アニメックの頃… 著/小牧雅伸

人物編

会川昇

今や押しも押されもしないシナリオライターの第一人者。現在は會川昇(あいかわ・しょう)に統一されているが、学生時代の会川昇(あいかわ・のぼる)は新人ライターとしてアニメックで執筆していた。アニメックステーション等は基騒名義である。

沖由佳雄

漫画家。『プレジデント カプリス』にてアニメックでデビュー。『インパクタージェミニィ』等の連載もアニメックでした。

かがみあきら

漫画家。アニメックでは「かがみ♪あきら」表記。石森プロ所属時代にアニメックでカットを描き、1983年から1984年にかけて倍々ゲームで作品を発表し他界。マクロスのメカデザイン等にも加わり、編集部の多くと友人関係であったために、その死のショックはしばらく抜けなかった。

川村万梨阿

なんと中学生の頃から「マリア」の名前で「まんが画廊」に出入りしていた。すでに東映のオーディション等には合格していた。アニメック編集部ができ、ガンダム放送中だった頃は高校生。見た目は高校三年生当時から変化していない。高校を卒業した1980年に、東映の演技研修所の研修生となり、ドラマやレポーターなどで活動。『太陽戦隊サンバルカン』などのエキストラ出演はJACに所属していた頃。アーツビジョン所属の声優時代にはアニメックに色々出てもらっている。二代目副編集長演出による本邦初の声優自らの「チャム・ファウ」コスプレは、芸名「万梨阿」の名付け親の富野監督から撮影時の「いやらしくならない為のコンテ」まで書いてもらった名作。このピンナップはえらい人気であった。高校生の頃にはクリスと呼ばれる青年と付き合っていた。「アニメ新世紀宣言」のララァは彼女、シャアはまだ一般人のクリス(永野護)であった。歌手としての活動も長く、その音域は広い。

きむらひでふみ

脚本家、メカニックデザイナーで活躍中だが、元漫画家。アニメックではカット等から始まり、『下っぱ物語』や『インビンシブル・ロボ無敵号』を執筆。

関あきら

漫画家。『スターシマック』の連載をアニメックにて行う。漫画が長寿連載故に「連載すると本が潰れる」と噂になる。アニメックの場合は、漫画休載が先であった。

永野護

バンドをやっている絵の上手い高校生として「まんが画廊」で紹介された。その後も「アニメ新世紀宣言」や、「明るいイデオン」というイベントで組むことが多かった。永野護として認識するのは『機動戦士Ζガンダム』のデザインワークス時代からだ。この当時から非常に無理を言って多数のイラストを執筆してもらっている。ちなみに、「月刊ニュータイプ」に『ファイブスター物語』を連載するにあたり、某アニメ雑誌の編集長が「新人作家が手塚治虫先生より原稿料金が高いのは許せん」と暴れたのを「永野は単なる漫画家ではないので」となだめた記憶がある。しかし、他誌の連載でなんであんなに怒ったのかは今も謎である。後に川村万梨阿と結婚するが、今も私の中では「クリスとマリア」だったりする。一般的には永野護は、緻密なデザインワークスが得意な若手と認識されていた頃から、作家性を見抜いて育てたのはアニメックの二代目編集長であろう。その為に、アニメックから出版されたエルガイムのムックは、永野護の画集に近い作りに編集されている。

水縞とおる

漫画家。『BYE-BYE-BYE』等のコミックを執筆。三代目副編集長の秘蔵の漫画家として活躍。原稿が遅れると、Y田クンがベタ塗りの手伝いをしていた。ちなみに今の部下の人はY田氏が漫画家だった事を知らないはず。

森口博子

いい娘である。デビューしたての日立て数千円の営業でも全力でお仕事をしていた。下手な、MCより滑舌も立派で、アドリブバリバリ娘として重宝した。アニメソングを踏み台にして、私そんな仕事した覚えがありませんというタレントが多い中、今も「Zガンダムが好き」と公言する潔さがある。Vガンダムの記者会見の席上で富野監督に「ただいまー」と挨拶し、アニメ雑誌記者に「お帰りー」と歓迎されたほのぼのエピソードを持つ。

矢野健太郎

漫画家。小牧原作の『プレハブラプソディ』を三回短期連載。実に不思議な縁である。今現在、ケロケロエースに『BB戦士 三国伝』を連載中。ガンダムエースでのタイアップ用8頁は、なぜかプロット担当が小牧であった。

最後に…

すべての関係者のみなさんへ

人名の書き出しをしていて、「こりゃあ終わらない」と諦めました。
2年ほど前に、「マニフィック」創刊準備からのお手伝い人、代々の学生アルバイト、契約社員、社員と「アニメック」に関係した人を数えたら約250人居て驚いた事があります。常駐は12人程度だったわけで、アンケートハガキの整理だけで消えた人や、コピー要員だけで消えていった人も多いわけです。この下っ端時代に、コピーが巧いとか、誤植を発見とか、寝てる編集員を怒らせずに起こすとかの特技を発揮した人間が、記事校正を手伝うとか、一晩で26話のビデオを観て翌朝8時までに粗筋を書くという激務に耐えて、編集予備員になり、編集員になりという超ピラミッド構造だったわけで、署名記事や編集後記に名前を残した人間は、かなりのやり手だったということになります。
さらに執筆者は、新人の駆け出しからベテランまでが山のようにいたわけで、一番少ないメインデザイナーですら6人(6組)、カメラマンとてメインは二人でしたが、接写や記者会見、インタビュースナップになると白黒ページは、ほとんど誰もがこなしました。考えてみたら、「アニメック」に関係してくれていた人は、アニメブームを支えた人ばかりだったということになります。現在も同じ業界で活躍する人もいれば、新しい職種としてゲームデザイナーやプログラマーに転向してしまった人もいます。それらの全ての人が「アニメック」という時代の申し子みたいな雑誌を作った原動力だったと思います。私はただの編集長。結局は、「アニメック」という本が好きで、自分の意見を発信したい当時の新進気鋭のクリエーターたちが力を貸してくれたからこそ存在できた本だと思います。
「この人は伸びると見抜いたから起用したんだ」と言い張れは格好良いのかもしれません。でもたいていの場合は、友達がどんどん実力を身につけていった場合が多いのです。自分が、過去の実績なしで編集をやらせてもらえたという恵まれた立場だったので、過去の実績ではなく「これから何かをやりたい」と主張した人を無条件で起用したというところでしょう。
高校生時代に「アニメック」を読んでいて、そのまま「アニメック」の編集者になった人も大勢います。愛読誌だったのでという縁で記事を書いてくれた人もいます。雑誌の休刊から20年過ぎた今でも、「アニメックは好きだった」と言ってくれる人が多いのに非常に感謝しております。今回の連載でも、「まだアニメ関連のお仕事していたんですね」と十数年振りの連絡を下さった人が大勢いらっしゃいました。そういう「アニメック」を好きだった人の為に、まだまだ頑張らないといけないなという気持ちを強くしました。そのうちに「小牧さんこんな仕事もしているんだ」とか「これってアニメックチームが作った本だよね」と言ってもらえるような仕事もしてみたいと思います。

このような機会を与えて下さったトルネードベースのスタッフの皆さんに感謝すると同時に、古くさい回顧録に長くおつき合いいただきました皆さんにありがとうを言わせていただきます。最後に、原稿督促と、とんでもない誤変換に毎回苦労して校正されていた"藤原@ドクトルF"に感謝いたします。うん、友達じゃないとここまでは付き合ってくれないわなぁ。私が編集者だったら、こんだけ我がままな執筆者は4回で切ってると思う。さすがにプロは違うなぁ。

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