Cerebral secreta: 某科学史家の冒言録 このページをアンテナに追加 RSSフィード

2008-09-23

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休日のパターン。

とりあえず、EASTS用の論文は、一通りできたとして、細かい調整に入る。

次の論文の作業を開始。

[][]大学院生の指導とか(その2)

仮に、大学院生の指導(というか、助言すること、advising)について、院生の自己責任にゆだねる、という方針を採るとして(つまり、教員の助言に対して、院生の自分の責任で、どう反応するか判断する)、その場合には、院生の側がそのための準備ができていることが必要である。

結局、授業とは、その段階、つまり、院生・学生が、自己責任で判断できる段階に達する前の段階の教育をするためにあるのだと考えればよい。授業を履修するかどうか、院生の自由意志で判断できるが、授業を履修した場合、一定量の勉強を、院生は強制的に行わなければならない(もちろん、悪い成績を得ることの対価として、勉強をしないという選択の余地はあるのだが)。他方、教員のほうは、院生・学生がその授業を履修することによって、一定の知識・技能を獲得するということに関して責任を負わなければならない。これに関してならば、教員はかなりの確かさで責任を取ることができる。研究をする、とか、論文を書く、とか言うことには、かなりの不確定要素(新しい研究ならば当然である)を含むわけだが、それと違って、すでに分かっていることの知識の獲得については、材料の選定さえ間違わなければ、教育を誤る可能性はずっと低いからだ。

こうしたプロセスを経た上で、一定程度の技能・知識をもった院生に対してならば、研究上の指導が可能になる。

逆に言えば、こういった授業の履修が、研究指導の前提となるべきであるし、他方、研究指導の前提となるように授業を設計しなければならない。

これはかならずしも、授業という形態でなくてもよいはずである。例えば、人文社会学系では、supervised readingという形態がおそらくもっとも重要だ。これも、教員がreadingのリストを作るのではなく、院生が素案を作ったうえで、それに対して教員が助言する形がよいだろう。多分、これが授業の次の段階である。

2008-09-22

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非常に体調悪し。

ピュラー・カルチャーを研究するためには、大衆論をやっぱりおさえておかないとだめだと思われてきた。当然といえば、当然なのだが。

例えば、タルドあたりからはじめるか?本を持っていたはずなのだが…。

世論と群集

世論と群集

KeatingとCambrosioをちょっと読んでみる。読んでいるうちに、どう形で論文に使うつもりだったのか忘れていることに気づく。

ときには、アイデアというのは、言語化すらされていない形で頭に浮かぶ。それを書き留めることもできないから、覚えているあいだに、試さなければならない。

ある本のことを思いついてから、実際にその本を手にするまでの時間が短いことが重要なのはそのためだ。だから、研究というのは大きな図書館でやるのがいいのだ。

総研大では教職員に夏休みというものは存在せず、ただし、6月から9月のあいだに連続する3日間、特別休暇として休みをとることができる(逆に言えば、夏休みが3日しかないわけだが)。7月や8月はどこへ行っても混んでいるので、出かける気がしないので、9月に使うつもりだったのだが、しかし、どうやら消化できそうもないことに気づく。月末までは論文執筆に全力を出したいからである。そもそも休日にも大学に出てきて仕事をしている人間には、のんびり夏休みをとるのは難しい。去年は、合宿免許のために特別休暇を使用したのだが、今年は結局、有意義な使い方を思いつかなかった。