人間は、脳内に蓄積した (先天的・遺伝的・体質的感覚も含めた) 「感覚記憶」群 (Memories of
Senses) -- 「感覚平面」(Plane of
Senses)、「感覚基盤 」(Base of Senses) --
を元に、思考し、活動します。
そして言語 (Language) という物理化(音声化/文字化) tool
を使って、それを外部にoutputし、保存・共有します。
しかし、言語は場当たり的に形成・蓄積されてきた欠陥だらけのtoolですし、それを扱っている人間もまた能力限界 (LA)
を抱えているので、言語では個々人が持っている感覚記憶 (MS) を十分に表現・共有できません。
ですから、人間の脳内には、どこまで行っても表に排出・表現しきれない、あるいは共有しきれない膨大な感覚記憶 (MS)
が残存します。
私はこれをMeta Senses (メタ感覚)
と呼びます。
人間の活動や思考・嗜好を支え、突き動かしているのは、ほとんどの場合、言葉で表現・共有しきれるような論理的で大雑把な感覚ではなく、言葉で表現されないまま脳内に残存・蓄積している、膨大な量の、あやふやな、このMeta Sensesです。
例えば、「言葉、理屈ではわかっていても、同じ失敗を繰り返す」なんて話が、世の中では度々ありますが、そういう人は、Meta Sensesの次元で了解・納得してないから、そうなるわけです。人間が「理屈に合わない」と思われる行動をとったりするのも、Meta Sensesが人間を突き動かしているからです。
学業やSportsに熱心な子供や、律儀で実直な人々に、「なぜそうしているのか?」と問うても、核心的な理由は出てきません。なぜなら、そういう人間の振る舞いを決定付けるのは、周囲の人間の影響による、言葉では表現できないようなMeta Sensesの次元での刷り込みによるからです。
人間が見た目や、雰囲気や、言葉遣いや、権威の有無で、他人に対する対応を変えるのも同じ。理屈を超えたMeta Sensesの次元で「受け入れる/受け入れない」「説得力がある/ない」が判断されているわけです。
何が言いたいかというと、このように、人間はMeta Sensesの次元で考え、活動しているので、人間を説得するには、Meta Senses次元での感覚的approach も必要になるということです。
ひとつ例を挙げておきましょう。
古典的なRhetolic (レトリック/弁論術/説得術) では、大衆を説得する際、
の3つが大事だと説明されます。
ここでいうMeta
Sensesへのapproachとは、この2と3に対応するものですね。より限定的には2を意識しています。
具体例を挙げると、人類は基本的に、悲しいくらいに、
の4つの権威 (宗教性)
に弱い。これらが「とりあえずしがみついて、思考停止する」にはお手頃な権威 (宗教性)
だからです。
だから、どんなに科学が発達しても、どんなに国際化が進んでも、伝統や民族にすがる人間はいなくならないし、国際社会は幼稚な民族主義、伝統主義の小競り合いの場から抜け出せないわけですね、今なお。
こういう幼稚な権威 (宗教性) の衝突にいつまでも足を引っ張られていると、「人類益」が大きく毀損されかねないので、第4項でも書いているように、人類をこれら幼稚な権威 (宗教性) から、「物理的実体」(PE)
と「人類主義」(Mankindism) に再帰属させるPhysical Mankindism (物質人類教)
を、私は用意しているわけですが、これをそのまま述べるだけでは、それらの権威 (宗教性) から既にこぼれ落ちている人を救い上げるならまだしも、それらの権威
(宗教性) にしがみついている人々を引き摺り出すには、不十分だと言えます。
上述の表現を用いれば、「Meta
Sensesへのapproachが足りない」、あるいは「Ethosが足りない」からですね。
ですから、それを補うために、第4項でも書いたような「拡張革新型民族主義」(EPN)、あるいは下述するような「Link-Mix」、あるいは別項で後述するような「『宗教史としての人類史』という観点から、既存の権威 (宗教性) を回収・統合していく」といった形で、既存の権威 (宗教性) を絡め取りつつ、それらをMeta Senseへのapproachへと活用していく必要があるわけです。
人間も含め、全ての動物は、「仲間か、仲間でないか」「自分の陣地 (Territory) か、そうでないか」という認識の線引きに拘束されます。
「自分の仲間・陣地」だと (Meta Sensesの次元で) 了解した範囲には、愛 (一体感) を感じ、その趨勢に一喜一憂し、その最大利得のために尽力する一方、「それ以外」は無関心・排除・敵愾心で塗りつぶします。
自分さえよければいい、自分の家族さえよければいい、自分の友達・民族・国・組織・宗教・人種・・・さえよければ・・・といった具合に。
こういう線引き行為は、ちょうど「犬の小便かけ」に代表されるようなAnimal Markingsと同類ものだといっていいでしょう。「おまえは仲間/ここは俺の場所」「おまえは敵/ここは他所」そういう場当たり的な線引きごっこを、我々は無意識の内にやりながら暮らしているわけです。
こういう、ある意味滑稽な人間の習性を理解していれば、それを国粋主義のような負の方向にだけではなく、逆向きの生産的な方向に利用・活用することもできるようになります。分かりやすく言えば、Link-Mix (関連付けと混合) により、「仲間」の範囲を (まだら模様でもいいから)
拡大させていけばいいということです。第4項の最後に書いたEPN (拡張革新型民族主義)
は、そのことを意味しています。
人権だの、人類愛だのを叫ぶだけでは足りない。Meta
Sensesの次元で説得できない。もっと実感の湧く具体的な関連付け・混合・統合を同時進行で積極的に進めていく必要があるわけです。
さて、これは完全におまけの内容ですが、よくある典型的な「情報の集合的な表出形式」を書いておきましょう。ほとんどのWebsiteも、この形式に沿った作りになっています。人間の認識構造 (情報処理能力限界) から言って、これが最も合理的なわけですね。
日本人 (和人) は、単純な論理に没入することを嫌う「やまとごころ」ゆえか、長ったらしい、曖昧さを残す言述を好みます。
それが一概に悪いとは言えませんが、しかし、人間の情報処理能力を考えた場合、あまり賢いとも言えません。
どんなに長ったらしく詳述しても、受け手の頭の中に入り、残るのは、ごくごく一部の情報に過ぎないからです。
それどころか、情報過多により、最低限伝えなくてはならない情報すら、伝達されないことだってあります。
様々な場面で、日本人は、そういう人間の情報能力限界を踏まえた、単純化された情報の表出が下手糞なように、思えます。
単純化するところは徹底的に単純化する。そういうメリハリが大事です。
いい機会なので、ついでに、論理
(Logic) についても書いておきましょう。
論理の基本を知らない人が意外と多いですから。
Logic (Logos) は、古代ギリシャ哲学において、古くは「万物をつかさどる法則」、つまりインド哲学で言うところの「法」(Dharma) の意味でしたが、やがて、そこから転じて、その「法」に迫る、「法」を炙り出すための論述の積み上げを指すようになります。
今日、論理 (Logic) と言った場合、以下の3つを意味します。
一般的に「論理的/非論理的」と形容されるものは、1です。
筋道がはっきりしている/辻褄が合っていると感じられる論述が「論理的」、そうでないものが「非論理」と形容されるわけですね。
以下、その1の論理(Logic)について簡単に解説します。
■[Map(Chart) of Logic] (論理地図)
論理(Logic) の最小単位(Unit) は、下図のように「具体(c)」←→「抽象(a)」、「理由(R)」→「判断(J)」の組み合わせ、「Rc」「Ra」「Jc」「Ja」の4つの要素で形成されます。この最小単位を組み合わせるにより、より大きな論理が形成され、その最終的な判断(J)
が、結論(C)
と呼ばれます。
「理由(R)」は「根拠(B)」「目的(P)」といった表現でも置き換えることができます。
この4つの要素を取り揃え、「欠落」がないかを点検しつつ、同時に、それぞれの要素間の矢印、あるいはUnit間の関係に「飛躍」が無いかを点検していくことで、より精緻な論理を形成できます。
「具体(c)」→「抽象(a)」が、「帰納(I)」あるいは「抽象化(A)」
「抽象(a)」→「具体(c)」が、「具体化(C)」
「抽象理由(Ra)」→「具体判断(Jc)」が、「演繹(D)」
「理由(R)」→「判断(J)」が、「理由付け(Reasoning)」
なお、「具体(c)」→「抽象(a)」の流れは、あくまでも「複数の具体事例の共通部分の抽出」であり、単に内容を短縮した「詳細(d)」→(つまり)→「要約(s)」の「要約化(S)」 とは異なる点に、注意が必要。
■[Diagram] (図)
上述のMap/Chartは、「筋道」に重きを置いたものですが、「辻褄」(矛盾) に重きを置いた場合、Venn diagram(ベン図) に代表されるような、集合論(Set theory) 的「要素整理」図も大事です。
■[Route of Logic] (論理経路)
「Map of Logic」(論理地図) については上述した通りですが、これを他者に言葉で「説明」する段階では、この地図上を何らかの経路で通っていくことになりますね。その経路により、説明の「うまい」「下手」が決まります。俗に、「Presentation能力」というやつですね。
どの経路を通るかに関しては、相手との間に、どの程度「共通前提 (Common Premise/Common Sense/Common Knowlege)」が成り立っているかによって違ってきます。知識や認識の共有が進んでいる相手なら、必要なところだけ抜き出して通ればいいだけですし、そうでない不特定多数に向けた場合は、かなり具体的なところから、順序立てて説明していく必要があります。
また、上の6-3/6-4で述べたように、人間の情報処理能力・認識能力に配慮した効果的な組み立て意識も必要でしょう。
■[Manners of Logic] (論理作法)
ある事象を批判・評価する論理では、必ず
が盛り込まれてなくてはなりません。
人間のすることで、ケチをつけられないものは無いからです。
この2つが盛り込まれてなければ、単なる場当たり的で非生産的な「誹謗中傷合戦」「こき下ろし合戦」の口火を切ることにしかならず、有効・有益な批判・評価にはなりえません。
もう1つ、ついでに書いておきましょう。
人間の思考には、「何に依拠するか」で、3つのtypeがあります。
1の物質派 [P] は、目に見える具体的な物理的実体 (PE)
に依拠する人々。
2の数学派 [M1] は、Idea、論理、理論、数学といった、本来、物理的実体 (PE)
に付随的な抽象像・抽象化toolそれ自体の体系に依拠してしまう人々。
3の物語派
[M2] は、神話、伝統といった、物理的実体 (PE)
と無関係の支離滅裂な物語に依拠してしまう人々。
西洋思想の系譜で言えば、
1は、Ionian School
(イオニア派)、Democritus → 唯名論 →
経験論の系譜
2は、Phythagoras、Parmenides、Platon、Aristoteles → 実念論 →
合理論の系譜
と言えるでしょう。
このように、人類の科学は、2が抽象体系に依拠して妄想を広げ、1がそれに突っ込みを入れて洗練させるという形で発達してきました。しかし、2が主導権を握れたのは、器具や方法論が洗練される前、近代科学がちゃんと駆動する前までの話で、現在では、2のような立場は「仮説
(Hypothesis)」「理論上は」といった但し書きを付けた上で、1に取り込まれるか、非科学的・非実証的な「思想」の範疇に押し込まれるかに至っています。
「万物の本質」を頭の中で考える「哲学」(Philosophy)
が、実証科学に取って代わられ、今や「思想」と同義になっているのと、ピッタリ符合する流れですね。
しかし、これは裏を返せば、非物質的な「思想・観念」の分野では、合理論的な立場が、いまだ優勢だと言うことです。
第1項の補足で書いた、「合理主義/原理主義」vs「都度対処的現実主義
」、「強硬派」vs「穏健派」、「妄信」vs「懐疑」の前者ですね。
で、これにどう対処したらいいかは、第3項、第4項で既述済みですね。