織田は何らかの理由をつけて、朝倉を攻めることになりましょう」
「大丈夫、この婚姻の条件には"朝倉を攻めない"という事が約束されている。
信長もこの条件を飲まなくてはならないほど、浅井の力が欲しかったんだろう」
「口約束なら幾らだってできます」
佐吉は頭がいい。正継はこの賢い息子をとても誇りに思っている。
苦笑いを浮かべながら、
「先の事は、その時にならねば分からんな」
と、言葉を濁し、話を打ち切った。
佐吉は父の言葉など意に介することなく、背中に小振りの籠を背負って家を出た。
伊吹山は薬草の宝庫だ。
その為に麓では薬屋として商売をする家も少なくない。
近江で一番高い伊吹山の頂上まで時間をかけて登ると、
眼下には眩しいくらい光で溢れた湖が見える。
湖岸で湖を見ると、遠くの岸は見えないくらいに広い湖だが、
山の上から見るとそうは思えない。
佐吉は一通りの野草を摘み、山から見える湖を眺めていた。
もう少し登ると、国境に至る。
国境といえど、誰かがそこに常駐して見張っているというわけでもないし、
線が引かれているわけでもない。
国境を越えると美濃――――朝から話の話題に上っている織田家の領地となる。
――――これで浅井家の将来も、江北の将来も安泰かな。
父の嬉しそうな言葉が不意に蘇った。
何を根拠に安泰を迎えられるというのだろうか、とひねくれた考えで打ち消そうとする。
綺麗な月が上がったかと思えば、それを雲が隠してしまう。
綺麗な花が咲いたかと思えば、風がそれを散らしてしまう。
良いと思うことは、一瞬の喜びに他ならない。
幸せが訪れたかと思えば、いつかはそれが壊されてしまう、
それがこの乱世の宿命なのだ。
いかに「理」で生き残るか……それこそが賢い生き方なのだ。
佐吉は物心ついた時から、そんな生き方を信じている。
草むらに寝転がり、眼を閉じていると、僅かに地が揺れた。
思わず地に耳をつけると、足音がこちらに迫ってきているのが分かった。
――――浅井長政様がご結婚されるそうな。
「……今日なんて、聞いてないぞ」
佐吉は慌てて籠を拾い、もうすぐそこまで来ているだろう輿の行列から、
逃げるように山を駆け下りようとした。
しかし、山が切り開かれたその場所には隠れる場所もない。
身を隠そうにも植物の背が低すぎた。
国境の近くに居るというだけで、何をされるか分からない。
ただ薬草を摘みに来ただけ、という言い分は通用しないだろう。
佐吉の足が止まって、山頂を振り返る。
しかしここは浅井領、織田方がここで何か問題を起こせば、不利になるのは向こうだ。
何も疚しいことはしていないし、第一自分がこそこそすればするほど、怪しいのだ。
ここは堂々と薬草を摘んでいることにしよう。
しばらくし、山頂の峠を越えたところで長く続くであろう行列の先頭が見えた。
佐吉は岩の影で、気が付いていないフリをしながら、草を摘み続けている。
時折、横目で行列を見ながら、騒がしい具足の音に耳を澄ませた。
このまま山を下って行くだろうと思っていたその行列は、その場で足を止めてしまった。
休憩を取る、と馬に乗った男が叫んだ。
手輿が下ろされ、傍についていた侍女が輿の中に居る姫に何か声をかけている。
そして御簾が開かれ、中に居る姫の姿が現れそうになったその時。
「――――誰だ!?」
行列の一行がざわめいた。
足軽たちが一斉に輿の周りに集まって姫を守ろうとしている。
「姿を見せよ、そこに居るのは分かっておる」
足軽たちを率いているらしい、厳しい表情の武士が輿の刀をすらりと抜いてこちらに近付いてくる。
隠れるつもりも逃げるつもりもない――――佐吉は堂々と岩陰から姿を見せた。
「……ここで何をしておる」
「草を摘みに」
男は刀を収める事無く、訝しげな表情を浮かべながら佐吉に近付いてくる。
「やめなさい」
斬る気で居たらしい男は、後ろから飛んだ制止の声に身をすくませて立ち止まった。
恐る恐る振り返って、そしてすぐさまその場にひれ伏した。
輿から出てきたらしい、姫がそこに居た。
若い。自分とそう年が変わらないのではないかと思う反面、随分と大人びた顔立ちである。
彼女はゆっくりとこちらに近付いてきた。
「お、お市様……しかしっ、この者の素性が知れません、お下がりを」
「やめなさい、と申したのが聞こえなかったのですか?」
冷ややかな声が降って、武士は逆らえずに地面に額を擦りつけた。
佐吉はというと、ひれ伏す事なければ立ち尽くしたまま、ぼうっと姫を見ていた。
「ご迷惑をお掛けしました。
お仕事の途中だったのでしょう?私たちのことは気にせず、続けてください」
柔らかい声がかかる。
佐吉はしばらくぼうっとして、彼女の問い掛けに「はぁ」と気のない返事をした。
思ったより随分背の高い女性である。
まだ伸び盛りである佐吉もそれなりに背丈はあるが、
視線を少し落とすだけで十分目が合う。
「綺麗……」
山の麓に広がる湖と、そこから先に果てなく広がる山脈と雲海の情景を見て、
市は溜息混じりに呟いた。
佐吉も同様に見慣れた景色を眺める。
風がそよそよと吹き、暖かい日差しが降り注ぐ。
「……よろしければ少しお話しませんか」
にっこりと笑って、仕事もせずに立ち尽くしたままの佐吉に声を掛ける。
傲慢だったり高飛車な振る舞いをするような、態度を匂わせない。
本物の姫とはこういう人なのだろう。
岩に腰掛けた市に合わせて、佐吉は側で膝をついた。
先程の武士は刀を納めて、行列の方へと歩いて行った。
市は佐吉に様々な事を訊ね、佐吉はそれにいちいち答える羽目になった。
目の前に広がる湖の事、湖に浮かぶ小さな島のこと。
聞く事は差し障りのないことばかりだった。
彼女にとってこれから夫となる人のことを聞かれるだろうという事を予測していたのに、
それを訊ねないという事が変に気になった。
「……お聞きしたいことがあるのですが」
一通りの市からの質問が終わったのを見計らった佐吉が、物怖じせずに口を開いた。
市は、なんなりと、と微笑って言う。
「……浅井長政様の事についてはお聞きにならないのですか」
市はきょとんとした表情をそのままに、佐吉を見つめた。
まだ見ぬ人と今宵から夫婦になるというのに、彼女は不安を感じさせる様子がない。
不安に満ちているからこそ、その事については触れたくなかったかもしれないが。
「人伝の評判なんて、当てになりません」
「……は?」
「こういうことはこの目で見て、この耳で声を聞いて、それで見極めたい。
見極めた時点でがっかりしても、それはそれで詮無き事ですもの」
「……」
「なんて……そう、思うだけ。勿論、不安はありますが」
「自身の目で見極め、それが同盟に悪影響を及ぼすような存在であれば、どうしますか」
佐吉の言葉はいつか織田が朝倉を攻めた時、「義」によって朝倉への救援を行うだろう
浅井の姿勢を、見越している。
「……変なことを言うのね」
「ありえない話ではありませんので」
「あなたなら、どうする?」
「俺は当然"理"を取ります。失敗はしたくない」
「そう」
市が立ち上がり、輿行列に向かって歩き出した。
まだ佐吉の質問には答え切れていないが、佐吉はそれを咎める事はしなかった。
答えがないのだろう、そう考えるしかなかった。
市が立ち止まり、振り返った。
「私は、夫となる人を信じます」
つまり、夫の選んだ道に付き従うつもりなのだという。
「――――お市様」
三成は一度深く辞儀し、顔を上げた。
そして立ち上がって、無遠慮に彼女のところへと大股で歩み寄る。
(俺はいつか、あなた方に仕えることになります。
その時は「利」を打ち立てて戦う事が、いかに重要かを教えて差し上げますよ)
頭で思い浮かべていた皮肉は一言も、口から出てゆかない。
すぐ側まで近付いて、橙色の花を渡した。
日々新たに、心安らかに、ただ幸せが訪れますように――――。
市は握らされた花をまじまじと見、少し背の高い佐吉を見上げて、にっこりと笑った。
パタパタパタ、という音がうとうとと眠っていた三成の意識を呼び戻す。
こほん、と軽い咳払いをすると、はたきを振っていたねねが振り返る。
三成が横になったまま不機嫌そうにねねを見た。
「……何をしてるんですか」
「見て分からない?掃除よ、掃除」
三成の部屋は綺麗に片付いている。
つい先程まで畳の上には書類が散乱していたはずだが、全て綺麗に畳まれて、
文机に並べて置かれている。
自分が案外だらしない性格だということはよく分かっている。
「書類、あんな風に雑に置いてちゃ駄目でしょ、無くしたらどうするの」
ねねは世話焼きだ。そして色々と煩い。
実の母親以上に煩いのだ、小言が始まると耳を塞ぎたくなる。
「わざとああしてたんですよ。
……これじゃ、どれが何か分からないじゃないですか……。
面倒なことをしてくれる……」
「何か言った?」
「……いいえ、何も」
再びはたきを振り始めたのねねの背中を見ながら、三成は小さく溜息を吐いた。
机の側まで寄り、肘を突いて庭を眺める。
随分昔の夢を見ていた。
義戦を貫き通した、浅井長政という人はもう過去の人になっている。
三成の予想通り、織田信長は浅井との約束を破って、朝倉を攻めた。
浅井は「義」を打ち立てて、織田軍を金ヶ崎で追撃する。
そして姉川での敗戦を期に、浅井は衰退し、滅びた。
三成は浅井長政に仕えることなく、新たに江北の主となった羽柴秀吉に仕えている。
身体を伸ばして、再び文机に向かって筆を取った。
書類は以外にもちゃんと分類分けされていて、三成が今後困るという事はない。
だけど、彼は素直に「ありがとう」とは言わない。
それが三成で、彼のその性格をねねはよく知っているから、その言葉を求めない。
「お市様、今日はちゃんと食べてくれるといいんだけど」
「……無理ですよ」
「ううん、今日は無理矢理にでも食べてもらうつもり!それからお説教するの!」
「精々頑張ってください」
夢の中で笑っていた、あの姫は未亡人となり、失意の中に居る。
秀吉が立てた長浜城の奥に立てられた屋敷の中に引き篭もって出てこない。
食事もとらず、呼び掛けても返事もせず……でも、生きている。
「よーし!」
三成の言葉など気にせず、気合十分に出て行くねねを、横目で見送った。
庭からは、近江で一番高い、伊吹山が見える。
筆を置き、部屋を出る。
台所まで足を運んで、食膳を抱えて出てこようとするねねと鉢合わせた。
「おねね様、俺も一緒に行きます」
「あら、どういう風の吹き回し?」
「……おねね様が、お市様に危害を加えないかどうかを見張ろうと思っているだけです」
そんなことしないよ!と不機嫌に言って、ねねは食膳を三成に押し付けた。
彼女は今、どれほどの絶望感に浸っているだろうか、もう笑う事はないのだろうか。
橙色の花を受け取った市の笑顔が、三成の記憶の中に居座っている。