1983年
東京ディズニーランドが開園した年である。
まさか、ここまで人気が出るとは思わなかった施設である。船橋ヘルスセンターより東京に近いかなくらいにしか考えていなかった私は、一時的なブームが過ぎれば、土地を転売するのだろうと思っていたが、今では日本人の好むテーマパークの勇になっている。
夏にはファミコンが発売され、ゲーセンに逃亡癖のある編集員は、今度は家から出てこなくなるという弊害もあったが、ほとんどが反射神経ゲームなので飽きたら出て来るようになった。夏といえば、DAICON IVが大変な盛り上がりを見せていた。会場内を仮想空間として、疑似貨幣クレジットが使えるという日本のSF大会としては画期的なものであった。オープニングアニメも進化し、おそらくは日本初の「乳揺れ」は、このアニメではないかと記憶する。
ちなみに疑似貨幣1クレジットは、日本円にして100円である。1クレジット貨幣と5クレジット貨幣、そして10クレジット紙幣が兌換券として流通し、ゴモラ煎餅等の土産が買えるという物であった。特筆すべきは補助貨幣0.5クレジットの「5000ぺ」札も流通していた事である。なんと、この5000ペ札は偽造が許されていた。青いボールペンで10分も模写すれば、誰でも作れる。必ずサインを入れるというルールもあった。考えてみれば錚々たるメンバーが偽札にサインして、それが50円なのだから面白い遊びだろう。ぺはSFファンにお馴染みの「ペリーローダン」を揶揄したものである。
そして1983年秋。
本来は「アニメック32号」として発売されたかもしれない本は、念願の「月刊アニメック」10月号として書店に並んだ。編集員はなんとかなったが、人気連載については、月刊は無理だよーという著者も多く、ベテランと若手の交互隔月連載である。
一番心配していた「アニメ雑誌は10日発売」という既約からは除外され1日発売と出来た。アニメージュを筆頭に、ジ・アニメ、アニメディア、そして創刊されたばかりのマイアニメは10日発売であるが、「OUT」と「アニメック」は、もともと発売日が独自であったので許されたのである。こうしてみると同じ記事なら10日早く掲載できるような気がするが、「10日解禁条約」みたいな物が各アニメ制作会社に出来ていて、最新情報の多くは20日遅れで掲載する事も多かった。そんな中でも、0号フィルムを同時プリントで購入し、突貫作業で10日雑誌より後に放映される物を掲載するという努力が続けられた。